国の史跡
岡城
岡城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: 縄張りとカメラアングル
- 肆: 城内にあった説明板
- 伍: 登城の道のり
岡城 ひとくちメモ
- 所在地
- 大分県 竹田市
- 別 名
- 臥牛城 豊後竹田城
- 築城者
- 緒方 惟栄
- 別名の由来
- 城の外観が牛の臥せたる如きによる 【 城跡にあった説明板 に因る 】
- 天守概要
- ?
- 城郭構造
- 梯郭式 山城
- 遺 構
- 石垣 [ ※ ]、
- 再建造物
- 中川覚左衛門屋敷 (再建ではありませんが間取り等が復元されています) [ ※ ] など
《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。
岡城 簡易年表
城内にあった 説明板 を参考に整理・まとめをしました。
- 1185年
- 緒方三郎惟栄が、源頼朝と仲違いをしていた弟義経を迎えるため築城したと伝えられる。
- 1334年
- 志賀貞朝は、後醍醐天皇の命令をうけ、岡城を修理して北朝と戦ったとされるが、
- 1369年
- 志賀氏の直入郡への進出は、1369から後で、その城はきむれの城、のちに岡城に移る。
- 1587年
- 18歳の志賀親次は豊薩戦争で島津の大軍から岡城を守り、豊臣秀吉から感状を与えられた。
- 1593年
- 豊後大友義統が領地を没収されると、同時に志賀親次も城を去ることになった。
- 1594年
- 播磨国三木城(兵庫県)から中川秀成が総勢四千人余で入部。
- 1597年
- 本丸完成
- 1662年
- 西の丸御殿がつくられ、城の中心部分とされていった。
- 1874年
- 城の建物は大分県による入札・払い下げですべてが取りこわされた。
- 1901年
- 滝廉太郎が中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表。
参考になるサイト:
岡城 写真の間
抑えたい処、美しい処
☒ 総役所跡 ⇒ 大手門 ⇒ 本丸 ⇒ 御廟跡 ⇒ 下原門 の順に
☒ 西の丸
総役所跡⇒大手門⇒本丸⇒下原門
西の丸
登城・撮影日の留書き
上に掲載以外の岡城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。
岡城 よろず間
岡城 縄張りとカメラアングル
※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。
※ 数字は上の写真の番号に対応。
※ 縄張図は城跡にあった岡城案内図、竹田市ガイドを編集して使用しています。
解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。
岡城 城内で出会った説明板
岡城で出会った案内/説明板の良いとこどりです
※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。
岡城の造営と修築
岡城の造営と修築
史跡岡城跡は、大野川の支流である稲葉川を北に、白滝川を南に臨む、標高三百二十五メートルの阿蘇溶結凝灰岩で形成された台地の上に築かれている。両河川は台地の先端部で合流し、天然の濠の役目を果たし、河川の内側は切り立った断崖絶壁になって、深い谷に取り囲まれている。
現存する岡城跡は、文禄三年(1594)中川氏が播州(兵庫県)三木から入部して普請されたものである。城の造営は、初代藩主中川秀成により始められ、天神山を本丸とし、以前の大手」であった下原口を搦手に、西南側に大手口を、北西側に新たに近戸口を切り開き、三つの門が出入り口となった。城の曲輪は、東から御廟の曲輪、東西の中仕切の間に本丸・二の丸・三の丸の曲輪、さらに西側に西の丸の曲輪が設けられた。
西の丸は寛文四年(1664)に、三代藩主中川久清により隠居所として、御殿の普請が完成している。
石垣の普請は、石垣職人として有名な穴太衆と思われる「穴太伊豆」が大阪から呼び寄せられ工事にあたっている。その後、度重なる地震や風水害により城内各所が破損し、その都度石垣の修理が行われ、積み直した跡が今も見ることができる。
