(第2回)


説教日:1996年8月4日
説教題:霊的な戦いの中で
聖書箇所:マタイの福音書4章1節〜4節

 先には、マタイの福音書3章13節〜17節に記されていることに従って、イエス・キリストがお受けになった「荒野の試み」の背景についてお話ししました。
 イエス・キリストは、約束のメシヤとしてのお働きを始められるに当たって、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼(バプテスマ)をお受けになりました。これによって、イエス・キリストは、そのお働きを、自分の罪を認めて、悔い改めを告白する洗礼を受けている人々と「1つとなる」ことによってなされることを公に表わされました。
 父なる神さまは、そのように罪ある私たちと1つとなって罪の贖いの御業を遂行されるイエス・キリストに御霊を注いでくださって、イエス・キリストがご自身のみこころにかなうメシヤであることを宣言してくださいました。イエス・キリストは地上の生涯を、この御霊に満たされて、父なる神さまのみこころに従って歩まれました。そして、この御霊の導きに従って、約束の救い主として罪の贖いの御業を成し遂げられました。


 4章1節には、

さて、イエス・キリストは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。

と記されています。同じことを記している、マルコの福音書1章12節、13節では、

そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。

と言われています。また、ルカの福音書4章1節、2節では、

さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。

と言われています。
 3つの福音書が共通して記しているのは、メシヤのお働きを支えて、導いて行かれる御霊は、イエス・キリストを、まず、悪魔の試みを受けるようにと荒野へと導かれたということです。
 罪ある者たちと1つになられて、その罪を贖う御業を遂行してくださるイエス・キリストが最初になさったことは、ご自身が1つとなられた人々の所に行って、救い主としての御業をなさることではなくて、荒野において悪魔の試みをお受けになることでした。イエス・キリストのお働きの第1歩は、人々の目には見えない所でなされていたのです。
 このことには一体どのような意味があるのでしょうか。

 まず注目したいことは、この荒野での試みは悪魔の側からの働き掛けで始まって、イエス・キリストがそれを受けて立っておられるのではないということです。イエス・キリストは悪魔の試みを避けようとしておられるのに、あるいは、悪魔の試みに会わないことを願っておられるのに、悪魔がやってきてイエス・キリストを試みたので、仕方がなくその試みを受けたということではありません。
 ここで悪魔がイエス・キリストのお働きを妨害しようとして働いていることは確かなことです。しかし、今、見ましたように、3つの福音書は1致して、この悪魔の試みは、御霊に導かれているイエス・キリストが進んでお受けになったものであることを証言しています。これは、イエス・キリストの側の働き掛けで始まっているのです。
 もちろん、私たちは、このイエス・キリストのように、自分から進んで悪魔の試みに会うことを求めてはなりません。むしろ、いつもそうしていますように、

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

と祈り続けなくてはなりません。
 この意味で、イエス・キリストは、私たちとは違う立場に立っておられます。
 イエス・キリストは私たちと1つになってくださった救い主です。それで、私たちはイエス・キリストと1つに結ばれています。しかし、私たちはイエス・キリスト同じ立場に立ってはいません。イエス・キリストは救い主であり、私たちはイエス・キリストに救っていただいている者です。イエス・キリストは主であり、私たちはそのしもべです。
 私たちの主である救い主は、私たちの救いのために贖いの御業をなさる第1歩として、まず、悪魔の試みをお受けになりました。しかも、ご自身の意志で進んでその試みに会われたのです。結論的に言いますと、それは、私たちを悪魔の支配の下から救いだしてくださるためでした。ヘブル人への手紙2章14節、15節において、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

と言われているとおりです。
 また、ヨハネの手紙第1・3章8節では、

罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

と言われています。

 皆さんが十分にご存知のように、イエス・キリストのこのようなお働きには、人類の罪による堕落に悪魔が関わっているという、歴史的な背景があります。
 このことを理解するためには、悪魔の働きについて理解しなくてはなりません。
 聖書の中には、悪魔がどのようにして悪魔になったのかについての直接的な啓示はありません。しかし、イザヤ書14章12節〜14節に記されているバビロンの王の堕落や、エゼキエル書28章12節〜17節に記されているツロの王の堕落が、悪魔の堕落を反映していると考えられます。イザヤ書14章12節〜14節には、

暁の子、明けの明星よ。
どうしてあなたは天から落ちたのか。
   ・・・・・
あなたは心の中で言った。
「私は天に上ろう。
神の星々のはるか上に私の王座を上げ、
北の果てにある会合の山にすわろう。
密雲の頂に登り、
いと高き方のようになろう。」

と言われています。
 悪魔はもともと神の御手によって造られたすぐれた御使いでしたが、そのすばらしさゆえに、被造物としての自分を見失って、造り主である神に対して高ぶり、神に対抗して立つことによって、神の御前に堕落したと考えられます。
 一般に、悪魔は人間の敵であると考えられています。それはその通りです。しかし、悪魔にとって最終的な攻撃目標は、神ご自身です。悪魔にとって人間は、神に逆らうための「手段」でしかありません。
 造り主である神の御前に高ぶり、罪を犯して堕落した悪魔は、神に逆らうことをその存在の目的とするほどに堕落し切ってしまいました。しかし、いくら悪魔が有能な存在であったとしても、単なる被造物でしかありませんので、直接、造り主である神に対抗することはできません。また、堕落した存在である悪魔は、神のご栄光の御前に立つことができません。敢えてそのようなことをするとしたら、悪魔は、たちどころに神のご栄光に撃たれて滅び去ってしまいます。
 そのような立場にある悪魔がはかったことは、人間を誘惑して、罪の中に陥れることによって、人間を神に逆らわせるということでした。
 創世記1章26節〜28節に記されていますように、神は、人を「神のかたち」にお造りになって、ご自身がお造りになった世界を治める使命をお委ねになりました。人間は、この世界のすべてのものを、造り主である神のみこころに従って治めることによって、神のご栄光をより豊かに現す歴史と文化を築いて行く使命を与えられています。
 このような使命を与えられている人間が罪を犯して神に背くようになれば、神の創造の目的は挫かれてしまいます。それが、悪魔の狙いでした。実際、悪魔は、人類を罪に陥れることによって、そのはかりごとを成し遂げました。

 このような事態の中で、神である主は、驚くべき形で実現する「救いとさばきのご計画」を示されました。それは、「最初の福音」と呼ばれる、創世記3章15節の、

わたしは、おまえと女との間に、
また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
敵意を置く。
彼は、おまえの頭を踏み砕き、
おまえは、彼のかかとにかみつく。

という神である主の言葉のうちに示されています。
 この言葉は「最初の福音」と呼ばれますが、実際には、「蛇」に対するさばきの言葉であり、それ以上に、「蛇」の背後にいて、「蛇」を用いて人を罪に陥れた、悪魔に対するさばきの言葉です。
 それでは、なぜ、「悪魔に対するさばきの言葉」が「人に対する福音」となるのでしょうか。その時、人は罪を犯して悪魔と1つになっていて、ともにさばかれるべき者であったはずですから、悪魔に対するさばきの言葉は、そのまま人に対するさばきの言葉でもあったはずです。

 確かに、神である主が、人類の堕落の直後に、悪魔と、罪によって悪魔と1つになっている人間や悪霊たちすべてをおさばきになったとしたら、人間に救いはありませんでした。しかし、そのさばきによって主の義は全うされますが、悪魔のはかりごとが成功することになってしまいます。
 主は、別の形で悪魔に対するさばきを執行されることによって、ご自身の義を全うしつつ、悪魔のはかりごとをも挫いてしまわれるご計画をお示しになりました。それが、この「最初の福音」に示されています。
 まず、主が、その時は罪によって1つとなっている「蛇」(の背後にいる悪魔)と「女」との間に「敵意」を置かれて、その関係を絶ち切ってくださいます。 罪の力に縛られている人間は、自分の力で、悪魔との関係を絶ち切ることはできません。
 神である主が置いてくださった「敵意」は「子孫」に受け継がれて行き、そこに戦いがあることが示されています。その戦いは、「霊的な戦い」です。
 そして遂に、そこで「彼」と言われている「女の子孫」の「かしら」とも言うべき方が来られて、「蛇」(の背後にいる悪魔)の「頭を踏み砕く」ことになると言われています。それが悪魔に対する最終的なさばきです。
 イエス・キリストは、「女の子孫」の「かしら」として来られて、悪魔へのさばきを執行されます。このことから、イエス・キリストがメシヤとしてのお働きを始められた時に、まず第1のこととして、荒野において悪魔と直接的な対決をされたことの意味が理解されます。
 そして、このことの最終的な成就は、黙示録12章1節〜12節、また、19章と20章に記されています。
 12章1節、2節の、

また、巨大なしるしが天に現われた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十2の星の冠をかぶっていた。この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。

という言葉は、旧約のイスラエルが約束の救い主、すなわち、「女の子孫」の「かしら」である方を生み出すに至る歴史的な苦しみを表象するものです。
 3節、4節に記されている、「彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすため」「子を産もうとしている女の前に立っていた」「大きな赤い竜」は、悪魔のことです。9節では、「この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇」と呼ばれています。この「全世界を惑わす、あの古い蛇」という言葉は、創世記3章に出てくる「蛇」を受けています。
 この「竜」は、「女」が産んだ「子」が「神のみもと、その御座に引き上げられた」(5節)後に、天における戦いに敗れて地に投げ落とされました(7節〜9節)。

 そのことの中で、私たちの救いが実現されます。人間は、神である主が悪魔と、罪によって悪魔と1つとなっているものをさばかれるためにお用いになる「さばきの器」となることによって、主の側に立つものとされます。それが人間の救いを意味しています。つまり、私たちは悪魔との「霊的な戦い」へと召されることによって救われるのです。これが、「最初の福音」が示している救いの意味です 。
 この「霊的な戦い」は、すでにその戦いに勝利しておられる「女の子孫」の「かしら」である方に連なる私たちの勝利で終わります。

平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。
(ローマ人への手紙16章20節)

 当然のことですが、「最初の福音」には、救いにとっていちばん基本的な意味が明らかにされているはずです。
 私たちは、「女の子孫」の「かしら」である方に連なって、悪魔との「霊的な戦い」をするようにと救われています。神である主のみことば示すところでは、これが、私たちの救いのいちばん基本的で、いちばん大切な意味です。
 そして、「霊的な戦い」は、あくまでも、神のみこころに関わるご栄光の現われをめぐる戦いです。
 このような救いの根本的な意味を無視して、悪魔のことを、ただ人間の敵であるとだけ考え、それと同じ発想で、神を味方であると考えて、神の「ご加護」によって、悪魔がもたらす災いから自分を守ろうとするなら、神をも自分のために働かせる、この世の信仰と同じことになってしまいます。この世の信仰は、罪の自己中心性に動かされて、神をも自分の幸福のために「手段化」しようとするものです 。
 救いをこのように自己中心的、人間中心的に理解したまま、いくら悪霊を追い出したとしても、それでは悪魔の思う壷です。神のご栄光の現れをめぐる悪魔との戦いは、敗北に終ります。悪霊はいかにも「しぶしぶと」出てゆくとしましても、内心舌を出していることでしょう。
 もちろん、私たち人間は、造り主である神を信じ、神との交わりの中に生きることによって「本当の幸い」を見出します。しかし、それは、みことばに従って神を中心とする時に、私たちのいのちが「神のかたち」の本来の姿において、いのちの意味を表わすからです。それは、決して、自己中心的、人間中心的に神をも利用しようとするところから生まれる「この世の幸い」ではありません。

この霊的な戦いは、「女の子孫」の「かしら」である方が成し遂げてくださった罪の贖いにあずかって、罪を真実に悔い改め、自分中心の心の姿勢を180度転回させて、神である主を心の中心にお迎えし、主のみことばに従って歩むようになることによって初めて、「女の子孫」の「かしら」である方に連なる者として戦うことができます。

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼(悪魔)に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。
(黙示録12章11節)

 具体的には後でお話しすることになりますが、荒野において、イエス・キリストを試みた悪魔は、この荒野における試みの時ばかりでなく、イエス・キリストの生涯の全体を通して、イエス・キリストが、その人としての性質において味わわれる、さまざまな困難さと苦しみの中で、父なる神さまのみこころではなく、自分の思いや考えを通すようになることを狙って、さまざまな試みを仕掛けています。
 しかしイエス・キリストは、1貫して、みことばに示された神である主のみこころに従い通されました。私たち罪人と1つとなられたメシヤとして、最後まで父なる神さまのみこころに従い通されたのです。それが、この荒野での試みのときから始まって、十字架の上での死に至まで一貫して変ることのない、イエス・キリストの姿勢でした。
 荒野におけるこれら3つの試みにおいて、イエス・キリストは、みことばをもって悪魔の試みを退けておられます。それは、みことばに魔術的な力があって悪魔を追い払ったということではありません。みことばに示されている父なる神さまのみこころに従い通されるイエス・キリストの、真に神を中心とする姿勢が、悪魔の試みを無力なものにして退けているのです。
 みことばに従い通されることによって、父なる神さまのご栄光を現すことだけが、私たち「女の子孫」の「かしら」となられたイエス・キリストの戦いの姿でした。
 それは、また、「女の子孫」の「かしら」となられたイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの恵みによって、イエス・キリストと1つにつながれている私たち 、その贖いに包まれて「霊的な戦い」へと召されている私たちの戦いあり方でなくてはなりません。


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