黙示録講解

(第40回)


説教日:2011年8月14日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(38)


 これまで、ヨハネの黙示録1章1節に出てきます「すぐに起こるはずの事」ということばとのかかわりで、栄光のキリストの再臨について、いろいろなことをお話ししてきました。いまは、ペテロの手紙第二・3章3節ー13節に記されています、終わりの日に関するペテロの教えについてお話ししています。これまで6回にわたって、10節に記されています、

しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

という教えについてお話ししてきました。そして、今は、その後半に記されている、

その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

という教えについてお話ししています。最後にお話ししようとしているのは、「主の日」に、ここに記されているようなことが起こるのはどうしてなのか、あるいは、それにはどのような意味があるのかということです。
 これまで、このこととの関連で、神さまがお造りになったこの世界の歴史に終わりの日があることとと、その日に最終的なさばきが執行されることは、神さまの創造の御業に基づいているということをお話ししました。
 簡単に復習しておきますと、これには、基本的に、二つのことがかかわっています。ひとつは、神さまが創造の御業において、この世界を歴史的な世界としてお造りになったということです。もうひとつは、神さまが人を神のかたちにお造りになって、人にご自身がお造りになったこの世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったということです。
 神さまがお造りになったこの世界が歴史的な世界であるということは、この世界が、これをお造りになった神さまのみこころに沿った目的に向かって進展していく世界として造られているということです。その目的は、この世界の歴史を通して、造り主である神さまご自身の愛と恵みといつくしみに満ちた栄光が、より豊かに現されるようになり、いっさいの栄光が神さまに帰せられ、神さまが讚えられるようになることにあります。
 また、神さまは、創造の御業において、人を神のかたちにお造りになって、人にご自身がお造りになったこの世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。創世記1章27節、28節に、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されているとおりです。
 神さまは人を神のかたちにお造りになりました。それは、神さまが人を、ご自身を知っているものとしてお造りになったということを意味しています。人は造り主である神さまを知っているものとして造られているのです。
 神のかたちに造られた人が造り主である神さまを知っているということについては、注意深く考える必要があります。ローマ人への手紙1章21節、22節には、

それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

と記されています。ここに記されているのは、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人の現実です。その、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人について、

彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、

と言われています。ここでは、「彼ら」が造り主である神さまを知っているということが根底にあって、そのために、「彼ら」が造り主である神さまを神としてあがめず、感謝もしないことが、「彼ら」の責任であるとして糾弾されています。つまり、そのように糾弾されている「彼ら」は神を知っているというということです。
 ですから、神のかたちに造られた人はすべて、造り主である神さまを知っているものとして造られており、神さまを知っています。このことは、人が人であるかぎり変わることはありません。[これは形而上的・心理的なことです。]
 しかし、人は、自らの罪のために腐敗してしまっている意志によって、造り主である神さまを神としてあがめることはなく、感謝をすることもないばかりか、「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えて」しまっています。この後の25節に記されていることばでいいますと、「彼ら」は「神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えた」ということです。[これらのことは、認識的・倫理的なことです。]それで、「彼ら」はその責任を問われることになります。
 このように、神のかたちに造られた人は造り主である神さまを知っているものとして造られています。しかし、それは、ただ単に、神のかたちに造られた人に「神の観念」とか「神概念」があるというだけのことではありません。神さまの本質的な特性は愛です。それで、神のかたちの本質的な特性も愛です。このことは、神のかたちに造られた人が造り主である神さまとの愛の交わりのうちに生きるものとして造られていることを意味しています。ですから、神のかたちに造られた人は、実際に、造り主である神さまとの愛の交わりのうちに生きることによって、神さまを生きた御方として知るものとして造られているのです。
 さらに、神のかたちに造られた人は、神さまが自分たちと自分たちの住んでいる世界の造り主であられることを知っています。それもまた、単なる知識ではありません。神のかたちに造られた人は造り主である神さまを知っているので、造り主である神さまを神として礼拝し、いっさいの栄光を神さまに帰し、感謝と讃美をもって神さまに仕えます。神のかたちに造られた人にとっては、それが最も自然で、当然の姿です。
 ただし、実際には、先ほど引用しましたローマ人への手紙1章21節、22節に記されていましたように、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人は、自らの罪のために腐敗してしまっている意志によって、造り主である神さまを神としてあがめることはなく、感謝をすることもないばかりか、「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えて」しまっています。
 また、神さまは、神のかたちに造られた人に、ご自身がお造りになったこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。当然、神さまは神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命を果たすために必要な、さまざまな能力をお与えになりました。その根本には、人は神のかたちに造られていて、造り主である神さまを知っており、最も自然なこととして、造り主である神さまとの愛の交わりのうちにあるものとして、神さまを礼拝し、いっさいの栄光を神さまに帰し、感謝と讃美をもって神さまに仕えるものであるという事実があります。ですから、神のかたちに造られた人は、造り主である神さまを神として愛し、礼拝する生活の中で、与えられているさまざまな能力を用いて、歴史と文化を造る使命を果たし、神さまの栄光を現すものであるのです。
 神のかたちに造られた人が造り主である神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことによって、この世界は愛と恵みといつくしみに満ちた神さまのご栄光をより豊かに現すようになります。言い換えますと、神のかたちに造られた人は、造り主である神さまの愛と恵みといつくしみに満ちたご栄光を映し出す歴史と文化を造る使命を委ねられているのです。そのようにして神のかたちに造られた人が造る歴史と文化は、造り主である神さまを愛し、礼拝することを中心としており、神さまにいっさいの栄光が帰せられて、神さまが讚えられるようになることを目的としている歴史と文化です。
 このように、神さまがこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、神のかたちに造られた人に、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったのであれば、神さまは神のかたちに造られた人が委ねられた歴史と文化を造る使命をどのように果たしたかについての評価をなさるはずです。そして、その評価は、最終的には、歴史の終わりになされることになります。このことが、終わりの日に最終的なさばきが執行されることの根底にあります。
 実際には、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、人は自らの罪を自己中心性を表現する歴史と文化を造るようになってしまいました。それに対する、神さまの「評価」は「さばき」という形を取ることになります。これが、終わりの日における神さまのさばきです。


 このことには、もうひとつのことがかかわっています。
 先ほどお話ししましたように、神さまの本質的な特性は愛です。それで、神のかたちの本質的な特性も愛です。神さまは、人をご自身との愛の交わりのうちに生きるものとしてお造りになりました。神のかたちに造られた人は造り主である神さまとの愛の交わりのうちに生きることによって、神さまを生きた御方として知るものです。
 実は、この、神さまと神のかたちに造られた人との愛の交わりも歴史的なものです。それは、神のかたちに造られた人が歴史的な存在であることからしますと、当然のことでもあります。このことは、神さまと神のかたちに造られた人との愛の交わりが、いわば、現状維持という形でいつまでも続くだけのものではないということを意味しています。これは、歴史的な存在である人の愛の特質にかなっています。私たち人間の間の愛は、お互いの成長とともに深められていきます。そのことは、親子の間の愛にも見られますし、夫の妻の間の愛にも見られます。さらには、信仰の家族においても、お互いがさまざまな試練によって試されつつ成長していくにしたがって、その愛の交わりが深められていくことにも見られます。神さまはご自身と神のかたちに造られた人の愛の交わりが、さらに深く豊かな愛による交わりとなるようにしてくださいました。
 そのことは、神さまの永遠のご計画である永遠の聖定において、神さまが定めてくださったことです。エペソ人への手紙1章3節ー6節には、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と記されています。
 4節では、神さまがその永遠の聖定において、私たちが「御前で聖く、傷のない者」となるように、私たちをキリストにあってお選びになったと言われています。そして、5節では、