明和八年(1771)には城下町より出火した火が城内に移り、西の丸をはじめ、本丸・二の丸・三の丸・御廟・下原まで類焼し、岡城内のほとんどの曲輪が焼失した。再建は、火災以前の殿舎の構成を基本的には踏襲して行われた。現在史跡内には、主要曲輪だけでなく近世城郭における郭建物(武家屋敷・宗教的建物)が残されている。
岡城は、石高約七万石の藩であるが、豊な自然の中に広大な城が築かれ、現存する雄大な石垣は、堅固な城であったことを窺い知ることができる。
≪説明に添えられている図≫
国指定史跡 岡城跡
国指定史跡 岡城跡
指定年月日 昭和十一年十二月十六日
指定理由
岡城跡は、明治維新後荒廃し、樹木が鬱蒼卯としていたが、昭和六円より一部を公園として公開し、藩政当時の盛観を偲ばせ、公衆行楽の諸施設を施している。
さらに、展望は飽きることなく、北は北九州アルプスの連峰、西は東洋第一の阿蘇の噴煙を眺め、南は祖母の高峯一帯の大森林を一望の裡に収め、実に天下絶景の地である。
説明事項
城の外観が牛の臥せたる如きにより別名「臥牛城」という。
築城伝説 - 文治元年(一一八五)豊後武士団棟梁であった、緒方三郎惟栄が築城。
建武年中(一三三三~一三三八)志賀貞朝から十七代、二百六十年間志賀氏の居城。
戦 歴 - 天正十四年(一五八六)城主志賀親次は、島津義弘率いる薩郡と激しく交戦して最後まで死守し、岡城が堅城として名声を天下に示した。
現存城郭 - 文禄三年(一五九四)中川秀成が入部してから十三代、二百七十七年間中川氏の居城。
注意事項
一、 石垣・石段等の遺構を毀損しないこと。
一、 許可なく工作物の建設を行わないこと。
一、 濫りに竹木の植栽及び伐採を行わないこと。
一、 許可なく動植物を捕獲・採取・殺傷・又は損傷しないこと。
一、 立入禁止区域及び危険箇所に立ち入らないこと。
一、 濫りに現状変更を行わないこと。
(説明文は指定申請書を現代文に改め、抜粋復刻したものである。)
国指定史跡 岡城跡
国指定史跡 岡城跡
岡城は、文治元年(1185)大野郡緒方荘の武将緒方三郎惟栄が、源頼朝と仲違いをしていた弟義経を迎えるため築城したと伝えられるが(註1)、惟栄は大物浦(兵庫県)を出航しようとして捕らえられ、翌年上野国(群馬県)沼田荘に流された。
建武のころ豊後国守護大友氏の分家で大野荘志賀村南方に住む志賀貞朝は、後醍醐天皇の命令をうけ、岡城を修理して北朝と戦ったとされるが、志賀氏の直入郡への進出は、南北朝なかばの応安二年(1369)から後で(註2)、その城はきむれの城であった。のちに志賀氏の居城は岡城に移った。
天正十四年(1586)から翌年の豊薩戦争では島津の大軍が岡城をおそい、わずか十八歳の志賀親次(親善)は城を守り、よく戦って豊臣秀吉から感状を与えられた。しかし、文禄二年(1593)豊後大友義統が領地を没収されると、同時に志賀親次も城を去ることになった。
文禄三年(1594)二月、播磨国三木城(兵庫県)から中川秀成が総勢四千人余で入部。築城にあたり志賀氏の館を仮の住居とし(註3)、急ぎ近世城郭の形をととのえ、本丸は、慶長元年(1597)に完成、寛文三年(1662)には西の丸御殿がつくられ、城の中心部分とされていった(註3)。
明治二年(1869)版籍奉還後の四年(1871)には十四代・二二七年続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住し、城の建物は七年(1874)大分県による入札・払い下げですべてが取りこわされた。
滝廉太郎は、少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、明治三十四年(1901)に中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表している。
- 註1
- 『豊後国志』巻六 直入郡の項による。但し当時、惟栄は京都に滞在していた可能性が極めて高い(『源平の雄 緒方三郎惟栄』)
- 註2
- 『豊後国志』巻六 直入郡の項による。但し志賀氏の直入郡進出は、応安二年直入郡代官職・検断職を預けられた以降で、天文二十一年ころは大友氏加判衆(老職)をも勤めていた。(『竹田市史』上巻)
- 註3
- 『中川史料集』に「滋賀湖左衛門親次が旧居に御住居」とあり、戦国時代の城郭を基礎として近世城郭の整備・城下の町割り(竹田町の建設)などをおこなった。
- 註4
- 岡城は山城的殿舎(御廟)、平山城的殿舎(本丸・二の丸・三の丸)、平山城的殿舎(西に丸)で構成され、これらが一体となっているぉとは近世城郭史上特異な城である。
- 註5
- 明治七年二月十九日付『大分県布告書』で、(県内五城の建造物)岡城は六十九棟が入札に付されている。
平成十年三月
竹田市教育委員会
≪説明に添えられている図≫
大手門跡
大手門跡
大手門は、城の正面に位置する門で追手門と本来いう。追手とは、敵を追いつめる方向にあるという意味で、籠城のとき敵を正面に追いつめて戦闘を集中させるのが目的であった。
岡城の大手門は、文禄三年(1594)中川氏入部後、大手・近戸・下原の三口を切り開かれ、慶長八年(1613)に朝日がまぶしいため古大手門から現在の位置に移された。さらに、宝永三年(1706)に建て直しを行っている
大手門には、侍番が置かれ城中への出入りにはからりの注意が払われていた。
≪説明に添えられている図≫
下原御門
下原御門
ここは、かって下原御門のあった所です。中川氏が入城した文禄3年までは、十川が城下町でここ下原御門が正門でした。その後加藤清正公の指示により正門(大手門)を西側の現在地に移したと言われています。
九州自然歩道・環境庁・大分県
中川覚左衛門屋敷跡
中川覚左衛門屋敷跡
岡藩家老中川覚左衛門家は、茶道織部流の祖、吉田織部正重勝の子孫です。覚左衛門家は、藩主中川家に代々仕え、中川の姓を賜り、延享二年(1745)にこの屋敷地に移りました。
吉田家の記録には「ここは、字を奥近戸と言い、東南が開けて前に深い谷がある。竹林が繁り、西北には松の木があり、東西北には岩がそびえて、ここは険しい城のなかでも特に険しい所である。敷地には広く二千三百石取りの家老屋敷にふさわしい所である」といっています。
また、歴代の藩主は、城内外に屋敷を持つ家老・城代宅などへ立寄することが慣例で、覚左衛門屋敷には文化八年(1811)、安政四年(1857)・五年の三度の訪問が確認されています。
覚左衛門屋敷跡は、平成五(1993)~七年まで発掘調査を実施し、玄関部に向かう飛石列、屋敷の範囲を表す礎石、東石、狭間石等が確認されました。さらに、敷地内の様子や屋敷の間取りが詳細に記された絵図があります。整備は、その図と検出された遺構を基に、間取り等の復元を行いました。
復元は、畳の面まで床立ちさせ、柱、床東の足元、土台は光付け加工、その他の継手、仕口、仕上げ等は古来の技法によって加工しています。また、使用した材料の木材は、耐久性・寸法安定性の高い保存処理をしています。畳は、板を張り合わせて畳大に成形し、板畳の縁を黒色塗料で表現しました。
≪説明に添えられている図≫
絵が中心の案内・説明書
岡城跡内にあった絵が中心の「たけだ城下町散歩の案内図」、「現在地を示す案内図」案内図の紹介です。
登城の道のり
登城日:平成25年6月3日
は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
岡城 まで 簡単に説明
- 前日は別府泊。翌日、朝から大分経由・豊肥線で豊後竹田駅へ。
- 昨年(2012年)の九州北部豪雨で一部不通(バスが代行運行)ですが大分~豊後竹田駅は電車で行けました。
- 上のGoogleの地図では若干わかりにくいのですが、駅の観光案内でもらった地図は分かり易く便利。
- 歩30分ほどで駐車場に到着。登城料は300円、登城手形のしおりと岡城説明の巻物が頂けます。
- 電車の本数が少ないので電車で行かれる場合は時間に注意を!!。
ストリートビュー:岡城 下原御門跡
上地図で が記された場所のストリートビューです。
ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス