![]() |
説教日:2011年7月24日 |
第一に、神さまがこの世界を歴史的な世界としてお造りになったということがあります。この世界が歴史的な世界であるということは、ただ単に、この世界が時間とともに移り変わっていく世界であるということではありません。この世界に何の目的もなく、ただ時間の経過とともに移り変わっていくだけであれば、それは「歴史的な」世界ということにはなりません。神さまがこの世界を歴史的な世界としてお造りになったということは、この世界が造り主である神さまのお定めになった目的に向かって進展していく世界として造られているということを意味しています。 この世界が歴史的な世界として造られているということは、何よりもまず、神さまの創造の御業そのものが歴史的な御業であったことに現れています。存在とひとつひとつの属性において無限、永遠、不変の神さまは、その無限、永遠、不変の知恵と力によって、一瞬のうちに、この大宇宙を創造することがおできになります。けれども、神さまは創造の御業の6つの日にわたって、創造の御業を遂行されました。それは、神さまに十分な力がないために、時間をかけて少しずつ創造の御業を遂行されたということではありません。私たちであれば、一度にすべてを成し遂げる力がありませんので、「きょうは、ここまでしかできなかった」ということがありますが、神さまにはそのようなことはありません。神さまはご自身のみこころにしたがって、初めから完成していて、何の変化もない世界ではなく、より高い目的に向かって進んでいく世界をお造りになりました。 創世記1章1節には、 初めに、神が天と地を創造した。 と記されています。 いろいろな機会にお話ししたことですので、結論的なことをお話ししますと、これは、1章1節ー2章3節に記されています、神さまの天地創造の御業の記事全体の「見出し」に当たります。この「天と地」ということばはヘブル語の慣用句で「この世界のすべてのもの」を表しています。今日のことばで言えば、壮大な宇宙とその中にあるすべてのもののことです。1章1節では、この世界、この大宇宙のすべては、神さまがお造りになったものであるということが示されています。 続く2節には、 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。 と記されています。この2節からは、私たちが住んでいる「地」に焦点を合わせて、「地」のことが記されています。神さまの創造の御業は同時並行的に、大宇宙の至る所において進行しているのですが、創造の御業の記事は「地」のことに集中しています。第4日目には、天体のことが記されていますが、それも、「地」とのかかわりで、あるいは、「地」から見たときの、天体が果たす役割のことを記しています。その記事も、「地」に焦点が合わされていることには変わりがありません。 2節前半には、 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、 と記されています。これは神さまが最初に造り出されたときの「地」の状態を示しています。これは、イザヤ書45章18節に記されている、 天を創造した方、すなわち神、 地を形造り、これを仕上げた方、 すなわちこれを堅く立てた方、 これを茫漠としたものに創造せず、 人の住みかにこれを形造った方、 というみことばに照らして理解されます。ここでは、神さまが「地」を「人の住みか」にお造りになったことが示されています。その際に、この「人の住みか」が「茫漠としたもの」(トーフー)と対比されています。ですから、「茫漠としたもの」は「人の住みか」とは言えないものを意味しています。この「茫漠としたもの」(トーフー)ということばが創世記1章2節で用いられて、 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、 と言われています。それで、これは「地」が、とても「人の住みか」とは言えない状態にあったことを示していると考えられます。ここでは、「茫漠として」(トーフー)に「何もない」(ボーフー)ということばが重ねられて、とても「人の住みか」とは言えない状態にあったことが強調されています。そればかりでなく、これに続く、 やみが大水の上にあり、 ということばも、「地」が「大水」に覆われており、さらにそれに「やみ」が覆っているということを示していて、「地」がとても、とても「人の住みか」とは言えない状態にあったことを、さらに強調していると考えられます。 しかし、2節ではこれに続いて、 神の霊が水の上を動いていた。 と記されています。「地」がとても「人の住みか」とは言えない状態にあったときに、すでに、神さまが御霊によってそこにご臨在しておられたのです。このことは、「地」は「人の住みか」である前に、また「人の住みか」である以上に、神さまがご臨在される場であるということを意味しています。 そして、3節には、 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。 と記されています。神さまは御臨在の御許から、 光があれ。 というみことばを発せられて、「地」に光があるようにしてくださいました。いま私たちが住んでいる「地」に光があり、この「地」が明るく暖かいのは、このことによっています。この「地」が明るく暖かいのは、このことから始まっており、神さまがこれを真実に保ってくださっているからです。 神さまはその御臨在の御許から発せられた、 光があれ。 というみことばから始まる一連のみことばをもって、この「地」をご自身の御臨在の場にふさわしく整えてくださり、これを「人の住みか」として形造ってくださいました。 詩篇65篇9節ー13節には、 あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、 これを大いに豊かにされます。 神の川は水で満ちています。 あなたは、こうして地の下ごしらえをし、 彼らの穀物を作ってくださいます。 地のあぜみぞを水で満たし、そのうねをならし、 夕立で地を柔らかにし、 その生長を祝福されます。 あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせ、 あなたの通られた跡には あぶらがしたたっています。 荒野の牧場はしたたり、 もろもろの丘も喜びをまとっています。 牧草地は羊の群れを着、 もろもろの谷は穀物をおおいとしています。 まことに喜び叫び、歌っています。 と記されています。 確かに、「地」には、神さまの御臨在の御許からあふれ出る愛と恵みといつくしみが満ちています。光によってもたらされる明るさと暖かさがあり、神さまが整えてくださった大気の循環によって、適度の乾燥がもたらされるとともに、時に応じて降り注ぐ雨によって「地」が潤されます。このような環境に支えられて生い茂る植物には多様なものがあり、それらが結ぶ実によって多様な生き物たちのいのちが育まれています。すべては造り主にして、無限の知恵と御力に満ちた神さまの愛と恵みといつくしみの御臨在をあかししています。 創世記1章31節には、 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。 と記されています。これは、2節において、 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、 と言われていていて、とても「人の住みか」とは言えない状態にあった「地」が、「人の住みか」として整えられた状態になったことを意味しています。もちろん、それは愛と恵みといつくしみに満ちた造り主である神さまの御臨在の栄光を豊かに映し出す世界です。そのような、神さまの愛と恵みといつくしみに満ちあふれた世界こそが、「人の住みか」にふさわしい世界です。後でお話ししますように、神のかたちに造られた人こそが、その神さまの愛と恵みといつくしみを汲み取ることができるからです。 このように、神さまの創造の御業は、いま私たちの住んでいるこの「地」を、2節において、 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、 と言われている状態から、神さまの愛と恵みといつくしみに満ちあふれた「人の住みか」に整えてくださる御業でした。その意味で、創造の御業そのものが、神さまがみこころにおいて定められた目的を実現してくださる、歴史的な御業でした。 そのようにして造り出されたこの世界は、歴史的な世界で、その歴史は今日まで続いています。その歴史は、創世記2章1節ー3節に、 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。 と記されています、創造の御業の「第七日」に当たります。神さまは創造の御業の「第七日」をご自身の安息の日として、祝福し、聖別してくださいましたが、この「第七日」は、神さまがお造りになったこの世界の歴史が造られている日で、いまだ閉じていません。創造の御業の「第七日」は、いま私たちが取り上げています、終わりの日に閉じると考えられます。そして、栄光のキリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地において、第8日が始まると考えられます。[注] [注]聖書の中では、「8日目」が新しい出発の日を意味している事例がいくつかあります。たとえば、割礼は8日目に施されました(創世記17章12節)し、新しく生まれた動物は「8日目」からいけにえとして、主にささげることができるようになりました(レビ記22章27節)。また、アロンとその子らが祭司職に任職されるために7日間を要しました(レビ記8章33節)。そのアロンが最初のいけにえをささげたのが8日目でした(レビ記9章1節)。さらに、ツァラアトに冒された人がきよめられたときに、その人のための聖めの儀式が、祭司によって、宿営の外で7日間行われ(レビ記14章1節ー9節)、その人は8日目に宿営の中に入り、主の御前に、聖めのためのいけにえをささげることができるようになりました(10節ー32節)。ほかにもありますが、これらのことは、8日目が新しい出発の時を意味していることを示しています。 創造の御業の「第七日」が、神さまがお造りになったこの世界の歴史の期間となっていることは、神さまが創造の御業において、人を神のかたちにお造りになり、神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったこととかかわっています。 創世記1章26節ー28節には、 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されています。 ここには、人が「神のかたちとして」造られたことと、人に歴史と文化を造る使命を委ねられていることが記されています。この二つのこと、人が「神のかたちとして」造られたことと、歴史と文化を造る使命を委ねられていることは、切り離すことができません。けれども、それは、「神のかたち」とは、歴史と文化を造る使命において、人に与えられた「支配権」のことであるということではありません。神のかたちに造られた人に、神さまのみこころにしたがってすべてのものを治める支配権が委ねられたのです。それで、「神のかたち」と神のかたちに造られた人に委ねられた「支配権」は区別されます。[注] [注]ソッツィーニー主義者が、「神のかたち」は人に与えられた「支配権」にあると主張していたと言われています。 聖書は、肉体と霊魂からなる人格的な存在である人が神のかたちに造られていると教えています。決して、霊魂が神のかたちであって、肉体は神のかたちではないということではありません。 そして、ヨハネの手紙第一・4章16節に、 神は愛です。 と記されていますように、神さまの本質的な特性は愛です。それで、神のかたちの本質的な特性も愛です。 創世記1章1節ー2章3節に記されています創造の御業の記事を見ますと、植物や生き物は「おのおのその種類にしたがって」あるいは「その種類にしたがって」造られたということが、注意深く、また、繰り返し述べられています(1章11節、12節、21節、24節、25節)。ところが、人の創造の場合には、「その種類にしたがって」造られたと言われないで、「神のかたちとして」造られたと言われています。 「おのおのその種類にしたがって」あるいは「その種類にしたがって」造られた植物や生き物は、いわば、それ自体の中で一種の完結性をもっています。「その種類にしたがって」造られたもの同士が、群れをなして生息したりすることはありますが、「その種類」を越えて交流をするということはほとんどありません。ある生き物が「その種類」において違う生き物と交わりをもとうとして、その生き物を探し出そうとすることはありません。まして、生き物たちが造り主である神さまを意識することは全くありません。 これに対して、「神のかたちとして」造られている人は、その交わりという点において、基本的に、造り主である神さまとの交わりに生きるものです。人は生物学的には、「その種類にしたがって」造られていて、ホモ・サピエンスとして分類されるでしょうが、それ以上に、「神のかたちとして」造られています。それで、人は、何よりもまず、造り主である神さまとの交わりのうちに生きることを、その本質的な特性としています。 聖書は一貫して、人のいのちの本質は、造り主である神さまとの愛にある交わりに生きることにあるということを示しています。ヨハネの福音書17章3節には、 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。 と記されています。この場合、父なる神さまと御子イエス・キリストを知るというときの「知る」ことは、「交わりにおいて知る」ということで、愛するということに近いものです。このことも、神のかたちに造られている人の交わりが、基本的に、造り主である神さまとの交わり、契約の神である主とのいのちの交わりにあるということを意味しています。 このことの上に立って、神のかたちに造られている人は、同じく神のかたちに造られている人との交わりに生きるものとして造られています。このことは、創世記1章27節で、 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 と言われていますように、男も女も神のかたちに造られているということを土台としています。 ここで大切なことは、人は「その種類にしたがって」造られているということで、お互いに出会う以前に、あるいはそれ以上に、「神のかたちとして」造られているものとして、お互いに出会うのです。人は、神のかたちに造られていて、何よりもまず、神である主との交わりに生きているものとして、お互いの交わりをもつものであるということです。 その意味で、神のかたちに造られている人の間の交わりは、本来、神である主にあっての交わりです。このことは、神の律法の全体を集約した「たいせつな戒め」に表現されています。マタイの福音書22章37節ー40節には、 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」 と記されています。まず、契約の神である主との愛の交わりがあり、それに続いて、またそれに基づいて、契約共同体の隣人との愛の交わりがあります。 神のかたちに造られた人は、神さまが「人の住みか」として形造ってくださったこの「地」に住んでいます。愛と恵みといつくしみに満ちた神さまの御臨在とそれに伴うさまざまな祝福にあふれているこの「地」に住んでいます。それで、人はこの「地」において造り主である神さまの御臨在の御前に近づき、神さまを造り主として礼拝いたします。そして、この礼拝を中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものです。 この「地」には、愛と恵みといつくしみに満ちた造り主である神さまの御臨在とそれに伴うさまざまな祝福が満ちあふれています。そして、「地」にあるものは、さまざまな植物も生き物も、その恩恵にあずかって生長し、いのちを育んでいます。けれども、そのことを知っているのは神のかたちに造られた人だけです。ですから、神のかたちに造られた人が自分に与えられている能力を傾けて、神さまの愛と恵みといつくしみを知り、感謝と讃美をもって造り主である神さまを礼拝することは、造られたすべてのものにとって大きな意味をもっています。 神のかたちに造られた人は、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という歴史と文化を造る使命を果たすことの中で、造り主である神さまの愛と恵みといつくしみの現れを、より具体的、現実的に、また、より深く知るようになります。なぜなら、神さまが「人の住みか」として形造ってくださったこの「地」には、神さまの愛と恵みといつくしみがあふれていますし、神さまは、この愛と恵みといつくしみをもって、神のかたちに造られた人ばかりでなく、すべての生き物たちを育み育てていてくださるからです。それで、歴史と文化を造る使命を果たすことは感謝と讃美をもって造り主である神さまを礼拝することに至ります。 そして、ともに造り主である神さまを礼拝する者の間には愛の交わりが生まれます。神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命にしたがって造り出される歴史と文化は、神のかたちの本質的な特性である愛によって特徴づけられるものです。 このように、神さまは創造の御業において、この世界を歴史的な世界としてお造りになりました。そして、人を神のかたちにお造りになって、人に、御自身がお造りになったこの世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。 そうであれば、神さまは、神のかたちに造られた人がご自身から委ねられた歴史と文化を造る使命をどのように果たしたかを評価されるはずです。しかも、これは基本的には歴史を造る使命ですので、その評価は、最終的には、歴史の終わりになされるはずです。ですから、最後のさばきとは、この歴史の終わりになされる、歴史と文化を造る使命に対する最終的な評価のことです。それは、神さまが創造の御業において、この世界を歴史的な世界としてお造りになり、神のかたちに造られた人に、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに基づくことです。その意味で、終わりの日における評価としてのさばきは、神さまの創造の御業に基づいており、創造の御業から出ています。 それにしても、その最終的な評価がなされる終わりの日に、ペテロの手紙第二・3章10節に、 その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。 と記されているような事態になるのはどうしてなのでしょうか。もちろん、それは神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっていることによっているのですが、これにはそれ以上のことがかかわっています。このことにつきましては、改めてお話しします。 |
![]() |
||