黙示録講解

(第32回)


説教日:2011年6月12日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(30)


 ヨハネの黙示録1章1節には「すぐに起こるはずの事」ということばが出てきます。このことばは、黙示録に記されていることを要約するものです。それで、これまで、このことばの意味することについて、いろいろなことをお話ししてきました。その最後の問題として、この書の22章7節、12節、20節に記されています、

 見よ。わたしはすぐに来る。

という栄光のキリストのみことばをどのように理解したらいいかということをお話ししています。私たちが問題としてきたことは、イエス・キリストが、

 見よ。わたしはすぐに来る。

と言われてから、2千年経った今日に至るまで、イエス・キリストの再臨はないということです。
 過去3回にわたって、この問題とのかかわりで、ペテロの手紙第二・3章3節ー13節に記されています、終わりの日に関するペテロの教えを取り上げてお話ししました。きょうもそのお話を続けます。
 これまでは、3節ー9節に記されていますみことばを取り上げてお話ししました。きょうも、それを補足しつつ、より全体的なことを振り返りながら、お話を進めていきます。
 3節、4節には、

まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

と記されています。
 ここでは、イエス・キリストの再臨をめぐって、どのような問題が起こるかが記されています。
 あざける者たちが

 キリストの来臨の約束はどこにあるのか。

と言うときの「キリストの来臨の約束」とは、世の終わりにイエス・キリストが再臨されるという、聖書のみことばの約束のことです。
 あざける者たちは、

父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。

ということを根拠として、イエス・キリストの再臨を否定しています。これは、実質的に、神さまがこの世界に超自然的に介入されることはないと主張することです。これまでも、神さまがこの世界に超自然的に介入されたことはなかったし、これからもない、というのがあざける者たちの主張です。そして、そのことから、神さまがこの世界に超自然的に介入されることの一つの現れである、終わりの日におけるイエス・キリストの再臨もないと主張していると考えられます。
 これに対して、ペテロは、5節、6節において、

こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

と答えています。
 ここでペテロは神さまの創造の御業と、ノアの時代の大洪水によるさばきを取り上げています。そのどちらも、明らかに、神さまの超自然的な御業です。
 ここで注意しなければならないのは、ペテロは決して、超自然的な御業だけが神さまのお働きである、と主張しているわけではないということです。これまでのお話の中で繰り返しお話ししてきましたが、造り主である神さまは、創造の御業を遂行されてから今日に至るまで、ご自身がお造りになったこの世界のすべてのものを、それぞれの特性を生かしながら、真実に支え、導き続けてくださっています。天体の運行も、この地に棲むさまざまな生き物の生息も、科学的な反応も、自然界におけるさまざまな現象も、すべて、造り主である神さまの真実な御手によって支えられ、導かれています。それを、私たち人間は、「法則」としてとらえているのです。ですから、私たちは日が昇り日が沈むことというような、ごく日常的で当然のように起こっていることも、造り主である神さまの真実な御手によって支えられ、導かれていることを信じています。
 ここでペテロが、創造の御業とノアの時代の大洪水によるさばきという超自然的なお働きを取り上げているのは、あざける者たちが、神さまの超自然的な介入はないと主張しているからです。
 神さまが超自然的な御業をなされたことの聖書の記録は、ノアの時代の大洪水によるさばきだけではありません。旧約聖書の代表的な御業は出エジプトの贖いの御業です。新約聖書の時代では、イエス・キリストの地上の生涯におけるさまざまな御業があります。ここで、ペテロが、ほかにも神さまの超自然的な御業がある中で、ノアの時代の大洪水によるさばきのことを取り上げているのは、あざける者たちがあざけっている「キリストの来臨」が、世の終わりに執行される、神さまのさばきにかかわっているからです。詳しい説明を省いて、結論的なことだけを言いますが、ノアの時代の大洪水によるさばきは、その時代だけをさばくものではなく、天地創造の御業から、ノアの時代に至るまでの人類の歴史全体をさばくものでした。その意味で、それは「終末的なさばき」でした。ノアの時代の大洪水によるさばきは、今日に至るまでの人類の歴史の中で、神さまが一度だけ執行された終末的なさばきでした。これによって、神さまは人類の歴史の終わりの日には、終末的なさばきがあるということをお示しになっておられます。ノアの時代の大洪水によるさばきは、終わりの日に執行される最終的なさばきを指し示す「ひな型」(「視聴覚教材」に当たるもの)でした。それでペテロは、「キリストの来臨の約束」のことをあざけっている者たちに対して、ノアの時代の大洪水によるさばきのことを取り上げているわけです。


 あざける者たちは、そのような、世の終わりにイエス・キリストが来られて、終末的なさばきを執行されることを否定しています。ペテロは、そのことが、

 自分たちの欲望に従って生活し

という、あざける者たちの生き方を生み出しているということを示しています。コリント人への手紙第一・15章33節には、

もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」ということになるのです。

というパウロの教えが記されています。これにならって言いますと、もしイエス・キリストの再臨がないのであれば、「どのように生きても、自分の勝手である。それが問われることはない。さあ、自分の欲望のままに生きよう。」ということになるでしょう。
 ここには、それ以上の問題があります。聖書は一貫して、すべての人は造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっていることを明らかにしています。そして、その罪の結果が死であると教えています。ローマ人への手紙6章23節には、

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

と記されています。この「」はただ単に肉体的に死ぬことで終わるものではありません。というのは、この「」は、その後に出てくる「永遠のいのち」と対比されているからです。この「」は、神さまの聖なる御怒りによるさばきがもたらす永遠の滅びのことです。聖書は限りなく聖く義であられる神さまは、人のあらゆる罪を、聖なる御怒りをもっておさばきになると教えています。これを医療にたとえると、ここまでは、神さまのみことばである聖書による、私たち人間の現実の「診断」です。
 聖書の教えはこれで終ってはいません。その「診断」に対する「処方」と「治療」も示されています。それは、永遠の神の御子イエス・キリストが、父なる神さまのみこころに従って、私たちの身代わりになって十字架におかかりになり、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださったということです。それによって、私たちの罪はすべて、過去に犯した罪も、いま犯してしまう罪も、これから犯すであろう罪も、完全に贖われ、私たちは神さまの御怒りのもとから救い出されて、永遠のいのちに生かされるようになったということです。私たちの罪に対するさばきは、私たちの罪のために十字架におかかりになった神の御子イエス・キリストに対して執行されており、すでに終わっています。それで、私たちはふたたび罪のさばきを受けることはありません。
 ローマ人への手紙3章23節、24節には、

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

と記されています。また、5章8節、9節には、

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

と記されています。さらに、先ほど引用しました6章23節では、

 罪から来る報酬は死です。

という教えに続きまして、

しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

と記されていました。
 あざける者たちは、この聖書が示す「処方」と「治療」を受け入れません。その代わりに、神さまの最終的なさばきがあることを、あざけりをもって否定して、解決しようとしているのです。

 ペテロの手紙第二・3章では、さらに、8節、9節に記されていますように、ペテロは、

しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

と答えています。

主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。

ということの根本には、神さまがあらゆる点において無限、永遠、不変であられるということがあります。この場合は、時間的なことですので、特に、神さまが永遠な方であられるということがあります。神さまはこの世界を時間とともに経過し、移り行き、変わっていく世界としてお造りになりました。それで、この世界のすべてのものは、時間とともに経過し、移り変わっていきます。けれども、この世界をお造りになった神さまは、この世界の時間の流れの中になく、この世界の時間の流れとともに、経過されたり、変化されることはありません。その神さまの「御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のよう」であるのです。
 また、時間は神さまがお造りになったこの世界の時間であり、神さまがこの世界をお造りにならなかったら、すなわち、この世界が中ったら、時間もありませんでした。神さまがこの世界を時間とともに変化する世界(時間的な世界)としてお造りになったので、この世界では時間が流れているのです。ですから、時間は神さまの創造の御業とともに始まっています。
 先ほど、神さまはご自身がお造りになったすべてのものを真実に支え、導いてくださっているということをお話ししました。神さまがお造りになったこの世界のすべてのものは、ただ時間とともに経過し、移り行き、変化しているのではありません。神さまがお造りになった一つ一つのものを、それぞれの性質を生かす形でお支えになり、導いておられるので、この世界のすべてのものは、時間とともに経過し、移り行き、変化しているのです。もし、造り主である神さまが、お造りになった一つ一つのものを、真実に支え、導いてくださらなければ、私たちも含めて、この世界とその中のすべてのものは、この瞬間にも、自分の力で自らの存在を支えることはできません。まして、自分の力で自らを支えて、次の瞬間を迎えることもできません。そして、この世界とその中のすべてのものに、何の経過もなく、移り変わりもないのに時間だけが流れるということもありません。言い換えますと、造り主である神さまがこの世界とその中のすべてのものを真実に支え、導いてくださっているので、この世界の時間は流れているのです。

 さらに、神さまはこの世界をただ時間とともに経過し、移り変わる世界をお造りになったのではありません。繰り返しお話ししてきましたように、神さまはこの世界を「実を結ぶ世界」としてお造りになりました。樹木や草花は、時間とともに経過し、移り変わっていきますが、それは、内容のない、無意味な移り変わりではありません。種の状態から芽を出して、生長し、花を咲かせ、実を結ぶようになります。そのようにして、時間の流れとともに、豊かな実を結ぶようになります。そのすべてを支えてくださっているのは、樹木や草花をお造りになった神さまです。同じことは、生き物たちが誕生して成長していく過程にも当てはまります。
 このように、この世界の時間は無機的にただ流れているものではありません。神さまがお造りになったこの世界の一つ一つのものは、ただ経過し移り変わっていくのではありません。より豊かな実を結ぶように、時間とともに変化していくものです。
 それなのに、人は最後に豊かないのちへと至るのではなく、死に飲み込まれていってしまいます。それがどこでも起こっているので、人はそれが自分たちの自然な姿であると感じています。しかし、それは人の罪が生み出している錯覚です。最初の人アダムが神さまに対して罪を犯して、御前に堕落したとき、神さまはダムに対してさばきを宣告されました。それが創世記3章17節ー19節に、

また、人に仰せられた。
 「あなたが、妻の声に聞き従い、
 食べてはならないと
 わたしが命じておいた木から食べたので、
 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
 あなたは、一生、
 苦しんで食を得なければならない。
 土地は、あなたのために、
 いばらとあざみを生えさせ、
 あなたは、野の草を食べなければならない。
 あなたは、顔に汗を流して糧を得、
 ついに、あなたは土に帰る。
 あなたはそこから取られたのだから。
 あなたはちりだから、
 ちりに帰らなければならない。」

と記されています。

 あなたは、顔に汗を流して糧を得、
 ついに、あなたは土に帰る。

と言われていますように、人はその生涯の移り変わりの中で、労苦とともに糧を得て、最後には死を迎えるというのです。これが人の本来の姿であれば、先ほど引用しました、コリント人への手紙第一・15章32節にありましたように、

あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか

ということになります。また、

 あなたはちりだから、
 ちりに帰らなければならない。

すなわち、「しょせん、人はちりだから、ちりに帰るのだ」ということになります。
 しかし、これは人の本来の姿ではありません。確かに、創世記2章7節には、

神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

と記されています。人は「土地のちりで」形造られたと言われています。しかし、陶芸の名人が、土から芸術作品を作り上げたとします。その名工の作品としての器は、もはや土くれではありません。同じように、人は「土地のちりで」形造られたとしても、それは造り主である神さまの御手の作品です。そして、創世記1章27節には、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と記されています。人は愛を本質的な特性とする神のかたちに造られています。自由な意志をもち、自らの判断で自分のあり方を決定し、神さまを愛し、お互いに愛し合うものとして造られました。その人世の行程の中で、ますます愛において成長し、成熟し、豊かな愛を現すようになっていくべきものでした。ですから、神のかたちに造られた人は決して「あなたはちりだ」と言われるべきものではありません。「あなたは神のかたちだ」と言われるべきものです。そのように神のかたちに造られた人が、

 あなたはちりだから、
 ちりに帰らなければならない。

と言われるものになってしまったのは、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったためです。先ほどのローマ人への手紙6章23節に、

 罪から来る報酬は死です。

と記されていましたように、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人の、人世の行程の移り変わりは、最後には「罪から来る報酬」としての「」に至るものとなってしまいました。造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人にとっては、時間は、「罪から来る報酬」としての「」に向かって流れるものになってしまっているのです。このように流れる時間を「千年」かけて生きても、「1日」生きても、その最後に至る所は同じです。
 これに対して、神さまは御子イエス・キリストによって、このような時間の流れの特質を、私たちのためにまったく変えてくださいました。やはり先ほどのローマ人への手紙5章8節、9節には、

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。すから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

と記されていました。神さまは私たちを愛してくださって、御子イエス・キリストを私たちのための贖い主としてお遣わしになりました。御子イエス・キリストはこの父なる神さまの愛のみこころに従って、十字架にかかって死んでくださり、私たちのすべての罪を完全に贖ってくださいました。それによって私たちは罪の結果である死と滅びの中から贖い出されました。
 そればかりではありません。イエス・キリストは十字架にかかって私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださった後、3日目に栄光をお受けになって、死者の中からよみがえりました。これによって神さまは、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって、新しく生まれさせてくだり、ふたたび、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださいました。私たちはこのような神さまの愛を受けているだけでなく、私たちも神さまを愛し、神さまを喜ぶ者としていただいています。ローマ人への手紙5章8節、9節に続いて、10節、11節には、

もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

と記されています。聖書が教えている「永遠のいのち」とは、神さまとの和解に基づいて、神さまとの愛の交わりのうちに生きるいのちのことです。
 このように、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、永遠のいのちのうちを歩むようになった私たちにとって、時間は、神さまとの愛の交わりをより深く豊かにするように流れるものとなりました。また、私たちお互いの愛の交わりをより深く豊かにするように流れるものとなりました。もちろん、神さまが私たちをご自身との愛の交わりのうちに生きるように、また、私たちお互いの愛の交わりのうちに生きるようにと、真実に支え続けてくださっているからです。

 ペテロの手紙第二・3章に戻りますと、9節には、

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

と記されています。
 ノアの時代の大洪水によるさばきの執行の後、さまざまなことが起こりましたが、神さまはアブラハムを召し、アブラハムに約束を与えてくださいました。それは、創世記12章3節に、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

と記されていますように、「地上のすべての民族」がアブラハムによって祝福されるという約束でした。これは、22章18節に記されていますように、アブラハムの子孫によって「地のすべての国々が祝福を受けるようになる」という形で、更新されています。
 このことが私たちの罪を負って十字架におかかりになったイエス・キリストにおいて成就しています。ガラテヤ人への手紙3章13節、14節に、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と記されているとおりです。
 ですから、「地上のすべての民族」、「地のすべての国々」が神さまがアブラハムに与えてくださった約束にしたがい、アブラハムの子孫としてお生まれになった、イエス・キリストによって祝福を受け、永遠のいのち、すなわち、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようにならなければならないのです。いまから2千年前に、イエス・キリストが十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださり、私たちを永遠のいのちに生きるものとしてくださるための御業を成し遂げてくださってから、今日に至るまでの時は、無為に流れてきたのではありません。ただ神さまがイエス・キリストの再臨を遅らせておられただけの時ではありません。「地上のすべての民族」、「地のすべての国々」が、神さまがアブラハムに与えてくださった約束にしたがって、イエス・キリストによって祝福を受け、永遠のいのち、すなわち、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになるための時となっていました。それは、神さまが、

ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる

とあかしされていることが、着々と実現するための時の流れとなっていたのです。


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