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天守台は残るが天守はなし

 

津城

津城のご案内

津城 ひとくちメモ

所在地
三重県 津市
別 名
安濃津(あのつ)城
築城者
細野藤敦
別名の由来
 
天守概要
現在は天守台が残るのみ。かっては織田信包により天正5(1577)年に5重の天守と小天守が上げられたといわれています。
城郭構造
輪郭式平城
遺 構
入徳門 []、 石垣 []、 堀 [] など
再建造物
模擬隅櫓 [] など

《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。

津城 簡易年表

城内にあった案内・説明板 を参考に整理・まとめをしました。

1580年
織田信長の弟の信包によって築城。
1595年
富田氏が城主となる。
1600年
関ヶ原の戦いの前哨戦で西軍の攻撃を受け、戦火にあい、荒廃。
1608年
藤堂高虎が四国伊予の今治(愛媛県)から移封。
1611年
藤堂高虎がが大規模な改修を行う。

参考になるサイト:

津城 写真の間

抑えたい処、美しい処

☒ 堀の周囲から

☒ 本丸

堀の周囲から

津城:西之丸 玉櫓跡の石垣と内堀 堀と石垣の間には犬走り

(1)
西之丸 玉櫓跡の石垣と内堀
堀と石垣の間には犬走り

津城:西之丸の石垣と内堀

(2)
西之丸の石垣と内堀

津城:本丸と西之丸 石垣と内堀

(3)
本丸と西之丸 石垣と内堀

津城:北多門櫓跡の石垣

(4)
北多門櫓跡の石垣
北多聞櫓の説明

本丸

津城:於・西之丸 入徳門

(5)
於・西之丸 入徳門
入徳門の説明

津城:西鉄門跡

(6)
西鉄門跡
西鉄門虎口の説明

津城:東鉄門跡の模擬三重櫓

(7)
東鉄門跡の模擬三重櫓
東鉄門枡形の説明

津城:埋門跡

(8)
埋門跡

登城・撮影日の留書き

上に掲載以外の津城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。

津城:真夏にぶらりと寄る、堀には蓮

真夏にぶらりと寄る、堀には蓮
2012年9月16日 撮影

津城 よろず間

津城 縄張りとカメラアングル

※ 縄張図は津城にあった案内図(現在の町と江戸時代の津城) を使用しています。

※ 現在残る堀を薄い水色で示しています。

※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。

※ 数字は上の写真の番号に対応。

解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。

津城 縄張図とカメラアングル

本丸

西の丸

東の丸

二の丸

埋門跡

天守台

内堀

外堀

方向指示

津城で出会った案内/説明板

津城で出会った案内/説明板の良いとこどりです

※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。

津城跡

津城跡

三重県指定史跡所有者 津 市

津城跡安土桃山時代 平成17年3月25日指定

津城は、織田信長の弟の信包によって築城された。天正8年(1580)に五層の天守閣が完成し、それまで柳山あたりにあった町屋が移されて城下町が作られた。その後、富田氏が城主となり、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの前哨戦で西軍の攻撃を受け、津の町は戦火にあい、荒廃した。

慶長13年(1608)に藤堂高虎が伊予今治から移ってくると、本丸の北側を広げて石垣を高くして、両端に櫓を新築したり内堀・外堀とも整備したりするなど大改修を加えた。そして、城を中心に北・西・南に武家屋敷を、東には町屋を置き、町外れを通っていた伊勢街銅道を城下町に引き入れ、町の発展に努めた。

また、城下町の東の端に堀川を掘り、船を入れて商業発展に利用するとともに、城下の外側を守りとした。また、堀川の外側には寺院を配置し、万一の場合の防御の最前線とした。西側の武家屋敷の西一帯は湿田で、ここに町屋を建てることを禁止し、万一の場合と火災に備えた。

①【本 丸】

石垣が切れたところには埋門と呼ばれる門があった。周囲には丑寅三重櫓をはじめ5つの櫓があって、多聞櫓と呼ばれる渡り廊下のようなものでつながれていた。

②【西之丸】

現在は日本庭園になっているが、昔は番所や倉庫があった。南西には玉櫓と外郭から入ると鍵の手に曲がった所に2階の櫓門があった。本丸との境には西の鉄門があり、土橋でつながっていた。

③【東之丸】

現在は商工会議所や公園になっているが、かつては小さな宮さんがあったといわれている。

④【内 堀】

本丸、西之丸、東之丸を取り囲んでいたが、順次埋め立てられて現在は本丸と西之丸の周りに残っているのみである。

⑤【二之丸】

内堀と外堀に囲まれたところで、重臣の屋敷や藩政の中心機関があった。また周囲には12の小さい櫓が築かれ、北(京口御門)・西(伊賀口御門)・南(中島口御門)に門が設けられていた。

文政3年(1820)には、藩校有造館(現在のNTT西日本三重支店付近)がおかれた。日本庭園の中に有造館の入徳門(市指定史跡)が移築されている。

⑥【外 堀】

城の内と外を区切る堀で、岩田川から水を取り入れていたため潮の干満で水面が上下した。現在はすべて埋められている。

津市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

現在の町と江戸時代の津城

入徳門

入徳門

津市指定史跡

《入徳門》

入徳門

文政三年(1820)、第十代藩主藤堂高兌は藩士やその子弟を教育するための藩校として有造館を創設した。その中心である講堂の正門が、この門である。

入徳門の名前は「大学は諸学徳に入る門なり」という言葉からきているといわれ、徳に入るの門として作法は厳格であった。

明治四年(1871)、有造館は廃校となったが、その後創設された小学校第一校、師範学校、津中学校、三重女学校兼附属幼稚園、入徳幼稚園の正門として使われた。昭和二十年(1945)の戦災時には奇跡的に類焼は免れた。戦後は当地にあった県立図書館の正門となるも、昭和四十二年(1967)の同館移築により、この門のみ残された、この間、入徳門は何回も場所を移り、昭和四十六年(1971)現在地に建てられたが老朽化がはげしくなり、昭和六十一年(1986)より昭和六十二年(1987)にかけて保存修理工事(解体復原)を実施したものである。

 昭和四十三年一月二十日指定

津市教育委員会

津城跡

津城跡

三重県指定史跡所有者 津 市

平成17年3月25日指定

津城跡安土桃山時代

津城は、織田信長の弟の信包によって築城された。信包は信長が伊勢へ勢力を伸ばしてきたとき、長野氏の養子に入ったものである。天正8年(1580)には五層の天守閣が完成し、当時柳山付近が中心であった津の町から町屋や寺院が移され城下町が作られた。その後、富田氏が城主となり、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いのとき西軍の攻撃を受け、城・城下町とも戦火を受けた。

慶長13年(1608)、藤堂高虎が伊予今治から移ってくると、城に大改修を加え城下町を整備した。本丸を広げ、石垣を高くし北側の石垣に角櫓を築き、堀も整備したが、天守閣は再建されなかった。津城は典型的な平城で、堀が「回」の字形に二重に巡っている輪郭式または囲郭式といわれる形の城である。

城下町は、城を中心に北・西・南側に武家屋敷、東側に町屋が置かれた。町はずれを通っていた伊勢街道を城下に引き入れ、町の発展を図った。また、堀川を掘り、東側の守りとしたが、物質の運搬にも利用され商業の発展に役立てられた。さらに堀川の外側には寺院を配置し、万一の場合に備えた。

追記のための仕切り線

 右半分には2つ上の「津城跡」と同じように 【本 丸】、【西之丸】、【東之丸】、【内 堀】、【二之丸】、【外 堀】 の記述もあります。【本 丸】以外はほぼ同じ内容なので「本丸」分のみ書き下ろしました。また、古写真もありましたので抜き出し、少し画像処理をしました。

丑寅三重櫓と戌亥三重櫓 (明治時代の初めごろ)

【本 丸】

城の中で最も重要なところであるが、現在は洋風庭園になっている。南西隅の石垣が1段高くなったところに5層の天守閣があった。また天守台のやや東、石垣が切れたところには埋門があった。周囲には丑寅三重櫓をはじめ5つの櫓があって、多聞櫓でつながっていた。

≪説明に添えられている図≫

江戸時代終わりごろの津城の様子

津城と城下町

東鉄門枡形

東鉄門枡形

東鉄門枡形

《東鉄門枡形》

津城本丸の東側に位置する虎口で、外門の東黒門、内側の東鉄門からなる枡形であった。両門の間で通路は右に折れ、周囲には多聞櫓を巡らせた厳重な構造であった。東黒門は上部を透かしとした門扉をもつ高麗門であり、東鉄門は鉄板張の門扉をもつ櫓門であった。それぞれの門内に番所を設けて通行人を監視していた。

※ 下の方に「復元 平面図」、「東鉄門 復元 立面図(南面)」が描かれています。

≪説明に添えられている図≫

復元 平面図

復元 立面図(南面)

西鉄門虎口

西鉄門虎口

西鉄門虎口

《西鉄門虎口》

西の丸から本丸に至る入口で、土塁と枡形を組み合わせた虎口であった。枡形は外門の西黒門、内門の西鉄門からなり、西黒門の脇には二重の伊賀櫓を上げ、周囲には多聞櫓を巡らせた厳重な構造であった。土橋は両側に土塀を掛けた特異なもので、外側に桜門を設けることで、二重の枡形を構成していた。

※ 右下の方に「西鉄門」、「西黒門」、「伊賀櫓」、「桜門」の位置を示す図面が描かれています。

≪説明に添えられている図≫

西鉄門虎口

北多聞櫓

北多聞櫓

北多聞櫓

《北多聞櫓》

津城本丸の北側を守備する多聞櫓である。東側に丑寅櫓、西側に戌亥櫓を接続し、桁行(長さ)約四十七間半、梁間(幅)三間という長大なものであった。内部は三間ごと十六室に区画され、有事の際は防御の拠点となるほか、平時は物質の貯蔵に供されていたと考えられる。津城は同様の多聞櫓で本丸のほぼ全周が囲まれており、連続的且つ堅固な防御体制であった。

※ 下の方に「復元 立面図(北面)」、「復元 平面図」が描かれています。

≪説明に添えられている図≫

復元 立面図(北面)と平面図

石碑

津城は、戦国時代天正八年ごろ、織田信長の弟の信包によって築かれ、慶長十三年藤堂高虎が移封されて、外堀と内堀を造り、本丸と西の丸の周囲は石垣を築き、すみやぐらを建て、西南のすみには天守台を設けるなどして、新築同様の大改築を加え本格的な城が構築された。

明治維新廃藩置県の際とりこわしの運命にあい、本丸跡、西の丸跡などのみがなごりをとどめた。

第二次大戦により津市街が大戦災をうけたので、この戦災復興記念として、高山神社を南西に遷座、その跡を公園となし、ゆかしいお城公園を完成した。

このゆい緒ある公園は、戦災で大きないたでを受けた津市民の、よいいこいの場となり、ながく市の名所として、光彩をはなつことであろう。

登城の道のり

登城日:平成24年9月15日

ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。

ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

津城まで 簡単に説明

  • 津駅からでも2.5Km程度、歩30~45分程度と思われますが今回は時間の関係で近鉄・津新町駅まで電車で
  • 近鉄・津新町駅を出ると踏み切りが見えてきます。
  • 踏み切りを渡り東へ500mほど、適当に北へ500mほど、城跡の雰囲気が漂ってきて津城跡へ。

ストリートビュー:津城 堀と石垣

上地図でストリートビューの撮影ポイント が記された場所のストリートビューです。

ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス

城めぐり 栞