黙示録講解

(第36回)


説教日:2011年7月17日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(34)


 ヨハネの黙示録1章1節に出てくる、「すぐに起こるはずの事」ということばは黙示録に記されていることを要約するものです。これまで、このことばとの関連で、22章7節、12節、20節に記されています、

 見よ。わたしはすぐに来る。

という栄光のキリストのみことばをどのように理解したらいいかということを、いろいろな観点から、お話ししてきました。というのは、このみことばが記されてから2千年たった今も、イエス・キリストの再臨がないからです。
 今は、この問題とのかかわりで、ペテロの手紙第二・3章3節ー13節に記されている、ペテロの教えについてお話ししています。前回と前々回は、10節に記されています、

しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

という教えの最初の部分である、

 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。

という教えについてお話ししました。きょうは、それに続いて記されています、

その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

という教えについてお話しします。


 この、

その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、

という教えには、イザヤ書34章4節の背景があると考えられます。そこには、

 天の万象は朽ち果て、
 天は巻き物のように巻かれる。
 その万象は、枯れ落ちる。
 ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。
 いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。

と記されています。
 これは1節、2節に、

 国々よ。近づいて聞け。
 諸国の民よ。耳を傾けよ。
 地と、それに満ちるもの、
 世界と、そこから生え出たすべてのものよ。聞け。
 主がすべての国に向かって怒り、
 すべての軍勢に向かって憤り、
 彼らを聖絶し、
 彼らが虐殺されるままにされたからだ。

と記されていますように、主が「国々」に対してさばきを執行されることを預言することばの中で語られたものです。
 4節に記されている、

 天は巻き物のように巻かれる。

ということを理解するために、同じイザヤ書44章24節のみことばを見てみましょう。そこには、

 あなたを贖い、
 あなたを母の胎内にいる時から形造った方、
 こう仰せられる。
 「わたしは万物を造っただ。
 わたしはひとりで天を張り延ばし、
 ただ、わたしだけで、地を押し広げた。

と記されています。ここでは、主は「天を張り延ば」されたと言われています。これは天地創造の御業に言及するものです。同様のことは、詩篇104篇2節に記されています。1節から見てみましょう。そこには、

 わがたましいよ。をほめたたえよ。
 わが神、よ。あなたはまことに偉大な方。
 あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。
 あなたは光を衣のように着、
 天を、幕のように広げておられます。

と記されています。ここでは、主は創造の御業において「張り延ば」された天を、その後も変わることのなく「幕のように広げておられ」ると告白されています。
 これらのみことばは、天の広がり、今日のことばで言いますと、宇宙空間の広がりは、造り主である神さまが創造の御業において造り出されたものであり、それを主が摂理の御業において真実に保ち続けてくださっているということを教えています。この宇宙空間は、そして、その中にある無数の天体は、自らの力によって自らを支えているのではなく、造り主である神さまがその真実な御手をもって支えてくださっているので、それぞれの置かれたところに存在しているのです。
 このことを踏まえたうえで、イザヤ書34章4節では、

 天は巻き物のように巻かれる。

と言われています。これは、主が創造の御業において天を「張り延ば」され、その後も変わることなく「幕のように広げておられ」ることと反対のことがなされる、その結果、天とその中にあるものが崩れ去ってしまうということを意味しています。
 主はご自身が創造の御業において「張り延ば」された天を、今日に至るまで真実に保ち続けてくださっていますが、やがて、主がさばきを執行される日には、その天を「巻き物のように巻かれる」ようになるというのです。このことを背景として、ペテロの手紙第二・3章10節においては、

その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、

と言われています。

 最初の、

 天は大きな響きをたてて消えうせ

と言われているときの「大きな響きをたてて」と訳されていることば(ロイゼードン)は、基本的に、飛ぶ矢や鳥の羽ばたき、風など素早い動きによって生み出される音とともに、ということを表しますが、新改訳のように、大音響とともにということも表します。
 この「大きな響きをたてて」ということをどのように理解するかについては、二つの可能性があります。
 一つは、12節に、

その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。

と記されていますように、その日には、「天は燃えてくずれ」てしまいます。それで、10節の「大きな響きをたてて」ということは、そのように燃える火が生み出す音であるというのです。
 もうひとつの理解は、ここに記されていることは、終わりの日に来臨される栄光のキリストが執行されるさばきのことであるので、この「大きな響きをたてて」ということは、栄光のキリストのさばきの御声であるというものです。
 この二つのことは、相容れないものではありません。申命記5章24節、25節には、出エジプトの時代に、主が、シナイ山の麓に宿営したイスラエルの民に十戒の戒めを与えてくださったときに、イスラエルの民が直接、主の御声を聞いたことが記されています。そこには、

私たちの神、は、今、ご自身の栄光と偉大さとを私たちに示されました。私たちは火の中から御声を聞きました。きょう、私たちは、神が人に語られても、人が生きることができるのを見ました。今、私たちはなぜ死ななければならないのでしょうか。この大きい火が私たちをなめ尽くそうとしています。もし、この上なお私たちの神、の声を聞くならば、私たちは死ななければなりません。

というイスラエルの民のことばが記されています。
 このシナイ山の麓に宿営していたイスラエルの民に主が語られたのは十戒の戒めです。イスラエルの民が主の御声を聞いたとき、そこには、主の栄光の顕現に伴う火があったことも示されています。同じ申命記4章24節には、

あなたの神、は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。

と記されています。また、詩篇97篇3節には、

 火は御前に先立って行き
 主を取り囲む敵を焼き尽くす。

と記されています。主の栄光の顕現においては、主が語られることとその御前に焼き尽くす火があることは相容れないことではありません。
 そのような火を伴う状況にあって、主の御声を聞いたイスラエルの民は、このままでは自分たちが死んでしまうという恐怖を感じました。まして、終わりの日にすべてのものをさばくために来臨される栄光のキリストのさばきのみことばと、栄光のキリストの来臨に伴う火の恐ろしさは、シナイ山の麓でイスラエルの民が経験した恐ろしさをはるかに越えるものであるはずです。
 このように、ペテロの手紙第二・3章10節で、

 天は大きな響きをたてて消えうせ

と言われているときの「大きな響き」は終わりの日に来臨される栄光のキリストのさばきのみことばと、栄光のキリストの御臨在に伴う焼き尽くす火の轟音のことであると考えられます。

 ペテロの手紙第二・3章10節では、これに続いて、

 天の万象は焼けてくずれ去り、

と記されています。
 ここで「天の万象」と訳されていることば(ストイケイア、ストイケイオンの複数形))は、ヘブル人への手紙5章12節では「初歩」と訳されています。このことばはこのほか、アルファベットの文字などを表しますが、このみことばとの関連で考えられているのは、宇宙の物質の構成要素や、天を構成するものとしての「天体」、さらには、特に悪霊たちなど、「天使的な権威」です。10節の、

その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、

というみことばと、12節の、

その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。

というみことばがイザヤ書34節4節の、

 天の万象は朽ち果て、
 天は巻き物のように巻かれる。
 その万象は、枯れ落ちる。
 ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。
 いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。

というみことばを背景としていると考えられますので、このことば(ストイケイア)は新改訳のように「天の万象」すなわち太陽や月や星などの天体を意味していると考えられます。

 天の万象は焼けてくずれ去り、

と言われているときの「焼けて」と訳されていることば(カウソオー)は「燃える熱」(カウソス)の関連語で、非常な高温で燃えることを表します。

 最後の、

 地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

と訳されている部分は解釈がとても難しい個所として知られています。
 問題は新改訳が「焼き尽くされます」と訳していることばです。ギリシャ語本文の写本にも、ばらつきがありまして、はっきりしません。そのような状況の中で、本文に採用されていることば(ヘウレセーセタイ、ヘウリスコーの未来時制、受動態)は「見つけ出される」とか、「明らかにされる」ということを意味しています。
 新改訳の「焼き尽くされます」は別の写本にあることば(カタカエーセタイ)を採用して訳したものです。
 この二つを比べた場合、新改訳の「焼き尽くされます」ということばの方が、その前に記されている、

天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、

ということばに沿っていますので、

天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

となって、しっくりきます。これに対して、

天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは見つけ出されます。

というほうは、しっくりきません。このような場合には、ほかの条件がほぼ同じであれば、しっくりこない方を、もともとのことばとして採用することが原則となります。それで、ここでは、

 地と地のいろいろなわざは見つけ出されます。

あるいは、

 地と地のいろいろなわざは明らかにされます。

と教えられていると考えられます。
 いったい、これはどういうことを示しているのでしょうか。
 このこととの関連で思い出されるのは、コリント人への手紙第一・3章10節ー15節に記されている教えです。そこには、

与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

と記されています。
 ここには、主の日においては、「火がその力で各人の働きの真価をためす」と言われています。それによって、

もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。

と言われています。ここで「各人の働き」といるときの「働き」(エルゴン)は、ペテロの手紙第二・3章10節で、

 地と地のいろいろなわざは明らかにされます。

と言われているときの「いろいろなわざ」(エルガ、エルゴンの複数形)と同じことばです。
 ですから、ペテロの手紙第一・3章10節の、

 地と地のいろいろなわざは明らかにされます。

というみことばは、そのように火によって真価を試されて、そのわざがどのようなもであるかが明らかにされるということを示していると考えられます。
 火の表象はありませんが、主はさばきのときに隠れているものを明らかにされることは、このほかにも示されています。たとえば、エレミヤ書16章16節、17節には、

見よ。わたしは多くの漁夫をやって、――の御告げ――彼らをすなどらせる。その後、わたしは多くの狩人をやって、すべての山、すべての丘、岩の割れ目から彼らをかり出させる。わたしの目は彼らのすべての行いを見ているからだ。彼らはわたしの前から隠れることはできない。また、彼らの咎もわたしの目の前から隠されはしない。

と記されています。これは、南王国ユダに対する主のさばきを宣告するみことばであると考えられます。ここでは、ユダの民を、彼らが隠れているあらゆるところから見つけ出して、さばきを執行することが示されています。
 また、コリント人への手紙第一・4章5節には、

ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。

と記されていますし、ヘブル人への手紙4章13節には、

造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

と記されています。
 ですから、ペテロの手紙第二・3章10節の、

 地と地のいろいろなわざは明らかにされます。

というみことばは、すべてのことをおさばきになる栄光のキリストの御前に、すべてのことが明らかにされるということを示していると考えられます。
 ここには、一つの問題があります。ここでは、

 地と地のいろいろなわざは明らかにされます。

と言われていていて、「地のいろいろなわざ」だけでなく、「」も、すべてのことをおさばきになる栄光のキリストの御前に明らかにされると言われていることになります。
 しかし、これは、決しておかしなことではありません。終わりの日の最終的なさばきの「地上的なひな型」である大洪水によるさばきのことを記している、創世記6章11節ー13節には、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。

と記されています。この三つの節のそれぞれに「」ということばが、2回ずつ繰り返されています。神さまがさばきにおいて「」そのものをしっかりとご覧になっておられることが示されています。それは、天地創造の御業において、神さまは神のかたちに造られた人に、創世記1章28節に記されている、歴史と文化を造る使命をお委ねになったことによっています。歴史と文化を造る使命は、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

というもので、神さまは神のかたちに造られた人に「」を治める使命をお授けになっておられるのです。
 これまで、繰り返しお話ししてきましたが、終わりの日におけるさばきは、この歴史と文化を造る使命についてのさばきです。それで、栄光のキリストは終わりの日のさばきにおいて、「地と地のいろいろなわざ」のすべてを明らかにされ、義をもっておさばきになります。

 私たちは、ペテロの手紙第二・3章10節の、

その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

というみことばや、12節の、

その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます

というみことばを読むと、絶望的な思いになってしまうかもしれません。しかし、この手紙は私たち主の契約の民を絶望に陥れるために記されたのではありませんし、私たちを恐怖にさらして、従わせようとしているのではありません。
 ちょうど、大洪水による終末的なさばきが執行されたとき、ノアとその家族と、ノアとともにいた生き物たちが、主の備えてくださった箱舟のうちにあって守られていたように、私たちは御子イエス・キリストのうちにあって、主のさばきが執行される時にも守られることになります。なぜなら、私たちの罪に対する最終的なさばきは、御子イエス・キリストの十字架において終わっているからです。
 そればかりではありません。先ほど引用しましたコリント人への手紙第一・3章10節ー15節のみことばが示していますように、「金、銀、宝石」で建てたものは、終わりの日に火で試されたときに、その真価を発揮して、残るのです。終わりの日にすべてがご破算になってしまうのではありません。
 それでは、「金、銀、宝石」で建てるとはどういうことでしょうか。
 いろいろな議論を省いて結論的なことをお話ししますが、コリント人への手紙第一・3章11節には

というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

と記されていました。ですから、御子イエス・キリストの十字架の死によって罪を贖われ、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、新しく生まれていなければ、「金、銀、宝石」で建てることはできません。
 それだけではありません。ここで「金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てる」と言われているのは、すでに、御子イエス・キリストの十字架の死によって罪を贖われ、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、新しく生まれている人々のことです。その中に、「木、草、わら」で建てる人もいるのです。その人については、15節で、

もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

と言われています。救いはただ神さまの恵みによって、御子イエス・キリストの十字架の死によって罪を贖われ、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれることによっていますから、その人は救われます。しかし、その人の建てたものは、この世のものとともに、御子イエス・キリストの来臨の栄光の御前に焼き尽くされてしまいます。
 「金、銀、宝石」で建てるためには、御子イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちのために成し遂げてくださった罪の贖いに基づいてお働きになる御霊によって導かれて歩むことによっています。その中心は、御霊に導かれて、契約の神である主と、契約共同体の兄弟姉妹たちを愛することです。コリント人への手紙第一にこの教えが記されているのは、コリントにある信徒たちが、お互いに派閥を造って分裂していたからです。それは「木、草、わら」で建てることの典型的な現れの一つです。
 私たちが御霊に導かれて歩むときに、新しい時代の歴史と文化が造られていきます。これは、新しい天と新しい地へとつながっていく歴史と文化です。そのようにして、私たちは新しい天と新しい地を受け継ぐことになります。すべて、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によることです。
 ペテロの手紙第二・3章12節には、

その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます

と記されていますが、これで終ってはいません。絶望で終わってはいないのです。続く13節には、

しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

と記されています。


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