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(第6回)
説教日:1997年8月31日 |
マタイの福音書4章1節〜11節に記されている、荒野でイエス・キリストがお受けになった悪魔からの試みのうち、三番目に記されているのは、8節〜10節の、 《使命との関わりで》 この荒野においてばかりでなく、地上におけるイエス・キリストの生涯を通じて、悪魔は、イエス・キリストがメシヤとして神の御国を来たらせる使命をお果たしになることを妨げようとして、イエス・キリストを誘惑しています。 私たちも、この世にある間、神の子どもとして、神である主から委ねられた使命を負っています。 その使命は、イエス・キリストの十字架の死とよみがえりによる罪の贖いによって生み出された「キリストのからだである教会」を建て上げることをとおして、神の御国が私たちの間に実現していることを、現わしあかしすることです。悪魔は、私たちがその使命を果たすことがないようにと誘惑するのです。 十字架の上での死によって罪の贖いを成し遂げて、栄光のうちによみがえられたイエス・キリストは、弟子たちに、 平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。 (ヨハネの福音書20章21節) と言われました。この主の召しは、私たちにまで受け継がれてきています。 私たちが、罪の贖いにあずかって神の子どもとされた後もなおこの世に留まっているのは、主イエス・キリストから委ねられている使命を果たすために遣わされているからです。この使命を果たすことを離れては、この世における神の子どもとしての歩みの意味はなくなってしまいます。 パウロも、次のように述べています。 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。 (ピリピ人への手紙1章21節〜24節) このように、私たちは、私たちの主イエス・キリストから委ねられた使命を果たすためにこの世に遣わされています。これに対して、悪魔は、私たちがイエス・キリストから委ねられている使命を果たすことがないようにと、さまざまな試みと誘惑に会わせます。 ですから、私たちは、常に「御国が来ますように。」と祈る一方で、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」と祈ります。また、次のような、イエス・キリストの執り成しの祈りに包まれています。 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。 (ヨハネの福音書17章15節〜18節) このように見ますと、イエス・キリストが、メシヤとしてのお働きを始められるに当たって、荒野で悪魔からの試みに会われたことと、私たちがこの世でさまざまな形で誘惑と試みに会うことには、関係があることが分かります。それは、神である主から委ねられている、神の御国に関わる使命を遂行することを妨げようとして働く、悪魔の試みと誘惑を受けるということです。ですから、ここには、イエス・キリストをかしらとする「神の御国」と悪魔をかしらとする「この世の国」の霊的な衝突と戦いがあります。 先週お話ししたことに合わせて言いますと、私たち主の民は、罪の力を通して働く悪魔によって歪められてしまっている「この世のすべての国々とその栄華」を、イエス・キリストの贖いの恵みを通して、造り主である神さまのみこころに沿った本来の姿に回復することを目的として、地上の歩みを続けています。それによって、今ここで、私たちの間に、贖いの恵みに基づく「神のの御国」が実現するようになるためです。その神の御国の具体的な現われが、「キリストのからだである教会」です。悪魔は、この実現を妨げようとして、また、すでに現われているキリストのからだである教会を破壊しようとして働いています。それが、私たちに対する誘惑と試みとなるのです。 《主が引用された御言葉》 さて、悪魔は、イエス・キリストに「この世のすべての国々とその栄華を見せて」、 もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。 と言いました。 これに対して、イエス・キリストは、 引き下がれ、サタン。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。」と書いてある。 とお答えになりました。 ここでイエス・キリストは、申命記6章13節を引用しておられます。申命記6章10節〜13節では、 あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。 と言われています。 申命記には、出エジプトの時代に荒野で育った「第二世代」の者たちが、カナンの地に侵入するに当たって与えられた戒めが記されています。 イスラエルの民は、神である主に向かって罪を犯し続け、40年の間、荒野をさまよい続けた、いわば「放牧民」でした。これに対して、カナンの地には、すでに、定着した民族がいて、都市を築き文化を発展させていました。 あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑 という主の言葉は、荒野をさまよう放牧民であったイスラエルの民がカナンの地に侵入する時に、カナンの地の発達した文化に驚嘆し、それに引き付けられるようになる様を述べています。いわば、イスラエルの民が「この世のすべての国々とその栄華を見せ」られるわけです。 《カナンの地への侵入の意味》 ご存知のように、イスラエルの民がカナンの地に侵入することは、来たるべきメシヤであるイエス・キリストによる救いを指し示す「ひな型」としての意味をもっている出来事でした。これには、二つのことが示されています。 一つは、「あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、」という言葉が示していますように、主がご自分の民を約束の地へと導き入れてくださることです。約束の地とは、一言で言いますと、神である主のご臨在があり、主との交わりを中心とした主の民の歩みがなされる地のことです。 もう一つは、メシヤによる救いの御業の消極的な面です。創世記15節13節〜16節には、イスラエルの民がカナンの地に侵入することについて、主がアブラハムに語られた言葉が記されています。 あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。 「それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」という言葉は、イスラエルの民がカナンの地に侵入することが、その地の民の罪に対するさばきとしての意味をもっていることを示しています。 これは、いろいろな機会にお話ししましたように、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 (創世記3章15節) という「最初の福音」が、「蛇」の背後にいる悪魔に対するさばきの宣言であることと符合しています。その「最初の福音」では、私たちは、神である主が悪魔をさばかれるための「器」として用いられることによって救われるという、私たちの救いにとって最も大切な意味を示していました。 イスラエルの民がカナンの地に侵入することは、彼らが「エモリ人の咎」をさばかれる神である主のさばきの器として用いられていることを意味しています。 《カナンの地の文化》 先ほども触れました、 あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑 という神である主の言葉は、約束の地であるカナンが豊かな地であり、そこに都市を中心とする、発達した文化が築かれていることを示しています。 その地に注がれているさまざまな祝福は、この世界をお造りになった神である主の恵みによる賜物です。肥沃な土地も、そこに稔る豊かな実も、さらには、定着した文化を築くための人間の才能も、すべて、造り主である神さまの賜物です。 ところが、罪によってその心が造り主である神さまから離れてしまっている人間は、神の豊かな賜物に囲まれており、それによってすべてを支えていただいているのに、そのすべてを、自分たちが考えだしたさまざまな「偶像」によって与えられたものであるとして、造り主である神さまに返すべきすべての栄誉を偶像に返していたのです。 形は違っても、このようなことは、罪によってその心が造り主である神さまから離れてしまっている人々の間では、いつの時代でも、また、どのような文化の中ででも起こっています。私たちの住んでいる国も例外ではありません。 私たちの住んでいるこの国は、さまざまな形で、造り主である神さまからの賜物を与えられています。それによって、物質的な繁栄を享受しています。しかし、これらの賜物のゆえに、かえって、他の国々にたいして高ぶり、造り主である神さまへの恐れも失っています。その結果、 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。 ・・・・ 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。 (ローマ人への手紙1章21節〜23節、29節〜30節) という、当時のローマ帝国の繁栄の影に現われた腐敗を記す御言葉がそのまま当てはまる状況になってしまいました。この意味で、この繁栄は、悪魔がイエス・キリストに見せた「この世のすべての国々とその栄華」の一部をなすものです。 《主によるさばきの意味》 さて、イスラエルの民がカナンの地に侵入することは、神である主のさばきの「器」としてその地に入り、その罪をさばくこととしての意味をもっていました。そのことは、カナンの地の民が築いてきたものをすべて破壊し尽くしてしまうことを予想させるかも知れません。 しかし、先ほども引用しました申命記6章10節〜13節に記されている神である主の御言葉は、 あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。 というものでした。 これは、イスラエルの民が、カナンの地の文化を破壊してしまうことではなく、その文化を造り主である神さまのみこころに沿って、本来の姿へと回復することを求めるものです。カナンの地に注がれたさまざまな賜物は、神である主が備えてくださったよいものです。そのよいものを用いることによって、それらを備えてくださった造り主である神さまの栄光がほめ讚えられなくてはなりません。 主のさばきは、人間の文化的な活動を通して表現される罪をさばくものですが、人間の文化的な活動そのものを否定するものではありません。むしろ、主のさばきがなされるのは、人間の罪によって腐敗してしまっている文化的な活動を、造り主である神さまの栄光にふさわしく聖めるためです。 ですから、さばきは、さばきだけで終わらないで、救いの御業と結びついて、「神のかたち」に造られている人間が贖いの恵みによって罪の力から解放され、キリストのからだである教会に結び合わされることによって、新しいいのちに生かされ、人間のさまざまな文化的な活動の本来の姿が回復されなくてはなりません。それによって、造り主である神さまのご栄光の現われのために、神である主と主のみこころを中心とした文化が築かれなくてはなりません。 私たち神の子どもたちは、この役割を果たすように召され、この世に遣わされています。 私たちの贖い主であるイエス・キリストは、悪魔から「この世のすべての国々とその栄華を見せ」られ、 もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。 と誘惑された時、申命記の言葉を引用されて、 引き下がれ、サタン。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。」と書いてある。 とお答えになりました。 それは、イエス・キリストが、「この世のすべての国々とその栄華」をそのまま御自身のものとされるのではなく、ご自身の十字架の死を頂点とする罪の贖いの御業によって、主のさばきの器となる神の子どもたちを生み出すこと、そして、その神の子どもたちを通して、人間の文化的な活動を聖める道を、お選びになったことを意味しています。 その結果、贖いの恵みによって贖い出された神の子どもたちが、キリストのからだである教会に連なるものとして、地上の生活のあらゆる面で「神である主を拝み、主にだけ仕え」るようになるためです。 このみこころによって、私たちは、今ここに、キリストのからだである教会につながれている神の子どもとして歩んでいます。これを、初めにお話ししたことに照らして言いますと、私たちは、主イエス・キリストから、神の御国が自分たちの間に実現していることを、キリストのからだである教会を建て上げることをとおして、あかしする使命を委ねられて、この世に遣わされているということです。 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。 (コリント人への手紙第一10章31節) |
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