室町時代伊予国守護・河野氏の城跡
堀・土塁が残る
湯築城
湯築城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: 縄張りとカメラアングル
- 肆: ここが魅所・おすすめ
- 伍: 湯築城で出会った説明板
- 睦: 登城の道のり
湯築城ひとくちメモ
《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は Google フォト の写真を示し、クリックで画像を表示。
湯築城 簡易年表
- 14世紀前半
- 河野通盛が湯築城に本拠を移す
- 16世紀半ば
- 河野通直が、外堀を掘り、その土で土塁を築いて、現在のような大規模な城となる
- 1585年
- 豊臣秀吉に攻められ、河野氏は降伏しまもなく廃城になる。江戸時代は松山藩が管理し、一般の人が立ち入ることは制限
- 1888年
- 「道後公園」という名で広く一般に開放
- 1988年
- 発掘調査がおこなわれる
- 2000年
- 国の史跡に指定される
参考になるサイト:
湯築城 写真の間
撮影日:2018年11月4日
登城・撮影日の留書き
上に掲載以外の湯築城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。
湯築城 よろず間
湯築城 縄張りとカメラアングル
※ 縄張図は城跡にあった 国史跡 湯築城跡、に添えられた図を編集して使用しています。
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ここが魅所・おすすめ
私の感じた湯築城の魅力、見所、おすすめなどを紹介
-
本壇の展望台からの眺めは絶景。伊予松山城も望めます。左側の写真は写真の間(5)を少し粗いですがトリミングしてみました。
(2018/11/4)
城内で出会った説明板
湯築城跡で出会った案内/説明板の良いとこどりです
※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。
国史跡 湯築城跡
国史跡 湯築城跡
湯築城は、室町時代伊予国守護であった河野氏の城跡で、当時伊予国の政治の中心でした。
河野氏は、風早郡河野郷(松山市北部)を本拠とした豪族で、12世紀の源平合戦で源氏方として活躍し、鎌倉時代には伊予国で最も有力な武士になりました。河野氏が湯築城に本拠を移したのは、14世紀前半河野通盛の時といわれています。当時の道後は、道後温泉に古くから天皇が来湯するなど人々の往来が多く、伊予国内では経済的、文化的な要地でした。その後、河野氏の歴代当主が伊予国守護に任命されるようになると、この地は政治的な中心としても栄えるようになりました。河野氏は水軍としても知られ、海賊衆としても有名な来島村上氏もその配下でした。
湯築城は、はじめはいざという時に丘陵を城として利用するだけでしたが、16世紀半ばに河野通直が、外堀を掘り、その土で土塁を築いて、現在のような大規模な城となりました。戦国時代に平地の岡を二重の堀と土塁で囲った城は、全国でも大変珍しいものでした。
1585年に全国統一を目指す豊臣秀吉に攻められ、河野氏は降伏し、湯築城はまもなく廃城になったといわれています。江戸時代は松山藩が管理し、一般の人が立ち入ることは制限されていました。明治時代に入り、1888年に「道後公園」という名で広く一般に開放されるようになりました。道後温泉本館(国重要文化財)建設を進めた道後湯之町伊佐庭如矢町長によって公園として整備され、にぎわうようになりました。
1988年から12年間発掘調査がおこなわれ、25万点にも及ぶ土器等が出土し、戦国時代の遺構が良好な状態で残っていることが確認され、歴史上重要な遺構として、2000年に国の史跡に指定されました。
湯築城の規模は、外堀を含め、南北約360m、東西約300mで、広さは約8.5haあります。中心は標高約31メートルの小高い丘陵で「本壇」「杉の壇」と呼ばれる平坦地があり、最も高い本壇からは、松山城や遠く伊予灘を見ることができます。発掘調査により、城の南東側は上流武士の生活の場、南西側は城主に仕える武士が暮らす場所だったことがわかっています。
また、湯築城の西には城下町が広がっていました。北には石手寺、義安寺、宝厳寺、湯神社など河野氏よゆかりの深い神社がありました。戦国時代に日本を訪れたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、「道後の市」と呼ばれ大変栄えていた様子を『日本史』の中に記しています。
湯築城跡
湯築城跡(ゆづきじょうあと)
湯築城は、二重の堀と土塁を巡らせ、その中に居住空間を持つ先駆的な「平山城」の形態をなす
