層を成す豪壮堅固な石垣は圧巻
備中櫓などを復元
津山城
津山城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: 縄張りとカメラアングル
- 肆: ここが魅所・おすすめ
- 伍: 津山城で出会った説明板
- 睦: 登城の道のり
津山城ひとくちメモ
- 所在地
- 岡山県 津山市
- 築城者
- 山名忠政
- 別 名
- 鶴山城
- 別名の由来
- 津山は、もと鶴山と書いて「つやま」と読んだ
- 天守概要
- 層塔型4重5階
- 城郭構造
- 平山城
- 遺 構
- 石垣[ ※ ]、堀、土塁 など
- 再建造物
- 備中櫓[ ※ ] など
《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は Google フォト の写真を示し、クリックで画像を表示。
津山城 簡易年表
- 1604年
- 森忠政が起工
- 1616年
- 13年の歳月をかけて完成
- 1873年
- 廃城令によって城郭は公売
- 1900年
- 鶴山公園として津山町の管理となる
- 1963年
- 国の史跡に指定される
※ 詳しい年表は 津山城について | 津山市公式サイト で閲覧できます。
参考になるサイト:
津山城 写真の間
撮影日:2018年11月2日
押さえたい処、美しい処
☒ 三の丸 ⇒ 二の丸 ⇒ 本丸 ⇒ もみじの小道
☒ 十二番門 ⇒ 桜門
三の丸⇒二の丸⇒本丸⇒もみじの小道
十二番門 ⇒ 桜門
登城・撮影日の留書き
上に掲載以外の津山城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。
津山城 よろず間
津山城 縄張りとカメラアングル
※ 縄張図は城跡にあった 国指定史跡 津山城跡、に添えられた図を編集して使用しています。
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※ 数字は上の写真の番号に対応。
解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。
ここが魅所・おすすめ
私の感じた津山城の魅力、見所、おすすめなどを紹介
-
石垣の力強さ、高さ、層を成す迫力は圧倒的。
-
桜、紅葉は絶景。私の登城は11月2日で紅葉には少し早く、遅ければ「もみじの小道」の美しさを堪能できたのにと残念。
(2018/11/2)
城内で出会った説明板
津山城跡で出会った案内/説明板の良いとこどりです
※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。
- ♦ 津山城跡
- ♦ 国指定史跡 津山城跡
- ♦ 備中櫓
- ♦ 備中櫓の名前の由来と特徴
- ♦ 四足門
- ♦ 切手門
- ♦ 表鉄門
- ♦ 天守台
- ♦ 七番門と虎口
- ♦ 多門櫓
- ♦ 五番門と土塀
- ♦ 裏鉄門
- ♦ 粟積櫓
- ♦ 森 忠政
- ♦ 忘れ去られた石
- ♦ ありし日の津山城
- ♦ 大手前広場 舟着場の常夜燈
- ♦ 絵が中心の案内・説明書
津山城跡
津山城跡
国指定史跡
(昭和三八年九月二八日指定)
津山城は、もと山城のあったこの鶴山の地に森忠政が慶長九年(一六〇四)に起工し、元和二年(一六一六)の完成まで一三年の歳月をかけて築いた輪郭式の平山城です。
往時には五層の天守閣がそびえていましたが、この天守閣は弓狭間・鉄砲狭間・石落し等の備えを持ち、唐破風・千鳥破風等の装飾のない実戦的なものでした。また、本丸・二の丸・三の丸には、備中櫓をはじめ、粟積櫓・月見櫓等数多くの櫓が立ち並び、本丸には七〇余の部屋からなる御殿と庭園がありました。
この城が築かれた当時は、我が国の築城技術が最盛期を迎えた時期にあたり、津山城の縄張りの巧妙さは攻守両面において非常に優れたもので、近世平山城の典型とされています。
明治六年(一八七三)廃城令によって城郭は公売され、翌七年から八年にかけて天守閣をはじめとする一切の建物が取り壊されましたが、豪壮堅固な石垣は残りました。
その後、明治三三年(一九〇〇)城郭は鶴山公園として津山町の管理となり、昭和三八年に国の史跡に指定されました。
《歴代城主》
