(第3回)


説教日:1996年9月1日
説教題:人はパンだけで生きるのではなく
聖書箇所:マタイの福音書4章1節〜11節

 マタイの福音書4章1節〜11節には、イエス・キリストが、荒野で、悪魔の試みをお受けになったことが記されています。先回は、それが、主の救いの御業の歴史の中でどのような意味を持っているかについてお話ししました。
 今日は、二節〜四節に記されている、第一の試みについてお話しします。


 2節においては、「そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。」と言われています。同じことがマルコの福音書1章13節においては、「イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。」と言われており、ルカの福音書4章2節においては、「四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。」と言われています。
 これから分かることは、イエス・キリストは、荒野におられた四十日間ずっと悪魔の試みをお受けになり、その間ずっと断食しておられたということです。
 従って、この、マタイの福音書4章1節〜11節に記されている三つの試みは、四十日にわたってなされたさまざまな試みの最後のものでした。
 これら三つの試みが、四十日にわたってなされた、荒野での試みの最後のものであったということは、悪魔は、これらの試みに失敗したときに、この荒野においては、もうそれ以上イエス・キリストを試みることはできないと感じたということです。その意味で、この三つの試みは、四十日にわたる試みに決着をつけるものとして、四十日にわたる試みの頂点に当たるものでした。

 イエス・キリストは、荒野において、四十日四十夜断食されました。しかし、イエス・キリストが荒野に行かれたのは、1節にありますように、「悪魔の試みを受けるため」でしたから、断食することは、イエス・キリストが荒野に行かれたことの目的ではありません。
 このことは、みことばにも反映しています。「そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。」ということばは、基本的には、イエス・キリストが「空腹を覚えられた」ことを述べるもので、四十日四十夜にわたる断食は、その空腹の理由として述べられているだけです。
 イエス・キリストのメシヤとしてのお働きは、先回お話しましたように、私たち罪人の罪の贖いを成し遂げるものであると同時に、悪魔のさばきを実現するものでもありました。当然、悪魔は、全力を尽くして、イエス・キリストが、父なる神さまのみこころに従って、罪の贖いのお働きを成し遂げるのを妨げようとして試みたはずです。
 イエス・キリストは、このような悪魔からの試みの中で、父なる神さまのみこころを確かめ、そのみこころに従うことを求め続けられたと考えられます。そして、そのことに全身全霊をかけて集中していたために、四十日四十夜の間、食べることを忘れておられたと考えられます。
 このように、ここには、父なる神さまのみこころの実現をめぐって、イエス・キリストと悪魔の間の、全力を尽くしての霊的な戦いがあったのです。イエス・キリストの 四十日四十夜にわたる断食は、その戦いの中でのことであり、その戦いの激しさを物語っています。

 マタイの福音書4章3節では、

すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」

と言われています。
 ここでは、四十日四十夜にわたる断食の後に、イエス・キリストが空腹を感じられたことが問題とされています。そのような断食は、肉体の限界を越えているものです。その後に感じる空腹感は、想像を絶するものであったでしょう。
 そのような状態にあるイエス・キリストに対して、悪魔は、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」と、親切そうな提案をしています。これは「あなたは、このままでは飢えて死んでしまう。あなたは神の子なのだから、これらの石をパンに変えたらいいではないか。」というものです。
 肉体の限界を越えるような断食をした後のイエス・キリストに、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」と勧めた悪魔のことばが、どうして、試みになったのでしょうか。どうして、それに従うことが、父なる神さまのみこころに背くことになるのでしょうか。
 荒野にいくらでもころがっている石は特別な石ではありません。その石をパンに変えて食べたからといって、誰かに損害を与えることはありません。また、そのこと自体が、倫理的道徳的に許されないことであるということもありません。まして、この時、イエス・キリストは、肉体の限界を越える断食をした後です。このようなことを考えますと、悪魔の言っていることは、もっともなことに聞こえます。

 まず心に留めておくべきことは、私たち人間はこのようなことによって試みられることはないということです。私たちがこれと同じような状況に陥ったときには、「この石がパンであったらいいのに。」と思うことはあっても、その石に、パンになるように命じることはありません。私たちにはそのような力がないからです。
 悪魔が言った「あなたが神の子なら」とということばは、文法の上では、そこで言われていることが事実であることを示す条件節で、「あなたは神の子なのだから」という意味合いを伝えています。この試みは、イエス・キリストが神の御子であって、そこにある石をパンに変えることができる方であることを踏まえているのです。
 しかし、私たちはこのような形で試みられることはありませんが、これと同じ性質の試みは常に受けています。それがどのようなことであるかは、後ほどお話しいたします。

 この「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」という悪魔のことばが、どのような意味で、イエス・キリストにとって試みになったのかは、これに対するイエス・キリストのお答えから理解するほかはありません。というのは、イエス・キリストは、一見なんでもない悪魔のことばに込められている、試みの意味を汲み取ってお答えになっておられるからです。
 イエス・キリストは、

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る 一つ一つのことばによる。」と書いてある。

とお答えになりました。これは、旧約聖書の申命記8章3節からの引用です。

 すでにお話ししましたように、この試みにおいて、悪魔は、「あなたが神の子なら」と言って、イエス・キリストが神の御子であることに訴えています。それに対してイエス・キリストは、「人は ・・・・」とお答えになりました。イエス・キリストが引用された申命記8章3節のみことばは、神の御子だけに当てはまる特別なものではなく、神の民すべてに当てはめられるみことばです。
 ここでイエス・キリストは、ご自身と私たちを区別しておられるのではなく、あくまでも、私たちと一つとなられて、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださる贖い主としての立場に立っておられます。
 イエス・キリストは、このような厳しい状況においてさえも ── いや、このような厳しい状況に於いてこそ、私たちと同じ立場に立ち続けられました。そのようにして、私たちがこの世で味わうさまざまな問題の厳しさを、ご自身が身をもって味わわれました。
 また、私たちすべてに当てはまるみことばをもって、この試みにお答えになりました。このことは、私たちもこれと同じ性質の試みにさらされることがあることと、その時には、私たちも、みことばの上に立って、神である主に従い続けるべきであることを示しています。

 イエス・キリストが引用された申命記8章3節のみことばを、その前後関係において見てみましょう。2節〜4節には次のように言われています。

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。

これは、エジプトで奴隷であった状態から贖い出された主の民が、その不信仰と不従順のために、荒野で四十年の間さまよった後、次の世代の子らが、いよいよ約束の地に入るに当たって、主がお与えになった教えです。
 主は、荒野における四十年の行程の間、イスラエルの民を、真実に支え続けてくださいました。そのことを通して、主は、ご自身の民に、「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる。」ということを教えてくださったと言われています。
 この「主の口から出るすべてのもの」の「もの」ということばは、「もの」とともに「ことば」を表わしますので、マタイの福音書における引用は、「神の口から出る一つ一つのことば」となっています。

 荒野は不毛の地です。そこでは、人が生きて行くことはできません。まして、一つの民族がそこで生きて行くことは、考えられないことです。しかし、イスラエルの民をそこに導かれたのは、神である主ご自身です。その限りにおいて、神である主は、真実に、ご自身が導いておられる民とともにおられ、彼らを養い続けてくださいました。
 そのために、主は、「あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。」と言われています。「マナ」とは「何?]という意味のことばです。それは、人間の経験の中では知られていなかった食物です。人間の経験が示すところでは、人が生きて行くことのできないところであるとされる荒野において、神である主は、ご自身の民を養い続けられました。そのためには、人間の経験を越えた食物であるマナをもお与えになりました。
 それは、イスラエルの民を荒野に導き入れられたのが、主ご自身であり、主が、ご自身の契約の約束の通りに、その民とともにおられたからです。

