黙示録講解

(第35回)


説教日:2011年7月3日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(33)


 ヨハネの黙示録1章1節には、黙示録に記されていることを要約する「すぐに起こるはずの事」ということばがでてきます。このことばが、黙示録全体を要約するのであれば、22章7節、12節、20節に記されています、

 見よ。わたしはすぐに来る。

という栄光のキリストのみことばをどのように理解したらいいかということが問題となります。というのは、このみことばが記されてから2千年たった今も、イエス・キリストの再臨がないからです。
 この問題とのかかわりで、終わりの日におけるイエス・キリストの再臨について、いろいろなことをお話ししてきました。この数週間は、ペテロの手紙第二・3章3節ー13節に記されている、ペテロの教えについてお話ししてきました。先週は、10節に記されています、

しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

という教えを取り上げました。とはいえ、ここに記されていることのすべてを取り上げたのではなく、最初の、

 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。

という教えについてお話ししました。
 ギリシャ語原文では、「やって来ます」ということばがいちばん最初に出てきて強調されています。そして、次に出てくる「しかし」ということばとつながって、これがその前の9節に記されている、

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

ということを受けていることを示しています。主が「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられ」て、「忍耐深くあられる」ことが、「ある人たち」には、主が来られるのが遅いと感じられること、さらには、3節、4節に記されていますように、「あざける者」たちが、主の来臨の約束のことをあざけるようになることに対して、「主の日」は必ずやって来るということを教えています。
 主は「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられ」て、「忍耐深くあられる」ことは、(このような言い方は本来神さまに当てはめてはならないのですが)単なる願望ではなく、これにはきちんとした裏付けがあります。それは、神さまが御子イエス・キリストによって、私たちの救いのために必要なすべてのことを備えてくださっているということです。神さまは私たちの救いのために必要なすべてのことを備えてくださった上で、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられ」て、「忍耐深くあられる」のです。
 御子イエス・キリストは、いまから2千年前に、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。これによって、私たちの罪はまったく贖われ、私たちは神さまの御前に、罪を赦していただいただけでなく、罪の結果である死と滅びから救い出されています。
 そればかりでなく、イエス・キリストは十字架の死にいたるまで、父なる神さまのみこころに従い通されました。御子イエス・キリストに対する父なる神さまのみこころは、御子が私たちの贖い主となって、私たちの罪を贖うためにいのちを注ぎ出すことでした。私たちのために死の苦しみをお受けになる贖い主のことを預言しているイザヤ書53章10節に、

 しかし、彼を砕いて、痛めることは
 のみこころであった。
 もし彼が、自分のいのちを
 罪過のためのいけにえとするなら、
 彼は末長く、子孫を見ることができ、
 のみこころは彼によって成し遂げられる。

と記されているとおりです。
 ここでは、「のみこころ」のことが繰り返し出てきます。最初の、

 しかし、彼を砕いて、痛めることは
 のみこころであった。

というみことばでは、動詞(ハーフェーツ)が用いられており、後の方の、

 のみこころは彼によって成し遂げられる。

では、その名詞(ヘーフェツ)が用いられています。ここでは、この組み合わせによって、「のみこころ」が強調されています。[注]

[注]この「みこころ」を表すことばは、「喜ぶ」こと、「よしとする」ことを表すことばで、「意志する」こと、「願う」ことや、「意志」、「願い」なども表します。

 後半では、

 もし彼が、自分のいのちを
 罪過のためのいけにえとするなら、
 彼は末長く、子孫を見ることができ、
 のみこころは彼によって成し遂げられる。

と言われていますが、この「もし」は、「かりにそういうことがあれば」という仮定ではありません。というのは、たとえば、これに先立つ5節、6節に、

 しかし、彼は、
 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
 私たちはみな、羊のようにさまよい、
 おのおの、自分かってな道に向かって行った。
 しかし、は、私たちのすべての咎を
 彼に負わせた。

と記されていますように、「」すなわち「主のしもべ」が、「私たちのそむきの罪のために刺し通され」、「私たちの咎のために砕かれ」るようになることは、必ず起こることとして、すでに示されているからです。[注]

[注]これは過去を表す「完了時制」で表されていますが。これは、いわゆる「預言的完了時制」です。すでに起こってしまったことは変えることができません。その意味で「確かなこと」です。神さまの預言は神さまの真実さに裏付けられた「確かなこと」です。それで、神さまの預言が完了時制で表されることがあるわけです。

 10節では、「主のしもべ」が「罪過のためのいけにえ」としてご自身のいのちをお捨てになることの結果が、

 彼は末長く、子孫を見ることができ、

と記されています。
 これは、直訳調には、

 彼は子孫を見るようになり、彼は日々を長くするようになる。

ということで、「主のしもべ」が「罪過のためのいけにえ」として、自分のいのちを捨てた後に、自分の「子孫」を見るようになるとともに、長く生きるようになるということを示しています。
 この「子孫」は、「主のしもべ」が「罪過のためのいけにえ」となって、その罪を贖うことによって得られる、「主のしもべ」の霊的な「子孫」のことです。ここでは「子孫」は単数ですが、集合名詞で、「主のしもべ」の霊的な「子孫」の集合体を表していると考えられます。
 また、「主のしもべ」が長く生きるようになることがどのようなことか、ここでは説明されてはいません。しかし、イザヤはすでに26章19節において、

 あなたの死人は生き返り、
 私のなきがらはよみがえります。

と記して、死者のよみがえりのことを記しています。

 彼は子孫を見るようになり、彼は日々を長くするようになる。

という預言のみことばにおいては、二つのことが示されていますが、この二つのことは接続詞なしで結ばれていて、ひとつのことの裏表のように、切り離すことができないようになっています。それで、新改訳は、

 彼は末長く、子孫を見ることができ、

と訳していると考えられます。このことから、「主のしもべ」が「罪過のためのいけにえ」となって、その罪を贖うことによって得られる、「主のしもべ」の霊的な「子孫」も、「主のしもべ」とのつながりにおいて、「日々を長くするようになる」と理解することは、可能ではないかと思います。
 この預言のみことばのとおり、御子イエス・キリストが十字架にかかって、私たちの罪の贖いを成し遂げることは父なる神さまのみこころでありましたし、御子イエス・キリストは十字架の死にいたるまで父なる神さまのみこころに従い通されて、父なる神さまのみこころを成し遂げられました。そして、イエス・キリストは、その完全な従順に対する報いとして、栄光あるいのちをお受けになり、死者の中からよみがえられました。
 それは、「主のしもべ」であるイエス・キリストが「罪過のためのいけにえ」として、ご自身のいのちをお捨てになった後に、私たちをご自身の霊的な「子孫」として獲得してくださるためでした。実際、御子イエス・キリストは私たちをご自身の栄光にあずからせてくださり、私たちを永遠のいのち、すなわち、復活のいのちに生きるものとしてくださいました。この永遠のいのちの本質は、主イエス・キリストにあって、神さまとの愛の交わりに生きることであり、主にある兄弟姉妹たちとの愛の交わりに生きることにあります。
 先週は、さらに、十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちの罪を贖ってくださり、私たちを死と滅びから救い出してくださったばかりでなく、私たちを永遠のいのちによって生かしてくださっている栄光のキリストが、再びおいでになって、この祝福を完全に私たちのものとしてくださることは、父なる神さまのみこころであるということをお話ししました。ここでは、先週引用しましたみことばをもういちどお読みすることにとどめます。ヨハネの福音書6章39節、40節には、

わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

というイエス・キリストの教えが記されています。


 先週は、取り上げることができませんでしたが、ペテロの手紙第二・3章10節では、ただ、「主の日は・・・やって来ます」と言われているだけでなく、「盗人のようにやって来ます」と言われています。
 「主の日」が「「盗人のようにやって来」るということは、このほかのいくつかの個所にも記されています。きょうすべてを取り上げることはできませんが、それを、新約聖書に出てくる順に見てみましょう。
 マタイの福音書24章42節ー44節には、

だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

と記されています。これは、終わりの日について弟子たちがイエス・キリストに質問したことに対して、イエス・キリストが教えられた教えの一部として記されています。ここでは、

だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。

というみことばが示していますように、まず、主がいつ来られるかが、私たちには分からないということと、私たちは、常に、目を覚ましているべきであることが示されています。
 少し前に、この教えに続く、45節ー51節に記されています、二人のしもべのたとえによるイエス・キリストの教えを取り上げてお話ししました。そのときには、「悪いしもべ」は自分なりの判断で、主人の帰りが遅くなると計算して、「その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたり」したけれど、忠実なしもべは、そのような計算をしないで、常に忠実であった、ということに注意しました。「目をさまして」いるとは、そのように、常に忠実である姿勢を意味しています。それは、決して、主が再び来られる時を計算して、その時にだけ、忠実であろうとする姿勢ではありません。その意味では、主が再び来てくださることを待ち望むことは、決して、その日を計算することではないのです。
 これと同じようなたとえによる教えは、ルカの福音書12章39節、40節にも記されています。そこには、

もしも家の主人が、どろぼうの来る時間を知っていたなら、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから。

と記されています。マタイの福音書24章42節ー44節に記されているたとえと同じようなたとえですし、その教えの主旨も同じです。ただ、その教えが記されている背景が違っているだけです。このたとえによる教えに先だつ38節には、

主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを見られるなら、そのしもべたちは幸いです。このことを知っておきなさい。

という教えが記されています。ここでは、夕方の6時から朝の6時までの夜の見張り番の交代の時間区分を表すことば(フラケー)が用いられています。その「第2区分」が「真夜中」と訳されており、「第3区分」が「夜明け」と訳されています。[注] ここでは、「たとえ何々であろうと」という言い方で、たとえそれが「真夜中」であろうと、「夜明け」であろうと、同じであることを見られるなら幸いである、と言われています。これも、先ほどお話ししました、常に忠実であるという姿勢を示しています。

[注]これは、夜の見張り番の交代の時間区分を4時間ずつ3つに区分する「ユダヤ方式の区分」にしたがったもので、「第2区分」の午後10時ー午前2時が「真夜中」で、「第3区分」の午前2時から6時が「夜明け」となっています。「ローマ方式」では3時間ずつ四つに区分しますので、これに従いますと、「第2区分」は午後9時ー午前0時で、「第3区分」は午前0時から3時になり、時間的には少し違ってきます。しかし、それがいつであっても忠実であるという姿勢を示す点は変わることがありません。

 次の個所は、テサロニケ人への手紙第一・5章1節ー3節です。そこには、

兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。

と記されています。
 ここでは、「主の日」についてのパウロの教えが記されています。

 それらがいつなのか、またどういう時か

ということばの「それらが」は補足です。これは、ここに記されていることが、これに先立つ4章13節ー18節に記されています、主にあって「眠った人々のこと」についての教えを受けていることによっています。ただ、そのことに深く立ち入る余裕がありませんが、テサロニケの信徒たちの間には、すでに主にあって召された人々のことをどのように考えたらいいのかという問題があったようです。それに対して、パウロは、主の再臨のときには、主にあって「眠った人々」の方が、その時に生きている人々に優先するということを教えています。それで、終わりの日における栄光のキリストの来臨のことが取り上げられているのです。
 「いつなのか、またどういう時か」ということばは、ギリシャ語にある「時間」を表す二つのことば「クロノス」と「カイロス」の組み合わせです。この二つのことばは同義語として用いられることがあり、ここでも同義語として用いられていると考えている学者たちもいます。基本的に、「クロノス」は量的にとらえられた時間で、「継続する時間」、「流れる時間」を表していています。普通、私たちは時間に対してこのようなイメージをもっています。もうひとつの「カイロス」は質的にとらえられた時間で、「ちょうどそれにふさわしい時」、「(よい)機会」を表します。新改訳はこのような意味合いを生かして、「いつなのか、またどういう時か」と訳しています。
 ここでパウロは、「主の日」が「いつなのか、またどういう時か」について、テサロニケの信徒たちは、改めて教えられる必要がないと述べています。それは、パウロ自身が、テサロニケの信徒たちに、「主の日」のことを、しっかりと教えていたからであると考えられます。とはいえ、これは、テサロニケの信徒たちが「主の日」が「いつなのか、またどういう時か」をよく知っていたということではありません。テサロニケの信徒たちが知っていたのは、

