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急ぎ工事で約4か月で竣工

石垣のない土塁の城

高田城

高田城のご案内

高田城ひとくちメモ

所在地
新潟県 上越市
築城者
松平忠輝
別 名
鮫ヶ城、高陽城
別名の由来
-
天守概要
-
城郭構造
平城
遺 構
土塁 []、 堀 [] など
再建造物
三重櫓

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高田城 簡易年表

1614年
松平忠輝、福島城を廃して高田城を造り、城下町も高田に移す
1665年
高田地震、高田城も城下町も壊滅し、2人の家老が圧死し死者多数にのぼる
1751年
大地震で城下町は破滅的な被害を受け、幕府より復興のため1万両を借り入れる
1802年
高田城本丸御殿が全焼する
1847年
大地震(善光寺地震)で高田城が大破し、つぶれ家499戸、死者34人となる
1868年
戊辰戦争が起こり、薩摩・長州などの官軍が来越する
1871年
廃藩置県により高田藩を高田県とし、後に柏崎県となる

上越市ホームページ より抜粋

参考になるサイト:

高田城 写真の間

撮影日:2018年9月19日

高田城:復元された極楽橋

復元された極楽橋

高田城:三重櫓

三重櫓

高田城:本丸より内堀を眺める

本丸より内堀を眺める

高田城:三重櫓

三重櫓

高田城:内堀

内堀

高田城:内堀越しに三重櫓を望む

内堀越しに三重櫓を望む

高田城:内堀と極楽橋

内堀と極楽橋

高田城:西堀のハス

西堀のハス

登城・撮影日の留書き

上に掲載以外の高田城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。

高田城:石垣

2018年9月19日 撮影

高田城 よろず間

高田城 ここが魅所・おすすめ

私の感じた高田城の魅力、見所、おすすめなどを紹介

  • 写真でしか見たことはありませんが桜が綺麗。誰が選定したかよく判らないのですが「三大夜桜」とのこと。また、大阪城、高知城とともに『日本三大夜城』に選定されています。

    【参考】 上越市のホームページ 高田城三重櫓高田公園

    (2018/10/22)

高田城 ここが際立つ

高田城 のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介

  • 土塁の上に三重櫓

    平城としては珍しく石垣が見られない。これは、大坂冬の陣の直前で工事を急ぎ、わずか約4か月で竣工させたこと、石材が付近になく、集める余裕がなかったことなどが考えられるといわれている。

    [ 2019/65/16 ]

城内で出会った説明板

高田城跡で出会った案内/説明板の良いとこどりです

※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。

大手桝形と大手門跡

大手桝形と大手門跡

大手桝形と大手門跡

この辺が大手桝形門のあった所です。外堀(大手堀)に架かる大手橋を渡ると、内側に虎乱郭と名付ける城内への表玄関口があり、大手門の桝形がありました。

桝形とは出入口になる所を塁で四角に囲って区画し、防備を固めた施設です。この桝形に門を2か所設けて出入りしました。

外側の門を一の門(高麗門・蹴出門とも)、内側の門を二の門と呼びます。二の門は二重櫓の頑丈な造りで「大手門」と呼び城を代表する門でした。

高田城の桝形大手門は、城郭全体から見て南西方向にあり、周辺に広大な外堀、デンガク堀、濁堀(中堀)や三の丸に囲まれ、防御態勢万全の大手門でした。

土塁で囲まれた桝形内の広さは、古絵図によると南北20間、東西15間程あったようで、かなり大きなものでした。ここにある「大手門趾」の石碑は高田師範同窓会によって建てられました。

≪説明に添えられている図≫

 

極楽橋

極楽橋

極楽橋

《極楽橋》

極楽橋は、徳川家康の六男 松平忠輝が慶長19年(1614)、高田城を築城した際に、二の丸から本丸に通じる木橋として設けられました。明治41年(1908)には、高田城に入城した陸軍第十三師団によって土塁が切り開かれ堀を埋め立てて陸続きとなった結果、極楽橋はその姿を消しました。現在の橋は、高田公園開園50周年及び市制30周年を記念して平成14年に復元されたものです。極楽橋の復元にあたっては、古文献、史料及び発掘調査等により可能な限り旧形状を再現するよう努め設計を行いましたが、すべてを木造とし旧形態を忠実に復元することは、安全性、構造耐力、法規制、維持管理等の面からさまざまな問題が生じるため、目に見えない構造の根本となる部分は鉄筋コンクリートやPHCパイルを使用した"近代的な工法"を採用し、直接目に見えたり、手に触れる部分は木材や石などを使用した"伝統的な工法"を採用し、復元を行いました。復元工事を行う前に行った発掘調査では3列に整然とならんだ極楽橋の橋脚が見つかっています。右の写真は調査によって発見された橋脚で、6本から7本の木がまとまって見つかっています。