(森家) 森家は清和源氏で、初代津山藩主森忠政は、美濃金山城主森可成の六男に生まれました。慶長八年(一六〇三)徳川家への数々の武功が認められて、信濃川中島十三万七、五〇〇石の大名から美作一国十八万六、五〇〇石の大名に抜擢されました。この忠政は、本能寺の変で主君の織田信長とともに壮絶な最期を遂げた森蘭丸の末弟にあたります。森氏は四代九五年にわたって美作国を治めましたが、四代城主長成に嗣子がなく津山森家は改易となりました。その後、森家は二代藩主長継の子長直 が備中西江原藩主として森宗家を再興し、さらに宝永三年(一七〇六)播磨赤穂に移りました。
(松平家) 森家にかわり一〇万石の大名として新たな津山藩主となった松平宣富は、徳川家康の第二子結城(松平)秀康の曾孫で越前家と呼ばれ、徳川一門中に重きをなしていました。そして明治四年(一八七一)に廃藩となるまで九代一七四年にわたって続きました
国指定史跡 津山城跡
国指定史跡 津山城跡
城郭構成
津山城は、吉井川と宮川の合流点を見下ろす小高い山(鶴山)を利用して築かれた「平山城」といわれる形式の城郭です。山頂を平面に削って本丸とし、本丸を囲むように二の丸、三の丸が高い石垣によって階段状に配置され、南を大手、北を搦め手としています。
三の丸下段の南、西、北側は総曲輪を形成し、その周囲を土塁と堀で固めています。一方の東側は急な断崖であり、その直下に南北に流れる宮川を自然の防御線としています。
本丸への通路は大手、搦め手とも鍵の手状に曲がる「桝形虎口」が繰り返し形成されており、きわめて防御を意識した構成となっています。
城内の櫓の数は六〇棟を数えます。これは全国にある他の近世城郭と比べても多い方で、場内には建造物がひしめきあうように建ちならぶ堅固な城郭構成をなしていました。
城内最大の表中門
表中門は、三の丸から二の丸にいたる通路の正門にあたります。門の形式は、一階部分が、城門、二階部分が櫓となる、いわゆる櫓門で、場内に存在する門の中で最大です。櫓の東側は袖石垣上に載り、西側は鉄砲櫓の高石垣に取り付いていました。門の櫓部分の長さは十六間(約三十二メートル)もありました。これは大阪城や江戸城の城門に匹敵するほどの規模です。
発掘調査により、東西方向に三列、南北方向に五列(東端五石、西端四石)の礎石が確認できました。
≪説明に添えられている図≫
備中櫓
備中櫓
概要
備中櫓は本丸御殿の南西端に位置し、その名は鳥取城主池田備中守長幸に由来すると伝えられる。森藩時代の基本的な史料である『森家先代実録』には「備中矢倉 池田備中守長幸入来之節出来」とある。森忠政は長女於松を池田備中守長幸に嫁がせており、長幸は忠政の娘婿にあたる。その長幸が津山城を訪れるのを機に完成したのが備中櫓であったと考えられている。備中櫓跡の発掘調査で池田家の揚羽蝶紋の瓦が出土したことも、この建物が池田家と深い関係があったことを物語っている。
備中櫓の外観は漆喰仕上げで通常の櫓と同様だが、本丸御殿指図には備中櫓がその東に接続する長局・到来櫓とともに描かれており、これらの建物が御殿の一部として認識されていたことを示している。さらに指図よると内部には御座之間や茶室を備え、建具には「唐紙」を用いるなど、内部は完全に御殿建築であり、なおかつ繊細で女性的な仕上げであったことがわかる。そのためこの櫓は、本丸御殿の最奥部という位置からしても、城主にごく近い間柄の女性もしくは城主自身の生活空間の一部として用いられたと考えられている。
このような特異な構造をもつ櫓は類例が少なく、津山城の建物の中でも特徴的なものであるため、復元整備の対象となったものである。
≪説明に添えられている図≫
備中櫓の復元整備にあたっては、①発掘調査②文献および絵図③古写真のデータを集積し、様々な角度から検討することにより、できる限り正確な形の復元を目指している。
備中櫓は慶長年間に建てられ、江戸時代を通じて存在いたことが判明している。ただ、途中で、何度か改変が行われており、今回復元された備中櫓は、慶長年間に森忠政が築いた「備中櫓」を目標としている。外観・内装・作事の技術に至るまで、できる限り当時のものに忠実に再現している。
備中櫓の名前の由来と特徴
備中櫓の名前の由来と特徴
池田備中守長幸が津山を訪れたときに完成した櫓からという説が一番有力視されています。
櫓(矢倉)とは、一般的には敵情を視察したり、射撃をするために設けられた高楼であり、武具や食料などを保管する倉のことです。津山城にも鉄砲櫓や弓櫓などのそれを連想させる名前の櫓がありますが、備中櫓は内部が全て畳敷きの部屋で構成されていることから、藩主やその身近な人のプライベートな生活空間に使われた建物だと考えられています。
