黙示録講解

(第41回)


説教日:2011年8月28日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(39)


 先主日は、私が夏休みをいただきましたので、ヨハネの黙示録からのお話はお休みしました。きょうも、黙示録のお話を続けます。
 黙示録1章1節に出てきます「すぐに起こるはずの事」ということばは黙示録に記されていることを、全体的にまとめるものです。これまで、このことばとのかかわりで、栄光のキリストの再臨について、いろいろな面からお話ししてきました。今お話ししているのは、ペテロの手紙第二・3章3節ー13節に記されています、終わりの日に関するペテロの教えについてです。
 10節には、

しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

と記されています。前にお話ししたことですので説明は省きますが、この最後の、

 地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

と訳されている部分は、

 地と地のいろいろなわざはあらわにされます。

と訳したほうがいいと思われます。
 いずれにしましても、ここでは、まさに天変地異と言うべき大変なことが起こることが示されています。今お話ししようとしているのは、「主の日」すなわち終わりの日に、ここに記されているようなことが起こるのはどうしてなのか、あるいは、それにはどのような意味があるのかということです。
 これまで、このことを理解するためには、神さまの創造の御業にまでさかのぼって考えなければならないことをお話ししました。というのは、神さまがお造りになったこの世界の歴史に終わりの日があることとと、その日に最終的なさばきが執行されることは、神さまの創造の御業に基づいているからです。
 神さまは創造の御業において、この世界を歴史的な世界としてお造りになりました。そして、人を神のかたちにお造りになって、人にご自身がお造りになったこの世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。
 芸術作品には、それを造った芸術家の感性や力量、さらには人となりのさまざまな面まで現れています。神さまがお造りになったこの世界にも、神さまがどのような御方であるかが、さまざまな形で現されています。詩篇19篇1節には、

 天は神の栄光を語り告げ、
 大空は御手のわざを告げ知らせる。

と記されていますし、ローマ人への手紙1章20節には、

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

と記されています。
 ここに出てくる「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性」は、神学においては、神さまの「属性」と呼ばれます。より身近なことばで言う、「特質」とか「特性」に当たります。神さまは生きた人格的な方ですので、神さまの属性は、愛といつくしみ、知恵と力、聖さと義、真実などの人格的なものです。
 そして、神さまの存在と属性の輝きを「栄光」と呼びます。それで、神さまの栄光も、愛といつくしみ、知恵と力、聖さと義、真実などの人格的な栄光です。
 神さまはご自身の愛といつくしみ、知恵と力、聖さと義、真実などの人格的な属性が映し出される世界をお造りになりました。言い換えますと、神さまの愛といつくしみ、知恵と力、聖さと義、真実などの人格的な栄光が現わされる世界をお造りになったのです。しかも、創造の御業によって造り出されたときに現されていた栄光が、時間の流れとともに、より豊かに現されるようになる世界をお造りになりました。その意味で、この世界は歴史的な世界として造られているのです。
 そして、神さまは人をご自身のかたちにお造りになって、この世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。この歴史と文化を造る使命には、二つのことがかかわっています。
 その一つのことですが、先ほど触れましたように、神さまの愛といつくしみ、知恵と力、聖さと義、真実などの栄光は、神さまの御手の作品であるこの世界のすべてのものを通して現されています。しかし、それは、ただ現されているだけではありません。いくら、この世界に神さまの栄光が現わされていても、その栄光を理解し受け止める存在がいないとしたら、どうなるでしょうか。それなりの意味はあるでしょうが、ただすばらしい事が起こっていくだけのことになってしまいます。神さまはご自身がお造りになったこの世界に現されているご自身の栄光を理解し、受け止める存在をお造りになりました。それが、神のかたちに造られた人です。神のかたちに造られた人は、この世界を通して現されている造り主である神さまの栄光を理解し受け止め、神さまを礼拝し、讚えることによって、その栄光を神さまに帰します。
 もう一つのことも、それに劣らず大切です。神さまの愛といつくしみ、知恵と力、聖さと義、真実などの栄光は、神さまの御手の作品であるこの世界のすべてのものを通して現されています。そのことは、たとえて言えば、芸術作品が作者の芸術的な感性や力量や人となりのある面を現していることに当たります。しかし、その芸術作品そのものは人格的なものではありません。そのように、神さまがお造りになったこの世界そのものは、人格的なものではありません。
 そのような神さまの御手の作品であるこの世界の中にあって、神のかたちに造られた人は、自らが愛といつくしみ、知恵と力、聖さと義、真実などの人格的な特性をもつものとして造られています。つまり、神のかたちに造られた人は造り主である神さまの愛といつくしみ、知恵と力、聖さと義、真実などの人格的な属性にあずかっているのです。神のかたちに造られた人は自由な意志を持っていて、自分の意志で自分のあり方、生き方を選び取ることができます。
 このことは、神のかたちの本質的な特性である愛において、最もはっきりと現れてきます。愛は自由な意志を持つ人格から生まれてきます。プログラムされたロボットが、プログラムにしたがって、繰り返し「愛している」と言っても、それは愛の表現とは言えません。また、その人自身よりもその人の財産を目的として、その人に近づくことも、愛の表現とは言えません。愛は自由な人格から生まれてきますし、愛する人自身を目的としています。ヨハネの手紙第一・3章16節に、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と記されていることも、また、4章9節ー11節に、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

