壮大な石垣、堀が残る
櫓や門なども復元
甲府城
甲府城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: 縄張りとカメラアングル
- 肆: 城内で出会った説明板
- 伍: 登城の道のり
甲府城 ひとくちメモ
- 所在地
- 山梨県 甲府市
- 別 名
- 舞鶴城、一条小山城
- 築城者
- 豊臣秀勝 舞鶴城公園案内図より
- 別名の由来
- 江戸時代の後半頃に白壁が重なりあう優雅な姿から、鶴が舞う雄大な姿を連想してつけられた
- 天守概要
- -
- 城郭構造
- 平山城
- 遺 構
- 石垣 [ ※ ]、 濠 [ ※ ]
- 再建造物
- 稲荷櫓 [ ※ ]、 鉄門 [ ※ ]、 稲荷曲輪門 [ ※ ]、 内松陰門 [ ※ ]、 鍛冶曲輪門 [ ※ ] など
《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。
参考になるサイト:
甲府城 写真の間
抑えたい処、美しい処
☒ 天守台、本丸
☒ 鉄門 ⇒ 稲荷曲輪門
☒ 稲荷曲輪門⇒稲荷櫓
☒ 下城
天守台、本丸
鉄門 ⇒ 稲荷曲輪門
稲荷曲輪門⇒稲荷櫓
下城
(14)
鍛冶曲輪門
鍛冶曲輪門
登城・撮影日の留書き
上に掲載以外の甲府城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。
甲府城 よろず間
甲府城 縄張りとカメラアングル
※ 縄張図は城内の所々にあった案内図を編集して使用しています。
※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。
※ 数字は上の写真の番号に対応。
解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。
甲府城 城内で出会った説明板
甲府城で出会った案内/説明板の良いとこどりです
※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。
舞鶴城公園案内図
県指定史跡 甲府城跡
舞鶴城公園案内図
【甲府城の歴史】
甲府城は、天正10年(1582)の武田家の滅亡後、豊臣秀吉政権下で建築が始められ、豊臣秀勝、加藤光泰を経て、慶長5年(1600)頃に浅野長政(五奉行)により完成したと考えられています。発掘調査では金箔瓦や浅野家の家紋瓦などが発見されています。
関ケ原の戦い後は徳川義直(家康の九男)、忠長(2代将軍秀忠の三男)、綱重(3代将軍家光の三男)、綱豊(後の6代将軍家宣)ら徳川一門が城主となり城番・城代制がしかれました。宝永元年(1704)以降には、柳沢吉保・吉里親子が城主となり、この時期に甲府城下町も大きく発展しました。柳沢氏が大和郡山(奈良県)へ移封された後は甲府勤番制となり、ふたたび幕府の直轄地となりました。
このように豊臣政権下では重臣浅野長政・幸長親子らが甲斐国の支配を任され、また江戸時代の大半が徳川直轄地であったことからも、ここ山梨が長野、静岡、関東をつなぐ要所であったことがわかります。
明治維新後は廃城となり、建物が取り壊される一方、勧業試験場および葡萄酒醸造所などが設置され、また城域北部では中央線敷設による解体など甲府城は本来の姿を変えていきました。一方で保護・保存の動きもあらわれ、大正6年(1917)には甲府市在住の村松甚蔵氏らの尽力によって国からの払い下げを受け、県有地となりました。戦後は市街地復興に併せて整備が進められ、昭和39年に都市公園「舞鶴城公園」、昭和43年には県の指定史跡「甲府城跡」となりました。
山梨県県土整備部。山梨県教育委員会
ごあいさつ
ごあいさつ
県都甲府の中心に位置する舞鶴公園は、昭和37年に県立公園として県民に開放され、以後、昭和39年に都市公園として都市計画決定、昭和43年に県史跡指定を受けながら、多くの県民に親しまれ利用されてきました。
昭和60年代に入り、この公園の整備を求める県民の要望を受け、県は公園の再整備を都市公園整備事業としておこなうこととし、「舞鶴城公園再整備検討委員会」を発足させ、整備計画をまとめました。
これにもとづき、平成2年度から、県教育委員会による発掘調査の成果や「甲府城跡調査検討委員火気」の意見なども参考のしながら整備を進めてきました。
その内容は、石垣の改修、堀の浄化、園路・広場・トイレの再整備、JR身延線跡地の公園化、堀・門(鍛冶曲輪門・内松陰門・稲荷門)・稲荷櫓の整備などです。
なかでも、石垣の改修や櫓の建設にあたっては、伝統的な技術や県産材の使用にできるかぎり努めました。
この公園が山梨の歴史を語る公園として、今までにも増して皆様に親しまれ、活用していただければ幸いです。
平成16年3月
山梨県
江戸時代の甲府城は「甲斐府中城」と呼ばれていました。このほかに一条小山城(鎌倉時代に一条氏の居館のあった小山)や赤甲城などの別称があります。舞鶴城とは江戸時代の後半頃に白壁が重なりあう優雅な姿から、鶴が舞う雄大な姿を連想してつけられたものと考えられます。現在は約6ヘクタールが都市公園と県指定史跡となっていますが、かつては20ヘクタールほどの広大な城郭でした。では、その甲府城址の歴史を見ていきまそう。
平成31年2月に国指定史跡になりました。
鉄門
鉄門
甲府城の歴史
いまから410余年前、豊臣秀吉の命により浅野長政・幸長によおて甲府城は築城されました。築城は江戸の徳川家康をけん制する目的でしたが、江戸幕府が開かれると代々徳川一門や柳沢氏の居城となりました。
鉄門復元整備事業のねらい
かって城下町から見上げて鉄門は、明治初年に城内の他の建物と共にすべて取壊されてしまいました。この鉄門を復元し、歴史景観を再現することは、甲府城跡の文化的価値や理解をより高めるものと考えています。また、甲府中心市街地からの眺望は、新たな魅力と人の流れを生み、城下町甲府の風格と活気を取り戻すものと期待されます。
復元の流れ
研究・調査
絵図・古文書・古写真などの史料調査や、遺構の発掘調査をおこないます。あわせて、有識者によって組織された専門委員会の指導を受け、復元の近経を整えました。
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保存
残存する礎石を使い、原位置へ復元しました。また、東西の石垣に残る梁の跡も使用し、鉄門の姿かたちを復元しています。その他、路面や水路、石段などの遺構は、埋設保存しています。
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工事
木工事・左官工事・屋根工事とも、在来工法で作業を進めています。木材の加工、土塀塗り、瓦作成など、様々な工程がありますが、昔から伝わる工法で丁寧に仕上げられます。
工法の選択
鉄門は、従来工法にこだわり工事を進めていますが、現代の建築基準法と照らし合わせると、耐震性や構造面を強化する必要があります。
そのため、基礎の一部に補強材としてコンクリートや鉄骨を使用しています。補強材導入にあたっては、専門委員会の指導を受け、可能な限り歴史景観に違和感のないよう配慮しています。
しかし、現代に鉄門を復元するためには欠かせない要素であり、在来工法と現代工法の融合として、完全に遮蔽へいせずに公開しています。
≪説明に添えられている図≫
本丸櫓跡
天守台
銅門跡
内松陰門
中の門跡
坂下門跡
水溜跡
稲荷曲輪門
稲荷曲輪門
稲荷曲輪と鍛冶曲輪をつなぐ門です。発掘調査によって、柱の跡などが見つかりました。享保の火災でも焼けず、明治初年までは残っていたものを、平成11年に復元しました。
門の形式 単層門 入母屋造り 瓦葺き 東側に土塀付き
門の規模 開間(あけあい)八尺九寸 控柱間六尺弐寸(間口2.7mx控え1.9m)
庄城稲荷跡
稲荷櫓
稲荷櫓
城内の鬼門(北東)に位置することから艮櫓ともよばれ、江戸時代には武具蔵として使われていた建物です。明治初年まで残ってたことが古写真などでわかっており、発掘調査でも2度にわたり建物を建築した痕跡(遺構)と、土地の平安を祈るための輪宝(地陳鎮具)が6点見つかりました。
今の建物は、この遺構や残っていた絵図や史料などをもとに、できるだけ当時の姿に復元したもの、平成16年に建築しました。
櫓の外観 二階層 入母屋造り 瓦葺 窓 鯱 北・東側に石落とし
櫓の規模 南北(梁間(はりま))五間(10m) 東西(桁(けた))六間(12m)
硝煙蔵跡
鍛冶曲輪門
稲荷櫓の壁について 他
稲荷櫓の壁について
土の壁を作るには、まず最初に土にワラを混ぜ込み腐らせて粘りけのある壁土を作ります。それを荒壁塗り・斑直し・中塗り・上塗りというように段々と細かい土を塗り、漆喰で仕上げます。
敵の攻撃や火災を防ぐために壁を厚くしていたようです。。
稲荷櫓の壁について(大壁外側の場合)
壁塗り(左官)では今回の復元では「10回の工程」で進めています。
○小舞掻き(こまいかき)・・・骨組みのこと。
①手打ち荒壁(てうちあらかべ)・・・壁土の最初
②大斑直し(おおむらなおし)・・・下げ縄2本入れ
(②~⑧までの順に砂の量を適宜増やし、細かくしていきます。)
③小斑直し(こむらなおし)・・・下げ縄2本入れ
④大斑直し(おおむらなおし)・・・縦縄入れ
⑤小斑直し(こむらなおし)・・・横縄入れ
⑥中塗下地大斑直し(なかぬりしたじおおむらなおし)・・・ムラを直す
⑦中塗下地小斑直し(なかぬりしたじこむらなおし)・・・ムラを直す
⑧中塗り(なかぬり)・・・土壁の最終工程
⑨上塗下地(うわぬりしたじ)・・・漆喰の下地(砂漆喰壁)
⑩上塗り(うわぬり)・・・完成(白漆喰壁)
屋根のはなし
屋根瓦では、まず設計図である「瓦割り図」を描きます。それから瓦を載せる下準備として、薄い板を何層にも竹釘で打ち付ける野地板葺きをします。この上に瓦受けの桟を付け葺き土を起きます。そして、瓦を乗せ数枚ごとに銅線でしばり付け固定していきます。
瓦葺きの工程
屋根瓦は1690年頃に使用されていたと考えられる出土品瓦をもとに復元しています。
①屋根組・・・屋根の骨組み
②野地板葺き・・・檜の板を垂木に打ち付けます。トントンと音を立てながら打ち付けるので「トントン葺き」とも言われています。
③土居葺き・・・サワラ材を垂木を使い野地板に打ち付けます。
④葺土・・・瓦を葺く筋に土を盛ります。
⑤本瓦葺き・・・本瓦を葺いて完成です。
稲荷櫓では、平瓦8,491枚、丸瓦3,789枚、特殊瓦5,310枚、鯱瓦2個、鬼瓦18個が使われています。
暗渠
絵が中心の案内・説明書
甲府城内にあった絵が中心の案内・説明書の紹介です。
木組みの伝統技術
⚫甲府城跡の石垣 石垣の補修工事
登城の道のり
登城日:平成31年4月6日
は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
甲府城 まで 簡単に説明
- 甲府駅を出て直ぐ。
- 城内をGoogleマップのストリートビューで見ることができます。
ストリートビュー:甲府城 金華橋からの登り口
上地図で が記された場所のストリートビューです。
ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス