黙示録講解

(第39回)


説教日:2011年8月7日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(37)


 ヨハネの黙示録1章1節には、この書に記されていることを全体的に要約する、「すぐに起こるはずの事」ということばが出てきます。それで、黙示録には「すぐに起こるはずの事」が記されています。これまで、このことばをどのように理解するかということから、聖書に記されている預言がどのようなものであるかということを初めとして、いろいろなことをお話ししてきました。そして、最後の問題として、22章7節、12節、20節に記されています、

 見よ。わたしはすぐに来る。

という、栄光のキリストのみことばを取り上げています。このみことばが記されてから2千年たった今も、イエス・キリストの再臨がないことを、どのように理解したらいいかということです。
 この栄光のキリストの再臨とのかかわりでも、いろいろなことをお話ししてきましたが、いまは、ペテロの手紙第二・3章3節ー13節に記されています、終わりの日に関するペテロの教えについてお話ししています。いま取り上げているのは、10節に記されています、

しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

という教えです。
 先週と先々週は、この神さまがお造りになった世界の歴史に終わりの日があることとと、その日に最終的なさばきが執行されることは、神さまの創造の御業に基づいているということをお話ししました。
 これには、基本的に、二つのことがかかわっています。
 ひとつは、神さまがこの世界を歴史的な世界としてお造りになったということです。この世界が歴史的な世界であるということは、この世界がただ単に時間とともに変化していく世界であるということではありません。この世界をお造りになった神さまのみこころに沿った目的に向かって進展していく世界として造られているということです。その目的は、この世界の歴史を通して、造り主である神さまご自身の愛と恵みといつくしみに満ちた栄光が、より豊かに現されるようになり、いっさいの栄光が神さまに帰せられ、神さまが讚えられるようになるということです。
 もうひとつのことは、造り主である神さまが、創造の御業において、人を神のかたちにお造りになり、神のかたちに造られた人にこの世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったということです。創世記1章27節、28節に、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されているとおりです。
 神さまがこの世界を歴史的な世界としてお造りになったことと、神のかたちに造られた人に、この世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことは、ひとつのことの裏表のような関係にあります。神のかたちに造られた人が委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことによって、この世界が愛と恵みといつくしみに満ちた神さまのご栄光をより豊かに現すようになります。そして、そのようにして、神さまにいっさいの栄光が帰せられて、神さまが讚えられることも、神のかたちに造られた人が委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことの中でなされることです。


 きょうは、このこととのかかわりで、詩篇8篇を取り上げたいと思います。これまで、詩篇8篇を何度も引用してきましたが、この詩篇そのものについては、あまりお話ししていませんでした。それで、この詩篇についてお話ししたいと思います。とはいえ、やはり、今お話ししていることと関連していることしか取り上げることはできません。
 詩篇8篇には、

 私たちの主、よ。
 あなたの御名は全地にわたり、
 なんと力強いことでしょう。
 あなたのご威光は天でたたえられています。
 あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、
 力を打ち建てられました。
 それは、あなたに敵対する者のため、
 敵と復讐する者とをしずめるためでした。
 あなたの指のわざである天を見、
 あなたが整えられた月や星を見ますのに、
 人とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを顧みられるとは。
 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。
 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。
 私たちの主、よ。
 あなたの御名は全地にわたり、
 なんと力強いことでしょう。

と記されています。
 この詩篇8篇は、

 私たちの主、よ。
 あなたの御名は全地にわたり、
 なんと力強いことでしょう。

という讃美のことばで始まっており、同じ讃美のことばで終わっています。ですから、この詩篇では基本的に神さまの栄光と偉大さが讚えられています。しかも、ここで、讚えられている神さまは、

 私たちの主、よ。

と呼びかけられていますように、契約の神である主、ヤハウェです。ヘブル語本文では、契約の神である主の御名である「ヤハウェ」が先に出てきて、「私たちの主」がそれに続いています。ただ、これは基本的に契約の神である主、ヤハウェへの呼びかけですので、日本語では、

 私たちの主、よ。

というように、ヤハウェを後にもってきて「」と訳すことになります。

 あなたの御名は全地にわたり、
 なんと力強いことでしょう。

と言われているときの「御名」は、契約の神である主、ヤハウェの御名です。主の御名は、主がどのような御方であるかを示しています。主がご自身の御名を示してくださることは、主がご自身がどのような御方であるかを啓示してくださることです。ヤハウェという御名は、出エジプトの時代に、神さまがモーセを召してくださったときに示してくださった、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名を指し示しています。そのことが記されている出エジプト記3章では、この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名が、

 わたしはある

に短縮され、さらに3人称化される形で、「ヤハウェ」となっていると考えられます。さらに、そこで主はご自身のことを、

 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、

として示してくださっています。主は、その御名が示すとおり、アブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約に対して真実であられ、エジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を顧みてくださり、力強い御手をもって、エジプトから贖い出してくださいました。決して、イスラエルの民に価値があったからではありません。主がその一方的な愛をもってイスラエルの民を顧みてくださり、アブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださったご自身の契約において約束してくださったことを実現してくださったのです。
 この詩篇8篇では、その御名が「全地にわたり」と言われています。これは、主がご自身の御名を「全地に」置かれたことを意味しています。主がその御名を置かれる所には、主がご臨在されて、ご自身が主であられることを、創造の御業と摂理の御業、特に、救いとさばきの御業において、現してくださいます。

 なんと力強いことでしょう。

と言われているときの「力強い」と訳されていることば(アッデール・形容詞)は、威厳のあることを表していますが、そこに力強さや権威が伴っていて、それに触れる者たちが、恐れ敬い、従うという意味合いがあります。これによって、主はご自身の御名を置かれた「全地」において、ご自身の御業を遂行され、必ず、みこころを実現してくださるということが示されています。
 これに続いて、

 あなたのご威光は天でたたえられています。

と言われています。これは、原文のヘブル語がとても分かりにくい[「たたえられています」と訳されたことばは「与える」を意味する動詞(ナータン)の命令形であるように思われます。]ために、いろいろと議論されています。これは、新改訳第3版のように、

 あなたのご威光は天でたたえられています。

ということか、新改訳第2版のように、

 あなたはご威光を天に置かれました。

ということでしょう。この第2版の訳は、新国際訳の訳でもあります。
 「ご威光」と訳されていることば(ホード・名詞)は、基本的に「威光」を意味していますが、やはり、そこに強い力や権威が伴っているという意味合いがあります。
 ここでのポイントは「天で」ということで、その前の「全地にわたり」と相まって、主の威厳と威光が「天」と「地」すなわち、神さまがお造りになった世界全体、今日のことばで言えば広大な宇宙のすべてに行き渡っていることを意味しています。契約の神である主、ヤハウェは、ご自身がお造りになったこの世界のすべてにおいて、御力をもって治めておられ、ご自身のみこころをすべて実現されます。
 このことを踏まえたうえで、最初の、

 私たちの主、よ。

という呼びかけを見てみますと、そのような契約の神である主、ヤハウェが「私たちの主」であられることが告白されていることが分かります。私たちが身を置いているこの「全地」においてだけでなく、「」においても、すなわち、ご自身がお造りになったこの広大な宇宙のどこにおいても、ご自身のみこころに従って御業をなし、栄光を現される契約の神である主、ヤハウェが「私たちの主」であられるというのです。このことから、主、ヤハウェは、ご自身がその契約において私たちに約束してくださったことは、必ず成し遂げてくださることを汲み取ることができます。
 このことは、栄光のキリストにおいて、私たちの現実になっています。マタイの福音書28節18節には、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

というイエス・キリストのみことばが記されています。栄光のキリストは、このことに基づいて、私たち新しい契約の民のために贖いの御業を成し遂げてくださり、私たちを死と滅びから救い出してくださっただけでなく、私たちを復活のいのち、栄光あるいのちに生きるものとしてくださり、新しい時代、来たるべき時代の歴史と文化を造る使命を委ねてくださっています。

 2節では、

 あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、
 力を打ち建てられました。
 それは、あなたに敵対する者のため、
 敵と復讐する者とをしずめるためでした。

と言われています。
 主、ヤハウェの力強い威厳と威光は、不思議な形で表されているということが告白されています。ここでは、まず、「幼子と乳飲み子たち」のことが取り上げられています。「幼子」と訳されたことば(オーレール[異形のオーラールも含む])は旧約聖書に20回用いられていて、おもに、彼らが戦いや飢饉などの災悪の犠牲になっていることで出てきます。しかも、それらの災悪の原因は、人々が犯した罪にあります。用例の中では、わずかながら、祝福された状態にあることが示される中でも用いられています。
 また、「乳飲み子たち」ということば(ヨーネーク)は旧約聖書に11回用いられていて、やはり、おもに、災悪の犠牲になっていることで出てきます。
 この詩篇8篇では「幼子と乳飲み子たち」について、このような災悪の犠牲となっているという意味合いがあるかどうか問われることになりますが、主に「敵対する者」や「敵と復讐する者」たちのことが出てきますので、そのような意味合いがあると思われます。[注]

[注]ここで、「あなたに敵対する者」は、言うまでもなく、主ヤハウェに敵対する者たちのことです。詳しい議論を省きますが、「敵と復讐する者」は主の契約の民に敵対する者たちのことであると考えられます。そして、「幼子と乳飲み子たち」は主の契約の民のことでもあります。

 そうであるとしますと、この「幼子と乳飲み子たち」は自分の力では自分を守ることもできない、かよわい存在であることを示しています。同時に、人々が犯した罪が原因で災いが下ったことを記す記事の中で「幼子」や「乳飲み子」たちのことが取り上げられているのは、「『幼子』や『乳飲み子』までもが」ということで、その悲惨さを強調しています。そこには、「幼子」や「乳飲み子」たちが踏みにじられてしまうことへの痛みがあり、「幼子」や「乳飲み子」たちが踏みにじられてしまってはならないという思いが潜んでいます。
 この詩篇8篇2節では、契約の神である主、ヤハウェが、このような「幼子と乳飲み子たちの口によって」「力を打ち建てられ」たと言われています。主は「幼子」や「乳飲み子」たちに御目を留めておられるのです。
 ここで「力を打ち建てられ」たと言われているときの「」と訳されたことば(オーズ)は、基本的には「」を意味していますが、この後に、「あなたに敵対する者」すなわち、主、ヤハウェに敵対している者たちが取り上げられていることからしますと、「砦」を意味していると考えられます。
 このことに照らして見ますと、「幼子と乳飲み子たちの口によって」ということは、自分の力では自分を守ることもできない、かよわい存在である「幼子と乳飲み子たち」が、この罪に満ちた世界において起こるさまざまな災いの犠牲者となってしまう状況で、泣いている様子が汲み取れます。そこでの唯一の希望は、「全地」においても「」においても、ご自身のみこころに従って御業をなし、栄光を現される、契約の神である主、ヤハウェがその声を聞いてくださっていることです。ルカの福音書18章7節、8節には、

まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。

というイエス・キリストの教えが記されています。契約の神である主、ヤハウェは「幼子と乳飲み子たち」の叫びをお聞きになって、ご自身に敵対している者たちをしずめられます。
 お気づきのことと思いますが、この「幼子と乳飲み子たち」は、本当の意味で、自分の力では自分を守ることもできないために、ひたすら主の恵みとあわれみに頼るほかはない、私たち主の契約の民のことでもあります。
 また、ここで、主がこの地においてだけでなく、天においても威光を示しておられると言われていることから、ここで取り上げられている、主に敵対している者たちには、エペソ人への手紙6章12節で、

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

と言われている「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」たちが含まれていると考えられます。

 これらのことを受けて、詩篇8篇3節ー6節には、

 あなたの指のわざである天を見、
 あなたが整えられた月や星を見ますのに、
 人とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを顧みられるとは。
 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されています。
 5節で、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

と言われているのは、人が神のかたちに造られていることを述べたものです。そして、6節で、

 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と言われているのは、神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命が委ねられたことを述べるものです。
 5節で、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、

と言われているときの「」と訳されていることば(エローヒーム)が何を意味しているかについて、いろいろな理解があります。[注]

[注]このエローヒームということばは、エローハの複数形です。このことばは、聖書の中では、おもに、唯一の神を表すのに用いられています。この場合の複数形は、「尊厳の複数形」と呼ばれるもので、これにかかる動詞は単数形です。これとともに、このことばが異教の「神々」を表す場合もあります。その場合には、これにかかる動詞も複数形です。さらに、このことばは、天的な存在、すなわち「御使いたち」を表す場合もあります。それで、これら三つの意味にしたがって、いろいろな理解があります。

 ヘブル語聖書のギリシャ語訳である七十人訳では、このことば(エローヒーム)は「御使いたち」と訳されています。そして、ヘブル人への手紙2章6節ー8節には七十人訳が引用されています。ですから、この理解の可能性は高いと考えられます。実際、新国際訳(NIV)は、本文で「御使いたち」と訳し、欄外訳として「神」を示しています。
 ただし、七十人訳では、ヘブル人への手紙3章7節にありますように、

 御使い[たち]よりも、しばらくの間、低いものとし

となっていて、ヘブル語本文の「神[御使いたち]よりいくらか劣るもの」の「いくらか」(程度)が「しばらくの間」(期間)となっています。
 おそらく、このことばを「御使いたち」と理解することには、人が「神よりいくらか劣るもの」として造られているということに対する疑問が、大きく作用しているのではないかと思います。造り主である神さまと神さまによって造られたものとの間には「絶対的な区別」があります。それで、人が「神よりいくらか劣るもの」として造られているということはおかしいと感じられるのです。実際、詩篇8篇では、すでにお話ししました1節で、

 私たちの主、よ。
 あなたの御名は全地にわたり、
 なんと力強いことでしょう。
 あなたのご威光は天でたたえられています。

と言われており、3節、4節で、

 あなたの指のわざである天を見、
 あなたが整えられた月や星を見ますのに、
 人とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを顧みられるとは。

と言われていますように、神さまの偉大さが讚えられる一方で、人の存在の小ささが強調されています。
 しかし、ここでこのことばが「神」を意味しているという理解の可能性もあります。私はこの理解を取っています。というのは、ここでは、そのような、神さまの偉大さと人の小ささが対比されつつ、いま引用しました4節にありますように、神さまがその小さな人を顧みてくださって、5節にありますように、「栄光と誉れの冠をかぶらせ」てくださり、6節にありますように、

 万物を彼の足の下に置かれました。

と告白されています。その意味において、この、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、

ということばは、もちろん、被造物の限界の中でのことではありますが、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに、「この上なく近づけられていること」を示している可能性があります。その場合の「神よりいくらか劣る」は神学的に厳密に神さまと人との間の違いを測っているというより、詩的な「誇張法」のようなものでしょう。[注]

[注]ことばの上からだけ言いますと、「いくらか劣る」ということばを誇張法と言うのはおかしいのですが、至高の神さまとの関係で、人のことを「いくらか劣る」と言うのは、「誇張法」と言うほかありません。

 いずれにしましても、契約の神である主、ヤハウェは、「私たちの主」となってくださり、私たち主の民をご自身に近づけてくださいました。そして、存在においてはまったく取るに足りない人に、「栄光と誉れの冠をかぶらせ」てくださり、神さまがお造りになったこの世界の歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。それは、私たちの力を当てにしてのことではありません。ひとえに、主が、

 私たちの主、よ。
 あなたの御名は全地にわたり、
 なんと力強いことでしょう。
 あなたのご威光は天でたたえられています。

と讚えられる御方であることによっています。

 先ほどお話ししましたように、私たち主の契約の民は「幼子と乳飲み子たち」に当たります。
 祈祷会では信仰のために迫害を受けている主の民のために祈っています。その情報は世界福音同盟が配信しているものに頼っていますが、主の民がさまざまな形での迫害によって、投獄されたり、職を失ったり、いのちを失ったり、集会の場を破壊されたり、指導者を失ったりしています。私たちが知りえたかぎりでは、その多くが、偽りの告発によるものです。それでも、この、今はまだお会いしていない兄弟姉妹たちは、主を礼拝し、主の御名を讚え続けています。また、多くの兄弟姉妹たちがそのあかしをまっとうして、この世を去っていかれました。人の目には、その声は迫害の嵐の中でかき消されてしまっているように見えます。まさに、「幼子と乳飲み子たちの口によって」という事態です。しかし、契約の神である主は、その礼拝をお受けになり、その讃美と祈りをお聞きになっておられます。そして、その「幼子と乳飲み子たちの口によって」ご自身の「砦」を築いておられます。
 私たちは、いま、表立った迫害の中にはいませんが、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、罪を贖っていただき、神の子どもとしていただいているものとして歩んでいます。そして、この世にありながら、新しい時代、新しい世の歴史と文化を造る使命を委ねられているものとして歩んでいます。その歴史と文化を造ることの中心は、造り主である神さまを礼拝することにあります。
 今ここで私たちがささげている礼拝と、礼拝における讃美と祈りは、人の目から見ますと、世間の注目を集めるようなものではありません。まさに「幼子と乳飲み子たちの口によって」と言われるべきものです。これに意味があるのは、ただ、天においても、地においても、ご自身のみこころにしたがって、御業をなしてくださる主が、この礼拝をお受けくださり、この讃美と祈りをお聞きくだり、これにお答えになる形で、ご自身の栄光が現わされるように、御業をなしてくださるからです。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第38回)へ戻る

「黙示録講解」
(第40回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church