宇喜多直家の壮年時代活躍の拠点
中国大返しの際、秀吉が足をとめた城
亀山城
亀山城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: 城内で出会った説明板
- 肆: 登城の道のり
亀山城ひとくちメモ
- 所在地
- 岡山県 岡山市
- 築城者
- 中山備中守信正
- 別 名
- 沼城
- 別名の由来
- 亀山城:城の本丸、二の丸のあった弁天山の形が亀に似ているところから
- 天守概要
- -
- 城郭構造
- 平山城
- 遺 構
- 曲輪 など
- 再建造物
- -
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亀山城 簡易年表
- 戦国時代
- 中山備中守信正によって築城
- 1559年
- 宇喜多直家が浦上宗景よりこの城を賜り、新庄山城より移る。以来直家の壮年時代活躍の拠点となった
- 1573年
- 岡山城に移るまでの14年間在城
- 1601年
- 宇喜多氏にかわって岡山城主となった小早川秀秋によって廃城
説明板 亀山城跡 より
参考になるサイト:
亀山城 写真の間
撮影日:2017年5月3日
登城・撮影日の留書き
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亀山城跡 よろず間
城内で出会った説明板
亀山城跡で出会った案内/説明板の良いとこどりです
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- ♦ 亀山城跡
- ♦ 市指定史跡 亀山城跡
- ♦ 亀山城物語
亀山城跡
亀山城跡
亀山城は、城の本丸、二の丸の」あった弁天山の形が亀に似ているところから名づけられた。沼城ともいう。小学校の所在地に西の丸、楢部に出丸があり、これらを総称して亀山城と呼んだ。
戦国時代、中山備中守信正によって築城され、宇喜多直家が永禄二年(一五五九年)浦上宗景よりこの城を賜り、新庄山城より移った。以来直家の壮年時代活躍の拠点となった城跡である。天正元年(一五七三年)岡山城に移るまでの十四年間在城した。
慶長六年(一六〇一年)春、宇喜多氏にかわって岡山城主となった小早川秀秋によって廃城となり、亀山城の中心櫓(天主)は岡山城表書院の段の大納戸櫓に、城門は秀秋の家老稲葉内匠頭本邸の表門に移築された。
亀山城跡保存会
市指定史跡 亀山城跡
市指定史跡 亀山城跡
沼城ともいう。湿田中に島状に並ぶ二つの丘陵に築城された連廓・輪郭式折衷の山城である。城郭遺構が丘陵全体に認められる。宇喜多直家の戦国大名としての成長期の居城で、城郭規模や内容由来が旧備前国内屈指のものである。
平成24年9月に岡山市の史跡に指定された。
平成27年3月
岡山市教育委員会
≪説明に添えられている図≫
亀山城物語
亀山城物語
室町時代の終わりの時代を戦国時代と称し、幕府の統制力が極度に落ち、各地を地盤とした英雄たちが互いに勢力をふるって対立する群雄割拠の様相となった。備前国では天神山城主浦上宗景が守護代として、その配下に亀山城主中山備中守信正、そして東方一里も離れていない新庄山城に宇喜多直家が城を構えていた。永禄二年(一五五九)正月年賀に参上した宇喜多直家は、主君浦上宗景から亀山城主中山備中守に謀反の風聞があるので誅伐せよとの命令を受けた。直家と中山備中守婚姻関係にあるので愕然としたが、実行しなければ自分が抹殺されると覚悟を決め行動に移す。永禄二年春、中山備中守から城内で酒宴を開くからと直家は招待を受けた。千歳一隅の好機と腹を決めた。酒宴も終わりに近づいた頃、城外に待たせておいた家臣と共に城内に乱入しても目的を果たした。直家は主君浦上宗景より亀山城を賜り、新庄山城から居城を移して以来十四年間、直家壮年時代の居城とした。この間永禄十年(一五六七)には備中国の有力武将である三村元親引きいる二万の大軍に五千の兵で勝利した明善寺合戦をはじめ、松田氏の金川城さらには岡山(石山)城を接収して戦国大名に名乗りを上げ直家の出世城となる。
備前国津高郡下戸井村に絶世の美女がいた。名をお福といい、高田城主三村貞勝の未亡人である。永禄九年(一五六六)宇喜多直家の懇願の思いから差し向けられた玉の輿に乗って亀山城に嫁いできた。直家三十八才、お福二十一才である。歳月は六年を経て、元亀三年(一五七二)正月十四日、城中で玉のような男の子が生まれた。直家はその子に自分の幼名(八郎)を与え宇喜多家が八の字のように繁栄することを神に祈った。後の備前美作五十七万四千石の大名、そして豊臣家五大老として破格の出世をするも、関ケ原の戦いでは、乗寡敵せず敗れ、八丈島への流刑となった悲運の武将宇喜多秀家の誕生である。その翌年、天正元年秋、直家父子は攻略した岡山城へ移り住むのである。
天正十年(一五八二)織田信長の命により羽柴秀吉は、一万七千の兵をつれて備中高松城を目指して姫路城を出発し、福岡城を経て、三月十九日に亀山城に到着した。秀吉の家臣をもてなしたのは故直家の弟春家であった。秀吉は亀山城中で、備中高松城の敵状をつぶさに調べ、その攻略に出発したのが四月四日であった。備中高松城水攻めに成功した秀吉は、天下の一大事主君信長の仇を一刻も早く討たねばならない。六月五日高松を出発したものの、梅雨は前線を伴って激しく吹き荒れ、東の大川(吉井川)は氾濫していた。秀吉は天を恨みながら亀山城に足をとめた。東の空に朝日がさしたのは六月八日、秀吉軍の突進が始まる。亀山城から姫路まで十九里をわずか一昼夜で駆け抜けた。鬼神のような進撃である。天正十年六月十三日主君の弔い合戦で勝利した世にいう秀吉の中国大返しの一説でsる。
亀山城跡保存会
≪説明に添えられている図≫
登城の道のり
登城日:平成27年5月3日
- は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
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亀山城 まで 簡単に説明
- 岡山城より車で移動。