(第5回)


説教日:1997年8月24日
説教題:主を拝み、主にのみ仕えなさい(1)
聖書箇所:マタイの福音書4章1節〜11節

 マタイの福音書4章1節−11節には、イエス・キリストが、荒野において悪魔からお受けになった、三つの試みが記されています。その第三の試みは、

今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

というものです。(1) 
 悪魔は、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と言って、「この世のすべての国々とその栄華」は自分のものであると主張しています。ルカの福音書4章6節には、悪魔が、「この世のすべての国々とその栄華」について、「それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。」と言ったことが記されています。
 では、本当に、「この世」のことは悪魔に任されているのでしょうか。


 言うまでもなく、この世界のすべてを治めておられる方は、この世界をお造りになった神御自身です。 具体的には、父なる神さまが、御子によってすべてのものをお造りになり、御子によってすべてのものを治めておられます。

万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
(コロサイ人への手紙1章16節、17節)

 
このように、この造られた世界の真の支配者は、永遠の神の御子であるイエス・キリストです。
 その一方で、御言葉は、悪魔が「この世」を支配していることを示しています。たとえば、ヨハネの福音書12章31節、14章30節、16章11節では、悪魔のことが、「この世を支配する者」と呼ばれていますし、コリント人への手紙第二4章4節では「この世の神」と呼ばれています。さらに、ヨハネの手紙第一5章19節では、「全世界は悪い者の支配下にある」と言われています。
 しかし、これは、「この世」の実状を述べているだけであって、決して、神である主が「この世」を悪魔の手に委ねておられる、ということを意味してはいません。
 かつて日本は、朝鮮半島、満州、東南アジアの国々を占領し、支配していました。それは、あってはならない占領であり支配でした。「全世界は悪い者の支配下にある」というのも、これと同じです。この悪魔の支配は、本来、あってはならない支配です。悪魔は、いわば「不法占拠者」なのです。「不法占拠者」は真の支配者ではありません。

 ではなぜ、この世界の真の支配者であられる主は、悪魔の「不法占拠」をそのままにしておられるのでしょう。
 そのことについては、すでに、いろいろな機会にお話ししましたので、簡単に言いますと、神である主は、いつでも悪魔をさばいて滅ぼすことがおできになります。しかし、そうしますと、罪によって悪魔と一つになっている人間も、ともに滅ぼされることになります。
 これに対して、主は、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いによって、御自身の民を悪魔の支配下から贖い出してくださることを通して、悪魔をさばくことをよしとされました。   このことをあらかじめ示しているのが、強大な帝国であったエジプトをさばき、奴隷の民であったイスラエルを贖い出してくださった主の御業です。
 出エジプトの出来事によってあらかじめ示されていた贖いの御業を最終的に成就してくださるイエス・キリストは、御自身の十字架の死により、罪の贖いを成し遂げることによって、罪を通して人を支配している悪魔の支配権を挫いてしまわれました。

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
(ヘブル人への手紙2章14節、15節)

 私たちは、御子イエス・キリストの贖いの恵みによって、悪魔が罪の力によって支配する「この世」から、御子が贖いの恵みをもって治めてくださる御国へと移されています。

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。
(コロサイ人への手紙1章13節、14節)

 
ですから、私たちは、この御子の御国の民として、悪魔との「霊的な戦い」を戦っています。この戦いは霊的な戦いですから、武力、富の力、数の力などの、血肉の力による戦いではありません。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
(エペソ人への手紙六章一二節)

 この戦いは、ただ、御子イエス・キリストの贖いの恵みと福音の御言葉の真理によってのみ勝利することができる戦いです。黙示録12章11節では、次のように言われています。

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼[悪魔]に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

 また、この霊的な戦いは、先ほどの言葉を用いますと、悪魔が「不法占拠」して造り出した「この世」のただ中にあって、御子の贖いの恵みの支配による御国をあかしし、その御国を回復するための戦いです。
 ですから、罪の贖いを成し遂げて栄光を受けられたイエス・キリストから委ねられている、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。
(マタイの福音書二八章一八節〜二〇節)

という「大宣教命令」の遂行は、霊的戦いの中心です。そして、この贖いの恵みに包まれて造り主である神さまを礼拝することを中心とする、私たちの歩みは、「この世」のただ中に御子の御国が回復していることのあかしです。

 次に、霊的な戦いの根底にある、「この世」の秩序と神の御国の秩序の違いについてお話ししましょう。
 悪魔も、元々は、神の御手によって造られた、非常に優れた(霊的な)存在でした。それが、自分に与えられた力の大きさに目がくらんで、自分が神と同じものであるかのように高ぶり、神に対抗して立つほどになりました。(2) 
 もちろん、神は無限の栄光の主です。悪魔は一介の被造物であって、その力も被造物としての限界の中にあります。ですから、造り主である神さまの支えなしには、自分の存在を維持することさえできません。
 悪魔が、そのような現実の自分の姿を見失ってしまったのは、造り主である神さまに対して高ぶったからです。そのようにして、神の御前に堕落した悪魔は、その高ぶりによって動かされています。その悪魔にとっては、神に敵対することが、存在の目的になってしまっています。
 人間も、創世記3章5節に記されていますように、「神のようになれる」という誘惑者の声に聞き従って罪を犯しました。人間の場合も、罪の根は造り主である神さまに対する高ぶりです。この、神に対する高ぶりを根とする罪によって、人間は悪魔と結びついてしまいました。
 人間も、神に対して高ぶり、自分を神の位置に置こうとする強い傾向をもっています。それは、自分を中心に据えて、すべてを(神をも)自分のために動かそうとするもので、普通、私たちが考えているさまざまな欲望よりも深いところにあって、罪の下にある人間を根底から動かしているるものです。御言葉は、それを「肉」と呼んでいます。
 この「肉」に動かされている人間が生み出す世界を「この世」と呼びます。悪魔は、このようにして生み出された「この世」を、造り主である神さまに敵対するという目的をもって、支配しているのです。
 ですから、「この世」には、神をも自分のために動かそうとする特性をもった宗教が、さまざまな形で存在しています。その中には、キリスト教的な形を取るものもあります。   私たちが、この「肉」に動かされて、自分を中心に据えて、すべてを自分のために動かそうとして生きて行くなら、社会的な身分がクリスチャンであるといっても、結局は、「この世」の一部を形成することになります。それは、霊的な戦いの敗北を意味しています。

 悪魔が「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と言って差し出しているのは、このような特性をもっている「この世」です。悪魔がその支配者であるのは、悪魔が大きな力を持っているからですが、それだけではありません。それ以上に、悪魔が、神の御前に高ぶり、自らを神の位置に置こうとする「この世」の特性を、完全な形で体現しているからです。
 「この世のすべての国々とその栄華」には、このような罪の影があります。従って、この世の秩序体系と栄華は、権力者が、神の御前に高ぶり、自らを神の位置に置こうとする方向に築かれてきました。それが、その当時のローマ帝国の行く先にある「皇帝崇拝」に現われています。
 この世の権力者が、自らを「神」として、自分に対する崇拝と、自分への絶対的な服従を要求することは、悪魔が「この世を支配する者」として振る舞っていることを体現することに他なりません。
 ですから、人間が、自分をすべてのものの上に立てて、自ら神のようになろうとすることは、ただ、悪魔の後に従うだけのことでしかありません。自らを神のようにしようとする試みが成功すればするほど、神にではなく、悪魔に近い者になってしまう他はありません。
 神に近づく道は、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いによって、自分を神の位置に据えようとする特性をもった罪の力から解放されて、造り主である神さまを神としてあがめ、礼拝する者となることです。

 自分をすべてのものの上に立てて、自ら神のようになろうとする「自己神格化」は、「この世」の国家そのものや、国家の権力者において起こるだけではありません。「肉」によって根底から動かされている「この世」の権力構造の、どの部分においても起こりうることです。
 その大規模な現われは、たとえば、バベルにおけるニムロデの帝国(創世記10章8節、9節、11章1節−9節)や、その当時のローマ帝国のように、世界制覇の野望に動かされた権力です。人間の社会に見られる、このように大規模な国家単位の自己神格化の流れは、今日まで絶えることなく流れています。私たちは、この国の中にそのようなものが、かつてあったというだけではなく、今も、そのようなものの芽があることを感じさせられています。
 しかし、このような自己神格化は、国家的な規模においてだけでなく、普段の人間関係においても起こっていることです。人を自分の思う通りに従わせようとして、さまざまな形での物理的な圧力、あるいは巧妙な心理的な操作を使うとき、すでにそれは始まっています。
 社会的な権威を委ねられている立場の人が、その力を利用して、その権威の下にある人々を支配しようとすることは、当たり前のように行なわれています。
 また、私たち日本人は、社会的にどのような立場にある人も、「被害者意識」をもっているようです。(3)そのような被害者意識によって、自分の意に添わない人を「加害者」に仕立て上げてしまうことも、珍しくはありません。それも、その「加害者」に仕立てた人々を自分の思うように動かそうとする心理的な操作の一つです。
 人間の罪の本質的な特性は、自己中心性です。このような罪の性質を宿している私たちは、現われる形はどうであれ、自分を中心に据え、人を自分の思い通りに動かそうとする傾向をもっています。この傾向によって支配されると、私たちは、悪魔を頂点とし、自己神格化を特徴とする、「この世」という権力構造に組み込まれてしまいます。
 ですから、もし私たちが、「肉」の思いに駆られて、そのようなものをキリストのからだである教会に持ち込んでしまいますと、私たちを通して、キリストのからだの中に「この世」が侵入し、侵食してくることになります。パウロは、そのような事態に対して警告して、

もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。
(ガラテヤ人への手紙五章一五節)

と戒めています。

 御子イエス・キリストは、御自身の十字架の血による罪の贖いをもって、私たちを「この世」から御自身の御国へと移してくださいました。それは、自分を中心に据え、人を自分の思い通りに動かそうとすることが根本的な特徴である、「肉」の思いと「この世」の権力構造から、私たちを解き放ってくださって、御子の御国の秩序の中に移してくださったということを意味しています。
 その、御子の御国の秩序がどのようなものであるかは、すでに、皆さんがよくご存知です。それは御国の王であるイエス・キリスト御自身の言葉に示されています。

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
(マルコの福音書10章42節−45節)

 御子の御国の秩序は、地上においてだけでなく天においても、「みなのしもべ」となって「みなに仕える」ことを目的とした秩序です。悪魔が「自己神格化」という罪の本質の完全な体現者として「この世」を支配しているのに対して、神の御国の王であるイエス・キリストは、「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを」お与えになることによって、御国の秩序を完全な形で体現しておられます。
 この主の教えに一致して、パウロも、

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
(ガラテヤ人への手紙5章13節−16節)

と戒めています。「愛をもって互いに仕え」ることは、御霊が福音の真理の御言葉によって私たちのうちに生み出してくださる、神の子どもの「自由」の特性です。この「自由」をもって生きることが、霊的な戦いにおいて、「この世」のただ中に御子の御国を回復することの出発点です。この出発点に立たなければ、霊的な戦いは始まりません。
 ですから、この戒めを根拠にして、他の人が自分に仕えているかどうかを問題にして、「互いにかみ合ったり、食い合ったりし」始めるなら、私たちは、直ちに「この世」の侵入と侵食を許すことになります。
 言うまでもなく、この戒めは、「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを」お与えになったイエス・キリストを主としてあがめる者として、自分が「愛をもって ・・・・ 仕え」るようになるための戒めです。
 この戒めに従うときに、御霊が贖いの恵みを私たちに当てはめて、私たちを「肉の欲望」から解放してくださり、イエス・キリストに倣って「愛をもって互いに仕え」ることができるように導いてくださいます。 ── 御霊の実は、何よりもまず「愛」です(ガラテヤ人への手紙5章22節)。
 御霊は、そのように歩む私たちをとおして、キリストのからだである教会を形成してくださる形で、「この世」のただ中に御子の御国を回復してくださいます。
                     

(1) これについては、これが物理的に起こったのか、それとも、幻の中で起こったのかということが問題になってきました。
 ある人々は、幻の中で起こったことが、本当の誘惑になるはずがないと考えて、悪魔とイエス・キリストが、物理的に、「非常に高い山」に登ったのであると主張します。
 しかし、いくら「非常に高い山」といっても、そこから「この世のすべての国々とその栄華を」見ることができるような山は、現実には存在していませんし、山が高くなればなるほど、下にある世界の様子は見えなくなってしまいます。
 さらに、これと同じことを記しているルカの福音書4章5節では、「またたくまに世界の国々を全部見せて」と言われています。この「またたくまに ・・・・ 見せて」という言葉は、それが幻によることであることを思わせます。
 幻の中で起こったことには現実性がないという主張は、必ずしも、この場合には当てはまりません。
 幻の中で起こったことがきわめて現実的な意味をもっていたことを示す例としては、幻の中で、自分がいたバビロニヤからエルサレムに移されて、エルサレムの腐敗の現実を示された、エゼキエルの経験があります。これについては、エゼキエル書8章−11章に記されています。(本文に戻る)

(2) 聖書の中には、このことに対する直接的な言及はありません。悪魔が被造物であり、善いものとして造られていた(創世記1章31節参照)のに、神に対して罪を犯して堕落したことも、教理的に(御言葉の教え全体の調和から)確定できます。その上で、イザヤ書14章12節−14節のバビロンの王や、エゼキエル書28章12節−17節のツロの王の堕落の描写が、悪魔の堕落を写し出していると考えられます。(本文に戻る)
(3) 丸山真男『日本の思想』(岩波新書)141−144頁。(本文に戻る)


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