六十をかぞえる津山城の櫓の中でも最大級を誇る大きさや本丸南面に突出した石垣上に立地していることなど、備中櫓は、天守閣に次いで重要な櫓であり、象徴性の高い建物であるといえます。
≪説明に添えられている図≫
四足門
四足門(よつあしもん)
概要
四足門は、大手の二の丸の入口にある門です。門は、廃城後の明治7年に中山神社(津山市一宮)の神門として移築されました。絵図と比べると、屋根が瓦葺から檜皮葺(ひわだぶき)に変わっていますが、現在でも見ることができる数少ない津山城の建物の一つです。
絵図や現在の神門の調査から、薬医門であることや、扉のついていない城門であったことが、柱の位置関係が絵図と重なることがわかりました。発掘調査では、門の礎石の根石を確認しています。
≪説明に添えられている図≫
切手門
切手門(きってもん)
概要
切手門は、二の丸から本丸表鉄門へ至る間の通路を仕切る大型の「櫓門」です。二階部分は南側にある「弓櫓」に接続しています。
平成20年から21年度にかけて発掘調査を実施したところ、門の礎石が良好に残っていました。櫓門は通常梁間(奥行き)二間ですが、切手門では、その奥にさらに礎石が一つみつかり、梁間三間となる珍しい形式の門であったことが分りました。また、豊島石製のU字溝を使用した門の雨落溝や暗渠排水など、雨水を処理するための施設も確認されました。
切手門奥(東側)の雁木(石段)は、一段の段差が70~80cmもあり、この高低差を少しでも解消するため、段と段との間はスロープ状の斜面にしていたと考えられます。
現在の雁木は、高低差をなくすため、本来の石段の上に部分的に盛土を行い、新たな雁木を付け加えています。雁木に使用されて石をよく見ると、本来の雁木がそのまま使われているところ(大きい石のある段)と、雁木があらたに付加された箇所(小さい石のある段)のあることが分ります。
≪説明に添えられている図≫
切手門跡の発掘調査の様子。東西方向(赤点線枠の短辺側)の礎石が4つあることから、梁間(奥行き)は三間であることが分る。赤枠中央は凝灰岩製の蓋を使用した暗渠排水。
赤色点線:門の礎石
水色点線:雁木(石段)
表鉄門
表鉄門(おもてくろがねもん)
概要
表鉄門は、本丸への入り口にある櫓門で、門扉全体が鉄板で覆われていたことからこの名前がついています。
表鉄門を北向きにくぐると、西向きに石段があります。石段を登り、南に180度方向をかえると、そこに本丸御殿の玄関があります。
この玄関は、先に門をくぐった表鉄門二階の櫓部分にあたり、全体は北に向かってのびる「コ」の字形をしていました(右下の絵図を参照)。玄関の石段を東向きにのぼると、式台と呼ばれる板敷きの部屋があり、四十二畳の「広間」へ続きます。東南隅の小部屋を過ぎて北に折れると、「旗竿の間」があり、さらに西に折れると、「鑓の間」と続きます。ここから北に向かうと、御殿の大広間につながります。
表鉄門は、城門としてだけでなく、二階の櫓内部は本丸御殿への正式な入り口としての役割を持っていました。本丸の面積が狭く、限られた敷地を有効に利用するためにとられた手段のひとつであったのでしょう。
文化6年(1809)の火災により、本丸御殿のすべての建物及び表鉄門、裏鉄門などは焼失しています。表鉄門と両脇の石垣が再建されたのは、8年後の文化14(1817)年です。東側にある石垣を観察すると、熱を受けて赤く変色した石を確認できます。
≪説明に添えられている図≫
天守台
天守台
概要
津山城の天守は、地上五階建てで、最上階以外に破風を持たない質実な造りでした。高さは石垣を除いて約22メートルで、一般的な互層の天守としては最大規模のものです。形は、天守台の平面が正確な四角形で、上階が規則的に小さくなっていく「層塔型」と呼ばれるものです。この壮大な天守を支える礎石は、地下の穴蔵部分で確認されています。上から見ると、平らな礎石が並んでいる様子が分かります。絵図と比較すると、柱の位置と礎石の位置はほぼ一致しています(右下の写真)。柱は、約38センチ角もある巨大なものであったことが分かっています。
天守をはじめ城内の建物は明治7年から8年(1874~75)にかけて取り壊され、石垣を残すこととなりましたが、その後昭和11年(1936)に開催された「産業振興大博覧会」の呼び物として、本来の天守の3分の2の天守が建てられました(右中段の写真)。「張りぼて」の愛称で親しまれましたが、空襲の目標になるという理由から、昭和20年8月に取り壊されました。
≪説明に添えられている図≫
七番門と虎口
七番門と虎口
概要
津山城の本丸は逆「L」字形をしており、天守はその南西部に位置しています。天守の東側には高さ4m程度の石垣で区画された部分があり、これより西側を「天守曲輪」と呼んでいます。七番櫓は、この天守曲輪の北西部にあり、曲輪から石段を降りた一段低いところに西向きに開口する門です。
桝形部分の発掘調査では、七番門の礎石が2石残っており、円礫が一面に敷かれていたことが分りました。また、豊島石製の排水溝が天守曲輪から桝形部分にかけて検出されました。
整備計画では、この礎石を露出展示し、周囲は土系舗装を施しています。また、門北面の石垣は一部積み直しを行い、東面の石垣及び南側の雁木(石段)は発掘調査や資料に基づき復元しました。
七番門の外側(西側)は、腰曲輪を経由して二の丸へ通じていますが、この間には約3mの落差をもつ石垣になっており、容易には腰曲輪に降りることができない構造になっています。この落差を考える際のヒントが『勘定奉行日記』に記されています。記事には「七番門外橋子(はしご)」の記載があることから、七番門の外に「橋子」つまり、木の階段のようなものが取り付けられていたものと推測されます。
二の丸から天守曲輪に向かう最短ルートが、この七番門です。藩主も使用したであろうこの門は、日常は階段を使用して通行が可能ですが、非常時には階段を外すことのより、敵の侵入を防いでいたものと考えられます。
≪説明に添えられている図≫
多門櫓
多聞櫓
概要
多門櫓は、天守台の南西側、西側、北西側を取り囲むように存在した櫓です。絵図からは、西面は長さ三十四間、幅三間の細長い平櫓で、南北端に三間☓四間の二階部分が置かれていることが分かります。南面は長さ八間半、幅三間の平櫓、北面は長さ五間半、幅二間の平櫓となっており、北面の櫓は七番門に接続しています。
整備工事では、建物の輪郭を御影石で表し。内部は自然石の樹脂舗装を施しています。また、二階建て部分と平屋部分との違いが分かるように色を変えて表示しています(薄い灰色が二階建ての隅櫓部分)。北西の隅櫓から東へ続く櫓は、天端面を土系舗装とし、石垣内部へ雨水が入らないようにしています。
地下には裏込めの栗石が石垣の表面から奥行き6m(約三間)もの範囲に充たされていたことが、発掘調査によって分かりました。
≪説明に添えられている図≫
五番門と土塀
五番門と土塀
概要
五番門は、備中櫓の北側に位置し、天守曲輪への南側からの入口となっています。絵図によれば、この門は冠木門(屋根のない二本柱の門)と記されていますが、発掘調査では、主柱と控柱の痕跡が発見されているので、高麗門あるいは藥医門であったと推測されます。備中櫓管理用の門として整備を行いました。
五番門の南側石垣は変形が著しく、崩落の危険性が高い石垣であったため、積み直しを行い、石垣の上には土塀を復元しました。土塀の外観については、絵図や古写真から、白漆喰塗仕上げ、瓦葺であったことがわかります。塀の高さは、宮川門付近を写した古写真や、三の丸の石垣に残る塀の屋根の痕跡等から、概ね七尺(約2.1m)程度と推測されました。塀の構造は『勘定奉行日記』の記事に、「二重塀」という語がみられることから、土塀の土壁を表側と裏側に別々設けて中を空洞にし、そこに栗石を詰めた「太鼓塀」と呼ばれる構造で復元をしました。このような構造の塀の現存例は、金沢城の石川門表門が唯一の例です。塀の城内側には、控柱が設けられています。また、雁木(石段)については、発掘調査により出土した最下段のものを参考に復元しました。
≪説明に添えられている図≫
裏鉄門
裏鉄門(うらくろがねもん)
概要
裏鉄門は。本丸から搦手に到るための門で、裏切手門をくぐり石段を下りて直角に曲がったところに西向きに位置する櫓門です。表鉄門と同様に門扉全体が鉄板で覆われていたことからこの名前がついています。
この門については、絵図と発掘調査によって、その内容が明らかになっています。発掘調査から門の規模は幅約8メートル、奥行約4メートルで門扉の南側に番所をもつ構造であることが明らかになりました。これは、絵図ともよく一致しています。また。絵図では門の東側に青色でトイレが描かれていますが、実際に該当の部分でトイレの痕跡がみつかりました。
裏鉄門は、文化6年(1809)の本丸の火災で焼失しており、それ以降は再建されなかったことがわかっています。
裏鉄門の東側には、平行でない上下2段の石垣があります。これは、本丸御殿を少し広くとるために下段石垣を付け足し、上段石垣と下段石垣に挟まれた三角形のスペースは地下室のような形になっていたのです。絵図の該当する部分に、「梯子上り口」の記載があることからも、梯子で下段石垣の上面に下りる構造になっていたことがわかります。
≪説明に添えられている図≫
※ 私の登城時はここは通行止めで、上の方から望遠で撮影。そのた図の一部が撮影できませんでした。
粟積櫓
粟積櫓(あわつみやぐら)
概要
粟積櫓は、本丸の北東隅を囲むように存在した櫓です。粟積山(旧真庭郡川上村)の木材を用いて造られた櫓であるため、この名前が付けられました。絵図や古写真からは、北東隅が二階建ての櫓であったことが分ります。
粟積櫓の石垣は、廃城後東面や南面が大きく孕み出し、当時最も崩落の危険が高かったため、昭和49年度に解体修理工事を行いました。津山城が昭和38年に国指定の史跡となってから最初の解体を伴う石垣修理工事です。
≪説明に添えられている図≫
森 忠政
森 忠政 一五七〇 ― 一六三四
幼名を千丸。元亀元年、美濃(岐阜県)金山城に生まれる。京都本能寺の変で、織田信長を守護し、悲運の最期を遂げた森蘭丸の弟。天正一二年(一五八四)兄長可の戦死後家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えて金山七万石を与えられる。のち徳川家康に仕え、慶長五年(一六〇〇)信濃(長野県)川中島一三万七〇〇〇石を領す。同八年美作国一円一八万六五〇〇石を与えられ津山に入封。翌九年より津山城の築城に着手、また城下の街づくりを始め、現在の津山の基をなした。寛永一一年(一六三四)三代将軍家光に随伴して津山より上京するが、食傷により急死す。享年六五歳。なお、この像は津山市小田中、森家の菩提寺本源寺にある木像を基としたものである。
忘れ去られた石
忘れ去られた石
平成10年の台風10号通過後、津山市大谷の石山登山道近くの谷川で、津山城築城時に切り出されたと思われる石が見つかりました。
石の重さは約2.3トン、近くにある「津山城石切場跡」にある矢穴(石を割るためにノミで穿った穴)と同じ大きさものが石の上下に計9か所残っています。津山城築場時に切り出された石に一部であることは間違いなく、何らかの理由で築城現場まで運ばれなかったようです。この石は「忘れ去られた石」と名づけられました。
平成16年3月に谷川から引き上げられ、同年5月の津山城築城400年記念事業「津山歴史時代絵巻~築城大石曳き~」で大谷町内のみなさんによって"歴史石曳き"として修羅(巨石などを運ぶ木製のそり状の運搬具)に載せて市内中心部を約400メートル曳かれた後、津山城跡近くに約400年ぶりに届けられました。
ありし日の津山城
ありし日の津山城 (明治5年頃撮影のもの)
慶長8年美作一国の大名に任ぜられた森 忠政(本能寺の変で織田信長と一緒に戦死した 森 蘭丸の一番下の弟)が13ヶ年かけて築城したもので、明治6年の廃条令(陸軍省命令)によって取りこわされました。
※入城券売り場に掲示されていたものです。
≪説明に添えられている図≫
大手前広場 舟着場の常夜燈
大手前広場 舟着場の常夜燈
江戸時代初期から明治三十年頃まで、吉井川の高瀬舟は、美作と備前を結ぶ交通の手段で、米・大豆・塩・海産物などの輸送や、各地の文化を取入れる重要な役割を果たした。津山市船頭町の吉井川河岸には、舟着場が築かれ、高瀬舟の目標として、また航行の安全を祈るため、常夜燈が設けられていた。今はその姿はなく、かって吉井川の河岸であったこの地に、往時を偲び大手前広場として、ここに復元した。なお高瀬舟は実物の約四分の一の大きさである。
絵が中心の案内・説明書
津山城内にあった絵が中心の案内・説明書の紹介です。
津山城復元図
画像編集しています。オリジナル
登城の道のり
登城日:平成30年11月4日
- は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
- ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
津山城 まで 簡単に説明
- 車で移動、距離的には津山駅より1Km程度。
ストリートビュー:津山城 極楽橋
上地図で が記された場所のストリートビューです。
ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス