石垣には刻印石も
富山城
富山城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: 縄張りとカメラアングル
- 肆: ここが際立つ
- 伍: 城内で出会った説明板
- 睦: 登城の道のり
富山城 ひとくちメモ
- 所在地
- 富山県 富山市
- 別 名
- 安住城、浮城
- 築城者
- 水越 勝重?
- 別名の由来
- -
- 天守概要
- -
- 城郭構造
- 梯郭式 平城
- 遺 構
- 千歳御門(移築) [ ※ ]、 石垣 [ ※ ]、 堀 [ ※ ] など
- 再建造物
- 模擬天守 [ ※ ]、
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参考になるサイト:
富山城 写真の間
抑えたい処、美しい処
☒ 本丸・西の丸跡
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本丸・西の丸跡
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登城・撮影日の留書き
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富山城 よろず間
富山城 縄張りとカメラアングル
※ 縄張図は城跡にあった富山城案内図を編集して使用しています。
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富山城 ここが際立つ
富山城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介
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鉄御門に入る石垣には五芒星が
富山市埋蔵文化財センターのHP の星形刻印によると"鉄門西石垣の堀角天端石が明治以降の改修でここにに移動したと推測される"とのこと。
また、この鉄門西石垣の堀角にも五芒星の刻印石が2個があり、移動が無ければ全部で3個ということになります。「ここは本丸内の藩主御殿中央からみてちょうど南西方向(未申(裏鬼門の方向))にあたります。初代富山藩主前田利次は、この星形を本丸の南西隅に配置し、「裏鬼門を守る」という特別な役目を持たせたと考えられます。」とのこと。詳しくは富山市埋蔵文化財センターのHPで
「一方、鬼門である北東方向は、搦手石垣の北東角にあたりますが、ここは何度も石垣が崩れ、幕末にはとうとう崩れたまま放置されました」残念!
[ 2019/7/20 ]
富山城で出会った説明板
富山城で出会った案内/説明板の良いとこどりです
※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。
- ♦ 富山市郷土博物館 (富山城)
- ♦ 千歳御門(埋門)
- ♦ 富山城石垣の石材を見てみよう
- ♦ 富山城の石垣について
- ♦ 野面積み
- ♦ 二階櫓門礎石
- ♦ 櫓礎石
- ♦ 記号刻印と墨書「上」
- ♦ 刻印「卍」
- ♦ 刻印「+」
- ♦ 刻印「□」
- ♦ 無題(展示石の配置図)
- ♦ 富山藩第二代藩主 前田正甫像
- ♦ 千歳桜の碑石
- ♦ 絵が中心の案内・説明書
富山市郷土博物館 (富山城)
国登録文化財
富山市郷土博物館 (富山城)
昭和二十九年、富山城址一帯で富山産業大博覧会が開催されました。これは、昭和二十年八月二日未明の空襲によって、壊滅的な被害を受けた富山市街の復興事業完了を機に開催されたものです。その際、記念の恒久建築物として建設されたのが富山市郷土博物館(富山城)です。旧本丸鉄門(くろがねもん)跡の石垣上に建てられた、鉄筋コンクリート造りの建物で、望楼を乗せた三重四階の天守、二重二階の小天守など、城郭の意匠でまとめられています。その外観は、彦根城や犬山城などの現存天守を参考に設計されており、戦後の天守閣建設のさきがけとなりました。博覧会の会期中は「美の殿堂」として各種の展覧会が開催され、最上階の展望台からは富山市街のみならず立山連峰が一望できたため、多くの人で賑わいました。
会期終了後は郷土博物館として活用され、郷土のことを紹介する中心的な博物館であるとともに、中心市街地のランドマークとして広く市民に親しまれています。
平成十五年からは約二年をかけて耐震改修工事を行うとともに、内装を一新し、富山城の歴史を紹介する常設展示が整備されました。
建設から半世紀を経た平成十六年、本建物は富山市のシンボルとして、また戦災復興期を代表する建築物として国の登録文化財として登録されました。
平成二十七年三月
富山県教育委員会
富山市教育委員会
千歳御門(埋門)
市指定文化財(建造物)
千歳御門 (埋門)
富山藩一〇代藩主前田利保が隠居所として造営した千歳御殿(現、桜木町に所在) の正門で、嘉永二年(一八四九) に建築されました。当時は、下図に示すとおり城址大通りの東側に位置していました。
総欅(そうけやき)造りの三間薬医門で、屋根は切妻造本瓦葺、桁行(けたゆき)六メートル、梁間(はりま)一・九メートルになります。同一建築様式の城門は「東大の赤門」として知られる旧加賀屋敷御守殿門(ごしゅでんもん) (国重要文化財・東京都文京区) など数少ないことから、県内はもとより全国的に見ても貴重な江戸時代の城門です。
この門は、明治時代初期に赤祖父家に移されました。その後、富山市が所有者から寄附をうけ、平成十八年から二十年にかけて城址公園内に移築しました。
富山城で唯一現存する千歳御殿の創建当初の建造物です。江戸時代後期の御殿正門の様式や意匠及び技法を知るうえで価値が高く、平成二十年十月二十九日に指定されました。
富山城や千歳御門に関する展示は、郷土博物館で行っています。
平成二十四年十二月 富山市教育委員会
≪説明に添えられている図≫
富山城石垣の石材を見てみよう
富山城石垣の石材を見てみよう
①刻印石
河原石の表面や割った面に記号や漢数字とみられる小型の刻印が彫られています。
②重なった石材
別々に使われといた石材が、偶然ぴったりあいました。
③慶長期石垣の櫓礎石
搦手石垣上から発見されました。慶長期に石垣上に櫓建物が存在したことを示す柱礎石です。
④二階櫓門礎石
二階櫓門は二之丸にあった門で、本丸につながる重要な門でした。(竹多松之助氏寄贈)
≪説明に添えられている図≫
富山城の石垣について
富山城の石垣について
富山城の石垣は、富山を隠居の地とした加賀藩第二代藩主前田利長が慶長一〇年(一六〇五)以降に整備した石垣がはじまりと感がえっられています。その後、江戸時代前期の寛文元年(一六六一)以降に、富山藩初代藩主前田利次が改修し、現在見られる石垣となっています。
富山城は土塁主体の城郭であり、石垣は、城内中枢部を守る鉄門、搦手門、二階櫓門(現存せず)の三ヵ所に築かれていました。現存する石垣は、富山県内の早月川や常願寺川産の玉石などを割って使用したり、あるいはそのままの形の石が「野面積み」技法で積まれています。それらは、石の丸い面を表にむけていることが特徴です。また、石と石の隙間は小石や割石などで埋められており、排水や積石の安定をはかっています。ただし、鉄門の内桝形では、方形に加工した石材を水平に積む「布積み」技法の部分もみられます。また石垣の内部は外側から積石、栗石、土塁の三重構造となっています。
富山城の石垣の特徴として、鉄門内桝形の鏡石をあげることができます。鏡石とは、石垣の石材のなかでも特に巨大な石を指し、設置目的については、城主の権力を見せつけるためなど、いくつかの理由があげられています。富山城の場合、慶長期の整備の際に据えられ、寛文期n改修の際、現状のように配置したと見られています。
富山市教育委員会
≪説明に添えられている図≫
野面積み
野面積み
「野面積み」とは、自然石を石垣とした積み方です。富山城では、河川の玉石の丸い面を残していることが特徴です。石と石の隙間は、小石や割石などで埋められており、排水や積石の安定をはかっています。鉄門の内桝形では、方形に加工した石材を水平に積む「布積み」。の部分もみられ、巨石の雄大さを演出しています。石垣の内部は外側から積石、栗石、土塁の三重構造となっています。鉄門石垣の通路面以外は、明治初め頃大きく積み直されたことが発掘調査からわかりました。
富山市教育委員会
≪説明に添えられている図≫
二階櫓門礎石
二階櫓門礎石
二階櫓門は、二之丸の入口(現在の富山国際会議場前辺り)に建っていました。一階を門、二階を櫓とした櫓門で、最も厳重な形式の城門でした。正面の幅約13.5m、高さが約13.6mありました。この方形の礎石は、扉の両側に建つ本柱の礎石と考えられ、太さ1尺の角柱が復元されます。
櫓礎石
櫓礎石
慶長期(1605年頃)の柱礎石です。8寸(約24cm)角の柱を置くための方形に掘り込み、中央に径10cmの円形のモゾ穴をあけています。
この礎石は、前田利長が築造した慶長期石垣上に櫓というたてものが存在したことを裏付けます。柱の太さは、金沢城五十間長屋の柱より一回り大きなものです。
奥の控え面には「+」の小型刻印があります。
記号刻印と墨書「上」
記号刻印と墨書「上」
河原石の表面に、記号が刻印がノミで浅く掘られています。石面ではない面に刻印があることから、河原で石を選んだときに付けられた目印と考えられます。
またこの石の上面には朱墨で「上」と書かれています。江戸時代に行った石垣修理において、解体時あるいは積直す時に、上にして戻す面を示したものと考えられます。
刻印「卍」
刻印「卍」
河原石の表面に、記号刻印がノミで浅く掘られています。石面ではない面に刻印があることから、河原で石を選んだときに付けた目印の記号と考えられます。
刻印の大きさは横4寸(約12cm) 縦3寸(約9cm) です。
刻印「+」
刻印「+」
河原石表面と割面のそれぞれに、「+」の記号刻印がノミで掘られています。
河原石表面の刻印は河原で石を選んだときに付けられた目印、割面の刻印は石面に面する面を示したものとみられます。
割面の刻印の大きさは横四寸(約12cm) 縦3寸(約9cm) です。
刻印の大きさは3寸角(約9cm) です。
刻印「□」
刻印「□」
河原石の表面に記号刻印がノミで浅く掘られています。石面ではない面に刻印があることから、河原で石を選んだときに付けられた目印の記号と考えられます。
刻印の大きさは横4寸(約12cm) です。
無題
① 本丸石垣石材
平成18・19年度に行った本丸石垣の解体修理で取り換えられた江戸時代の石垣石材です。
②・③ 二之丸二階櫓門石垣・三之丸大手門石垣石材
二之丸西辺にあった二階櫓門石垣と三之丸南辺にあった大手門の石材です。平成20・21年度の調査で地下から発掘されました。
④ 本丸御殿の踏み石
平成21年度に行った本丸北部の発掘調査で見つかりました。初代富山藩主前田利次が寛文元(1661)年に建てた本丸御殿の縁側に置かれた沓脱石か飛び石とみられます。
⑤ 明治時代の県会解議事堂の基礎
明治42年に西之丸に建築され、主に県会解議事堂として使用された木造2階建ての洋風建築物の基礎部分です。昭和10年に大正会館と改称され、図書館も入りましたが空襲により焼失しました。
≪説明に添えられている図≫
富山藩第二代藩主 前田正甫像
富山藩第二代藩主 前田正甫像
━売薬を花開かせたお殿様━
前田正甫 一六四九生~一七〇六没
【 藩主在任:一六七四~一七〇六 】
富山藩第二代藩主。初代藩主である父利次の後をうけ、文武の振興を図り、新田開発や産業育成など、藩政の充実に力を注ぎました。正甫本人は古銭収集家という文化人としての性格も知られています。正甫は富山薬売の基礎を築いた人物としても有名です。それは「反魂丹伝説」という形で語り継がれています。元禄三(一六九〇)年、正甫が参勤交代で江戸城に登城した折、とある大名が激しい腹痛を訴えました。そこで懐中に常備していた「反魂丹」をすすめたところ、たちどころに治りましたその様子を見た諸大名は、「反魂丹」の効能に驚き、自分の領内での販売を求めるようになったため、正甫の命で諸国に行商させたのが富山薬売の始まりであるという伝説です。この伝説により、正甫は「富山売薬を広めたお殿様」として、いまでも市民の間から親しまれているのです。
この正甫像は、昭和二九(一九五四)年に建てられました。原型は佐々木大樹、鋳造は高岡鋳芸社によるもので、台石を合わせて高さ約一〇mに及びます。
富山市
千歳桜の碑石
千歳桜の碑石
江戸時代、富山十代藩主前田利保が藩主の座を題六子利友にゆずったあと嘉永二年(一八四九年)五月二十八日新しく東出丸(現在の桜木町一帯)に千歳御殿を築城した。
利保は千歳御殿に移り、桜を多く植えて風致を添えたので千歳桜といった。
後代、桜が老化したので昭和九年風雅会が三十五周年を記念してこの碑を建て新しく松川の堤に桜の植樹をおこなったので県下でも有数の桜の名所になっている。
松川のまつのちとせをその名にて
つつみのさくらとはにかをらむ
田村直喜
昭和六十年 富山市
絵が中心の案内・説明書
津山城内にあった絵が中心の案内・説明書の紹介です。
登城の道のり
登城日:平成28年11月7日
は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
富山城 まで 簡単に説明
- 駅前から南へ10分程歩くと到着。
ストリートビュー:富山城天守群
(城内も仮想散歩ができます)
上地図で が記された場所のストリートビューです。
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