写楽が現れた
本の概要
著名 | 写楽が現れた | |
著者 | 定村 忠士 | |
発行 | 1989年6月20日 第1刷 | |
発行所 | 二見書房 |
表紙画像を掲載するのはよくないようなのでAmazonさんへのリンクに変更しました。
残念ながら、画像はないようです。
写楽は誰か?
特定はしていません
但し、写楽別人説の候補の一人、中村此蔵は寛政六年十一月十七日に本所回向院に行けない。 (その他の項を参照)との理由により写楽ではありえないとしています。
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浮世絵類考について
特別な考証はありません。
わずか10ヶ月の活動期間について
特別な考証はありません。
蔦屋重三郎との関係について
人物を特定してませんので、記述はありません。
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本の内容(目次)
北斎の裏から写楽が現れた
- 幻の浮世絵師の版木が発見された
- 北斎の版木の裏に彫られた写楽の「大童山土俵入り」
- 邪馬台国とならぶ国民的な謎
- 吉野カ里遺跡に匹敵する写楽版木の発見
- ボストン美術館長の驚き
- アダチ版画研究所の眼力
- はたして版木はほんものか
- 本物であることのもうひとつの根拠
- 歌麿も長喜も鉋屑になっていた
- 大童山の肌色の謎
- 肌色で摺られた大童山もある ?
- 二年にわたる写楽追跡の旅が始まった
- 「大童山土俵入り」肌色版木の謎
- 数え年七歳で土俵入りの怪童・大童山
- 歌麿も十辺舎一九も競って描いた人気者
- 肌色のついた「大童山土俵入り」があった !?
- 素人探偵ゆえの遠まわり
- 相撲絵コレクター、ビッグフォード博士からの情報
- 「ヒーローの肌は明るく白くで !」
- ボストンの肌色版木は偽物 !?
- 迫真復刻・高見澤版の出現
- 手本となるオリジナルがあった !?
- 想像を絶する執念
- 享和二年以前という時間の主張
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十人の関取に刻まれた写楽の足跡
- 「大童山土俵入り」はいつ描かれたのか
- 不自然に切り落とされた「しこ名」の謎
- 浮世絵のコレクターが切り落とすはずのない大切な部分
- 「宮城野」の名は、なぜ切りとられたか
- 手がかりは勝川春英の「両国橋を往く寛政の花形力士」
- 江戸相撲の黄金時代を描いた勝川派絵師
- 勝川春英の筆致と写楽の筆使い
- 写楽追跡の糸口を求めて
- 寛政六年十一月場所の全記録が残っていた
- 大童山の絵が描かれた問題の場所の番附
- あの宮城野は五十一歳の現役力士だった
- 十人の関取が写楽のモデルに選ばれた理由
- 番附順は、それとも人気順、あるいは勝ち星順
- 十人の関取が全員揃うのは二日目の十一月十七日だけ
- 寛政六年十一月十七日、写楽が現れた
- すべての写楽論の基本的な出発点
- 土俵下の関取十人は偶然の集合 − だから必然 !
- 写楽もその日、回向院にいったはずだ
- 江戸のマスコミ人、「蔦重」ならではの緊急出版
- 寛政六年冬場所の二日目は本当に十一月十七日 ?
- 二百年前の江戸のお天気調べ
- 江戸の近郊・八王子は雨だった
- 弘前藩庁江戸日記から知る当日の天気は ?
- ベスト・コンディションではないにしても相撲興行は可能
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写楽別人説へのおおいなる疑問
- 中村此蔵は回向院へ行けたか ?
- 写楽論のリトマス試験紙
- さまざまに比定される「写楽」
- 北斎、歌麿、応挙らのアリバイは ?
- 歌舞伎役者・中村此蔵の十一月十七日は ?
- 寛政六年十一月、河原崎座での顔見世興行
- 此蔵は問題の日、河原崎座に出演していた
- 本所回向院までの道のりと時間
- 此蔵はこの日、回向院に行くのは、まず不可能に近い
- 見逃していた写楽の鼻、見すぎていた写楽の落款
- 国文学者・北小路健先生からの助言
- 写楽の全作品に共通する”特徴ある鼻の線”
- 写楽は写楽 !? 鼻は誰にも似ていない
- 「似ている論」への疑問
- 京都の版元・芸艸堂の板倉
- 写楽の「サイン」に誤字が多いのはなぜ ?
- 浮世絵の落款は本当に絵師の自筆のサイン ?
- 浮世絵の文字は単なる記号、それ以上の意味を持たない
- 写楽は相当の「庶民」 !?
- 「東洲斎写楽」の解釈
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職人絵師「写楽」の存在証明
- 疑惑の相撲版下絵十枚の真実
- 「写楽の時代」の匂いを残す棋譜の版木
- 写楽追跡の決定打を求めて
- 関東大震災で焼けた九枚の相撲版下絵と最後の一枚
- 十八人の関取は何を見ているのか ?
- 相撲版下絵と「大童山土俵入り」との奇妙な符号
- 谷川と大童山を見つめる十八人の関取衆
- 直感を実証するための三つのハードル
- 寛政六年十一月場所の三力士のアリバイ
- 三力士を含めて全員が十一月場所で実在していた
- 東前頭七枚目の龍門浦之助
- 東幕下十一枚目の鏡岩助市
- 西幕下二枚目の柏戸宗五郎
- それでも残る柏戸改名時期への疑問
- 「写楽」の鍵を握る蔦屋重三郎
- その日の客のために摺られた「相撲勝負附」
- 寛政六年十一月十七日の全勝負
- 「滝ノ音」は三日目に「柏戸」に改名していた
- 十一月十七日の写楽
- プロデューサ蔦屋重三郎
- 「谷風と大童山」それは写楽の証明だ
- 相撲版下絵十枚組はなぜ出版されなかったのか
- 写楽とは、いったい誰なのか
- 私たちの写楽像
- 栄松斎長喜の「廊の大童山」
- ふたたび蔦屋重三郎のイメージ
- ふたたび色版木のこと、写楽のこと
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その他
「大童山土俵入り」の三枚つづきに十人の力士が描かれています。寛政六年の十一月場所で、この十人が揃うのは二日目 十一月十七日だけしかないことを実証しています。この日、写楽は相撲が開催された本所回向院へ行ったはず としています。
また、関東大震災で焼失してしまいましたが、写楽の作画と言われている相撲版下絵に描かれている十八人の力士も揃うのは二日目 十一月十七日だけしかい と前記の内容をさらに裏付けしています。
中村此蔵に関しては、十一月十七日は歌舞伎が開演中で、本所回向院行けないことを考証しています。
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