黙示録講解

(第540回)


説教日:2025年5月11日
聖書箇所:ヨハネの黙示録3章1−6節
説教題:サルディスにある教会へのみことば(6)

 本主日も、黙示録三章一節ー六節に記されているサルディスにある教会へのみことばについてのお話を続けます。  ローマの時代のサルディスは、毛織物や金細工の商工業が盛んで、それで、そこにあった教会もその繁栄にあずかっていて、社会的には豊かな教会になっていたと考えられます。また、栄光のキリストのみことばには、このサルディスにある教会に、他の諸教会にあったような、貧困や、異端的な教えによって教会が荒らされり、迫害によって苦しめられていることを示すものはありません。  しかし主は、三節で、サルディスにある教会の人々が目を覚ましていない状態にあることを示しておられます。これは、サルディスにある教会のほとんどがこの世のあり方と妥協して、この世の流れに流されて歩んでいたことを示していると考えられます。
 前回は、四節ー五節に、
しかし、サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らがそれにふさわしい者たちだからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。
と記されていることについてお話ししました。今日は。それに続いて、五節後半に、
 またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない。わたしはその名を、わたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。
と記されていることについてお話しします。
 ここに「名」のことが二回出てきます。このことについては、昨年の一〇月にお話ししていますので、それを振り返っておきましょう。
 一節で、
 あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。
と言われていることばを直訳調に訳すと、
あなたは、生きている、という名をもっている。
しかし、あなたは死んでいる。
となります。
 このような少し回りくどいと思われる言い方には意味があるのではないかと考えられます。
 一つは、サルディスはかつてはリディアの首都として栄えた都市でした。金が豊かに産出してその富は膨大なものでした。その栄華・栄光は今日でもリディアの最後の王クロイソスのことに触れる「クロイソスのように富んでいる」という言い方が残っているほどですから、ローマの時代にも覚えられていて、誇りとなっていたと考えられます。ローマの時代のサルディスは、商工業が盛んでしたので、その教会も繁栄にあずかっていたと考えられますし、このサルディスにある教会には、他の諸教会にあったような、困難な問題で苦しんでいる形跡もありません。
 それで、サルディスにある教会は自分たちは「生きている」という「名をもっている」と考えていたと思われます。しかし、栄光のキリストの御前では、サルディスにある教会は「死んでいる」のでした。
 もう一つは、この「名」ということばは、四節に、 しかし、サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。 と記されていることに出てきます。それを、直訳調に訳すと、
しかし、あなたは、サルディスに、わずかだが、その衣を汚さなかった、という名をもっている。
となります。
 このように、「名」(オノマ)ということばが「人」を意味していることは、黙示録に特有なことで、その他、一一章一三節の「この地震のために七千人が死んだ」の「七千人」の直訳「七千の人の名」に出てきます。
 これらのことは、五節後半に、
またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない。わたしはその名を、わたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。
と約束されていることに、「彼の名」(直訳)が二度も出てくることに対応していると考えられます。


 ここには「いのちの書」に「名」が記されているということが出てきます。このことには、旧約聖書の背景があると考えられます。
 最初の事例に当たることは、出エジプト記三二章三二節ー三三節に記されています。三二節には、イスラエルの民が、主がご臨在されるシナイ山の麓で、金の子牛を造ってこれを主、ヤハウェであるとして礼拝し、十戒の第二戒に背く罪を犯したときに、モーセがイスラエルの民のためにとりなした祈りが、
今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら ―― 。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。
と記されています。続く三三節には、
主がモーセに、わたしの前に罪ある者はだれであれ、わたしの書物から消し去る。しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に民を導け。見よ、わたしの使いがあなたの前を行く。だが、わたしが報いる日に、わたしは彼らの上にその罪の報いをする。
とお答えになったことが記されています。
 ここには主が「お書きになった書物」や主が「わたしの書物」と言われる書物が出てきます。これは「いのちの書」に相当するもので、三二節は、そこにモーセの「名」が記されていることを示しています。もちろん、そこにモーセの名が記されていることは、主の一方的な愛と恵みによっています。
 というのは、第一には、モーセはここでイスラエルの民が犯した罪にはかかわっていません。しかも、民数記一二章三節に記されているように、
 モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。
と言われている人です。しかし、そのモーセもアダムにあって罪を犯して堕落している人の一人であることには変わりがありません。やはり、罪の本性をもつ者として生まれてきて、実際に罪を犯している者です。ですから、モーセといえども自分の良さや行いによって、主の御前に義と認められることはありません。
 第二に、新約聖書の光の下で見ると、また、後に取り上げる詩篇一三九篇一六節に示唆されていますが、「いのちの書」に「名」が記されることは、究極的には、主の永遠のみこころ、聖定的なみこころによることです。主は永遠の前に、その人の「名」を「いのちの書」に記されるとき、その人がアダムの子孫として生まれてくることをご存知です。
 それは、エペソ人への手紙一章四節に、
すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。
と記されていることから分かります。この、 
御前に聖なる、傷のない者にしようとされた
ということは、神が聖定的なみこころにおいて、その人(ここでは、私たち)がアダムの子孫であり、罪に汚れ、傷がある者となることを踏まえおられることを意味しています。そして続く五節に、
神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
と記されているように、その人(ここでは、私たち)を「ご自分の子にしようと」定められたのは、神の、御子イエス・キリストにある、一方的で主権的な愛によることです。
 さらに、出エジプト記三二章三三節に記されている主のみことばから分かりますが、これには法的な意味合いがあります。いわば、主の御臨在の御前の法廷においては、主がその書物に記されていることにしたがって、さばきを執行されるということです。 広く、古い契約の下では、これは約束の地、また、相続地であるカナンの地に入ることにかかわることであると理解されています。そうであっても、私たちは新しい契約の光の下で、そのカナンの地はやがて来たるべき「まことの約束の地」を指し示す広い意味での「地上的なひな型」であると理解しています。
 少し話が逸れますが、三二節でモーセは、
今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら ―― 。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。
と言ってイスラエルの民のためにとりなしています。これはモーセが、
 モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。
ことを現しており、如何に、イスラエルの民のことを思い、ひいては、主の栄光のことを思っていたのかを現しています。けれども、モーセには、先に記したように、アダムの子孫として受け継いだ罪の汚れがあります。さらに、仮に、モーセに罪の本性がなかったとしても、すべての罪は無限の栄光の主に対する罪ですので、その重さも無限です。ですから、単なる人はたとえ罪がなかったとしても、ほかの人の身代わりになって、神である主の御前に罪を贖うことはできません。どうしても、まことの人としての性質を取って来てくださった神の御子イエス・キリストによってしか、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を受けて罪を贖ってくださることはできません。

 話を元に戻して、このことに関連するみことばを、いくつか見てみましょう。
 まず、詩篇からですが、詩篇六九篇二七節ー二八節には、
 どうか彼らの咎に咎を加え
 彼らをあなたの義のうちに入れないでください。
 彼らがいのちの書から消し去られますように。
 正しい者と並べて
 彼らが書き記されることがありませんように。
と記されています。
 また、「いのちの書」のことではありませんが、五六篇八節には、
 あなたは 私のさすらいを記しておられます。
 どうか私の涙を あなたの皮袋に蓄えてください。 
 それとも あなたの書に記されていないのですか。
と記されています。
 さらに、一三九篇一六節には、
 あなたの目は胎児の私を見られ
 あなたの書物にすべてが記されました。
 私のために作られた日々が
 しかもその一日もないうちに。
と記されています。
 ここに記されていることは、主は、その人がどのように歩んでいるかをご覧になってから、それをご自身の書に記されたのではないことを示しています。それは、この詩篇の主旨ですが、主が時間を超えた方、すなわち、永遠なる方であるからです。
 「いのちの書」が神の聖定的なみこころから出ていていて、創造の御業の初めからものであることは、黙示録一三章八節に、地に住む者たちで、世界の基が据えられたときから、屠られた子羊のいのちの書にその名が書き記されていない者はみな、この獣を拝むようになる。と記されていることから汲み取ることができます。

 ただ、少しややこしい話になりますが、これは神である主にのみ当てはまる永遠におけることです。被造物としてこの世界にある私たちが考えることができる無限、永遠、不変は、「どこまでも広がっている」、「いつまでも続く」、「けれども変わらない」というような、量的な無限、永遠、不変です。これに対して神に当てはまる無限、永遠、不変は量的なものではありません。ではそれはどのようなものなのかは、あらゆる点で限界がある私たちには知ることができません。そこには創造者と被造物の間の「絶対的な区別」があります。この「絶対的な区別」が神の聖さの本質です。
 私たちには、その「絶対的な区別」がどのようなものであるかも、私たちには解らないということ以上は分かりません。というのは、それを比べると、神に当てはまる無限、永遠、不変と、私たちに考えられる量的な無限、永遠、不変が、ともに私たちの頭の中の思考空間の中で、(「上下に」であっても)並べられてあることになって、神に当てはまる無限、永遠、不変が相対化されてしまうからです。
 それで、私たちには、みことばに啓示されていることを越えて神の聖定的なみこころに立ち入ることはできません。また、その聖定的なみこころと、みことばによって示されているみこころが、ともに真実なる神である主のみこころですので、まったく調和していることは分かります。しかし、その聖定的なみこころによって永遠に定められていることが。この世界の歴史と私たちの歩みに、特に、私たちの自由な意志の働きがどのようにかかわっているかを完全に理解することはできません。 ただ、もし神である主の永遠の聖定がなかったとすると、この世界も私たちも、あってもなくてもよかったけれど、偶然、たままた、在るようになったということになりますし、この世界と私たちに起こっていることも、起こらなくても起こらなくてもよかったけれど、偶然、たままた、起こったことだというようなことになってしまいます。しかし、主のみことばは、この世界も私たちも、造り主である神のとこしえからのみこころに基づいて、あるべきものとして造られ、造り主である神の栄光を現すものとして造られたと教えています。そして、特に、人は神のかたちとして造られ、神である主との愛の交わりに生きるものとして造られ、神が生きておられる人格的な方であることを現していると教えています。 そればかりではありません、みことばは、神はお造りになったすべてのものがあることを「良し」とされ、お喜びになっておられることを示しています。 ―― 創造の御業のことを記している創世記一章には、この「良し」と訳されていることば「トーブ」が七回(「七」は完全数です)出てきます。このことばは意味が広くて「喜ばしい」という意味もあります。私はいくつか理由があって、神の創造の御業の記事では、この意味で用いられていると考えています― ― 。このように、神の永遠の聖定は、この世界と私たちに造り主である神さまを中心とした意味と価値があることの根底にあります。
 私たちとしては、申命記二九章二九節に、
隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。
と記されているように、主のみことばに示されている永遠からの聖定的なみこころがあることを踏まえつつ、神である主が与えてくださっている契約をとおして示されているみことばに従って考え、理解し、生きていくことになります。その意味で、聖書は神である主の契約の書です。
 そうすると、私たちにとっては、私たちそれぞれの考え方生き方のすべてが、神である主の法廷にある書物に書き記されていくということにもなります。もちろん、それは、神である主の永遠の聖定的なみこころとまったく一致しています、

 また、預言書では、ダニエル書七章九節ー一〇節には、
 私が見ていると、
 やがていくつかの御座が備えられ、
 『年を経た方』が座に着かれた。
 その衣は雪のように白く、
 頭髪は混じりけのない羊の毛のよう。
 御座は火の炎、
 その車輪は燃える火で、
 火の流れがこの方の前から出ていた。
 幾千もの者がこの方に仕え、
 幾万もの者がその前に立っていた。
 さばきが始まり、
 いくつかの文書が開かれた。
と記されています。また、一二章一節には、
その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。
と記されています。
 ちなみに、このダニエル書に記されていることが、より直接的に、黙示録に記されていることの背景となっていると考えられます。
 またマラキ書三章一六節には、
 そのとき、
 主を恐れる者たちが互いに語り合った。 主は耳を傾けて、これを聞かれた。
 主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、 主の前で記憶の書が記された。
と記されています。

 新約聖書では、ピリピ人への手紙四章三節に、
そうです、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。この人たちは、いのちの書に名が記されているクレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、福音のために私と一緒に戦ったのです。
と記されています。
 そして黙示録では、この三章五節のほかに先ほど引用しました一三章八節に、
地に住む者たちで、世界の基が据えられたときから、屠られた子羊のいのちの書にその名が書き記されていない者はみな、この獣を拝むようになる。
と記されています。
 この「獣」は、一節ー二節に、
また私は、海から一頭の獣が上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。その角には十の王冠があり、その頭には神を冒涜する様々な名があった。私が見たその獣は豹に似ていて、足は熊の足のよう、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と自分の王座と大きな権威を与えた。
と記されているように、「竜」によって表されているサタンに従う、海から上って来た獣です。この獣は一一節に記されている「地から上って来」た獣で、この後は「偽預言者」として出てきます。サタンはこれら二つの獣とともに、いわば三位一体を形成して、神の真似をして「女の子孫の残りの者」(一二章一七節)すなわち主の民たちを誘惑し、迫害していると考えられています。
 一七章八節には、
あなたが見た獣は、昔はいたが、今はいません。やがて底知れぬ所から上って来ますが、滅びることになります。地に住む者たちで、世界の基が据えられたときからいのちの書に名が書き記されていない者たちは、その獣が昔はいたが今はおらず、やがて現れるのを見て驚くでしょう。
と記されています。
 この獣には、五節に「意味の秘められた名、『大バビロン、淫婦たちと地上の忌まわしいものの母』という名」が額に記されている「女」が乗っていました。彼女は、「大バビロン」と言われてますが「淫婦たちと地上の忌まわしいものの母」とも言われています。「獣」はこの「女」と一体になっています。この「女」は、私たちの「母」である「上にあるエルサレム」(ガラテヤ人への手紙四章二六節)、「天から下って来る新しいエルサレム」(黙示録三章一二節、二一章二節、一〇節)に敵対しています。 この獣は歴史をとおして現れてきている反キリスト的な権力国家、特に、「昔はいたが、今はいません。やがて底知れぬ所から上って来ます」と言われているように、終わりのの時には、終末的な反キリストの帝国を意味しています。テサロニケ人への手紙第二・二章三節ー四節には、
どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。不法の者は、すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに対抗して自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言して、神の宮に座ることになります。
と記されており、八節ー一〇節には、
その時になると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされます。不法の者は、サタンの働きによって到来し、あらゆる力、偽りのしるしと不思議、また、あらゆる悪の欺きをもって、滅びる者たちに臨みます。彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。
と記されています。
 さらに、終わりの日の最終的なさばきのことを記している、黙示録二〇章一二節には、
また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。
と記されており、一五節には、
 いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。
と記されています。
 また、新しい天と新しい地のことを記している、二一章二七節には、
しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。
と記されています。

 このように、「いのちの書」に私たちの名が記されていることは、それが主によって「記されている」ので、また、神である主のとこしえからの主権的で一方的な愛と恵みよるみこころに基づいているので、それが確かなことであることが保証されています。 それはまた、主が厳しい試練や誘惑の多いこの時代においても、また、来たるべき時代、すなわち、新しい天と新しい地の歴史においても、私たちの神となってくださり、私たちをご自身の民として、御前を主とともに歩ませてくださること―― これが主の契約の祝福です―― を保証してくださるものです。


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