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キリシタン大名 高山右近も城主

 

高槻城

高槻城のご案内

高槻城ひとくちメモ

所在地
大阪府 高槻市
築城者
-
別 名
久米路山龍ヶ城
別名の由来
-
天守概要
3重
城郭構造
平城
遺 構
本行寺門[]、 永井神社唐門[] など
再建造物
(模擬)天守台[]、 石垣[] など

《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は Google フォト の写真を示し、クリックで画像を表示。

高槻城 簡易年表

14世紀前半
入江左近将監春則が居城とする
1569年
和田惟政が城主となる
1573年
和田惟政の子惟長と対立した高山飛騨守・右近父子が、和田氏を滅ぼして城主となる
1581年
イタリアの巡察師ヴァリニァーノを迎えて盛大な復活祭を催す
1615年~
内藤・土岐・岡部など譜代大名が城主となる
1649年
永井直清が3万6千石をもって入城、明治時代まで永井氏の藩政が続く

説明板 高槻城跡 より

参考になるサイト:

高槻城 写真の間

撮影日:2017年6月3日

高槻城:石垣

石垣

高槻城:石垣

石垣

高槻城:石垣と高山右近像

石垣と高山右近像

高槻城:高槻城の石垣石

高槻城の石垣石

登城・撮影日の留書き

上に掲載以外の高槻城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。

高槻城:永井神社唐門

永井神社唐門(現地説明会で)
2019年2月2日 撮影

高槻城:石垣と高山右近像

高山右近像(現地説明会で)
2017年6月3日 撮影

高槻城跡 よろず間

高槻城 ここが魅所・おすすめ

私の感じた高槻城の魅力、見所、おすすめなどを紹介

  • 直ぐ近くの永井神社の唐門、少し距離がありますが本行寺の高麗門は遺構といわれています。

    登城の道のり のGoogleマップにはそれぞれの場所を示しています。

    永井神社の唐門

    本行寺の高麗門

    [ 2012/5/20 ]

城内で出会った説明板

高槻城跡で出会った案内/説明板の良いとこどりです

※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。

高槻城跡

高槻城跡

高槻城跡

高槻城が記録に登場するのは、14世紀前半、入江左近将監春則が居城としてからである。

永禄12年(1569)には和田惟政が城主となったが、元亀4年(1573)、その子惟長と対立した高山飛騨守・右近父子が、和田氏を滅ぼして城主となった。キリシタンであった右近は、城内に天主教会堂を建てるなど布教に努め、天正9年(1581)には、イタリアの巡察師ヴァリニァーノを迎えて盛大な復活祭を催している。

その後は豊臣氏、徳川氏の直轄となり、大阪夏の陣(1615)後、内藤・土岐・岡部など譜代大名が城主となった。そして慶安2年(1649)、永井直清が3万6千石をもって入城、明治時代までの13代約230年にわたり、永井氏の藩政が続いた。

明治7年(1874)の鉄道敷設に伴って高槻城は破却され、今では城跡公園となり、市民の憩いの場となっている。昭和50年の調査では、本丸石垣の基礎部分を発掘、今も地中に遺構が眠っていることが明らかになった。本敷地内の石組みは、天守台や本丸御門の基礎石(根石)である。

高槻城跡は、昭和25年5月に府の史跡に指定されている。

昭和63年6月

大阪府教育委員会

高槻市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

八丁松原から城内へ向かう行列を描いた高槻城絵図(奥田氏蔵)

幕末期の高槻城下図

昭和50年の調査で発掘された本丸石垣の基礎

高槻城跡

高槻城跡

高槻城跡

大手、出丸、野見、城内の各町は、明治時代までの約350年間にわたって、高槻城があったところです。

歴代城主のうち、高山右近はキリシタン大名として有名です。右近は広大な濠をめぐらした城を築きあげ、城内には教会堂を建ててキリスト教の布教につとめたといわれています。

今の道路や町割りは、江戸時代の初めにできたものです。城は八丁松原の松並木と調和して名城として称えられました。京大坂に近い城下町は大いににぎわい、漢詩人藤井竹外ら多くの文人学者が育ちました。

