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説教日:2011年6月19日 |
創世記12章1節ー3節に記されていますように、主は、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という約束とともにアブラハムを召してくださいました。これがイスラエルの選びの出発点ですが、それは、「地上のすべての民族」を視野に入れたもので、「地上のすべての民族」がアブラハムによって、契約の神である主の祝福を受けるようになるためでした。そして、この約束は、アブラハムが約束の子イサクを主にささげたときのことを記している、22章18節に、 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。 と記されていますように、アブラハムの「子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる」という形で、更新されました。あるいは、アブラハムに最初に与えられた約束が、アブラハムの「子孫によって」ということで、より具体的にされたと言うことができます。 この約束は、人としては、アブラハムの「子孫」としてお生まれになったイエス・キリストにおいて成就しました。このことが、ガラテヤ人への手紙3章に記されています。 3章8節には、 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。 と記されています。ここに引用されている、 あなたによってすべての国民が祝福される というアブラハムへの約束は、「あなたによって」と言われていますので、基本的に、最初に引用しました、創世記12章3節に記されています、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という約束ですが、「すべての民族」の部分が、その次に引用しました22章18節の「すべての国々」に置き換えられています。これによって、パウロはアブラハムに与えられた祝福が、アブラハムとアブラハムの子孫によって、地の「すべての民族」、「すべての国々」に及ぶことを伝えています。 そして、ガラテヤ人への手紙3章13節、14節には、 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。 と記されています。 聖書の中で「異邦人」とは、ユダヤ人以外の民族のことを指しています。言うまでもなく、ここではユダヤ人がアブラハムへの祝福にあずかることから除外されているということを意味してはいません。この手紙が宛てられたガラテヤのクリスチャンたちが「異邦人」でしたから、ここでパウロは「異邦人」のことを取り上げているだけです。 アブラハムの子孫として来てくださったイエス・キリストは、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けてくださいました。これによって、イエス・キリストは、私たちを私たちの罪の結果である死と滅びの中から贖い出してくださいました。そればかりでなく、栄光を受けて死者の中からよみがえってくだり、私たちをその復活のいのちで新しく生かしてくださいました。そして、私たちを神の子どもとしてくださり、神さまとの愛の交わりのうちに生きるものとしてくださいました。私たちも「異邦人」として、この祝福にあずかっています。 さらに、29節には、 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。 と記されています。私たちがイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、罪を贖っていただいてイエス・キリストの民となっているなら、私たちは「アブラハムの子孫であり、約束による相続人」であると言われています。私たちがイエス・キリストにあって、「アブラハムへの祝福」にあずかっているということです。 ここでは、「アブラハムの子孫」が「約束による相続人」であると言われています。これは、神さまがアブラハムに与えてくださった契約の約束が、アブラハムに相続人である子を与えてくださるということと、そのアブラハムの子孫に約束の地を与えてくださるということであったからです。 子どもはすべて相続人なのだから、わざわざ「相続人である子」が与えられると言わなくてもいいのではないか、という疑問が出てきます。しかし、アブラハムの場合には特別な事情がありました。先ほど神さまがアブラハムに、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という約束を与えてくださって、アブラハムを召してくださったことを見ましたが、創世記12章4節に記されていますように、その時アブラハムは75歳でした。しかし、アブラハムにはまだ、子どもがありませんでした。 主がアブラハムに、相続人としての子どもを与えてくださるという約束を与えてくださったことは、創世記15章に記されています。15章2節ー6節には、 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 と記されています。ここではアブラハムの「相続人としての子」のことが問題となっています。そして、アブラハムは、その「相続人としての子」を約束してくださった主を信じて、主によって義と認められたことが記されています。 パウロは、ガラテヤ人への手紙3章6節、7節でこのことに触れて、 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。 と記しています。 この約束を与えられた時、アブラハムは、創世記16章3節、16節に記されています、85歳より前で、おそらく、80歳を越えていたと思われます。そして、実際に、アブラハムとその妻サラの間に子どもイサクが生まれたのは、創世記17章1節、17節、21章5節に記されていますようにアブラハムが百歳で、サラが90歳の時でした。 先ほど引用しましたガラテヤ人への手紙3章13節、14節では、 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。 と言われていました。 ここでは、 その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです と言われています。このことがイエス・キリストによって、私たちの現実となっていることが、4章4節ー7節に記されています。そこには、 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。 と記されています。 ここでは相続人のことが「神による相続人」と言われています。これは、私たちが相続人としていただいたことは、まったく神さまの恵みによることであり、神さまが御子イエス・キリストによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいていることを意味しています。 問題は、相続人が何を受け継ぐのかということですが、ガラテヤ人への手紙の中では、ほとんど説明されていません。そのことは、この手紙の読者たちが、すでに知っていることとされているのでしょう。 神さまがアブラハムに与えてくださった契約では、アブラハムの子孫には約束の地、カナンが与えられると約束されていました。しかし、そのカナンの地は信仰によるアブラハムの子孫が受け継ぐ「新しい天と新しい地」を指し示す「地上的なひな型」でした。けれども、これは単なる「新しい天と新しい地」ではありません。そこは住むのによい世界であるというようなことで終わるものではないのです。その中心には神さまの栄光の御臨在があり、「新しい天と新しい地」で、神の子どもたちは、神さまの御臨在の御許に近づき、神さまを造り主として礼拝し、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになります。「新しい天と新しい地」は、いわば、そのための舞台です。その意味では、神の子どもたちが受け継ぐ相続財産の中心は、神さまご自身であり、神さまとの愛にあるいのちの交わりです。 このことを考えますと、パウロが3章13節、14節において、 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。 と述べて、アブラハムへの祝福が私たち異邦人に及んだことは、私たちが約束の御霊を受けたことにあると述べていることが了解されます。4章6節で、 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 と言われていますように、神さまが、御子イエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、私たちに与えてくださった「約束の御霊」は、「『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊」です。私たちはこの御霊によって、父なる神さまに向かって、親しく、また信頼をもって「アバ、父」と呼びかけ、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きることができます。そして、この4章6節では、このこと、父なる神さまとの愛にある親しい交わりが、すでに私たちの現実となっていることが示されています。 神さまがアブラハムに、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という約束を与えてくださって、アブラハムを召してくださったとき、アブラハムにょって「地上のすべての民族」が祝福を受けるようになるというみこころが示されました。そして、それは、 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。 という約束として更新されました。この更新された約束でも、「地のすべての国々」が視野に入れられていて、「地のすべての国々」がアブラハムの子孫によって祝福を受けるようになると約束されています。ですから、「地のすべての国々」がアブラハムの子孫として来てくださった御子イエス・キリストによって祝福を受け、罪の結果である死と滅びの中から贖い出されるだけでなく、「『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊」によって、神さまとの愛にある親しい交わりのうちに生きるようになることが、神さまがアブラハムを召してくださったときのみこころであったのです。 このような視野の広がりは、イエス・キリストの教えにおいても見られます。マタイの福音書から、それを見てみたいと思います。 8章5節ー13節には、イエス・キリストが異邦人である百人隊長のしもべを癒してくださったことが記されています。10節には、イエス・キリストが百人隊長の信仰について、イエス・キリストについて来たユダヤ人たちに向かって、 まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。 と言われたと記されています。そして、続く11節には、 あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。 というイエス・キリストの教えが記されています。これは、異邦人たちがアブラハムに与えられ、イサク、ヤコブに受け継がれた契約の祝福にあずかるようになることを意味しています。 このイエス・キリストの教えの背景には、イザヤ書25章6節ー9節に記されています、 万軍の主はこの山の上で万民のために、 あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、 髄の多いあぶらみと よくこされたぶどう酒の宴会を催される。 この山の上で、 万民の上をおおっている顔おおいと、 万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、 永久に死を滅ぼされる。 神である主はすべての顔から涙をぬぐい、 ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。 主が語られたのだ。 その日、人は言う。 「見よ。この方こそ、 私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。 この方こそ、私たちが待ち望んだ主。 その御救いを楽しみ喜ぼう。」 という預言のみことばがあることが認められています。この預言のみことばにおいても「万民」(すべての民)、「万国」(すべての国々)、「すべての顔」、「全地」が視野に入っています。 ここでは「宴会」の描写が繰り返されていて[「宴会」ということばは、新改訳では3回出てきますが、ヘブル語では2回です。]、それがとても豊かな「宴会」であることが示されています。 この預言で用いられている「宴会」の表象の原点は、主がシナイでイスラエルの民と契約を結んでくださった時のことを記している、出エジプト記24章1節ー11節にあると考えられます。9節ー11節には、 それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は上って行った。そうして、彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。神はイスラエル人の指導者たちに手を下されなかったので、彼らは神を見、しかも飲み食いをした。 と記されています。これは、契約締結の儀式の最後に、イスラエルの民を代表する「モーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人」が、シナイ山に御臨在される主の御許で「飲み食いをした」ことを記しています。 これは主の契約の祝福にあずかることで、そこに御臨在される主との親しい交わりにあずかっていることを意味しています。 これは、私たちにとっては、主イエス・キリストご自身が定めてくださった「主の晩餐」において、私たちが主イエス・キリストの血による新しい契約の祝福にあずかることとなっています。 すべての民、すべての国々を視野に入れたイエス・キリストの教えとしては、さらに、マタイの福音書24章14節に、 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。 と記されています。この場合の「終わりの日」が、世の終わりの日を指すのか、それとも、紀元70年のエルサレム神殿の崩壊の時を指すのか、議論が分かれています。この24章1節ー14節に記されているイエス・キリストの教えは、終わりの日に到るまでの全般的な教えであって、この14節に記されている「終わりの日」は、世の終わりの日のことであると考えられます。 さらに、マタイの福音書28章16節ー20節には、 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 と記されています。ここで栄光のキリストが弟子たちに新しい契約の下での使命をお委ねになったことが記されています。この使命は、日本の福音派では「大宣教命令」と呼ばれています。これは、この呼び名が示すことより広い意味をもった使命です。これは、創造の御業において神さまが神のかたちに造られた人に委ねてくださった歴史と文化を造る使命に対応するもので、新しい時代の歴史と文化を造る使命です。 イエス・キリストはその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、ご自身の契約の民のために罪の贖いを成し遂げてくださいました。さらに、イエス・キリストは父なる神さまの右の座に着座して、そこから聖霊すなわち「約束の御霊」、「『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊」を注いでくださいました。栄光のキリストはこの御霊によって、私たちご自身の契約の民を、神さまを礼拝することを中心とした、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださいました。ここで栄光のキリストが私たちに委ねてくださったのは、神さまを礼拝することを中心として、神さまの栄光をより豊かに現すようになる、新しい時代の歴史と文化を造る使命です。 この新しい時代の歴史と文化を造る使命においても、「あらゆる国の人々」が視野に入っていますし、「世の終わりまで」が視野に入っています。「世の終わりまで」「あらゆる国の人々」の中から、アブラハムの子孫として来てくださった御子イエス・キリストによって、祝福を受ける主の民が起こされ、「『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊」によって導かれて、神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになり、それによって、新しい時代の歴史と文化を造るようになることが、父なる神さまのみこころです。 イエス・キリストはこのようにして、私たちの間に始めてくださったことを完成してくださるために、終わりの日に再臨されます。それまでの間は、ペテロが、 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 とあかししている、神さまの恵みとあわれみと忍耐の時となっています。 |
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