神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と言われています。[注]

[注]ここで「愛をもってあらかじめ定めておられました」と言われているときの「愛をもって」と訳されていることば(エン・アガペー)は、4節の最後、すなわち、この5節の前に出てきます。この節の区切りは霊感されてはいませんので、決定的なものではありません。新改訳は、このことばが、これに続く部分にかかっていると解釈しています。同時に、これがその前の部分にかかっていて、「御前で、愛にあって、聖く、傷のない者」となるという解釈の可能性もあります。私としましては新改訳の訳のようではないかと思いますが、決定しがたいところがあります。

 神さまは永遠の聖定において、私たちが「御前で聖く、傷のない者」となるように、私たちをキリストにあってお選びになりました。これは、私たちが神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまうことを踏まえています。私たちが神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまってもなお、「御前で聖く、傷のない者」となるように、私たちをキリストにあってお選びになったということです。さらに、神さまは「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと」定めておられます。
 これらのことは、御子イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことによって、私たちの間に実現しています。
 エペソ人への手紙では、1章7節には、

この方「イエス・キリスト]にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

と記されています。私たちはイエス・キリストの十字架の血によって罪を贖われ、神さまの御前に「聖く、傷のない者」としていただいています。
 また、ガラテヤ人への手紙4章4節ー6節には、

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

と記されています。ここで、

その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

と言われているときの「子としての身分」と訳されたことば(ヒュイオセシア)は「養子とすること」を意味しています。これは、エペソ人への手紙1章5節で、

私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと

と言われているときの「子にしようと」と訳されていることばと同じことばです。
 また、このことばは、ローマ人への手紙8章14節、15節で、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

と言われている中にも用いられています。「子としてくださる御霊を受けたのです」と言われているときの「子としてくださる」と訳されていることばが、この「養子とすること」を意味していることばです。
 ここで忘れてならないのは、その当時の文化の中では、養子として迎え入れられた子も実子と同じ権利をもっていたということです。
 この場合、実子とは御子イエス・キリストのことです。イエス・キリストは、初めから、父なる神さまのことを「わたしの父」と呼んでおられました。マタイの福音書においては、7章21節、10章32節、33節、11章27節、12章50節16章17節、18章10節、19節、35節、20章23節、26章29節に記されています。ヨハネの福音書では2章16節、5章17節、43節、6章32節、40節、8章19節、54節、10章18節、29節、37節、14章2節、21節、23節、15章1節、8節、10節、23節、24節、20章17節に記されています。これらの個所を、お時間のあるときに見てくだされば、気づかれることがあると思います。また、イエス・キリストは父なる神さまに向かって、個人的に、「アバ、父」と呼びかけておられました(マルコの福音書14章36節、参照・ヨハネの福音書11章41節、12章27節、28節、17章1節、5節、21節、24節、25節)。私たちは御子イエス・キリストにあって、父なる神さまの養子として迎え入れていただいています。それで、私たちも、父なる神さまに向かって、個人的に、「アバ、父」と呼ぶことができる特権と祝福を与えられているのです。

 これは、私たちがイエス・キリストにあって、父なる神さまの御前において、子として受け入れていただいており、それにふさわしい愛を注いでいただき、父なる神さまとの親しい交わりのうちに生きる者としていただいていることを意味しています。そのような祝福と特権を私たちの現実としてくださっている「法的な根拠」は、御子イエス・キリストが十字架にかかって私たちの罪を完全に贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことです。また、そのような祝福と特権を私たちの現実としてくださっているのは、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった罪の贖いに基づいてお働きになる御霊です。ガラテヤ人への手紙4章6節で、御霊のことが

 「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊

と言われており、ローマ人への手紙8章15節で、

 私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

と言われているとおりです。
 このように、神さまは私たちをご自身の御前に出でて、親しく「アバ、父」と呼びかけることができるまでの近さと親しさにおいて、神さまとの愛の交わりができる祝福と特権にあずからせてくださっています。しかし、いろいろな機会にお話ししていますように、最初に神のかたちに造られたときのアダムも、このように神さまのことを「アバ、父」と呼びかけることができるほどの近さと親しさにおいて、神さまとの愛の交わりをもつことはできませんでした。また、御使いたちでさえ、神さまに向かって、個人的に親しく、「アバ、父」と呼びかけることはできません。神さまに向かって、個人的に親しく、「アバ、父」と呼びかけることは、御子イエス・キリストの特権であり、御子イエス・キリストにあって父なる神さまの子として迎え入れていただいている、私たち主の契約の民の特権と祝福です。

 私たちが父なる神さまのことを「アバ、父」と呼びかけることができるほどの近さと親しさにおいて、神さまとの愛の交わりをもつことができるのは、私たちが御子イエス・キリストの栄光にあずかって、栄光あるものとされることによっています。
 ローマ人への手紙8章28節ー30節には、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と記されています。29節で、

神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた

と言われているのは、神さまの永遠の聖定におけるご計画のことです。ここでは、神さまは私たちを、

 御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた

と言われています。これは、私たちを「御子のかたちと同じ姿」にしてくださることを意味しています。私たちの実質を変えてくださるということです。これに対しまして、先ほどのエペソ人への手紙1章5節では、

神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と言われていましたが、これは、私たちに神さまの「」としての身分とそれにともなう特権と祝福を与えてくださることを述べています。これは「法的」なことです。
 神さまは私たちにご自身の「」としての身分とそれにともなう特権と祝福を与えてくださるだけでなく、それにふさわしい、実質を与えてくださいます。それが、私たちを「御子のかたちと同じ姿」にしてくださることです。この「御子のかたちと同じ姿」とは、私たちのために十字架にかかって死んでくださった後、栄光を受けてよみがえってくださった栄光のキリストのかたちのことです。私たちは栄光のキリストに似た者となるのです。言い換えますと、私たちは栄光のキリストに似た者としてよみがえるのです。
 御子イエス・キリストが人の性質を取って来てくださったときの人としての性質は、最初に神のかたちに造られたときのアダムと同じ人の性質でした。それは神のかたちとしての栄光と尊厳性にある人の性質です。そのイエス・キリストが十字架の死まで父なる神さまのみこころに従いとおして栄光をお受けになりました。私たちは、この栄光のキリストに似た者となるのです。最初に造られた人にも、神のかたちとしての栄光がありましたが、それよりもさらに栄光のある者となるということです。
 先ほど引用しましたローマ人への手紙8章30節には、

神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と記されていました。ここでは、

 義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と言われています。この場合、私たちに「栄光」が与えられるということは、私たちが「御子のかたちと同じ姿」になること、私たちが栄光のキリストに似た者としてよみがえることを意味しています。私たちはすでにイエス・キリストとともによみがえっていますが、そのことが完全な形で実現することが、ヨハネの手紙第一・3章2節に、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と記されています。
 終わりの日には、栄光のキリストが再臨されます。それは、人類の罪をすべておさばきになるためですが、それとともに、いやそれ以上に、父なる神さまが私たち主の契約の民に与えてくださっている、ご自身の子としての身分とそれにともなう特権と祝福を、完全な形で私たちのものとしてくださるためです。
 このことが、ペテロの手紙第二・3章10節に、

その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

と記されていることと深くかかわっています。ここに記されていることは、未曾有の天変地異とも言えることです。東日本大震災を経験した私たちに取りましては、まことに、不安に駆り立てられることでありましょう。しかし、私たちはこのことも、福音のみことばの光の下で受け止めなければなりません。ここに記されていることは、父なる神さまが、御子イエス・キリストにあって、私たちをご自身の子としてくださっていることを、完全に実現してくださることとかかわっているのです。このことにつきましては、改めて、お話ししたいと思います。


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