戦前には3重4階の天守が現存
戦後に外観復元
大垣城
大垣城のご案内
大垣城 ひとくちメモ
- 所在地
- 岐阜県 大垣市
- 築城者
- 宮川 安定、竹腰尚綱とも伝わる
- 別 名
- 巨鹿城、麋城
- 別名の由来
- -
- 天守概要
外観復元 (3重4階)
- 城郭構造
- 平城
- 遺 構
- 石垣、曲輪
- 再建造物
- 天守[※]、 乾隅櫓[※]、 艮隅櫓[※]、 門[※]
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大垣城 簡易年表
- 1535頃
- 宮川安定が築城。1500年に竹腰尚綱の創建とも伝わる
- 1600年
- 関ケ原の戦いで石田三成の本拠地となる
- 1625年
- 戸田氏鉄が入城し明治維新まで続く
- 1926年
- 国宝に指定される
- 1945年
- 戦火により焼失
- 1959年
- 天守を外観復元
参考になるサイト:
大垣城 写真の間
撮影日:2016年8月19日
登城・撮影日の留書き
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大垣城 よろず間
撮影場所
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私のお勧め写真スポット
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大垣城 ここが際立つ
大垣城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介
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街中にはこんなものも。
[ 2019/9/15 ]
城内で出会った説明板
大垣城で出会った案内/説明板の良いとこどりです
※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。
大垣市指定史跡 大垣城跡
大垣市指定史跡 大垣城跡
大垣城は、牛屋川を天然の外濠にとりいれた要害堅固な平城で、天文4年(1535)宮川安定によって創建されたと伝えられている。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦では、西軍の本拠となり壮絶な攻防戦が繰り広げられたが、戸田家が入城してからは、歴代藩主と共に天下泰平の世を謳歌した。
先の戦災で惜しくも天守閣を焼失したが、現在城跡一帯は市民の憩いの場として親しまれている。
大垣市教育委員会
大垣城(巨鹿城・麋城)
大垣城(巨鹿城・麋城)
大垣城は天文四年(一五三五)、宮川安定が築城した(明応九年竹腰尚綱の創建とも伝えられる)といわれ、大垣市内を流れる水門川の流れを外堀に利用して築城されました。天守は四層四階建て総塗りごめ様式で、大変優美な城です。
慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦いでは、西軍を率いた石田三成の本拠地となり、その後、寛永十二年(一六三五)、摂津(兵庫県)尼ヶ崎より戸田氏鉄公が入城し、戸田十万石の居城となり、以後明治維新まで続きました。
昭和十一年には国宝に指定されましたが、昭和二十年の戦火で惜しくも焼失してしまいました。その後、昭和三十四年に、外観を昔そのままの容姿で再建され、城下町大垣のシンボルとなっています。
≪説明に添えられている図≫
⚫ 内容は上と同じで、添付の図が異なる説明板もありました。
≪説明に添えられている図≫
大垣城(巨鹿城・麋城)
大垣城(巨鹿城・麋城)
大垣城のはじまり
大垣城の中心地には奈良時代から東大寺領(大井荘)が広がり、室町時代になると大垣氏や西尾氏が代官として支配を強めていました。大垣城の創建は天文四年(一五三五)三月、宮川安定によるもの(明応九年(一五〇〇)竹腰尚綱の創建とも伝えられる)だとされ、当時は濠と土塁を築いただけの砦でした。
大垣城と関ケ原合戦
大垣城は、豊臣秀吉が「かなめの所、大柿の城」と語り、織田信長や秀吉と関わりの深い一門が歴代領主となる等、関ケ原合戦以前から重要視されていました。
石だ三成は、慶長五年(一六〇〇)八月十日大垣城に入り、西軍の本陣としました。当初、東軍・西軍とも大垣城が天下分け目の戦場となると考え、家康は大垣城を水攻めにすることも企てていたといわれます。なお、関ケ原の決戦後、大賀苦情では、一週間の戦いを経て開城しています。
大垣城下の整備
永禄四年(一五六一)、氏家直元(卜全)が城郭を整備し、慶長元年(一五九六)、伊藤祐盛が石垣の上に三階建ての天守を造営しました。慶長十八年(一八一三)には、二の丸石垣等の整備が進むとともに、西は水門川、東は牛屋川を利用した外堀で城下町を包む近世城郭となったのです。
その後も戸田氏の時代に隅櫓や城門が配置され、桝形虎口、馬出し、横矢等、敵襲に備えるつくりが築かれていきました。また、外堀周辺には武家屋敷や町屋、美濃路が計画的に配置されました。
≪説明に添えられている図≫
本丸・天守の変遷 屋根瓦と石垣
本丸・天守の変遷
元和六年(一六二〇)天守は三階建てから四階建てに改築されました。一、二階の床面積は等しく、上層にいくに従って面積が減少する層塔型天守となり、建物の高さは約十八m、石垣は約六・四mで東附多門、西附多門が付設され、本丸を囲む曲輪の要所には二重・三重の隅櫓が並んでいました。いずれも白漆喰総塗りごめ造りでした。
昭和十一年(一九三六)艮隅櫓とともに国宝に指定されますが、昭和二十年(一九四五)七月の空襲で焼失、昭和三十四年(一九五九)天守が再建されました。平成二十二年(二〇一〇)天守と乾隅櫓を戦災前の外観に近づける改修を行いました。
屋根瓦と石垣
戦国期の大垣城天守は、瓦が使用され一部に金箔瓦も使われるなど、当時の政権の影響を敏感に受けていました。また、天守三層南西隅にある鬼瓦は邪鬼を踏みつけて天守を鎮護していて、極めて特異だといわれています。
現在の天守の石垣は、ほとんどが再建時に修復、積み直しされ、一部焼失前の状態をとどめているのみです。石材は、多くが大垣城北側にそびえる赤坂金生山産の石灰岩で、フズリナ、シカマイア、ウミユリなどの化石も見られます。
≪説明に添えられている図≫
再建大垣城 天守鯱瓦
再建大垣城 天守鯱瓦
旧国宝であった大垣城天守と艮隅櫓は、第二次世界大戦末期の昭和20(1945)年7月29日の大垣空襲により、石垣のみを残してすべて焼失しました。
この鯱瓦は昭和34年に、市民の寄附により大垣のシンボルとして再建された大垣城天守の鯱瓦です。天守には雌雄一対の鯱があげられました。これは西の鯱(雄)瓦です。
鯱は、頭が虎で体は魚という想像上の生き物で、水を呼ぶ力があるとされています。そのため、建物を火災から守るために瓦として大棟に設置されました。
この鯱瓦は江戸城や名古屋城のものに近い形ですが、古写真に見える大垣城天守鯱瓦は誇張表現も少なく、素朴な趣をもつものでした。現在の天守鯱瓦は、平成22(2010)年度の改修工事の際に、焼失前の古写真等を参考に新たに復元・製作したものです。
≪説明に添えられている図≫
おあむの松
おあむの松
関ケ原合戦の時「おあむ」は父山田玄暦らと西軍三成勢に属し大垣城にこもっていた。落城不安がつのるある日東軍から矢文が届き「玄暦は家康様手習師匠であったので逃がす」と伝えた。「おあむ」は父母と西堀端の松から堀のたらい舟に乗り移り西岸に上陸無事に逃れた。そののちその松を誰言うともなく「おあむの松」と愛称した。
昭和の大戦直前枯れたが植え継ぎ青年の樹とし「二代おあむの松」と命名した。
明治29年(1896)7月・9月の風水害
明治29年(1896)7月・9月の風水害
明治29年の水害は大垣を中心とした輪中地域における最大の、そして最後の大水害であった。
この年の7月19日より22日にかけて大垣では降水量378ミリとなり各河川は増水して、21日に揖斐川にて今福が破堤し続いて水門川など46箇所で破堤して大水害となった。この災害復旧中の9月6日に台風が襲来して暴風雨となり、再び各河川で破堤して大風水害となった。9月の大垣の浸水は7月より約1メートル高く大垣町の約80パーセントの家々が屋根まで達する軒上浸水となった。
この大垣城石垣に刻まれたのがその水位であり、この惨状を後世に伝えるため大垣の金森吉次郎が私財を投じて建てたのが、この洪水碑である。
大垣城 天守 諸々
天守にCGで復元された大垣城の画像がありました。
CGで復元された大垣城
天守にCGで復元された大垣城の画像がありました。
大垣城改修工事
改修工事の際の様子や資料が展示されていました。
大垣城改修工事
昭和34年再建の大垣城と昭和42年再建の乾隅櫓は、屋根瓦や外壁の老朽化が進行したため平成21・22年の2年にわたり改修工事を行いました。
工事では古写真等の検討を行い、瓦の大きさ・文様・鯱瓦の形状などを忠実に再現し、窓の形状も変更するなどし、戦災焼失前(国宝時)の天守の姿に近づけました。
また、外観に関する資料のない乾隅櫓についても、史実性の高いものとなるように瓦の文様などを変更しました。
改修工事の様子
天守 鯱瓦
乾隅櫓 鯱瓦
軒丸瓦
懸魚
鬼瓦・邪鬼瓦
天守の外観
大垣城改修工事
戦後再建された天守の外観には、焼失前(国宝時)と異なる部分が幾つかありました。
今回の改修では、可能な範囲で焼失前外観への復元を試みています。四層の窓の大きさや破風の飾りの有無などを見比べて下さい。
登城の道のり
登城日:平成28年8月19日
- は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
- ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
大垣城 まで 簡単に説明
- 駅を出て南へ500mほど進む。右側に大垣城の案内板がありました。
- 右折、天守が見えます。
- 50mで門に到着
- 歩いて10分程の道のり。
- 周辺はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。
ストリートビュー:大垣城
- 上地図で が記された場所のストリートビューです。
- ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス