(第1回)


説教日:1996年6月2日
説教題:私たちと一つになられたキリスト
聖書箇所:マタイの福音書3章13節〜17節

 マタイの福音書4章1節〜11節には、イエス・キリストが、荒野において、悪魔の試みをお受けになったことが記されています。これから少しずつ、イエス・キリストがお受けになった悪魔の試みの意味についてお話ししながら、私たちの信仰の在り方について考えてみたいと思います。
 今日は、3章13節〜17節に記されていることを中心として、イエス・キリストがお受けになった試みの背景についてお話しします。


 マタイの福音書では、イエス・キリストの誕生に関わることを記す1章と2章に続いて、3章では、バプテスマのヨハネの宣教のことが記されています。
 イエス・キリストは、そのバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになりました。そして、そのことをもって、メシヤとしてのお働きを始められました。
 この時、父なる神さまも、これに呼応するかのように、イエス・キリストに御霊を注いで、イエス・キリストが御心にかなうメシヤであることを、公にあかししてくださいました。3章16節、17節には、

こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

と記されています。
 「天が開け」というのは、それが神の啓示によることであることを示しています。
 また、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」ということばは、メシヤのことを預言する旧約聖書の二つの言葉を反映していると考えられます。
 一つは、詩篇2篇7節の、

わたしは主の定めについて語ろう。
主はわたしに言われた。
「あなたは、わたしの子。
きょう、わたしがあなたを生んだ。」

という言葉です。この「あなたは、わたしの子」という言葉が、父なる神さまの「これは、わたしの愛する子」という言葉に反映しています。
 もう一つは、イザヤ書四二章一節の、

見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、
わたしの心の喜ぶわたしの選んだ者。
わたしは彼の上にわたしの霊を授け、
彼は国々に公義をもたらす。

という言葉です。
 この「わたしの心の喜ぶわたしの選んだ者」という言葉が、父なる神さまの「わたしはこれを喜ぶ」という言葉に反映しています。また、「わたしは彼の上にわたしの霊を授け」という言葉も、父なる神さまがイエス・キリストに御霊を注いでくださったことに反映しています。
 ちなみに、ルカの福音書3章22節では、父なる神さまの言葉が「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」となっていて、それが、イエス・キリストに向けられているという点が強調されています。
 一方、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」というマタイの福音書の言葉は、それがそこにいた人々に向けられているということが強調されています。
 実際には、父なる神さまの言葉には、その両方の意味があったわけですが、マタイの福音書は、この言葉が、私たちに対する、父なる神さまからのあかしであり、イエス・キリストが約束のメシヤであることを、私たちに確証するものであることを示しています。
 このように、イエス・キリストは、バプテスマのヨハネから洗礼をお受けになった時から、メシヤとしてのお働きを公に始められるようになりました。
 それにしても、イエス・キリストがヨハネから洗礼をお受けになることをもって、メシヤとしてのお働きを始められたことには、どのような意味があったのでしょうか。

 マタイの福音書三章三節には、このヨハネのことが、

この人は預言者イザヤによって、
「荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を用意し、
主の通られる道をまっすぐにせよ。』」
と言われたその人である。

と記されています。
 この他11章14節などから分かりますように、バプテスマのヨハネは、メシヤの先駆けとして遣わされる者として、預言者イザヤやマラキなどを通して預言されていた人物です。そして、メシヤの道備えをするために、人々に教えを説き、悔い改めの洗礼を授けていました。
 3章5節、6節では、

さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。

と言われています。

 イエス・キリストが、これらの人々に混じってバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったのは、ご自分の罪を告白して悔い改めるためではありません。
 イエス・キリストは、「人としての性質を取って来られた神」です。それは、神が人に変化したということではありません。神が無限・永遠・不変の神である以上、人に変化することは決してありません。あくまでも、無限・永遠・不変の神である方が、人としての性質をお取りになったのです。それが、ヨハネの福音書1章14節の、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

ということの意味です。
 人としての性質をお取りになったことによっても、無限・永遠・不変の神であられることにはいささかの変化もありません。 それによって、神として少し劣ることになったとか、神としての性質が影響を受けて、何らかの変化が生じたというようなことは全くありません。
 ただ、その神であられる方が、人としての性質をお取りになることによって、その人としての性質において経験されることも、ご自身のこととして経験されるようになったということを意味しています。この人間の世界にある痛みも苦しみも喜びも悲しみも、すべて、ご自身が身をもって味わわれるようになったのです。
 イエス・キリストは、そのお取りになった人としての性質においては、正真正銘の人です。それで、私たち人間と一つになり、私たちの代表(身代わり)となって罪のさばきをお受けになることができたのです。
 また、イエス・キリストが、悪魔から試みをお受けになったのも、人としての性質においてです。悪魔は、無限の栄光に満ちておられる神に近づくことはできません。また、神は何ものかに試みられるような方ではありません。
 このように、イエス・キリストは、お取りになった人としての性質において、正真正銘の人です。しかし、イエス・キリストは、人類がアダムから受け継いできた罪の性質は受け継いでおられませんでした(1)。また、その生涯において罪を犯されませんでした。それで、イエス・キリストは、悔い改めの洗礼を受ける必要はありませんでした。

 すると、イエス・キリストがバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったことの意味は何でしょう。
 その時、人々は、ヨハネの教えを聞いて心を刺され、自分の罪を告白して、「悔い改めるために」洗礼を受けていました(三章一一節)。
 イエス・キリストがヨハネから洗礼をお受けになったのは、このような人々 ── その時そこにいた人々ばかりでなく、すべて、自分の罪を認めて悔い改め、贖い主の恵みを待ち望んでいる人々 ── と一つになられるためでした。
 それは、やがて、このような人々に代って十字架にかかって死んで、死者の中からよみがえることによって、罪の贖いを成し遂げてくださるまでに、一つになってくださることへの第一歩です。
 このように、イエス・キリストが私たち罪人と一つになってくださったので、その贖いの死は、私たち罪人の罪を贖うものとなりましたし、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりは、私たち罪を贖われた者に復活のいのちを与えるものとなったのです。
 私たちは洗礼を受けることによって、イエス・キリストと一つにつながれていることを公に告白します。それは、私たちの信仰の行為ですが、それに先立って、イエス・キリストが私たち罪人と一つになってくださり、贖いの御業を成し遂げてくださっています。イエス・キリストが私たちと一つになってくださったので、私たちは、そのことを信じる信仰によって、イエス・キリストにつながり、その贖いの恵みを受け取ることができるのです。

 このように、イエス・キリストは、自分の罪を告白して、「悔い改めるために」洗礼を受け、約束のメシヤによる救いを待ち望んでいる人々と一つになられました。
 その時、父なる神さまは、イエス・キリストに御霊を注いでくださり、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」とあかしして、イエス・キリストが約束のメシヤであることを確証してくださいました。イエス・キリストが私たち罪人と一つになられたので、父なる神さまは、イエス・キリストがご自身の御心にかなうメシヤであると宣言してくださった、と言うことができます。
 ところで、「メシヤ」という言葉は、アラム語やヘブル語で、「油を注がれた者」を表わす言葉です。「キリスト」という言葉は、それと同じ意味のギリシャ語です。当時の文化の中では、特定の任務に就く者は、その任職のために頭からオリーブ油を注がれました。初めのうちは、特定の任務に就くために油を注がれた者はみな、「メシヤ」(「キリスト」)と呼ばれていましたが、やがて、この「メシヤ」(「キリスト」)という言葉が専門用語となり、人類の罪の贖いのために、神である主が約束してくださった、贖い主であるメシヤ、すなわちキリストを指すようになりました。
 この時、父なる神さまは、オリーブ油によってではなく、そのオリーブ油が表わしているものの本体である御霊によって油注いでくださって、イエス・キリストが約束のメシヤであることをあかししてくださったのです。
 イエス・キリストは、御霊によって油注がれ、御霊に満たされて贖いの御業を成し遂げられたメシヤです。

 人としての性質をお取りになって、私たちと一つになられたイエス・キリストが、御霊によってメシヤのお働きをされたことは、私たちにとっても意味のあることです。
 イエス・キリストは、人としての性質をお取りになることによって、人として、父なる神さまの御心に従う立場に立たれました。そして。十字架の死に至るまで父なる神さまの御心に従うことによって、私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださいました。ピリピ人への手紙二章八節で、

キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

と言われているとおりです。
 そのように、人として(の性質において)、父なる神さまの御心に従って、委ねられた贖いの御業を成し遂げるためには、御霊に満たされる必要があったのです。
 このことは、イエス・キリストと一つにされている私たちも、御霊に満たされて初めて、父なる神さまの御心に従って、私たちに委ねられている使命を果たして行くことができるということを意味しています。

 私たちは、イエス・キリストの十字架の上での死による罪の贖いにあずかって、罪をきよめられたことによって、御霊を注がれています。
 使徒の働き2章33節では、

ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

と言われています。また、38節では、

悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

と言われています。
 今、イエス・キリストは、贖いの御業を成し遂げて後、その人としての性質において栄光をお受けになって (2)、父なる神さまの右の座に着座しておられます。私たちは、そのイエス・キリストと一つにされて、罪の贖いの恵みを受け、復活のいのちに生かされています。
 それは、神である御霊が、父なる神さまの右の座に着いておられるイエス・キリストと、地上にいる私たちを、その無限とも思える隔たりを超えて、結び合わせてくださっているからです。
 ローマ人への手紙8章9節においては、

キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

と言われています。これは、贖いの恵みにあずかって「キリストのもの」となった人は、誰でも「キリストの御霊」を与えられているということを意味しています。
その御霊は「キリストの御霊」と呼ばれています。
 それは、栄光のキリストから出て、キリストが成し遂げられた贖いの恵みを携えて来て、私たちのうちに宿ってくださる、いのちの御霊です。それはまた、イエス・キリストを満たし、その地上の生涯を、さまざまな試練にもかかわらず、十字架の死に至るまでも父なる神さまの御心に従って歩むように導かれた御霊です。
 私たちは、この「キリストの御霊」によって、栄光のキリストと一つに結ばれています。そして、この「キリストの御霊」によって導かれて歩む時に、イエス・キリストの御足の後に従って歩むことができます。


                        
(1) 罪の性質は、最初の人アダムの罪による堕落によって生じたものであって、神の創造の御業によって人間に与えられた性質ではありません。ですから、罪の性質は人間に固有の性質、すなわち、それがなければ人間ではありえないという性質ではありません。それで、アダム以来の罪の性質を受け継いでおられないとしても、イエス・キリストの人としての性質に欠けがあるわけではありません。
 また、もし、イエス・キリストがアダム以来の罪の性質を受け継いでおられたとしたら、ご自分の罪の贖いを受けることが必要になって、私たち罪人の罪を贖う立場に立つことはできませんでした。
 さらに、確認しておきたいのですが、イエス・キリストが人としての性質を取って来られた神ではなく、単に罪のない人でしかなかったとしたら、いくらそのいのちの値を払っても、私たちすべての者の、すべての罪を、完全に償ってくださることはできません。
私たちの罪はすべて、最終的には、造り主である神に対して犯されるものです。たとえば、人を殺すことは、殺された人やその関係者に対する罪(犯罪)ですが、それ以上に、人を「神のかたち」にお造りになった神に対する罪です。それは、「神のかたち」に造られている他の人を殺すことであるだけではなく、義と愛の「神のかたち」に造られている自分自身の尊厳を冒すことでもあります。
 さらに、私たち人間の罪の核心は、造り主である神を神としないことにあります。人間の場合にも、からだは殺さなくても、人を人として扱うことをしないで、その人の人格の尊厳を傷つけてしまうことがあります。それは、物質的なことを中心にしてさばく「犯罪」としては扱われ難いものですが、人間に対する最大の「罪」です。
 その人を人間と認めないで、犬や猫のように扱うことは、その人の人格を傷つけ、その尊厳を冒すことです。それが「人格に対する最大の罪」です。造り主である神を神としないことはこれと同じ性格の罪です。天地万物の造り主を神としないで、神を人間が考え出したさまざまな偶像のようなものであるとすること 鳥や獣や這うものになぞらえること や、神をその程度のものと見なして無視することは、神の無限の栄光を冒すことです。それが、私たち人間の罪の核心にあることです。
 イエス・キリストは私たちの身代わりになって、これらすべての罪に対する厳格なさばきをお受けになって、私たちの罪を完全に償って、私たちを罪と死の力から贖い出してくださいました。それは、イエス・キリストが、人としての性質を取ってきてくださった、無限・永遠・不変の神である方であるからに他なりません。(本文に戻る)

(2) イエス・キリストは、神の御子としては、永遠の初めから無限の栄光に満ちておられて、改めて栄光を受けられるということはありません。イエス・キリストが栄光をお受けになったのは、その人としての性質においてです。それは、その人としての性質において私たちと一つになってくださったことに基づいて、私たちを永遠のいのちの栄光に導き入れてくださるためです。(本文に戻る)


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