黙示録講解

(第38回)


説教日:2011年7月31日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(36)


 ヨハネの黙示録1章1節に出てくる「すぐに起こるはずの事」ということばは、この書に記されていることを全体的に要約するものです。これまで、このことばとの関連でいろいろなことをお話ししてきました。そして、最後の問題として、22章7節、12節、20節に記されています、

 見よ。わたしはすぐに来る。

というみことばを取り上げています。このみことばが記されてから2千年たった今も、イエス・キリストの再臨がないのに、イエス・キリストが「すぐに来る」と言っておられることを、どのように理解したらいいかということです。
 この問題とのかかわりで、いろいろなことをお話ししてきましたが、いまは、ペテロの手紙第二・3章3節ー13節に記されています、終わりの日に関するペテロの教えについてお話ししています。これまで4回にわたって、10節に記されています、

しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

という教えについてお話ししました。
 先週は、この歴史に終わりの日があることとと、その日に最終的なさばきが執行されることは、神さまの創造の御業に基づいているということをお話ししました。簡単に振り返りながら、さらにお話を進めていきます。
 神さまはこの世界を歴史的な世界としてお造りになりました。この世界は時間とともに変化していく世界であるだけでなく、この世界をお造りになった神さまのみこころに沿った目的に向かって進展していく世界として造られています。その目的は造り主である神さまご自身の愛と恵みといつくしみに満ちた栄光が、この世界を通して、より豊かに現されるようになるということです。
 また、創世記1章26節ー28節には、

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 ここには、神さまが人をご自身のかたちにお造りになって、人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことが記されています。神のかたちに造られた人が委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことによって、この世界が愛と恵みといつくしみに満ちた神さまのご栄光をより豊かに現すようになるためのことです。
 このように、造り主である神さまが神のかたちに造られた人に、ご自身がお造りになった世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったのであれば、神のかたちに造られた人がその使命をどのように果たしたかの評価がなされるはずです。そして、それは基本的に、歴史の終わりになされるはずです。
 「基本的に」ということに注意しておいていただきたいと思います。というのは、いずれお話しすることになりますが、神さまは歴史の中で、ある期間を定めて、その期間に対するさばきを執行されることがあるからです。
 いずれにしましても、この歴史に終わりの日があることとと、その日に最終的なさばきが執行されることは、神さまの創造の御業に基づいているのです。
 先週はさらに、それでは、その終わりの日において、

その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

と言われているような事態になるのはどうしてなのかという問題を提起しました。


 これについて考えるためには、意外に思われるかもしれませんが、神さまと神のかたちに造られた人の愛の交わりの特質を理解する必要があります。
 それで、先週は、神さまの本質的な特性は愛であり、神のかたちの本質的な特性も愛であるということをお話ししました。しかし、ひょんなことから、そのことについて、もう少し説明が必要であると感じておられる方もおられることを知りました。そのようなこともありまして、きょうは、ヨハネの手紙第一・4章7節、8節に記されています教えを取り上げたいと思います。とはいえ、そのすべてのことというのではなく、いまお話ししていることと関連することをお話ししたいと思います。
 ヨハネの手紙第一・4章7節、8節には、

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

と記されています。
 7節では、

 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。

と呼びかけられています。愛することへの呼びかけです。ヨハネはこの手紙の読者たちを「愛する者たち」と呼んでいます。

 互いに愛し合いましょう。

と呼びかける前に、自分がそのように呼びかけている兄弟姉妹たちを愛していることを明らかにしています。それで、この愛することへの呼びかけそのものがヨハネの愛から出ているのです。
 原文のギリシャ語では、「愛する者たち」(アガペートイ)「愛しましょう」(アガポーメン)「互いに」という順序になっていて、まず、愛することが、「愛する者たち」、「愛しましょう」と、重ねられて出てきて、強調されています。しかも、この「愛しましょう」は現在時制で、それが継続的になされることを示しています。
 これは、ただ時間的に継続するということだけでなく、「どのような状況においても」という意味合いが込められていると考えられます。というのは、すでに、これに先立つ、3章16節において、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

ということが示されているからです。イエス・キリストは、私たちがご自身に敵対して歩んでいたときに、私たちを愛してくださいました。そして、私たちを死と滅びから救い出してくださるためには、ご自身が十字架の死の苦しみを味わわなければならない状況において、私たちを愛してくださり、実際に、ご自身のいのちをお捨てになったのです。このことを受けて、

ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と言われていますが、この「べきです」と訳されている動詞(オフェイロメン「私たちは義務を負っています」)は現在時制です。
 4章7節では、これに続く、

 愛は神から出ているのです。

というみことばは、

 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。

という呼びかけの理由を示しています。これを生かして訳しますと、

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているからです。

となります。[注]

[注]ここで「愛は神から出ている」と言われているときの「」には冠詞(ギリシャ語の冠詞は、定冠詞)がついています。文法の上からは、これは「」の質を強調するものです。それで、これには「真の愛」、「本当の愛」というような意味合いがあります。けれども、ここでは「愛は神から出ている」というように、愛の「源」のことが語られています。それで、これを「真の愛」としますと、「真の愛」以外の愛は、神さまから出ていないというような意味になりかねません。実際には、すべての愛は、造り主にして、愛を本質的な特性とする神さまから出ています。しかし、神のかたちに造られた人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、人の愛が罪の自己中心性によって歪められ、腐敗してしまいました。その腐敗は人の罪によっていますので、人から出ています。しかし、愛そのものは神さまから出ています。
 このことは、形而上的・心理的なこと(すべての愛は神さまから出ている)と、認識論的・倫理的なこと(人は罪によって愛を腐敗させてしまっている)の区別と関係に沿って考えると分かりやすいかもしれません。

 私たちがお互いに愛することは、私たちが私たちの自由な意志に基づいてすることです。その意味では、私たちがお互いに愛し合うことは、私たちから出ています。しかし、これにはより深い源があります。それは、私たちの愛も神さまご自身から出ているということです。神さまが人を愛を本質的な特性とするご自身のかたちに造ってくださったので、私たちはお互いに愛するものであるということです。これを別の角度から見ますと、神さまが人を愛を本質的な特性とするご自身のかたちに造ってくださったので、私たちに対する神さまのみこころの啓示である神さまの律法は、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ

という第二の戒めにまとめられる「愛の律法」であるのです。
 このことを踏まえますと、ヨハネの手紙第一・4章7節で、これに続いて、

 愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

と言われていることが了解されます。この「愛のある者」と訳されていることば[ホ・アガポーン(「愛する」という動詞の現在分詞・男性形・単数=「愛すること」に冠詞が付けられて「愛している者」と実体化されています。)]は、文字通りには、「愛している者」です。愛があるという状態というより、愛のうちを生きているということです。これは現在分詞ですので、その人の基本的なあり方が、いつも、また、どのような状況においても、愛のうちを生きることにあるということです。「基本的なあり方」ということであって、そこに何の欠けもないということではありません。そこに何の欠けもないというようなことは、この手紙の1章8節ー10節に記されている、

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

という教えに反することです。もちろん、終わりの日に私たちが栄光のうちによみがえるときには、私たちの愛はまったきものとなります。
 4章7節では、そのように、いつも、また、どのような状況においても、愛のうちを生きている人は、「みな神から生まれ、神を知っています」と言われています。事柄の順序としては、「神から生まれ、神を知って」いる者は、みな愛しています、ということになります。もしここで、ヨハネが事柄の順序を教えようとしているのであれば、このような言い方をしたことでしょう。実際、そのような教えは、すでにこの手紙に出てきます。しかしここでは、

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているからです。

という、愛することへの呼びかけの中で語られていますので、実際に、愛している人の現実を説明していると考えられます。

 愛のある者はみな神から生まれ

と言われているときの「神から」ということは、その前の、

 愛は神から出ている

と言われているときの「神から」と対応していて、どちらもその起源が神さまであり、神さまによって支えられていることを意味しています。神さまから出たといっても、それは神さまがそのみこころにしたがって、造り出してくださったものです。神さまはそのようにして造り出されたものを、造りっぱなしになさることはありません。神さまがその特性を生かして支えてくださっていますので、私たちの愛は愛であることができます。
 また、

 愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

と言われているときの、「神を知っています」ということは、神さまとの親しい交わりの中で、神さまを生きておられて、愛と恵みといつくしみに満ちた御方として知っていることを意味しています。しかもこれは、現在時制で、常に神さまとの親しい交わりのうちに生きていることを意味しています。ですから、「愛している人」は神さまとの親しい交わりの中で神さまを現実的に知っているということを示しています。

 8節では、このことと対比する形で、

 愛のない者に、神はわかりません。

と言われています。この場合の「愛のない者」も、文字通りには「愛していない者」です。また、「神はわかりません」と言われているときの「わかりません」ということは(不定過去時制で表されていて)、神さまとの親しい交わりの中で神さまを知ったことがないということを意味しています。その人は、ただ単に知的に神を知らないということでなく、神さまを愛と恵みといつくしみに満ちた生きた御方として、現実的に知ったことはないということです。
 8節では、このことの理由として、

 なぜなら神は愛だからです。

と言われています。
 この、

 神は愛です。

ということは、16節にも出てきます。これは、神さまの本質的な特性が愛であることを意味しています。このことは、7節で、

 愛は神から出ているのです。

と言われていることのさらに奥にあることです。神さまは愛そのものであられるので、「愛は神から出ているのです」。
 一般的に認められていますように、

 神は愛です。

ということは、神がなさるいろいろなことの中に愛することがあるということではなく、神がなさるすべてのことが愛のわざであるということです。愛は神さまの本質的な特性ですので、神さまがなさるすべてのことに愛が表現されているということです。
 そのことは、父なる神さまの愛を最も豊かに啓示されたイエス・キリストにおいて如実に示されています。このヨハネの手紙第一・4章では、9節、10節に、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

と記されています。
 私たちは神さまを愛していなかったのに、というより、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまい、神さまを神としてあがめることも感謝することもなく、むしろ、神さまに敵対して歩んでいたのに、神さまは「私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました」。神さまはご自身の「ひとり子」を、私たちのための贖い主としてお遣わしになったのです。
 ここでは、御子が私たちの罪のための「なだめの供え物」となられたことが示されています。このことは、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきが執行されることを踏まえています。神さまはその聖なる御怒りによるさばきを私たちに対して直接的に執行されないで、私たちのために「なだめの供え物」となられた御子に対して執行されました。そのようにして、私たちの罪に対するさばきは、御子イエス・キリストにおいて執行されましたが、ヨハネはこのことにおいて、神さまの愛が私たちに示されたとあかししています。
 また、このことにおいて、神さまはご自身の義を明らかにされました。神さまは、罪を一点も見逃すことなく、すべての罪を完全に清算されるということです。そうであるからこそ、私たちの罪を贖うために、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子が、私たちの身代わりとなって、私たちの罪に対するさばきをすべて受けてくださらなければ、私たちの罪が贖われる道はなかったのです。
 このようにして、御子イエス・キリストの十字架において、神さまの愛がこの上なく豊かに示されましたが、その愛のうちに、神さまのさばきが執行され、神さまが義であられることが、この上なく鮮明に示されました。神さまは愛のうちに、さばきを執行され、ご自身が義であられることを示されます。

 このように言いますと、なお疑問が出てきます。それでは、神さまは終わりの日にご自身に最後まで背き続けた人々をも、愛をもっておさばきになるのかという疑問です。
 このことにつきましては、二つのことをお話ししたいと思います。
 一つは、神さまがどのような御方であられるかは、御子イエス・キリストにおいて最も豊かに啓示されているということです。特に、神さまの愛と恵みといつくしみ、聖さと義は、御子イエス・キリストの十字架において、最も豊かに啓示されています。私たちは御子イエス・キリストを通して、神さまがどのような御方であるかを知るように招かれています。ヨハネの福音書1章18節には、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されていますし、14章9節には、

 わたしを見た者は、父を見たのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。また、ヘブル人への手紙1章1節、2節には、

神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。

と記されています。私たちは御子イエス・キリストを通してしか、神さまがどのような御方であるかを知ることはできません。もちろん、それ以外にも啓示の光はあります。いわゆる「一般啓示」と呼ばれるものです。しかし、私たちの本性が罪によって腐敗してしまったために、その啓示では、たとえて言えば、すりガラスの向こうに誰かがいるというような感じて、神さまのことが感じ取れるだけです。
 もうひとつのことは、確かに、神さまはご自身に対して罪を犯し続けている人々、さらには、その罪を悔い改めて、神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストを信じず、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた罪の贖いにあずかろうとしない人々を、聖なる御怒りによって、おさばきになります。そこには愛はまったく示されていないのでしょうか。
 これにつきましては、そもそも罪とは何なのかということを考える必要があります。
 愛を本質的な特性とする神さまが、人をご自身のかたちにお造りになったとき、人をご自身の本質的な特性である愛にあずかるものとしてくださいました。神さまが人を愛してくださっただけでなく、神のかたちに造られた人にも、愛の特性を与えてくださり、人が神さまとの愛の交わりのうちに生きることができるようにしてくださったのです。さらに、神さまは神のかたちに造られた人がお互いの間の愛の交わりに生きることができるようにしてくださいました。それで、先ほど触れましたように、神さまのみこころを表現する神さまの律法は、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ

という第二の戒めにまとめられる「愛の律法」であるのです。罪とは、この「愛の律法」に示されている神さまの律法に背くこと、あるいは、それに欠けることです。
 罪は、このように、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られて、造り主である神さまとの愛の交わりのうちに生きる特権と祝福を与えれている人が、その神さまの愛を退け、神さまへの愛を捨てるばかりか、神さまのみこころに背き、神さまに敵対することにあります。
 それだけではありません。そのように、愛そのものであられ、愛の源であられる神さまのかたちに造られた人が、お互いへの愛をも自己中心的に歪め、腐敗させてしまうことでもあります。
 神さまはそのような罪に対して、聖なる御怒りをもってさばきを執行されます。その怒りは、愛を腐敗させ、敵意や、憎しみに変えてしまったことに対する聖なる御怒りということができます。その意味では、神さまのさばきの根底には、神さまの本質的な特性が愛であるという事実があるのです。[注]

[注]神さまのさばきは、神のかたちに造られた人が神のかたちの栄光と尊厳性を損なってしまうことに対するさばきです。神のかたちの栄光と尊厳性を損なうことは、基本的に、神のかたちの本質的な特性である愛を自己中心的に歪めることに現れてきます。

 ヨハネの福音書3章16節、17節には、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

と記されています。
 ここには、神さまがご自身のひとり子をお遣わしになったのは、「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と言われています。この「永遠のいのちを持つ」ということは、神さまとの愛の交わりのうちに生きることにほかなりません。
 愛を腐敗させ、敵意や、憎しみに変えてしまった人に対して、神さまがご自身の御子を贖い主として遣わしてくださり、その十字架の死によって私たちの罪を贖ってくださり、死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって、私たちを新しく生まれさせてくださったのは、私たちのうちに愛を本質的な特性とする神のかたちを回復してくださり、私たちを神さまと、お互いの間の愛の交わりのうちに生きるものとしてくださるためでした。それで、ヨハネの手紙第一・4章7節ー11節には、

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

と記されています。


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