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日本三大水城の1つ

今治城

今治城のご案内

今治城ひとくちメモ

所在地
愛媛県 今治市
築城者
藤堂高虎
別 名
吹揚(上)城
別名の由来
-
天守概要
-
城郭構造
平城
遺 構
石垣 []、 堀 [] など
再建造物
模擬天守 []、 鉄御門 []、 多聞櫓 []、 御金櫓 []、 山里櫓 []、 武具櫓 [] など

《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は Google フォト の写真を示し、クリックで画像を表示。

今治城 簡易年表

1602年
藤堂高虎が今治城の普請を開始
1604年
完成
1871年
鉄御門を始め武具櫓・東多聞櫓・西多聞櫓の7連の櫓を消失
1872年
本丸・二の丸の建築群と鉄御門桝形正面石垣も撤去
1980年
市制60周年を記念して天守を再建

城内にあった説明板 を参考にまとめました

参考になるサイト:

今治城 写真の間

撮影日:2018年11月3、4日

堀の周囲から

今治城:御金櫓

(1)
御金櫓

今治城:鉄御門桝形

(2)
鉄御門桝形

今治城:武具櫓、天守、山里櫓

(3)
武具櫓、天守、山里櫓

今治城:山里櫓、天守

(4)
山里櫓、天守

城内

今治城:鉄御門

(5)
鉄御門

今治城:武具櫓

(6)
武具櫓

今治城:藤堂高虎公銅像に天守

(7)
藤堂高虎公銅像に天守

今治城:天守

(8)
天守

今治城:鉄御門桝形を城内から

(9)
鉄御門桝形を城内から

今治城:御金櫓

(10)
御金櫓

登城・撮影日の留書き

上に掲載以外の今治城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。

今治城:藤堂高虎公銅像

2018年11月3、4日 撮影

今治城 よろず間

今治城 縄張りとカメラアングル

※ 縄張図は城跡にあった今治城案内図 を編集して使用しています。

※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。

※ 数字は上の写真の番号に対応。

解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。

今治城 縄張図とカメラアングル

武具櫓

山里櫓

天守

御金櫓

鉄御門

堀(海水)

方向指示

ここが魅所・おすすめ

私の感じた今治城の魅力、見所、おすすめなどを紹介

  • 三大水城の一つで堀には瀬戸内海の海水が導かれ、船入跡には現在では今治港が築かれている。

    (2018/11/3022)

城内で出会った説明板

今治城跡で出会った案内/説明板の良いとこどりです

※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。

今治城

今治城

今治城

今治城は堀に海水が引かれた近世の平城で、大手二の丸に藩主の館を、三の丸大手口の表門に鉄御門(くろがねごもん)、馬出(搦め手)口に山里門を置いていました。藤堂高虎は、慶長7年(1602年)6月から今治城の普請を開始、慶長9年に完成しました。同時期に徳川家康の天下普請に乞われ、各地の多くの築城の縄張りに関与しています。従って、今治城は徳川系城郭の雛形と言われています。

高虎の城づくりは、高石垣、広い堀、大手と搦め手を明確化、虎口の出入口に桝形・方形の区画を設け、郭は四角形の構成を基本とすることが多い等の特徴が見られます。高虎は豊臣秀長、豊臣秀吉、徳川家康と多くの主君に仕え、城づくりの現場体験から、高虎独自の工夫と、当時の最先端の技術を活かし、築城の名手として知られています。

自らの居城としては、紀伊猿岡城、伊予宇和島城・大洲城・今治城、伊勢津城・伊賀上野城があります。豊臣政権下では秀長の命で。出石城、大和郡山城、聚楽第等を、秀吉の命で伏見城を、徳川政権下では膳所城、再築伏見城、江戸城、丹波篠山城、再築丹波亀山城、再築二条城、再築和歌山城、再築大坂城、淀城などを築いています。

今治城は海浜に立地する大規模な平城、層塔式天守、桝形虎口、舟入等城郭建築上、革新的なものが認められています。主要部を水際に置き、陸地部に郭を広げていく城郭縄張りは、坂本城、近江大津城、膳所城、彦根城等の織豊期につくられた琵琶湖湖畔の城郭に多く見られ、これらの城の縄張りを祖形にしたものとと考えられます。

慶長末から寛永年間にかけて徳川幕府は巨大な城郭を天下普請として驚くべき短期間に築いています。層塔式天守当に見られる、単純で規則的な積み上げ構造は用材の規格化を容易とし、工期短縮も可能とするなど、高虎は城郭構築技術の発展に大きく寄与したと思われます。

≪説明に添えられている図≫

吹揚公園全体配置図

 

日本屈指の海城 今治城

日本屈指の海城 今治城

日本屈指の海城 今治城

今治城は、江戸時代のはじめの頃、築城の名手 藤堂高虎が瀬戸内海に面した海岸に築いた名城です。軟弱な地盤(砂浜)にも関わらず、伊予半国(現在の愛媛県の約半分)20万石の大名にふさわしい城郭を技術の粋を結集して築き上げ、高虎の代表作となりました。広大な城郭とその城下町は、その後の今治市の発展の基礎となりました。

今治城の特徴は、広大な水堀と高い石垣です。全国的にも大変珍しい海水を引き入れた海岸平城で、日本三大水城の一つに数えられています。堀は潮の干満で推移が変わり、海の魚の泳ぐ姿を見ることができます。

現在の天守は、昭和55年(1980)に市制60周年を記念して再建されたもので、内部は歴史資料館と自然科学館になっており、最上階からは市街地や瀬戸内海の島々、西日本一の高さを誇る石鎚山などが展望できます。

また、御金櫓は郷土美術館、山里櫓は古美術館になっており、鉄御門・武具櫓は木造の復元建物として内部公開しています。

≪説明に添えられている図≫

今治城案内図

鉄御門

鉄御門

鉄御門(くろがねごもんるび)

《鉄御門》

鉄御門の再建は、平成15年「今治城築城・開町400年祭」の記念事業の一環として計画されました、三の丸大手筋にあたるこの郭は、総鉄板張りの鉄御門を始め武具櫓・東多聞櫓・西多聞櫓の7連の櫓で形成されていましたが、明治4年に消失し、翌年には本丸・二の丸の建築群と鉄御門桝形正面石垣も撤去されています。本計画は鉄御門・東多聞櫓・西多聞櫓及び東西控塀の一部の建造物を市民の寄付金により復元する事業です(武具櫓は昭和55年再建)。上屋建物については、江戸時代末期の慶応3年、半井梧庵(なからいごあん)撮影の写真と芳野家文書を復元の基礎資料とし、史跡今治城跡整備検討委員会指導のもとに設計されました。発掘調査については、事業開始にあたり平成16年2月から史跡整備の基本である試掘調査を行い、平成17年10月から工事を伴う事前調査を開始、旧櫓台の根石や下部築石、門礎石(石灰岩の大石)が地中より検出されました。

石垣修復には、重さ16t、表面積8.9㎡の勘兵衛石を桝形正面中央に据え、出土大築石(表面積2.5~5㎡)は出土位置に配する等、遺構築石を全て再使用、不足築石のみ地元大島産の野石(花崗岩)で補充しています。修復石垣の面積は計314.9㎡、復元石垣面積は計337.1㎡に及んでいます。

高虎時代の桝形地盤面は海抜5.8mと思われますが、現地盤よりかなり低く、復元は困難であるため、後世の久松期(海抜6.5~6.8m)程度としています。これに伴い門前の石段・雨落ち等は同時期の形態を復元しています。

建築物は、鉄御門・東多聞櫓・西多聞櫓は岐阜県・茨木県産襷材、背面冠木のみ岩手県産松丸太材を、東西多聞櫓は久万産他の檜材、小屋組は久万産の杉材と島根県・鳥取県産松丸太を使っています。

鉄御門を初めとする7連棟の延床面積は769.2㎡となっています。

≪説明に添えられている図≫

鉄御門桝形まわり櫓台平面図

芳野家文書

御金櫓・月見櫓・南隅櫓

鉄御門・東多聞櫓・高麗門

武具櫓、東多聞櫓1~5・鉄門外郭正面図

武具櫓、東多聞櫓1~5・鉄門断面図

今治城三の丸跡鉄御門遺構礎石

今治城三の丸跡鉄御門遺構礎石

今治城三の丸跡鉄御門遺構礎石

《遺構礎石》

展示されている2つの石は、平成17年1月~平成18年10月にわたる発掘調査において検出された、三の丸表門である鉄御門に使われていた礎石です。

これらの2つの礎石は鉄御門の正面鏡柱と背面控柱を支える礎石で梁間寸法5.70mあったことがわかっています。礎石上面が平坦で、扉の付く鏡柱は、背面控柱の礎石より大きくなっています。両礎石とも石質は石灰岩で、割れが入っており、再使用するには強度・耐久性から不安がありました。一般に礎石としては石灰岩は脆く、使われる事例はあまりないため、当地に移設展示することになりました。

鏡柱用の礎石の正面側には鑿(ノミ)で斫り取って全面を平坦に加工した跡があり、石段の蹴込み面を兼ねた加工跡と思われます。

おそらくは、遺構調査で判明した藤堂高虎創築の鉄御門桝形の地盤高さが現状地盤よりも1m以上低かったようで、門正面に右に折れ、1.5m程石段を上って鉄御門に潜ったようであり、その急な登りの石段を納めるために礎石に蹴込み加工を施したと推測されます。

今回の復元に際しては、新規取替え礎石は強度・耐久性のある市内大島産の花崗岩を使って、レプリカを制作し、旧地盤面下に鉄筋コンクリート造の一体の基礎を築造し、その上に新設礎石を旧位置に据え付け、上部建家工事を行っています。

この他に、工事に伴って実施した発掘調査では、破却されたたくさんの瓦片及び桝形正面石垣などについて、破却改変時の状態を記録保存しております。

≪説明に添えられている図≫

 

高麗門跡

高麗門跡

高麗門跡

《袖塀の石垣跡》

鉄御門の手前にあったもう一つの城門(高麗門)

高麗門と鉄御門の二つの城門で、攻めてくる敵を食い止め、さらに二つの城門に挟まれた四角形の広場(桝形)に敵が侵入すると、周囲の多聞櫓から攻撃を加えることができました。

最も守りが固い虎口(城の入口)構造で、藤堂高虎が創始した築城術の一つです。

≪説明に添えられている図≫

鉄御門桝形虎口 略図

登城の道のり

登城日:平成30年7月30日

  • ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
  • ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

今治城 まで 簡単に説明

往路:今治桟橋から

  • バスで今治桟橋へ、下車。
  • 港に沿いながら突き当りまで4~500m程歩く。
  • 突き当り左折、三叉路で右折。
  • そのまま少し歩くと堀が見えてくる。

復路:今治駅へ

  • 堀沿いの道を高いビルを目指しへ500m程行き、これを過ぎた交差点で右折。
  • 600m程一本道をどんどん進むと駅が見えてくる。。

ストリートビュー:今治城 極楽橋

上地図でストリートビューの撮影ポイント が記された場所のストリートビューです。

ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス

城めぐり 栞