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説教日:2011年6月26日 |
イエス・キリストは永遠の神の御子であられますが、今から2千年前に、父なる神さまのみこころに従い、私たちご自身の民のために罪の贖いを成し遂げてくださるために、人の性質をお取りになって来てくださいました。そして、そのメシヤとしての生涯の最後に、十字架におかかりになり、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。これによって、私たちの罪をすべて、完全に贖ってくださいました。過去に犯した罪も、これから犯すであろう罪も、すべて贖ってくださったのです。 そればかりでなく、イエス・キリストは、その地上の生涯において、十字架の死にいたるまで父なる神さまのみこころに完全に従い通したことへの報いとして、栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられました。 イエス・キリストが栄光をお受けになったのはご自身のためではなく、私たちご自身の民のためです。イエス・キリストはまことの神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられます。ですから、ご自身のために栄光をお受けになる必要はまったくありません。 イエス・キリストが無限に身を低くされて、罪を除いて、私たちと同じ人の性質を取って来てくださったのは、そして、十字架にかかって死んでくださったのは、私たちご自身の民の罪を贖ってくださるためのことです。それと同じように、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったのも、私たちを、ご自身のよみがえりにあずからせてくださって、その復活のいのちで新しく生まれさせてくださり、神さまとの愛にある交わりのうちに生きるものとしてくださるためでした。この神さまとの愛にある交わりのうちに生きることが、永遠のいのちの本質です。 このように、神さまは、御子イエス・キリストによって、私たちご自身の民の罪を贖って、ご自身との愛にある交わりのうちに生きるものとしてくださるために必要なすべてのことを成し遂げてくださいました。そして、私たちには、この恵みを信仰によって受け取るようにと、福音のみことばをもって語りかけてくださいました。私たちは、その福音のみことばにあかしされている御子イエス・キリストとイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を信じて、この救いにあずかっています。 この私たちは、神さまがアブラハムに、与えてくださった約束に出てくる「地上のすべての民族」、「地のすべての国々」に含まれているものです。 主は、ご自身が定めておられる「終わりの日」にいたるまで、御子イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、「地上のすべての民族」、「地のすべての国々」にいる、ご自身の契約の民を罪とその結果である死と滅びから贖い出してくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるもの、すなわち、永遠のいのちをもつものとしてくださっています。 これが、ペテロの手紙第二・3章9節に、 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 と記されていることの背景にあることです。 このように、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、ご自身の民のために罪の贖いを成し遂げてくださってから、今日にいたるまでの2千年の時は、父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストが、「地上のすべての民族」、「地のすべての国々」にいる、ご自身の契約の民を罪とその結果である死と滅びの道から贖い出してくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださるお働きを遂行しておられる時です。 時が無機的に流れていると考えて、時を数えている人には、この2千年は長すぎると感じられることでしょう。しかし、主が、アブラハムへの約束にしたがって、救いの恵みをもって「地上のすべての民族」、「地のすべての国々」の中に散っているご自身の民を祝福にあずからせてくださる御業をなさっておられる時と理解している人には、この2千年は、決して長すぎる時ではないことが了解されます。 私たちは、この2千年の時を経て、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、父なる神さまとの愛の交わりのうちに生きる神の子どもとしていただいています。 ですから、この2千年の時は、主の「忍耐」の時ですが、それは、栄光のキリストが、私たちご自身の民を死と滅びの中から贖い出してくださる御業を、脈々と遂行されてきた時です。これが2千年も続いているということから、もう「主の日」は来ないと考えてしまうことがあるかもしれません。これに対して、ペテロは、 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。 と教えています。この「主の日」は、栄光のキリストが再び来られる日、主の再臨の日のことです。 主が忍耐をもって、「地上のすべての民族」、「地のすべての国々」の中に散っているご自身の民を、罪とその結果である死と滅びの中から贖い出してくださっていることから、「主の日」は来ないという結論を出すことはできません。いやむしろ、主がご自身の民を罪とその結果である死と滅びの中から贖い出してくださるお働きを遂行してくおられることは、「主の日」が来るべきことを示しています。 ヘブル人への手紙9章26節後半ー28節には、 しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。 と記されています。 ここには「一度」ということばが3回出てきます。そのうちの2回はイエス・キリストが十字架の上で私たちの罪を贖うためにご自身をささげられたことについて用いられています。これは、永遠の神の御子であられる御方が、ご自身がお取りになった人としての性質において、十字架の死の苦しみを味わわれたことによる罪の贖いが完全なものであるために、二度と繰り返す必要がないものであることを意味しています。10章14節に、 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。 と記されているとおりです。 イエス・キリストが十字架におかかりになって、私たちご自身の民のための罪の贖いを成し遂げてくださったことは、今から2千年前になされたことです。そのことが、26節では、「今の世の終わりに」と言われています。これは、直訳調に訳しますと、「今、世の終わりに(一度だけ)」ということですが、主の贖いの御業の歴史の「頂点において」というような意味合いを伝えています。 これと関連して、26節では、イエス・キリストが「来られた」[文字通りには「現された」です。また、28節の「来られるのです」は、文字通りには「見られるようになるのです」です。]のは、「ご自身をいけにえとして罪を取り除くため」であったと言われています。これはイエス・キリストの十字架の死が、旧約聖書に記されているさまざまな動物のいけにえ、特に、大贖罪の日の動物のいけにえの示していることを、最終的に、また、完全に成就するものであることを示しています。 また、28節では、それが「多くの人の罪を負うため」であったと言われています。この「多くの人の罪を負うため」ということばは、イザヤ書40章以下に出てくる、4つの「主のしもべの歌」のうちの第4の歌の最後の部分に当たる53章12節に記されています、 彼は多くの人の罪を負い、 そむいた人たちのためにとりなしをする。 という預言のみことばを反映しています。これによって、イエス・キリストの十字架の死は、罪の贖いに関する旧約聖書の預言を成就するものであることが示されています。 繰り返しになりますが、それが「一度だけ」なされたのは、イエス・キリストの十字架の死によって、主の民の罪が完全に贖われたこと、それゆえに、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いは最終的なものであることを意味しています。そのようなわけで、イエス・キリストの十字架の死は、主の贖いの御業の歴史の「頂点」に当たるものですs。 9章26節で、イエス・キリストの十字架の死が「世の終わりに」起こったことであると言われていることには、もう一つの意味があります。ただし、これはヘブル人への手紙のこの個所が言おうとしていることというより、みことば全体から理解されることという意味で、神学的なことです。 先ほどお話ししましたように、イエス・キリストは私たちの罪を負って十字架におかかりになりました。そして、十字架の上で、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきをお受けになりました。そのさばきは、最終的に、また、完全に、私たちの罪を清算するものです。その意味で、そのさばきは終わりの日に執行される、一般に「最後の審判」と呼ばれるさばきに当たります。つまり、イエス・キリストの十字架の死は、世の終わりの日に起こるべきことであったのです。 また、十字架の上で私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りを受けて死なれたイエス・キリストが、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことは、単なる蘇生ではありません。聖書の中には、肉体的に死んだ人が生き返ったことが何回か出てきます。しかし、その人々はやがて、肉体的に死んでしまい、今は過去の人になってしまっています。しかし、イエス・キリストは過去の人ではありません。ローマ人への手紙6章9節には、 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。 と記されています。イエス・キリストは、今、父なる神さまの右の座に着座されて、御霊によって、私たちを父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださっています。ヘブル人への手紙では、イエス・キリストが今も生きておられて、私たちのために大祭司として働いてくださっていることが繰り返し示されています。その一つですが、7章24節、25節には、 しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。 と記されています。 人が死に滅びてしまうのは、人が犯した罪の結果です。それで、死の原因である罪が贖われ、完全に清算されるなら、人は死ぬ必要がなくなります。イエス・キリストはその十字架の死によって、私たちご自身の民の罪を完全に贖ってくださいました。それで、私たちはもはや死の力から解放され、永遠のいのちを与えられています。 ヨハネの福音書5章24節には、 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。 という、イエス・キリストの教えが記されています。私たちの罪に対するさばきは、すでに、イエス・キリストの十字架においてすべて終わっています。また、私たちはイエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、永遠のいのち、すなわち、父なる神さまとの愛の交わりに生きるいのちを与えられています。私たちは、すでに「永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」。 しかし、私たちはまだ、神さまが御子イエス・キリストを通して実現してくださった救いに完全にあずかっているわけではありません。私たちはなおも、この世にあって、死ぬべき肉体を宿としています。 先ほど引用しました、ガラテヤ人への手紙3章13節、14節には、 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。 と記されていました。今、私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって「約束の御霊を受け」ています。御霊は、イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった罪の贖いを、私たちそれぞれに当てはめてくださっています。 具体的には、御霊は私たちを、今、父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストと結び合わせてくださり、私たちをイエス・キリストの復活のいのちで生かしてくださり、私たちを父なる神さまとの愛の交わりのうちに生きるものとしてくださっています。これは、私たちが今すでに受けている祝福です。 イエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊の祝福には、将来私たちに与えられる祝福もあります。ローマ人への手紙8章9節、10節には、 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。 と記されています。冒頭の、 もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、 と訳されている部分は、実際、御霊が私たちのうちに住んでおられるという意味合いを示しています。その意味では、これは、 神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるのですから と訳すこともできます。 ですから、9節、10節には、すでに私たちの現実になっている祝福のことが記されています。 これに対しまして、11節に記されている、 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。 ということは、将来、私たちの現実となる祝福です。ここで、 あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。 と言われているときの「生かしてくださる」は未来時制で表されています。 この将来私たちの現実となる祝福のことは、みことばのあちこちにあかしされています。たとえば、コリント人への手紙第一・6章14節には、 神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。 と記されていますし、コリント人への手紙第二・4章14節には、 れは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。 と記されています。また、ピリピ人への手紙3章20節、21節には、 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。 と記されています。 イエス・キリストご自身も同じことを教えておられます。ヨハネの福音書6章39節、40節には、 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 というイエス・キリストの教えが記されています。 このように、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業は、今、私たちを神の子どもとして、神さまとの愛の交わりのうちに生かしてくださるだけでなく、終わりの日に、私たちを栄光あるいのちによみがえらせてくださるものでもあります。もちろん、この将来における祝福も、アブラハムのまことの子孫として来てくださった、御子イエス・キリストの贖いの御業に基づく祝福です。 これらのことを考え合わせますと、この2千年の間、変わることなく、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいて、真実に、「地上のすべての民族」、「地のすべての国々」に散らされている、ご自身の契約の民を、罪とその結果である死と滅びの道から贖い出してくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださっている神さまは、必ず、終わりの日に、ご自身の契約の民すべてを、御子イエス・キリストにあって、栄光のからだによみがえらせてくださることが分かります。 御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業の完成から、2千年の時が流れたということで、「主の日」は来ないと、結論づけることは、2千年にわたる、主の真実で忍耐深い恵みによる救いのお働きを、自分たちの近視眼的な尺度で評価してしまうことです。 最後に、先ほど引用しました、ヘブル人への手紙9章28節をお読みいたします。 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。 私たちの主イエス・キリストは、すでに私たちの間に実現してくださっている私たちの救いを完成してくださるために、再び来られます。 |
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