中世伊予国(現在の愛媛県)の守護河野氏の居城として、約二五0年間存続しました。
南北朝時代の初め頃(十四世紀前半)河野通盛によって築かれたといわれています。
通盛の先祖には、十二世紀末の源平合戦の際、水軍を率いて活躍した通信
十三世紀後半の蒙古襲来の際活躍した通有がいます。
通盛は、それまでの河野氏の拠点であった風早郡河野郷(現在の北条市)からこの道後の地に移りました。
築城に関する文献は残っていませんが、河野郷の居館が寺(善応寺)になった時期や、
惣那家(くつなげ)文書の記述などから、遅くとも建武年間(一三三四~一三三八)には築城されたと推定されています。
河野氏は、その後讃岐から攻め入った細川氏との闘いに敗れ、湯築城は一時占拠されましたが、
守護職とともに湯築城を奪い返しました。
しかし、近隣諸国から幾度となく攻撃を受けたり、お家騒動(惣領職の継承をめぐる分裂)や
内紛(家臣の反乱)を繰り返し、その地位は決して安泰ではありませんでした。
天正十三年(一五八五)、全国統一を目指す羽柴(豊臣)秀吉の命を受けた小早川隆景に湯築城は包囲され、
河野通直は降伏し、やがて湯築城は廃城となりました。
大手門
大手門
大手門は、城の表門のことです。河野氏の時代にここがどのように呼ばれていたかはわかりませんが、江戸時代に書かれた『予陽郡郷俚諺集(よようぐんごうりげんしゅう)』に「東西に門有、城は東表也」と書かれています。
この場所での発掘調査は行われていませんが、土橋をわたった内側に、場内で最も大きな空間(現在のグラウンド)があるので、城の構造からも、この場所が表門であったと推定されています。
なお、現在のグラウンドの発掘調査では、礎石建物、道路、内堀などが確認されています。
本壇
本壇
河野氏の時代にここがどのように呼ばれていたかはわかりませんが、江戸時代に書かれた『予陽郡郷俚諺集(よようぐんごうりげんしゅう)』に「本壇高四十五間三尺、東西十二間、南北十一間三尺」と書かれています。
湯築城では最も高い位置にある郭(標高71.4m)で河野氏に関係の深い瀬戸内の海も西に見ることができます。現在、面積約420㎡、東西約32m、南北約20mの規模があります。発掘調査を行いましたが、大部分は地山が露出していて、出土遺物もほとんど見つかりませんでした。
※「本壇」は江戸時代以降の呼称であり、湯築城が機能していた時期の呼称ではありません。
杉ノ壇
杉ノ壇
河野氏の時代にここがどのように呼ばれていたかはわかりませんが、江戸時代に書かれた『予陽郡郷俚諺集(よようぐんごうりげんしゅう)』に「杉ノ壇高七間、東西十二間、南北十五間三尺」と書かれています。当時、二本の杉があったことから名づけられたようです。
発掘調査では、鍛冶炉、瓦敷道路や礎石列、堀切などが確認されています。特に北側では多数の鍛冶炉が見つかり、鍛冶に関係する鞴の羽口・鉄滓・鍛造剥片も出土しています。鍛冶炉の構造を確認するために掘った遺構の調査では、金属分析の結果、砂鉄を原料とした精錬鍛冶を行っていたことがわかりました。城内の調査では砂鉄を原料とした釘も見つかっています。ここで作られた釘が使われていたようです。
南の山裾では、幅2.4m、深さ1.5mの堀切も見つかっています。この堀切は、ある段階に真砂土で埋め戻されていました。
※「杉ノ壇」は江戸時代以降の呼称であり、湯築城が機能していた時期の呼称ではありません。
遮蔽土塁
遮蔽土塁
この土塁のある場所は、外堀と内堀の間が最も狭い処です。この土塁の重要な役割は、大手からの視線をさえぎること、上級武士居住区への容易な侵入を防止することにあります。もちろんこの土塁と外堀土塁の間には門が必要です。
≪説明に添えられている図≫
排水溝(実物展示)
目の前の溝は当時の実物です。大手からの溝は2段階まで使用された後、埋められていました。石の間に見られる赤い線から上の部分は、石が抜け落ちていたので、新しく石を入れて復元しています。
内堀に流れ込む溝は4段階のもので、遮蔽土塁の南面を区画しています。溝が交わっている箇所で、作られた年代の新旧を判断することができます。
絵が中心の案内・説明書
湯築城内にあった絵が中心の案内・説明書の紹介です。
登城の道のり
登城日:平成30年11月4日
- は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
- ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
湯築城 まで 簡単に説明
- 伊予鉄道、道後温泉または道後公園より直ぐ
ストリートビュー:湯築城 極楽橋
上地図で が記された場所のストリートビューです。
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