≪説明に添えられている図≫

 

 

 

高田城 本丸

高田城 本丸

高田城 本丸

☐ 本丸跡

高田城は慶長19年(1614)、高田の菩提が原(ぼだいがはら)の地を主郭に徳川家康の六男松平忠輝が築城した75万石(諸説あり)の大規模な近世城郭でした。本丸は内堀(薬研堀)と塁に囲まれ、現状では堀幅40~50m、平均水深5m程あり、塁は高さ10m前後で総長約1,000mありました。石を用いず2ヶ所の内枡形門と1ヶ所の内カギ形門を挟んだ囲み土塁でした。現在の本丸内郭跡は東西215m、南北228mの広さで、この中に城主の御殿や多くの建物が存在していました。天守閣を造らず、塁上には南西隅の三重矢倉を「御三階」と呼んで城のシンボルとし、他に多門櫓2棟、矢倉台1ヵ所、御茶屋台1ヵ所などが設けられていました。この高田城も、寛文5年(1665)の高田地震、宝暦地震(1751)、善光寺地震(1847)及び享和2年(1802)の火災等にあい、その都度規模が縮小されましたが、明治3年(1870)の火災によって再び焼失し、以後再建されませんでした。高田城は、慶長19年(1614)から8家18代の城主が交替し、257年間続きましたが明治4年(1871)にその幕を閉じました。明治41年(1908)の陸軍第十三師団入城の際に土塁が切りくずされ城跡は変形しましたが、基本的な原形は保存されており、新潟県の史跡に指定されています。

≪説明に添えられている図≫

稲葉正通次代「高田城図間尺」

高田城池の師団用地に

改造図

この図は明治41年(1908)に陸軍建築部が作成した図を元に作成しています。

陸軍が改造する前の地形と改造後(現在とほぼ同じ)の地形を見比べることができるため、高田城があった当時の櫓や門等の施設が現在のどの場所にあったのか推測することができます。

この図は大正3年(1914)に高田市史編集の際に作成された「高田城内之図」を元に作成しています。

「高田城内之図」は稲葉丹後守正通次代(貞亨2年(1685)12月~元禄14年(1701)6月の間)の「高田城図間尺」を基本に松平越後守光長時代の諸図を参考に作成されました。。

本丸の構造と三か所の門

本丸の構造と三か所の門

本丸の構造と三か所の門

高田城の本丸郭(城の中心部で城主の生活したところ)は、静真郭御殿と呼ばれました。現在の広さは東西215メートル、南北228メートルあります。形状は鬼門除けや内枡形門などの関係で複雑でしたが、土塁の入隅・出隅、屈曲などを活用して御殿配置がなされました。枡形土塁のなくなった現状よりも、御殿用地はかなり狭かったと思われます。

鬼門とは、鬼の出入りする方角とされる北東の称で不吉とされ、城の場合は角を潰して変形にしました。高田城は大がかりな鬼門除け工事を行いました。

本丸の虎口(出入口)は、本城御門(南門)東不明門(東門)・北不明門(北門)の三か所ありました。南門と東門は内枡形門で、北門はカギ形門でした。現在の西側からの入口は明治以降に切り開かれたものです。

枡形とは、出入口になる所を塁で四角に囲って区画し、防御を固めた施設です。郭の内部に設ければ内枡形と呼ばれました。

高田城の本丸御殿は、江戸幕府の天下普請にふさわしい立派な御殿でした。

≪説明に添えられている図≫

 

高田城の廃城と陸軍第十三師団

高田城の廃城と陸軍第十三師団

高田城の廃城と陸軍第十三師団

高田城は慶長19年(1614)、徳川家康の六男、松平忠輝が築城し、本丸・二の丸・三の丸をあわせ、約19万坪(約58ha)の敷地がありました。しかし、たび重なる地震や火災の被害を受け明治4年(1871)に廃城され、城や池は陸軍省の所有となりました。明治23年(1890)に政府は軍事費を得るため高田城を売却を決め旧藩主である榊原家に払い下げることになりました。

旧高田は明治40年(1907)に第十三師団誘致のため、榊原家から城や池を買い戻し、陸軍に献納しました。陸軍第十三師団は明治41年11月に入城をはじめましたが、師団の入場前に行われた大土木工事によって、土塁は崩され、堀の一部は埋められ、二に丸、三の丸の区画は無くなりました。本丸跡には師団の司令部が置かれ、二の丸には楷行社が置かれました。右の写真は当時の司令部の写真で、極楽橋付近から本丸を撮影したものと推察されます。

≪説明に添えられている図≫

 

西堀のハス

西堀のハス

西堀のハス

《西堀のハス》

明治元年(1868)戊辰戦争当時高田は新政府軍の基地となったことや、凶作の影響で藩の財政が困窮していました。高田公園のハスは明治4年(1871)、戸野目の大地主保坂貞吉が高田城外堀にハスを植え、レンコンを売って藩の窮状を救おうとしたのが始まりです。その後、レンコン掘りは昭和37年(1962)まで続けられました。高田公園の外堀は周囲が約4km、面積は19haに及びますが、そのうち約16haにハスが咲き誇ります。ハスの種類はほとんどが紅蓮(こうれん)で、部分的に白蓮(はくれん)もまじります。昭和28年(1953)ハス博士として有名な、故 大賀一郎氏がっ来高(当時の高田市)した際、「はす池でこのような規模のものは世界でもまれだ。特に赤い花と白い花が入り混じっているところが珍しい」と激賞されました。それを聞いた市民は、まさに東洋一だと誇り伝えてきました。緑の葉と紅の花の対比が清涼感あふれる美しさでその規模の大きさとともに訪れる人を魅了しています。このハスは昭和54年(1979)の異常気象、その他の影響で全滅に近い被害を受けましたが、徐々に回復し、現在ではそれまで以上の美しい景観を誇っています。

外堀の架けられている西堀橋(通称:蓮見橋)からハスの鑑賞ができます。また、東京大学農学部北村文雄教授から贈られた14種類の珍しいハスのうち、一部が順調に育ち、目をひいています。

☐ ハスの豆知識

一つの花の開花期間は4日間といわれています。

1日目 午前5時頃から開き始め、わずかに開いて、午前中に閉じる

2日目 夜中から開き始め、7時~9時頃におわん形に開き、昼頃に閉じる

3日目 夜中から開き始め、10時は平らに開き、午後は少し閉じ半開きになる

4日目 夜中から開き始め、午前中に散り始め、午後には花托。

≪説明に添えられている図≫

 

 

 

工事現場にあった説明板

工事現場にあった説明板

はじめに・・・

高田公園は、徳川家康の六男、松平忠輝の居城として築城された高田城の跡に造られた公園で、全体が新潟県の史跡に指定されています。

現在の公園の地形は、旧陸軍第十三師団が入城する際、明治10年(1907年)に土塁の大半を崩して堀をうめる工事が行われたことによって出来たものとされています。

公園の面積は50haあり、市街地の中心部に位置する公園としては、全国的にも有数の規模を誇っています。園内には復元された高田城三十(重の誤り?)櫓や総合博物館、小林古径記念美術館、高田図書館、小林未明文学館(高田図書館内)などの文化施設、陸上競技場、野球場等のスポーツ施設、ブロンズ像コーナー、外堀をめぐる遊歩道があり、市民の散策や憩いの場となっています。また、日本画の大家、小林古径の邸宅や、本丸と二に丸を結ぶ極楽橋も復元されています。

≪説明に添えられている図≫

施工箇所

 

絵が中心の案内・説明書

高田城内にあった絵が中心の案内・説明書の紹介です。

松平光長公時代之
高田城繪圖

高田藩の歴史

登城の道のり

登城日:平成30年7月30日

  • ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
  • ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

高田城 まで 簡単に説明

  • 高田駅を出て県道38号線を東へ700m程で川に到着。
  • 川に沿って300m程歩くと小さな橋が有り渡る。
  • 5~60m歩くと左側に小さな道があり、100m程度で大通りに出る、左折。
  • 300m程歩くと歩道橋がある大きな交差点へ、ここを左折。
  • 陸上競技場を右手に見ながら600m程進むと極楽橋に到着。

ストリートビュー:高田城 極楽橋

上地図でストリートビューの撮影ポイント が記された場所のストリートビューです。

ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス

城めぐり 栞