と記されていることも、このことを踏まえています。私たちに神さまの愛を引き起こすような善さがあったわけではありません。むしろ、私たちは神さまの聖なる御怒りを引き起こすようなものでした。イエス・キリストも父なる神さまも、ご自身の主権的なご意志によって、そのような私たちを愛してくださり、私たちにいのちを与えてくださいました。
 神のかたちに造られた人は、神さまがお造りになったこの世界を通して現されている神さまの愛といつくしみ、知恵と力、聖さと義、真実などの人格的な属性を理解し、受け止めるだけでなく、神さまご自身を愛します。神さまの愛を受け止めるだけでなく、自らの意志によって神さまを愛し、神さまを造り主として礼拝し、讚え、感謝します。
 このことが、神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことの中心にあります。神のかたちに造られた人は、神さまを愛し、神さまを造り主として礼拝することを中心とした歴史と文化を造るのです。


 みことばは、神のかたちに造られた人のいのちの本質が造り主である神さまとの愛の交わりにあると教えています。ヨハネの福音書17章3節に、

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

と記されているとおりです。この場合の「知ること」は、ヘブル的な意味合いにおいて「知ること」で、親しい交わりの中で知ることを意味しています。また、みことばは、神さまを愛することと、神の子どもたちを愛することが一つのことの裏表であることを教えています。ヨハネの手紙第一・4章20節に、

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

と記されているとおりです。
 このように、神のかたちに造られた人のいのちは神さまとの愛の交わりのうちにあり、神の子どもたちを愛することにあります。このことからも、神のかたちの本質的な特性が愛であることが分かります。また、このことからも、神のかたちに造られた人が造る歴史と文化が愛によって特徴づけられる歴史と文化であることが分かります。神のかたちに造られた人は、神さまと神の子どもたちへの愛を現し、委ねられた生き物たちへの愛といつくしみを現すことによって、歴史と文化を造る使命を果たすのです。もちろん、これは、神さまが創造の御業において、人を神のかたちにお造りになったときの、人の本来の姿のことです。
 神さまは神のかたちに造られた人に、愛によって特徴づけられる歴史と文化を造る使命を委ねてくださいましたが、それは、神のかたちに造られた人の益のためでもあります。神のかたちに造られた人が歴史と文化を果たしていくことによって、神のかたちに造られた人自身が愛において成長し、成熟していくようにしてくださったのです。そのことは、神さまがお造りになったこの世界が歴史的な世界であることに沿っています。神のかたちに造られた人が、神さまがお造りになったこの世界の歴史と文化を造る使命を果たすとき、神さまの愛といつくしみに満ちた栄光がより豊かに現されるようになります。そのことは、神のかたちに造られた人自身が愛においてより豊かなものとして成長し、成熟していくことをも意味しています。愛を本質的な特性とする神のかたちに造られた人は、神さまと神の子どもたちを愛することによって、愛において成長し、成熟します。だれをも愛さない人が、愛において成長することはありません。
 そればかりではありません。神さまは神のかたちに造られた人が、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことによって、愛といつくしみに満ちた神さまの栄光を現すことに対する報いとして、神のかたちに造られた人に永遠のいのちを与えてくださることを約束してくださいました。このことを、神さまは創造の御業において神のかたちに造られた人に与えてくださった契約において、約束してくださいました。
 いろいろな機会にお話ししていますが、この契約は一般に「「わざの契約」と呼ばれますが、「創造の契約」と呼んだほうがいいと思われます。神さまはまず人を神のかたちにお造りになって、その後で契約を与えてくださったのではありません。神のかたちに造られた人は、初めから、この契約のうちにある者、神さまとの契約関係にある者として造られました。
 この契約について、私たちの信仰基準の一つであるウェストミンスター小教理問答の問12は、

神は、創造された状態の人に、どのような特別の摂理の行為をとられましたか。

となっています。それに対する答えは、

人を創造された時、神は人に、完全な服従を条件として。命を契約されました。しかし、善悪を知る知識の木の実を食べることは、死を制裁として禁じられました。

となっています。
 ここでは、神さまが人に、「完全な服従を条件として」永遠のいのちを約束されたと言われています。この場合の「完全な服従」とは、歴史と文化を造る使命を果たすことにおける「完全な服従」です。
 ここで大切なことは、人のうわべだけでなく、人の内側のすべてを見ておられる神さまの御前においては、神のかたちに造られた人の思いとことばと行いのすべてが、歴史と文化を造ることにかかわっているということです。私が今ここで一つのことを考えていることも、またお話をしていることも、歴史的なことであり、文化的な活動です。また、私たちが飲むことも食べることも歴史的なことであり、文化的な活動ですですから、私たちの思いとことばと行いの一つ一つが、歴史と文化を造る使命を果たすことにかかわっています。「完全な服従」とは、このような広い意味での歴史と文化を造る使命を果たすことにおける「完全な服従」です。
 神さまはこのような意味での「完全な服従を条件として」永遠のいのちを約束されました。その永遠のいのちとは、ただ単に、いつまでも続くいのちということではありません。永遠いのちには質的な面があります。創造の御業において、神さまが人を神のかたちにお造りになったとき、人は神のかたちとしての栄光を与えられていました。神さまが創造の御業において神のかたちに造られた人に与えてくださった契約に約束されている永遠のいのちは、それよりもさらに豊かな栄光に満ちたいのちです。
 イエス・キリストは、この「創造の契約」(「わざの契約」)のうちにある人となって来てくださいました。そして、十字架の死にいたるまで父なる神さまのみこころに完全に従われて、栄光を受けて死者の中からよみがえられました。ピリピ人への手紙2章6節ー9節に、

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

と記されているとおりです。これは、神さまが創造の御業において神のかたちに造られた人に与えてくださった契約に約束されている永遠のいのちを獲得されたということです。そして、それは私たち主の契約の民のためにイエス・キリストが成し遂げてくださったことです。この「主の契約の民」と言う場合の「契約」は、一般に「恵みの契約」と呼ばれる「救済の契約」で、イエス・キリストを信じる者たちに、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずからせてくださる契約です。イエス・キリストは私たちをご自身の十字架の死にあずからせてくださって、私たちの罪をすべて完全に贖ってくださっただけでなく、私たちをご自身の復活の栄光にあずからせてくださいました。これによって、私たちが最初に造られたときのアダムより豊かな栄光にある、神さまとのいのちの交わりのうちに生きるようにしてくださいました。これが永遠のいのちです。
 ローマ人への手紙8章29節、30節には、

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と記されています。私たちはイエス・キリストの復活にあずかって新しく生まれています。それは、私たちが「御子のかたちと同じ姿」に造り変えられることを意味しています。それは、また、

義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と言われているときの「栄光」を受けることでもあります。
 先ほどお話ししましたように、この栄光は、最初の人が神のかたちに造られたときの栄光よりも豊かな栄光です。そのことの端的な現れは、ローマ人への手紙8章15節に、

私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

と記されていますように、神さまに向かって個人的に親しく「アバ、父」と呼びかけることができることです。最初の人アダムは神さまに向かって個人的に親しく「アバ、父」と呼びかけることはできませんでした。それは御使いたちにもできません。これは御子イエス・キリストの特権でしたが、イエス・キリストの復活の栄光にあずかっている私たちはその特権にあずかっているのです。
 このように、私たちがイエス・キリストの復活の栄光にあずかることは、私たちが神さまの御臨在の御前により近づくようになり、より親しい神さまとの愛にあるいのちの交わりにあずかるようになることを意味しています。私たちは被造物に許されるかぎりにおいてのことですが、最も豊かな栄光にあずかって、神さまの御臨在の最も近くにまで近づいて、親しい愛の交わりに生きる者としていただいているのです。

 終わりの日に栄光のキリストが再臨されるのは、このことを完全に実現してくださるためです。
 天地創造の御業の初めに、神さまは、いまだ「人の住みか」(イザヤ書45章18節)として整えられていなかったこの地に、御霊によってご臨在しておられました。創世記1章2節に、

地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

と記されているとおりです。この地は「人の住みか」であるより前に、神さまがご臨在される所であるのです。そのときの神さまの御臨在は、最初に造られた状態の地の豊かさと符合しておりました。神のかたちに造られた最初の人アダムは、エデンの園にご臨在しておられた神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きていました。
 しかし、終わりの日に栄光のキリストが再臨されることは、創造の御業において御霊によってご臨在された神さまの栄光より、さらに豊かな栄光においてイエス・キリストがご臨在されることを意味しています。この栄光のキリストの御臨在の御前に近づくためには、それにふさわしい栄光にあずかる必要があります。最初に造られたときの神のかたちの栄光よりさらに豊かな栄光にあずかる必要があるのです。私たちはイエス・キリストの復活の栄光にあずかっていますので、栄光のキリストの御臨在の御前に立つことができます。それは福音のみことばがあかししていることです。
 しかし、罪あるものが、栄光のキリストの御臨在の御前に立つならば、その栄光によって滅ぼされてしまいます。たとえて言うなら、栄光のキリストの御臨在は太陽にたとえることができます。太陽の中心の温度は2千万度に達し、その外層を取り巻くガスであるコロナの温度は約百万度、そして、表面温度でも6千度であると言われています。私たちはそのような太陽に直に触れることはできません。それどころか、いま私たちがある所から太陽に向かってその半分も近づかないうちに、私たちは焼き尽くされてしまうことでしょう。地球の隣の惑星である金星でさえも焼けたように乾いた星であると言われています。
 太陽が私たちにとってさまざまな益をもたらしているのは、太陽と私たちの間に距離があるからです。最初の人アダムとその妻エバが神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったとき、神さまは二人をご自身の御臨在のあるエデンの園から追放されました。それは、二人が罪あるままで神さまの御臨在の御前に立つならば、神さまの聖さを冒すことになり、御前に滅ぼされてしまうことになるからです。神さまは二人を守るためにも、二人を御臨在の御前から遠ざけられたのです。
 終わりの日には、エデンの園にあった神である主の御臨在の栄光よりさらに豊かな栄光に満ちた栄光のキリストの御臨在がこの世界にあるようになります。このことは、先ほどのたとえでは、太陽が地球とともにあるというようなことにたとえられます。最初の創造の御業によって造られた状態の世界でも、この栄光のキリストの御臨在の栄光に耐えることができません。それどころか、ローマ人への手紙8章20節に記されていますように、この世界は、この世界の歴史と文化を造る使命を委ねられた人の堕落とともに、虚無に服してしまっている世界です。今のこの世界は、栄光のキリストの御臨在の栄光に耐えられない世界です。このことが、ペテロの手紙第二・3章10節に、

その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

と記されていることの意味です。
 すでにお話ししましたように、最後の、

地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

と訳されている部分は、

地と地のいろいろなわざはあらわにされます。

と訳したほうがいいと思われますが、今お話ししていることの意味は変わりません。
 いずれにしましても、栄光のキリストの再臨は、栄光の主の御臨在がこの世界にあるようになることを意味しています。詩篇97篇2節ー6節には、

 雲と暗やみが主を取り囲み、
 義とさばきが御座の基である。
 火は御前に先立って行き
 主を取り囲む敵を焼き尽くす。
 主のいなずまは世界を照らし、
 地は見て、おののく。
 山々はの御前に、ろうのように溶けた。
 全地の主の御前に。
 天は主の義を告げ、
 すべての国々の民は主の栄光を見る。

と記されています。栄光のキリストは、その御臨在の御前において、最後のさばきを執行されます。それは歴史と文化を造る使命をめぐるさばきです。
 また、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落した人との一体において、虚無に服してしまったこの世界も、金属の精錬のように、栄光のキリストの御臨在の御前で、火で吹き聖められるようになります。しかし、それはすべてが無に帰してしまうことを意味してはいません。コロサイ人への手紙1章19節、20節には、

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

と記されています。御子イエス・キリストの十字架の死は、私たちの罪を贖ってくださるためだけでなく、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落した人との一体において、虚無に服してしまったこの世界をも神さまと和解させてくださるためのものでした。ローマ人への手紙8章21節には、

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と記されています。終わりの日に再臨される栄光のキリストは、ご自身が成し遂げられたこの贖いの御業に基づいて、新しい天と新しい地を再創造されます。
 私たちはイエス・キリストの十字架の死にあずかっていますので、私たちに対する最後のさばきは、すでにイエス・キリストの十字架において執行されて、終わっています。また、私たちは歴史と文化を造る使命を成就して、栄光をお受けになったイエス・キリストの復活の栄光にあずかっています。それは、栄光の主の御臨在の御前に近づいて、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きることにふさわしい栄光です。
 今、私たちは栄光のキリストから、新しい時代の歴史と文化を造る使命を委ねられています。この新しい時代の歴史と文化は、ローマ人への手紙8章14節に、

 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

と記されていますが、神の子どもたちが「神の御霊に導かれ」て造る歴史と文化です。これは、終わりの日に再臨される栄光のキリストが再創造される新しい天と新しい地につながり、そこで完成する歴史と文化です。私たちは新しい天と新しい地を相続財産として受け継ぐ神の子どもです。
 最後にヘブル人への手紙12章25節ー29節をお読みいたします。

語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。私たちの神は焼き尽くす火です。


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