城の石は明治の初めに鉄道(JR)建設に使われ、現在、城跡は公園や学校等になっています。

平成11年7月

高槻市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

高槻城下町比定地

高槻と城下

高山右近

高山右近

高山右近

高山右近は、戦国末期の高槻城主、キリシタン大名であり、天文21年(1552)頃、摂津高山(現豊能郡豊能町)で生まれたとされています。

右近と父・高山飛騨守は、元亀4年(1573)主君和田惟政の子惟長と対立し、やがて右近は高槻城主となりました。摂津国を束ねる荒木村重が織田信長から離反した天正6年(1578)、信長はオルガンティーノ司祭を使いとし、右近に降伏をすすめました。降伏しなければ、キリスト教を弾圧するというのです。右近は村重へ子どもや妹を人質にだしており、苦悩の末に開城しました。その後は羽柴(豊臣)秀吉の下、山崎合戦などで功績を挙げました。

天正2年(1574)、右近は高槻城の側に壮麗な教会堂を建て、キリスト教の不況に努めました。宣教師の記録によれば2万5千人の領民の内1万8千人がキリシタンになったといわれていています。

高槻城主として約12年間を過ごした後、右近は播磨船上城(明石市)に移封され、秀吉がバテレン追放令を発した天正15年(1587)には、棄教の命令を拒否し、領地を没収されました。その後、前田利家に仕えることとなり、金沢へ赴きますが、禁教令をだした徳川幕府により、慶長19年(1614)10月に国外追放処分を受けました。マニラに向かった右近は、到着後40日ほどで熱病におかされ、慶長20年(1615)2月3日に亡くなりました。文化人であった右近は、千利休の高弟「利休七哲」の一人、「利休極上一の弟子也」ともうたわれています。

高槻市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

高山右近年譜

高山右近禁制(本山寺文書)

高槻城の石垣石

高槻城の石垣石

高槻城の石垣石

《刻印石》

高槻城は明治維新により廃城となりましたが、石垣石の大半は明治7年(1874)、現在のJR京都線建設のため、橋梁の橋台やアーチに転用されました。

昭和50年(1975)、府立島上高校(現槻の木高校)での発掘調査で、本丸南西隅の石垣基礎が発見され、軟弱地盤での石垣築造を可能にするため、地下約5mの深さに梯子胴木などで強固な基礎を築いたことがわかりました。また、その技術から江戸初期に築造されたことも明らかになりました。ここに展示した石垣石には、石切り場で切り出した際の「矢穴」痕や刻印を見ることができます。

平成25年1月 高槻市教育委員会

発掘調査現地説明会の様子

⚫2017年6月3日に現地説明会が行われました。その時の様子。

「高槻城二の丸跡北辺部の調査」の調査現地説明。見どころは障子堀。その時の様子。

木橋の橋脚

大溝

出土した瓦など

☒ ここに掲載以外の発掘調査説明会の写真は私の Google フォト でご覧いただけます。

☒ 現地説明会資料は 高槻市のホームページ インターネット歴史館 よりPDFファイルで入手できます。PDFの直接リンク

現説公開サイト高槻城二の丸跡 には当日の説明のビデオや更に多くの写真を閲覧できます。

☒ 関連する記事

☒ 大堀はパネルの説明がありました。

戦国時代の大溝

和田惟政期?

戦国時代の大溝

高山右近期?

1617年の公儀改修

不明門築造

江戸時代の内堀

⚫2019年2月2日に現地説明会が行われました。その時の様子。

「高槻城二の丸跡中央部の調査」の調査現地説明。見どころは障子堀。その時の様子。

西日本最古級の障子堀

崩れた石垣

墨書のある石(パネル展示)

☒ ここに掲載以外の発掘調査説明会の写真は私の Google フォト でご覧いただけます。

☒ 現地説明会資料は 高槻市のホームページ インターネット歴史館 よりPDFファイルで入手できます。PDFの直接リンク

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登城の道のり

登城日:平成27年6月3日

  • ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
  • ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

高槻城 まで 簡単に説明

  • 阪急高槻駅から線路沿いに南西に城北通りまで進む。
  • 左折し城北通りを南へ進む。
  • 国道171号線を渡りさらに南へ進む。
  • 突き当りを左折、信号を右折してすぐ。
  • 歩いて10分程の道のり。
  • 周辺はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。

・永井神社、本行寺もマークしています。

ストリートビュー:高槻城

  • 上地図でストリートビューの撮影ポイント が記された場所のストリートビューです。
  • ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

城めぐり 栞