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細川忠興・ガラシャ夫妻ゆかりの城

勝龍寺城

勝龍寺城のご案内

勝龍寺城 ひとくちメモ

所在地
京都府 長岡京市
別 名
小竜寺城
築城者
細川 頼春
別名の由来
天守概要
城郭構造
梯郭式平城
遺 構
土塁 []、 堀 [] など
再建造物
[]、石垣 など

《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。

勝龍寺城 簡易年表

城内にあった案内・説明板 を参考に整理・まとめをしました。

1339年
細川頼春が築城。
1571年
細川藤孝(幽斎)が二重の堀と土塁をもつ城に改修。
1582年
山崎合戦で明智光秀が城に入り、羽柴秀吉(豊臣秀吉)との戦いに敗れ、落城。
1992年
勝竜寺公園として整備。

参考になるサイト:

勝龍寺城 写真の間

抑えたい処、美しい処

勝龍寺城:模擬櫓と虎口跡

(1)
模擬櫓(管理棟)と虎口跡

勝龍寺城:虎口の高麗門

(2)
虎口の高麗門

勝龍寺城:細川忠興と玉(ガラシャ)の像

(3)
細川忠興と玉(ガラシャ)の像

勝龍寺城:北門跡

(4)
北門跡
北門跡の説明

勝龍寺城:北側の堀と四阿(あずまや)

(5)
北側の堀と
四阿(あずまや)

勝龍寺城:沼田丸跡

(6)
沼田丸跡
沼田丸跡の説明

勝龍寺城:四阿(あずまや)

(7)
四阿(あずまや)

勝龍寺城:東側の堀と四阿(あずまや)

(8)
東側の堀と四阿(あずまや)

登城・撮影日の留書き

上に掲載以外の勝龍寺城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。

勝龍寺城:真っ赤なつつじが咲き誇る

真っ赤なつつじが咲き誇る
2013年4月22日 撮影

勝龍寺城 よろず間

勝龍寺城 城内で出会った説明板

勝龍寺城で出会った案内/説明板の良いとこどりです

※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。

勝龍寺城跡

勝龍寺城跡

勝龍寺城跡

所在地 勝竜寺・東神足二丁目地内

時 代 南北朝時代~安土桃山時代

勝龍寺城は、南北朝時代に京都へ進出する南朝方に備えて細川頼春が暦応二年(1339)に築いたといわれる。

城は京都西南部に位置し、西国街道と久我畷を同時に押えうる交通の要所に築かれている。

応仁・文明の乱(1467~1477)では、守護畠山義成就(西軍)の乙訓地域の拠点となった。戦国時代になると、織田信長からこの城を与えられた細川藤孝(幽斎)が元亀二年(1571)に二重の堀と土塁をもつ立派な城に改修した。天正一〇年(1582)の山崎合戦では、明智光秀が城に入り、羽柴秀吉(豊臣秀吉)との戦いに敗れ、落城した。

ところで、この城は明智光秀の娘玉(細川ガラシャ夫人)が一六歳で藤孝の子忠興(一六歳)のもとに嫁いだところで、歴史とロマンを秘めた城としても全国に知られている。

城の中心部には本丸と沼田丸があり、その周囲に堀をめぐらしていた。北東の神足神社付近には、城の北方を守るためにつくられた土塁跡や空堀跡が残されている。

この城跡は勝竜寺公園として整備され、平成四年春に市民の憩いの場としてよみがえった。これに先立つ発掘調査で、藤孝が改修した時代の石垣や多聞櫓が発見されるなど数多くの成果が得られた。その結果、勝竜寺城が鉄砲の時代に対応した先駆的な築城技術を用いた城で、石垣で築く近世の城に移る間際のものとして、わが国の城郭史上でも貴重なものであることが明らかにされた。

 平成四年三月長岡京市

本丸跡

本丸跡

本丸跡

城の心臓部にあたる本丸は、東西約一〇五メートル、南北約七〇メートルで、その周囲には水を湛えた幅広い堀が造られ、その内側に高く土を盛り上げた土塁を巡らしている。

堀は深さ約三メートルで、幅が一五メートルを越え、土塁の裾には石垣が築かれていた。土塁は高さ四~五メートルで四方を取り囲んでいた。しかも、最も高く築いた西辺の土塁は、四角い形をした本丸の南側に張り出していた。これは南門から攻め入ろうとする敵をこの高い土塁から攻撃する目的があったと考えられる。

土塁南辺の中央に推定される南門の位置では、杭列や大きな石垣が見つかった。北西隅からは石垣で築いた北門が、北東隅では土塁に登る階段が、東辺の土塁の上では長屋風の建物(多聞櫓)の土台である石垣などが発見された。

本丸内では、西半分で南北方向の堀や石で蓋された溝などが、東半分で井戸二基や礎石建物三棟が見つかった。堀は幅約四メートル、深さ約二メートルで、井戸はいずれも深さ約二メートル、直径〇・九メートルの石組みのものであった。。

 平成四年三月長岡京市

≪説明に添えられている図≫

本丸と沼田丸(南から)

細川藤孝居城時の城(復元、南から)

復元された勝龍寺城の総構(北から)

石垣が発見された南辺の堀
(西から)

石垣が発見された南辺の堀(東南西から)

東辺土塁と多聞櫓

東辺土塁と多聞櫓

東辺土塁と多聞櫓

本丸の東辺に築かれた土塁上の平坦面で、二列の石垣が見つかった。この幅四メートルの間に北東隅の建物(隅櫓)とつながった長屋風の建物(櫓)があったと考えられる。このような構造の建物は多聞櫓と呼ばれ、中には弓矢や槍、鉄砲、火薬などの武器が納められ、城外の敵を攻撃できるようになっていた。

また、土塁の斜面にはテラス状の平坦面をつくり、井戸を設けていた。

 平成四年三月長岡京市

≪説明に添えられている図≫

土塁西斜面から発見された
石垣と井戸(西から)

城内からみた土塁の様子

井戸跡 (本丸)

井戸跡 (本丸)

井戸跡 (本丸)

 城にとって最も大切な井戸は、本丸から四か所で発掘された。そのうち、この井戸を含め三か所が細川藤孝による城の改修時のものであった。

&井戸は直径〇.九メートル、深さ2メートルで、底に太い木を井桁に組み、その上に石を積み上げた立派なもので、発掘調査中にもこんこんと水が湧いていた。石には土塁の石垣にも使われた石仏や五輪塔などが含まれていた。

&井戸の周囲には、溝や石組みの水溜めが造られ、当時の生活の一部を知ることができた。

& 平成四年三月長岡京市

≪説明に添えられている図≫

井戸の当時の姿(東から)

土器が山となって捨てられていた溝(西から)

北門跡

北門跡

北門跡

 本丸の北西隅から北の出入口が見つかった。この出入口を囲む土塁は高さ二メートル以上の石垣があり、立派な門が建てられていた。

 城内に入るには、堀を渡って第一の門をくぐり四角い形の広場に出る。突き当たりを左に折れ、第二の門を通り、やっと城内に入れる。これは攻め入る敵を土塁の上から攻撃し、簡単に城内に入れない構造になっていた。

 この門から山崎合戦に敗れた明智光秀が逃げ出したといわれる。

  平成四年三月長岡京市

≪説明に添えられている図≫

北西隅で発見された北門跡
(東から)

城内からみた北門

沼田丸への通路

沼田丸への通路

沼田丸への通路

西辺土塁も中央部で、土塁の頂上にある平坦面を深さ一.五メートル掘りくぼめ、土塁が南北に分断されていた。この土塁斜面を発掘調査したところ、斜面は階段状に掘られ、二か所で段差が見つかり、多量に石が埋まっていた。

このことから、土塁の斜面に石を使って階段をつくり、土塁の頂上までのぼり、沼田丸へ渡ったものとみられる。

また、西辺土塁の南端で人頭大の大きな石や小石が見つかった。これらは土塁上にあった隅櫓などの建物に使われたとみられる。

 平成四年三月長岡京市

≪説明に添えられている図≫

石敷が残る土塁斜面(東から)

本丸からみた沼田丸への通路

沼田丸跡

沼田丸跡

沼田丸跡

本丸の南に接する沼田丸は東西約五〇メートル、南北約六五メートルの長方形で、周囲に土塁が築かれていた。さらに堀が外側をとりまいていた。

堀は、昭和三〇年代まで水を湛えていた西南部のものに加えて、発掘調査によって北辺と東辺にも堀があることが明らかにされた。新たに確認された堀は、いずれも幅約五メートル、深さ約二メートルのもので、石垣のない素掘りのものだった。北辺の堀内からは大きな石が二か所でまとまって発見された。これらはこの堀の北側にあったと想定される沼田屋敷などに通じる橋などの施設に使われていたと思われる。

本丸と沼田丸の間には、両側を堀に挟まれた幅約五メートルの南北に細長い区画(帯曲輪)が見つかった。これは本丸を守るための設備であろう。

また、沼田丸内の発掘調査では、本丸と同じ構造をもつ井戸が見つかった。ところで、「沼田丸」の名は細川藤孝の妻麝香の旧姓にちなんだもので、沼田氏に与えられた屋敷があったところといわれる。

 平成四年三月長岡京市

≪説明に添えられている図≫

沼田丸の北を限る堀(東から)

北へ延びる帯曲輪(南から)

北辺の堀と帯曲輪

北辺の堀と帯曲輪

北辺の堀と帯曲輪

この堀は沼田丸の来たを区画するもので、幅約五メートル、深さ約二メートルで、石垣のない素掘りのものである。堀は東端で曲がり、北方に延びる。堀の中から大きな石がまとまって出ており、堀の北方に想定される沼田屋敷へ通じる橋などがあったと思われる。

本丸と沼田丸の間には、両側を堀に挟まれた南北に細長い区画(帯曲輪)が見つかった。ここには本丸へ通ずる橋が架けられていたとみられる。

この門から山崎合戦に敗れた明智光秀が逃げ出したといわれる。

 平成四年三月長岡京市

≪説明に添えられている図≫

沼田丸の北を画する堀(南東から)

沼田丸からみた本丸への通路

登城の道のり

登城日:平成25年4月22日

ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。

ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

勝龍寺城 まで 簡単に説明

  • JR長岡京、または阪急の長岡天神からのほうがかなり近いのですが京阪淀より歩きました。
  • 京阪淀からでも3Km、歩いても45分程度です。
  • 淀駅を出てどんどん西へ向かいます。
  • 桂川を渡り、名神高速の下をくぐりもう少しそのまま進むと小畑川に架かる橋に到着。
  • 川沿いに500m程北上すると橋があります。橋を渡って少し歩くと黒い塀が見えてきます。
  • 周辺はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。

ストリートビュー:模擬櫓と虎口の高麗門

上地図でストリートビューの撮影ポイント が記された場所のストリートビューです。

ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス

城めぐり 栞