小笠原氏城跡の一つ
土塁、堀切などが残る
林大城
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林大城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: 縄張りとカメラアングル
- 肆: 城内で出会った説明板
- 伍: 登城の道のり
林大城 ひとくちメモ
《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。
参考になるサイト:
林大城 写真の間
抑えたい処、美しい処
数回の登城・撮影から抑えたい処、美しい処を選びました。
☒ 橋倉町側の登り口 ⇒ 主郭 ⇒ 金華橋の登り口 の順に
橋倉町側の登り口⇒主郭⇒金華橋の登り口
(6)
一ノ門跡、あずまや
一ノ門跡
登城・撮影日の留書き
上に掲載以外の林大城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。
林大城 よろず間
林大城 縄張りとカメラアングル
※ 縄張図は登り口に置いてくださっていた「歴史の里」散策マップを編集して使用しています。
※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。
※ 数字は上の写真の番号に対応。
解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。
林大城 城内で出会った説明板
林大城で出会った案内/説明板の良いとこどりです
※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。
※ 「国の史跡」に指定されましたが、「長野県史跡」の時の説明板も掲載。
- ♦ 長野県史跡 小笠原氏城跡
- ♦ 史跡 小笠原氏城跡
- ♦ 長野県史跡 小笠原氏城跡
- ♦ 小笠原氏城跡(林大城)
- ♦ 姫の化粧水井戸
- ♦ 東城山遊歩道の解説
- ♦ 一ノ門跡
長野県史跡 小笠原氏城跡
長野県史跡
小笠原氏城跡
林城
大城 (金華山城)
小城 (福山城)
指定、 昭和四十五年十月二十二日長野県文化財保護条例第二条により長野県史跡に指定。
規模、 この城は林城の大城・小城並びにその前衛をなす埴原城等を含めた雄大な要害で守護小笠原氏の貫禄を示す本県の代表的なものである。大城は松本市里山辺と入山辺にまたがる丘陵上に構築され、本郭、第二郭ともに副郭、土塁、石垣を備え数条の帯郭をめぐらし山体の要部に大小幾多の空堀を配し近くの大城に劣らぬ防備をもった小城に連なり遠く数多くの支城に囲まれている。本郭の東北部には水の手の遺構、城下の林地区には町割侍屋敷の名残をとどめている。
説明、 この史跡は建武年中(一三三四)から信濃守護小笠原貞宗が府中に井川舘を設けて以来、長時が武田晴信に敗れて退去した天文十九年(一五五〇年)まで約二百年間きびしい戦国の世に処した、小笠原氏の本拠地で中世における連立式の築城遺構をもっている。
深い歴史を秘めた遺構であるから観光等による破壊から護りたい
昭和六十年三月二十五日
松本市教育委員会
史跡 小笠原氏城跡
史跡 小笠原氏城跡
井川城跡
林城跡
平成二十九年二月九日指定
建武元年(一三三四)に小笠原貞宗が信濃守護に任命され、府中(当時の松本市の呼称)に入って井川に館を構えました。文安三年(一四四六)に府中と飯田の小笠原氏の間で家督相続の争いが起こり、府中小笠原氏は井川館から東に四キロメートルほど離れたこの林の地に館を移し、要害として林城を築きました。尾根づたいに多数の曲輪や堀切と竪堀が設けられ強固な守りの林城ですが、その後、天文十九年(一五五〇)、信濃に侵攻した武田晴信(信玄)に攻められ自害しました。
林城跡と井川城址は保存状態が良く、室町時代から戦国時代にかけての我が国における城郭のうつりかわりの典型をみることができます。また、信濃の歴史を知るうえで欠くことができない重要な遺跡です。その保護を図るため、二つの城跡があわせて国の史跡に指定されました。
松本市教育委員会
⚫説明板が新しくなっていました。従来の説明板は次(20017/8/19)
長野県史跡 小笠原氏城跡
長野県史跡
小笠原氏城跡
林城(大城・小城)
埴原城
昭和四十五年十月二十二日指定
山家城
桐原城
昭和五十五年九月八日追加指定
南北朝騒乱時の功績により信濃守護となって府中(当時の松本の呼称)に入った小笠原氏は、戦国時代に武田晴信が信濃に侵攻するまでの間、筑摩郡及び安曇・伊那地域を中心に勢力を張った。その間小笠原氏は、平地の城舘である井川城と山城の林城を根拠地として、四周に順次山城郡を配置して強固な防衛線を構えた。
筑摩山地の西側に突き出した尾根構築された林城と一括される大城と小城は、狭間に大嵩崎集落を挟んで連立し、林城の東に深く入り込む山辺の谷には、桐原城・山家城を配して小県佐久地域に備え、北方は伊深城・大甘城・平瀬城などを配して固め、諏訪伊那地域に通ずる南方には埴原城を備える他、筑摩山地の西面の各所に砦を築いて、一帯は大要塞郡をなしていた。
その後、各々の城は武田氏により修築が行われたものと思われるが、堅堀の構造・配置など、小笠原氏の山城に特徴的な基本構造は、今日までよくその姿を留めており、これら城砦郡は、小笠原氏の興亡を語る貴重な史跡である。
長野県教育委員会
小笠原氏城跡(林大城)
長野県史跡
小笠原氏城跡(林大城)
所 在 地 松本市大字里山辺・入山辺
所 有 者 個人ほか
指定年月日 昭和450年10月22日
指定内容
林大城信濃の守護小笠原氏の本城で、里山辺林集落の東にあり。大嵩崎集落を挟んで林小城と相対している。
林大城の築城は、「小笠原氏系図」によれば、小笠原清宗の時代のことで、井川舘から移ったものといわれている。
林大城は天文19年(1550)、城主小笠原長時の時に、甲斐の武田晴信(信玄)に攻められて落城した。
現在、林大城の遺構は、金華橋のたもとから登ると、両側に階段状に小さな三日月郭が無数に現れ、尾根は大きな空堀で登城路を遮断している。主郭は山頂標高846m地点にあり、主郭の周囲には土塁をめぐらしており、東側中央部には石積も残っている。
城としての規模は大きく、信濃守護小笠原氏の本城にふさわしい風格であったことを今に伝えている。
松本市教育委員会 平成23年3月
姫の化粧水井戸
姫の化粧水井戸
後世の人がロマンをもって名づけたものであろう。名称の由来に何の根拠もない。この地形では水の自噴は考えにくく引水による『溜め井戸』といわれている。「東側の橋倉集落を挟んで、反対側のカシハ沢の水を水番城付近から取水し、等高線に従って引水したものを溜めた井戸」と言われているが、導水路等の本格的調査は行われておらず、推測の域をでない。
平成二十四年五月
山辺歴史研究会
林古城会
東城山遊歩道の解説
東城山遊歩道の解説
東城山遊歩道は長野県指定文化財「小笠原氏城跡」の中に整備された自然に親しむ散策道です。
この城は林城と呼ばれ、その創始は室町時代、小笠原長朝の代とされています。戦国時代に入ると山城としての重要性が増し林城を核として前面には深志城(松本城の前身)、犬甘城、山辺谷には桐原城、中入城、浅間、岡田方面には伊深城、稲倉城、さらに南には埴原城、熊井城に至るまで小笠原支配下の武将によって東山一帯を固めた守護の城にふさわしい堂々たる構えの山城となりました。
林城の構造は、山頂に主郭と西に四つの副郭や空濠からなっています。主郭の広さは東西68メートル、南北27メートル余りで周囲に土居をめぐらしてあり、特に東部には1メートル余りの石垣も残っています。
東城山遊歩道はふもとの金華橋から山頂の主郭まで全長約1キロメートルの散策道ですが、注意深く観察すると多くの歴史的遺構が確認できます。
松本市
(監修 松本市教育委員会)
一ノ門跡
登城の道のり
登城日:平成27年4月4日
は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
林大城 まで 簡単に説明
- 私の場合、Googleマップでは橋倉町からの道しか描かれてなかったのでこちらから登りました。
- 山頂であった方に引き返さなくても降りられると聞き金華橋の方へ降りました。
- どちらからでも案内板がありますので簡単にわかります。
- 周辺はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。
ストリートビュー:林大城 金華橋からの登り口
上地図で が記された場所のストリートビューです。
ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス