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天守台や多くの石垣が残る

国指定史跡

松坂城

松坂城

松坂城 ひとくちメモ

所在地
三重県 松阪市
別 名
-
築城者
蒲生 氏郷
別名の由来
-
天守概要
三重の天守 ?、現在は天守台が残る。
城郭構造
梯郭式平山城
遺 構
石垣 []、 御城番屋敷 土蔵 [] 御城番 長屋 [] 井戸 [] など

《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。

松坂城 簡易年表

城内にあった 説明板 を参考に整理・まとめをしました。

1588年
蒲生氏郷が四五百森に築城
1590年
蒲生氏郷が陸奥黒川へ移封
1591年
服部一忠が城主となる
1595年
古田重勝が城主となる
1619年
徳川頼宣が和歌山藩主となると同時に和歌山藩領となり、明治になるまで城代が置れる
1644年
台風で天守は倒壊したと伝えられている
1794年
御殿(別名 徳川陣屋)を着工される
1881年
松坂公園となり、現在に至る

参考になるサイト:

松坂城 写真の間

抑えたい処、美しい処

☒ 表門 ⇒ 本丸石垣 ⇒ 本丸 ⇒ 裏門 の順に

☒ 周辺から

表門⇒本丸石垣⇒本丸⇒裏門 の順に

松坂城:表門前より二ノ丸方面の石垣

(1)
表門前より二ノ丸方面の石垣

松坂城:月見櫓下の石垣

(2)
月見櫓下の石垣

松坂城:井戸

(3)
井戸
井戸

松坂城:きたい丸 隅櫓の石垣

(4)
きたい丸 隅櫓の石垣

松坂城:敵見櫓の石垣、修理の跡は少し痛々しい

(5)
敵見櫓の石垣
修理の跡は少し痛々しい

松坂城:天守台

(6)
天守台

松坂城:本丸を出て中御門へ

(7)
本丸を出て中御門へ

松坂城:二ノ丸より裏門方面

(8)
二ノ丸より裏門方面

周辺から

松坂城:二ノ丸 南隅の石垣

(9)
二ノ丸 南隅の石垣

松坂城:御城番屋敷 土蔵

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御城番屋敷 土蔵
御城番屋敷 土蔵

松坂城:御城番長屋の内部

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御城番長屋の内部
御城番長屋

松坂城:武家長屋より二ノ丸の石垣

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武家長屋より二ノ丸の石垣

登城・撮影日の留書き

上に掲載以外の松坂城城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。

**城:*~*小さいながらも威風堂々、2013年11月9日

石垣の美しさは抜群
2013年11月9日 撮影

松坂城 よろず間

松坂城 縄張りとカメラアングル

※ 縄張図は城跡にあった 説明板 を編集して使用しています。

※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。

※ 数字は上の写真の番号に対応。

解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。

松坂城 縄張図とカメラアングル

本丸上段

本丸下段

きたい丸

隠居丸

二ノ丸

遠見櫓

藤見櫓

鐘ノ櫓

敵見櫓

付櫓

金ノ間櫓

月見櫓

太鼓櫓

表門

助左衛門御門

土戸御門

中衛門

土戸御門

裏門

天守台

井戸

本居宣長旧宅

土蔵

長屋

方向指示

松坂城で出会った説明板

松坂城で出会った案内/説明板の良いとこどりです

※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。

国史跡 松坂城跡

国史跡 松坂城跡

国史跡 松坂城跡

指定 平成二十三年二月七日

面積 四七、三三七・三〇平方メートル

松坂城は蒲生氏郷が天正十六年(一五八八)のこの四五百森に築城した平山城である。

蒲生氏郷が陸奥黒川(現在の福島県会津若松市)へ移封後、天正十九年(一五九一)に服部一忠、文禄四年(一五九五)に古田重勝と城主が変わり、元和五年(一六一九)に徳川頼宣が和歌山藩主となると同時に和歌山藩領となり、以降、明治になるまで勢州領(松坂・田丸・白子等)十八万石を統轄する城代が置かれてきた。

城は北を大手、南を搦手ととし、本丸・二ノ丸・三ノ丸・隠居丸・きたい丸からなり、本丸・二ノ丸等には高い石垣を築き、外郭に土塁や堀をめぐらせていた。

三層の天守と金ノ間・月見・太鼓等の櫓がそびえ立っていたが、正保元年(一六四四)の台風で天守は倒壊したと伝えられている。また、二ノ丸には寛政六年(一七九四)に着工された御殿(別名 徳川陣屋)があった。

明治四年(一八八一)松坂公園となり、現在に至っている。

平成二十四年三月九日 松阪市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

城跡案内図

蒲生氏郷公と松阪

蒲生氏郷公と松阪

蒲生氏郷公と松阪

わが松阪の近世都市としての形成は氏郷公の松阪城構築によってはじまる 天正十二年六月 二十九歳の若さで松ヶ島城主となった氏郷公はここ四五百森一帯の地の利に着目し築城を進め天正十六年八月入城 この町を「松坂」と命名し楽市楽座 街道の整備 商人の誘致など生新で画期的な政策をもって松阪発展の基礎を固めた

近江日野からこの地に赴任し わずか数年で会津若松に転封となったが この間の傑出した城下町の経営は 江戸時代に至り見事に開花し商都松阪として結実をみた。

文武に通じ 経世にすぐれた氏郷公は また歌を能くし 茶道は千利休七哲のひとりとして高名であり 戦国屈指の名将であった。

昭和五十三年秋   撰文 松阪市長  青 田 逸 郎

御城番屋敷 土蔵

御城番屋敷 土蔵

御城番屋敷 土蔵

《御城番屋敷 土蔵》

  県指定有形文化財 平成十五年三月十七日 指定

  時代 江戸時代末期

平屋建、桁行一二間半、梁行三間、切妻作造、桟瓦葺、南面及び西面は土庇桟瓦葺の建物である。

外回りは、背面と東側面、正面の土庇上部では壁面を下見板で覆い、その他は漆喰塗り仕上げの白壁である。

内部は、西から桁行四間、六間半、三間に三分割され、それぞれ戸口が開かれ、中央と東の区画では二層に床が張られている。

構造は、棟通りの柱で地棟を受け、地棟に登梁を架けて屋根を支え、棟通りの柱から桁行、梁行の対応する柱に繁梁を渡すものである。

この土蔵は、江戸時代末期に松坂城内の隠居丸に建てられていた三棟の土蔵(米蔵一、道具蔵二)のうちの米蔵で、明治初期に苗秀社に払い下げられて現在地に移築されたと言われている。このことが事実ならば、九松坂城関係の建物としては、唯一の現存する建物となる。

なお、土蔵の西側には、紀州藩の初代藩主徳川頼宣(南龍公)を祀った南龍神社がある。

二〇〇九年三月一〇日   松阪市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

御城番屋敷 土蔵

旧松坂御城番長屋

旧松坂御城番長屋

旧松坂御城番長屋

《旧松坂御城番長屋》

  東棟・西棟

  国指定重要文化財 平成十六年十二月十日 指定

  御城番屋敷 土蔵

  県指定有形文化財 平成十五年三月十七日 指定

  時代 江戸時代

この長屋建物は、松坂御城番、四十石取りの紀州藩士二十人の組屋敷として、文久三年(一八六三)に建築された。

主屋二棟(東棟・西棟)・前庭・畑・南龍神社・土蔵からなり、周囲に槇垣を巡らしている。

当初二十戸であったが、明治三十五年、松阪工業高校創立時、西棟の北端二戸が仮教室として使用された後、一戸が切り詰められ現在の東棟十戸、西棟九戸の形になった。一戸あたり、正面五間、裏に一間も角屋が付く広さをもち、右手に通り土間、左手に田の字型に八畳間二間、六畳間を配置し、式台を構える。

また、東棟側の北端にある土蔵は、もとは松坂城内で米蔵として使用されていたものを、明治期に払い下げをうけて、現在の箇所に移築されたものである。

建物は、明治期に関係者によって設立された合資会社苗秀社によって維持管理され、その体制は今日まで続けられ、建築当時の雰囲気が維持されている。

このようにして維持管理され、今なおその子孫を含むおおくの人々が日常生活を送っている建物は、全国的に例のないものである。

なお、松阪市では西棟の、一戸分を苗秀社より借用し、復元整備を行った上、平成二年四月より一般公開を行っている。

二〇〇九年三月一〇日   松阪市教育委員会

井戸

井戸

井戸

江戸時代に描かれた城絵図では、城郭内に数か所の井戸を確認できるが、この井戸は□□世期中葉に描かれた「勢州松坂城図」にある最古に属する井戸である。

公園内には、この井戸のほか、本丸上段部と隠居丸庭園内の三か所に江戸時代以来の井戸が現存する。

平成六年三月

松阪市教育委員会

[ 注 ] □□は潰れて読めないが 一八 か? 国立国会図書館デジタルコレクション - 勢州松坂〔城図〕の 書誌情報 には 出版年月日〔江戸中期-末期〕とある。ただ、城図の文字が草書体(?)で読めず確認はとれていません。

松阪城捨石状遺構

松阪城捨石状遺構

松阪城捨石状遺構

松阪市では、平成14年度松阪城石垣修復事業として、裏門と本居宣長記念館の間にある「隠居まる」と呼ばれる部分の石垣南半分を修復しました。

その石垣取り外し作業の途中で、石垣の一番下の基底石付近で、江戸時代の石垣修復の跡が見つかりました。この隠居丸付近は、地盤が脆弱なので石垣の孕みが激しく、今回の修復となったのですが、松阪城から本居宣長ノ宮にかけての場所は、丘陵としてはやせた場所といえます。そのため、今回修復の石垣の地盤は、比較的弱い盛土のようで、地盤がゆるく基礎石付近の石が最大0.5mほど外に飛び出していました。それらの石を応急的に抑える石(捨石)が今回発見されたものと思われます。石垣の修復については、隠居丸付近の記録もあり、それらの修復に伴うものと推定されます。

三之丸の中は、T字・カギ型・袋小路の道で複雑に区画され、藩士たちの屋敷とともに藩主の菩提寺である浄安寺、藩の祈祷所福壽院、下台所・御勘定所・御倉・牢屋などが配置されていました。

石垣を押さえる石は、現在の表土から約0.2m下から見つかり、板状の石の組み合わせで捨石が置かれ見つかりました。この捨石状遺構の幅は0.8mから1.0m、長さ約19mほどで、石垣が孕んだ部分にのみ見られました。捨石状遺構の例については、三重県下では現在のところ確認されていない珍しいものです。

松阪市建設部都市計画課

松阪市教育委員会文化課

≪説明に添えられている図≫

基礎石、捨石状遺構

登城の道のり

登城日:平成25年11月9日

ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。

ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

松坂城 まで 簡単に説明

  • 松阪駅(近鉄・JRの共同使用駅)で近鉄側改札口から出る。
  • 駅前の道を西へ進み、県道60号との交差点で北上する。
  • 県道24号との交差点に達するので左折し西に進むと表門に到着。石垣が目に入る。
  • 周辺はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。

ストリートビュー:二ノ丸の南東の隅石

上地図でストリートビューの撮影ポイント が記された場所のストリートビューです。

ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス

城めぐり 栞