黙示録講解

(第539回)


説教日:二〇二五年四月一三日
聖書箇所:ヨハネの黙示録三章一節ー六節
説教題:サルディスにある教会へのみことば(七)

ローマの時代のサルディスは、毛織物や金細工の商工業が盛んで、それで、そこにあった教会もその繁栄にあずかっていて、社会的には豊かな教会になっていたと考えられます。また、栄光のキリストのみことばには、このサルディスにある教会に、他の諸教会にあったような、貧困や、異端的な教えによって教会が荒らされり、迫害によって苦しめられていることを示すものはありません。

 しかし主は、三節で、サルディスにある教会の人々が目を覚ましていない状態にあることを示しておられます。これは、サルディスにある教会のほとんどがこの世のあり方と妥協して、この世の流れに流されて歩んでいたことを示していると考えられます。

 けれども、四節ー五節には、

しかし、サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らがそれにふさわしい者たちだからである。

勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。

と記されています。

 ここでは、その「わずかな」人々は、「その衣を汚さなかった」と言われています。

また、その人々のことは、

 彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。

と言われています。さらに五節では、

 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。

と言われています。

 前回まで、白い衣のこととのかかわりでいくつかのことをお話ししてきました。今日はそのことと関連することをお話しします。


 四節後半では、

彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らがそれにふさわしい者たちだからである。

と言われています。

 ここで、

 彼らは白い衣を着て[直訳は「白い(衣)にあって」で、動詞「着て」はありません]、わたしとともに歩む。と言われていることばは栄光のキリストのみことばですが、動詞「歩む」は未来時制で表されています。それで、これは将来のことであり、約束のことばであると考えられます。そうであるとしますと、続く五節に、

 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる[未来時制]。

と記されていることが、約束なのではないかということが問題となります。

 これについては、スミルナにある教会へのみことばにおいても、二章一〇節に、

あなたがたは十日の間、苦難にあう。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。

と約束のことばが記されており、一一節に、

耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によって害を受けることはない。

と記されているという、類似の例があるので、ここだけが特別なことであるわけではないという見方があります。

 しかし、そこにも、違いがあります。一〇節に、

あなたがたは十日の間、苦難にあう。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。

と記されていることでは、

 あなたがたは十日の間、苦難にあうということを受けて、そうであっても、 死に至るまで忠実でありなさい。

と命じられています。そしてそれに従ったときに(そうすれば) わたしはあなたにいのちの冠を与える。

と(未来時制で)約束されています。

 ところが、このサルディスにある教会へのみことばにおいては、そのような命令と、それを守ったときには、という条件はなく、

しかし、サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らがそれにふさわしい者たちだからである。

と記されています。また、ここでは、

 彼らがそれにふさわしい者たちだからである。

と言われています。

 このような違いにもかかわらず、この二つには、共通していることがあります。それは、今のあり方、歩み方が、将来のあり方を決定し、将来の歩み方とつながっているということです。

 スミルナにある教会へのみことばにおいては、先ほどお話ししたとおりで、そのことははっきりしています。それで、サルディスにある教会へのみことばを見てみましょう。

ここで、

サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。

ということは(不定過去時制で)これまでのことを示しています。しかし、 彼らがそれにふさわしい者たちだからである。

ということは現在時制で記されていて、これまでも、今も、これからも、常にそうであることを示しています。

 これは、この「わずか」な人たちが、大多数の人たちがこの世のあり方に妥協し、従いながら歩んで、その衣を汚してしまっている中で、その衣を汚すことなく歩んだことによって、栄光のキリストとともに歩み続ける人々であることを実際に現していて、主もそれを認めておられることを意味しています。

 その意味で、この人々は実質的に、また実際的に、主の戒めを守っています。


 そのような主の戒めは、探すまでもなく、いくつもありますが、ここに出てくる「ふさわしく」ということばにかかわる戒めをいくつか見てみましょう。

 エペソ人への手紙四章一節には、

さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。

と記されています。また、ピリピ人への手紙一章二七節ー二八節前半には、

 ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。

と記されています。コロサイ人への手紙一章一〇節はパウロのとりなしの祈りの一部ですが、

主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。

と記されています。そして、テサロニケ人への手紙第一・二章一一節後半ー一二節には、私たちは自分の子どもに向かう父親のように、あなたがた一人ひとりに、ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神にふさわしく歩むよう、勧め、励まし、厳かに命じました。

と記されています。

 これらの戒めの中で、特に、注目したいのは、エペソ人への手紙四章一節ー六節です。そこには、

さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。

と記されています。

 一節では、まず、

 さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。

と言われています。この「さて」と、訳されている接続詞(ウーン)には、いろいろな意味合いがありますが、すべて、それまでに記されてきたことを踏まえています。ここでは、それをどのように訳すとしても、一章ー三章に記されていることが踏まえられて、記されているということが大切なことです。

 一節後半では、

 あなたがたは、召されたその召しにふさわしくみなさい。

と言われています。そして、それはどのように歩むことなのかということが、続く、二節ー三節で、

謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。

と説明されています。そして、そのように歩むことによって、私たちが一つであることが、実際に現されていきます。

 そのことは、続く四節ー六節において、

あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。

と言われていることから分かります。

 ここでは、ギリシア語で出てくる順序にしたがうと、「からだは一つ」、「御霊は一つ」、「召しの望みが一つ」、「主はひとり」、「信仰は一つ」、「バプテスマは一つ」、「すべてのものの父である神はひとり。この方は[関係代名詞]すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられます。」というように、私たちが一つとなることの根底にあって基盤になっていることが、七つ重ねられて示されています。

 最初に、「からだは一つ」と「御霊は一つ」が出てきますが、この「からだ」は一章二三節で、

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

と言われているときの、「キリストのからだ」である「教会」のことです。そして、私たちをキリストのからだとしてくださるために栄光のキリストと一つに結んでくださる方は御霊ですし、「すべてのものをすべてのもので満たす方」である栄光のキリストがご自身のからだである教会にご臨在してくださるのも、御霊によっています。

 これまでいろいろな機会に繰り返しお話ししてきたように、一章二〇節ー二一節では栄光を受けて死者の中からよみがえったキリストが「天上で」父なる神さまの右の座に着座されて、霊的な戦いに、原理的・実質的に、勝利しておられることが示されています。そして、二二節では、

また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。

と記されています。ここで、

 神はすべてのものをキリスト[直訳「彼」]の足の下に従わせ

と言われていることは、神である主が神のかたちとして造られている人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに触れている、詩篇八篇六節からの引用です。それで、ここエペソ人への手紙一章二二節では、キリストが神のかたちとして造られている人に委ねられている歴史と文化を造る使命を成就しておられることが示されています。そして、神はこの歴史と文化を造る使命を成就しておられるキリストを「すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました」と言われています。

 そして、二三節で、教会はそのキリストのからだであると言われています。このように、ここでは、キリストのからだである教会が「宇宙論的な」意味をもっている存在であることが示されています。


 教会が宇宙論的な意味をもっていることは、ローマ人への手紙八章一八節ー一四節前半に、

今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。私たちは、この望みとともに救われたのです。

と記されていることからも分かります。

 ここでは全被造物に「望み」があり、私たち神の子どもたちにも「望み」があることが示されています。そして、私たちの「望み」は全被造物の栄光化の中心にある「私たちのからだが贖われること」にあることが示されています。ここに出てくる「被造物のすべて」は物質的な被造物であり、非人格的な被造物のことです。歴史と文化を造る使命を委ねられてる人は、肉体という物質的な面をもっているという点で、この「被造物のすべて」とつながっています。ここで示されていることは、「私たち神の子どもの望みの宇宙論的な広がり」と言ったらいいでしょうか。

 エペソ人への手紙では、すでに触れた一章二〇節ー二三節に先立って、七節ー一〇節に、

このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。

と記されていて、私たちが神の豊かな恵みによって贖われて「みこころの奥義」を知らされていることには、宇宙論的な意味があることが示されています。それで、私たちは、今、その「みこころの奥義」が実現されることを祈り求めています。私たち主の民の祈りの模範となっている「主の祈り」は、その前半の三つの祈りは、特に、そうですが、私たちの毎日のあり方、歩み方に関わる祈りを含めて、このような宇宙論的な視点から祈る祈りです。

 私たちが「被造物のすべて」が待ち望んでいる神の子どもとして、すでに、現れてきていることは、私たちの毎日のあり方、歩み方に示されています。コリント人への手紙第一・一〇章三一節に、

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

と記されているように、神の子どもとしての私たちには「食べるにも飲むにも」というごく日常的なことにおいても、「神の栄光を現すために」という動機と目的があります。それは、食べること飲むことによって力を得て、何かをなし遂げて神の栄光を現すということではなく、食べること飲むこと自体が神の栄光を現すことになっているということです。どのようなことかと言いますと、かつて罪の闇の中にあった私たちは「この世」にあって、ただ、目の前にある食べ物を食べていると思っていました。しかし今は、父なる神がお造りになったすべてのものを支えておられる中で、穀物も芽生えさせ、成長させ、実を結ばせてくださっているものであることを理解しています。それで、この父なる神を信頼して、

 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

と祈っていますし、与えていただいたものを、父なる神に感謝しながら食べています。 パウロはさらに二章一節ー一〇節において、罪過と罪の中に死んでいた私たちを、神がその豊かな愛と恵みによって、キリストとともに生かしてくださり、キリストとともによみがえらせてくださって、キリストとともに「天上に」座らせてくださっていることを示しています。このように、私たちをキリストとともに「天上に」座らせてくださっていることは、私たちがキリストにあって「来たるべき時代」、「新しい時代」の歴史と文化を造る使命を果たす者とされていることを意味しています。七節では、

それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。

と言われています。

 そして、一九節ー二〇節では、キリストのからだである教会のことが、私たち異邦人とユダヤ人の関係という観点から、一二節ー一八節に記されていること踏まえてですが、こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

と記されています。

 続く三章では、五節において、自分は啓示によって「奥義」を知らされたと言って、六節で、その「奥義」が、

福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。

と記しています。これによって、ここでは、すでに二章に記されていたことを受けていることが分かります。

 そして、八節ー一三節で、

すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためです。これは、今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵が知らされるためであり、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた、永遠のご計画によるものです。私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。

と記しています。

 ここでも、一〇節に、

これは、今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵が知らされるためであり、

と記されているように、ユダヤ人と異邦人からなるキリストのからだである教会が宇宙論的な意味をもっていることが示されています。この「天上にある支配と権威」は、一章二一節で「天上において」父なる神さまの右の座にいておられるキリストの権威に服していると言われている「支配、権威、権力、主権」に当たる存在です。

 このように、エペソ人への手紙一章ー三章においては、キリストのからだである教会の宇宙論的な意味が、いわば、教理的、聖書神学的に示されています。四章からはそれを受けて、いわば、実践的なことが記されています。

 それで、四節一節ー六節に記されていることにも、教会が宇宙論的な意味をもっていることは反映しています。それは六節に、

すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。

と記されていることに見られます。私たちが、「召されたその召しにふさわしく歩み」、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ち」続けることの根底にあって基盤になっていることにも、宇宙論的な意味があることが分かります。

           *

 四章一節ー六節に記されていることとのかかわりでもう一つ注目したいのは、私たちが召されていること関連する「召しの望み」のことです。

 一章一七節ー一九節にはパウロのとりなしの祈りが記されていますが、その一八節に、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、・・・知ることができますように。

と記されている中に「神の召しにより与えられる望み」として出てきます。これが「望み」であるという点では、みことばにおいて約束されているけれどもいまだ完全には実現していないことです。けれども、それは、みことばに約束されているという点で確実な望みであり、単なる望みではありません。

 ローマ人への手紙五章一節ー五節には、

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

と記されています。

 一節ー二節では、私たちは、今すでに、信仰によって義と認められており、神との平和をもっている恵みのうちにあると言われています。その上で、「神の栄光にあずかる望みを喜んでいます」と言われています。神が、すでに、このような恵みの御業を私たちになしてくださっているなら、私たちが「神の栄光にあずかる」ようになることは確かなことです。その神のキリストにあって、御霊による確なお働きが、私たちのうちにおいても、

 苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す

ようになるのです。

 この「練られた品性」(ドキメー)は、「批判的に試験する」とか「真正性の判断をする」を意味することば(ドキマゾー)と関連することばです。このことば(ドキマゾー)は、また、その試験や判断の結果「合格とすること」や「良し(真正である)とする」ことをも意味します。それで、「練られた品性」(ドキメー)は、苦難や試練によって鍛えられた品性のことであると考えられます。

 この「神の栄光にあずかる望み」は、すでに、御霊のお働きによって私たちのうちに実現し始めています。コリント人への手紙第二・三章一八節に、

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されているとおりです。

 それは、終わりの日に栄光のキリストが再臨される日に、私たちがキリストにあって、御霊によって復活するときに完全に実現します。ヨハネの手紙第一・三章二節に、

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

と記されているとおりです。

 そして、それは、ローマ人への手紙八章二九節に、

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

と記されており、エペソ人への手紙一章四節ー五節に、

神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されているように、神の永遠からのみこころによることです。

 すでにお話ししたように、この私たちの栄光化は個人的なことで終わらず、キリストのからだである教会の栄光化につながり、それが全被造物の栄光化の中心にあるという、宇宙論的な意味があります。

 この世の流れに従って歩んでいながら、自らを良しとしていた(「生きている」という名をもっていると考えていた)サルディスにある教会の大部分の人々には、そのような、自分たちの現実とはかけ離れた、終わりの日における神のみこころの完全な実現ということと、その宇宙論的な意味は、視野に入っていなかったことでしょう。


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