 主の日が夜中の盗人のように来る

ということでした。そのことをよく知っていたテサロニケの信徒たちは、「主の日」が「いつなのか、またどういう時か」について、あえて知ろうとしなかったということです。
 先ほどお話ししましたように、このことは、主イエス・キリストご自身が教えられたことでした。テサロニケの信徒たちは、これがほかならぬ主イエス・キリストの教えであることを、パウロから聞いて、受け入れていたと考えられます。
 イエス・キリストの教えにおいては、

 主の日が夜中の盗人のように来る

ということは、「主の日」が必ず来ることを示しつつ、それが「いつなのか、またどういう時か」は、人には知らされていないということを示しています。
 終わりの日に関するイエス・キリストの教えを記している、マタイの福音書24章36節には、

ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

と記されています。もちろん、これは、あらゆる点において無限、永遠、不変の栄光の主であられる神の御子にも、分からないことがあるという意味ではありません。永遠の神の御子であられる方は、時間を越えた御方ですので、過去に起こったすべてのことも、これから起こるであろうすべてのこともご存知です。その意味では、終わりの日がいつであるかも知っておられます。
 ここでイエス・キリストが教えておられることは、贖いの御業の遂行にかかわる、ご自身の職務上の立場のことです。終わりの日に栄光のキリストが来られるということは、贖いの御業の遂行にかかわることです。それがいつであるかは父なる神さまが決定されることで、御子は父なる神さまのみこころに従われる立場に立たれました。それは、終わりの時がいつであるかを決定することに限ったことではありません。すでにイザヤの預言にもありましたように、御子イエス・キリストが贖いの御業を遂行されるときに一貫して取っておられる立場です。それで、御子イエス・キリストは父なる神さまが再び遣わしてくださる時に、再臨されます。御イエス・キリストはその時がいつであるかについては、父なる神さまにお委ねしておられるということです。[注]

[注]誰かが私に相対性理論を説明してくださっても、私には理解することができません。それは私にそれを理解する能力がないからです。しかし、終わりの日、すなわち、栄光のキリストの再臨の日がいつであるかということは、もし、その日がいつであるかを知らされれば、だれでも理解できます。つまり、これは、日程を決定することに当たり、それを決定する立場にある人次第のことですので、それが決定されるまでは、他の人は知らないというだけのことです。決して、相対性理論などのように、理解する能力のない人には、いくら説明されても、理解できない難しいことではありません。

 ですから、「主の日」が「いつなのか、またどういう時か」については、だれも知ることができません。その意味で、私たちがその時を計算することはできませんし、計算することは主のみこころではありません。
 テサロニケ人への手紙第一・5章1節ー4節では、二つの立場が対比されています。3節には、

人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。

と記されています。[注]

[注]ここで「安全」と訳されていることば(アスファレイア)は「揺るがないこと」を意味することばで、「堅固であること」、「安全」、「確かさ」などを表しています。

 これに対して、4節には、

しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。

と記されています。
 2節に記されていることとのつながりで言いますと、

 主の日が夜中の盗人のように来る

ということをわきまえている人々にとって、「主の日が夜中の盗人のように」「襲うことは」ないというのです。
 ここには、

しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、

と言われていますように、「暗やみ」が出てきますが、これは罪がもたらす霊的な「暗やみ」のことです。これは光でありいのちであられる神さまに背を向けている状態にあることで、その結果は、神さまの聖なる御怒りによる滅びです。
 ここで注意したいことは、3節に記されています、「主の日が夜中の盗人のように」襲う人々にとっての問題は、時間の問題だけでなく、それ以上に、

 滅びが彼らに襲いかかります。

と言われていますように、それが「滅び」をもたらすということです。この「滅び」は、人の罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきによる「滅び」です。

 主の日が夜中の盗人のように来る

ということは、そのような「滅び」が襲うということです。
 これに対しまして、御子イエス・キリストの十字架の死によって罪を贖っていただき、御子イエス・キリストの復活にあずかって永遠のいのちに生きるものとされている神の子どもたちには、このような「滅び」が襲うことは、決してありません。なぜなら、御子イエス・キリストの十字架において、私たちの罪に対するさばきは終わっているからです。それで、私たちにとっては、

 主の日が夜中の盗人のように来る

ことはありません。
 むしろ、私たちは「主の日」が来ることを待ち望んでいます。先週も引用しましたピリピ人への手紙3章20節、21節に、

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

と記されているとおりです。


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