 よく、「人はパンだけで生きるのではない。」というみことばが、人間は、肉体的な必要だけではなく、精神的な必要も満たされなくてはならないという意味で使われています。しかし、このみことばは、そのようなことではなく、人が生きるのは「神の口から出る 一つ一つのことばによる。」ということばにつながっていて、人が神である主との関係において、主のご意志の表現であるみことばによって生きるものであることを示すものです。
 「人はパンだけで生きるのではない。」と言うときの「パン」は「食物」を表わしています。ここでは、私たちの生存にとって食物が必要であることが認められています。しかし、人は食べ物に囲まれている中で死ぬこともあります。私たちを本当に支えているのは食べ物ではなく、神である主ご自身です。食べ物は、主が私たちを支えてくださるために与えてくださっている賜物です。
 いずれにしましても、このみことばは、神である主が導いてくださるところが「荒野」であっても、その他のどのようなところであっても、主は契約の真実さをもって、ご自身の民とともにいてくださり、必要なときには、「マナ」のように、人間の経験を越えたものをもってでもご自身の民を支えてくださるということを示しています。

 このように見ますと、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」という悪魔の誘いに対して、イエス・キリストが、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」とお答えになったことの意味が、分かってきます。
 イエス・キリストは、父なる神さまが注いでくださった御霊に導かれて、この荒野に来ました。そこで悪魔の試みをお受けになることは、父なる神さまのみこころでした。その試みの激しさのゆえに、四十日四十夜断食することになりました。その間、イエス・キリストは、悪魔の誘惑を退けることにおいて、父なる神さまのみこころに従う姿勢をより鮮明にして行かれました。
 そのようなイエス・キリストに対して、悪魔は、「あなたは飢えて死にそうなのに、ここには、何もないではないか。あなたは神の子なのだから、これらの石をパンに変えて、それを食べて生きればいいではないか。」と言いました。
 この悪魔のことばにおいては、イエス・キリストにとってまことに厳しい「目に見える現実」がすべてとされており、主のご臨在と、その真実な支えは否定されています。
 これに対して、イエス・キリストは、私たちと同じ神の子どもたちすべてに対して語られた、みことばの約束の保証の上に立っておられます。その上で、神である主が、ご自身の民を、荒野において、四十年の間支え続けてくださったことを通して教えてくださった、真実な主のご臨在と、その御手の支えにご自身をお委ねすることを明らかにされたのです。父なる神さまが、御霊によって荒野にお導きになったのであれば、たとえそこが荒野であっても、父なる神さまは、ご自身の真実をもって必ず支えてくださる、という信頼を明らかにされたのです。
 問題は、石をパンに変えるかどうかではなく、そうすることが、父なる神さまの真実なご臨在を否定したり、疑ったりすることから出ていることが問題だったのです。イエス・キリストは、荒野において、四十日四十夜の断食をした後の状態にあっても、みことばの約束の保証の下で、父なる神さまの真実なご臨在を信じ続けることにおいて、この試みを退けられたのです。

 私たちも、神である主のみことばに示されたみこころのうちを歩む時に、しばしば、自分が「荒野」のような状況に置かれていることがあります。
 主のみことばに従って、犠牲の多い道を選び取っている方もおられるでしょう。それが主に従うことであるからといって、必ずしも、楽な道であるわけではありません。また、主にあって、人のために尽くしているのに、人から誤解されたままである方もおられるでしょうし、解決されていない問題をいくつも抱えたままである方もおられるでしょう。
 そのような時に、私たちは、ここでイエス・キリストが受けられた試みほど激しいものではないとしても、それと同じ性質の試みに会うことになります。
 なかなか光の見えない暗やみの中にあるように感じられる時に、自分の目に見える現実は、主のご臨在も、そのご臨在による支えもないと思わせることでしょう。そのような思いから、焦って、自分の思いと力で道を切り開こうとすることは、「この石がパンになるように、命じなさい。」というのと同じ誘惑に負けることになります。
 そのような時にこそ、自分の目に見える現実を越えて、永遠に変わらない主のみことばの約束に従って、真実な主のご臨在とその支えを信じて、主との交わりを求め、その中で、主の導きを求めなくてはなりません。
 それは、まず、みことばの約束の下に、神である主のご臨在を信じ、主との交わりを確かなものとすることです。そして、暗やみが続くとしても、主に信頼し続けることです。
 すぐには目の前の問題の解決につながらない、遠回りの道と思われるでしょうが、それこそが、イエス・キリストが歩まれた道です。

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
(ヘブル人への手紙10章35節、36節)


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