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説教日:2011年9月4日 |
ここには終わりの日に栄光のキリストが再臨されることに伴う出来事が記されています。終わりの日に栄光のキリストが再臨されるのは、最終的なさばきを執行されるためです。私たちはきょうも「使徒信条」をもって、ともに信仰の告白をしました。その中心は御子イエス・キリストに関する告白です。その御子イエス・キリストについての告白の最後に、私たちは、「かしこより来たりて、生ける者と死ぬる者とを審きたまわん。」と告白しました。これは、確かに、主のみことばに基づく告白です。たとえば、黙示録22章12節には、 見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。 という栄光のキリストのみことばが記されています。また、20章11節ー15節には、そのさばきのことが、 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。 と記されています。 けれども、これが栄光のキリストが再臨される理由のすべてではありません。ヘブル人への手紙9章26節後半ー28節には、 しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。 と記されています。 ここでは、御子イエス・キリストが私たちと同じ人の性質を取って来てくださったのは、十字架におかかりになって私たちの罪を贖ってくださるためであったことが示された後、御子イエス・キリストが再び来られるのは、「彼を待ち望んでいる人々の救いのため」であると言われています。イエス・キリストはご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業によって実現された私たち主の契約の民の救いを完成してくださるために、再び来られるのです。ヨハネの福音書14章1節ー3節には、 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。 というイエス・キリストのみことばが記されています。「わたしの父の家」とは、父なる神さまがご臨在される所としての「天」のことです。マタイの福音書にはイエス・キリストが父なる神さまのことを、繰り返し「天におられるわたしの父」と呼んでおられることが記されています(7章21節、10章32節、33節、16章17節、18章10節、19節)。ヨハネの福音書14章3節には、 また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。 というイエス・キリストのみことばが記されています。この場合の「また来て」は、終わりの日におけるイエス・キリストの再臨のことであると考えられます。そして、ここでは、「わたしの父の家」が「わたしのもと」とも呼ばれています。イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されたことは、私たちのために「場所を備え」てくださるためのことでもありました。私たちはイエス・キリストとともによみがえって、イエス・キリストとともに天に座をもつものとされています。エペソ人への手紙2章4節ー6節に、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。 と記されているとおりです。世の終わりにイエス・キリストが再臨されるのは、このことを完全な形で実現してくださるためです。 このように、終わりの日に栄光のキリストが再臨されるのは、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた罪の贖いにあずかっている、主の契約の民の救いを完全に実現してくださるためであると同時に、人が犯したすべての罪をさばくためです。言い換えますと、イエス・キリストは救いとさばきの御業を遂行されるために、終わりの日に再臨されます。 けれども、これにつきましては、別の疑問が残ります。イエス・キリストが救いとさばきの御業を遂行されるために終わりの日に再臨されるのですが、そのために、どうして、 その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。 と言われているようなことになるのでしょうか。 これまでこの問題を理解するためには、創造の御業にまでさかのぼって、みことばの教えを理解しなければならないということをお話ししてきました。 ごく簡単にまとめますと、創世記1章27節、28節に、 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されていますように、神さまは人を「神のかたちとして」お造りになり、この世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。 「神のかたちとして」造られた人のいのちの本質は、造り主である神さまとの愛の交わりにあります。その他の生き物たちも神さまがお造りになり、神さまが支えてくださっています。それで、すべての生き物のいのちの源は造り主である神さまであり、すべてのいのちは神さまによって支えられています。その点は、神のかたちに造られた人もそれ以外の生き物たちも同じです。しかし、神のかたちに造られた人のいのちは、ただ神さまによって支えられているだけではありません。神のかたちに造られた人は、造られたものとしての限界がありますが、愛といつくしみ、知恵と力、聖さと義、真実さなどの神さまの人格的な特性にあずかっています。それで、神のかたちに造られた人のいのちは、これら、愛といつくしみ、知恵と力、聖さと義、真実さなどを現すいのちです。それは何よりもまず、神さまを造り主として愛し、あがめ、礼拝することに現れてきます。そのように現れてくる神さまとの愛の交わりが、神のかたちに造られた人のいのちの本質です。 さらに、神のかたちに造られた人のいのちは、同じく神のかたちに造られた人を愛することに現れてきますし、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という、歴史と文化を造る使命とともに神さまから委ねられている、ほかの生き物たちを愛をもっていつくしむことに現れてきます。 神のかたちに造られた人は、造り主である神さまを神として愛し、あがめ、礼拝することを中心とした歴史と文化を造る使命を委ねられているのです。そうであるとしますと、神さまは、神のかたちに造られた人が委ねられた歴史と文化を造る使命をどのように果たしたかを評価されます。しかも、それは基本的に、神さまがお造りになったこの世界の歴史を造る使命ですので、その評価は、歴史の終わりになされます。 その評価は、神のかたちに造られた人が、神さまがお造りになったこの世界の歴史と文化を造る使命を果たすことに対する報いを与えてくださることを意味していました。神さまは、神のかたちに造られた人がご自身を愛して、委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことに報いてくださって、神のかたちに造られた人に永遠のいのち、すなわち、最初に神のかたちに造られたときよりも、もっと豊かな栄光に満ちたいのちを与えてくださることを、ご自身の契約に示してくださいました。神さまが人により豊かな栄光に満ちたいのち、すなわち、永遠のいのちを与えてくださるのは、人をご自身の栄光のご臨在の御許にもっと近づけてくださるためでした。 しかし、実際には、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったために、人は、造り主である神さまを神として愛し、あがめて、礼拝することを中心とする本来の歴史と文化を造るどころか、造り主である神さまの代わりに、自分の間尺に合う偶像を作り出して、これを拝み、自らの罪の自己中心性を現す歴史と文化を造るものとなってしまいました。そのために、歴史の終わりになされるはずの、歴史と文化を造る使命に対する「評価」は「さばき」となってしまったのです。 それとともに、神さまは、私たちに対するご自身の愛を貫いてくださいました。私たちを罪とその結果である死と滅びの中から贖い出してくださるだけでなく、私たちに永遠のいのちを与えてくださるために、ご自身の御子を贖い主として立ててくださいました。御子イエス・キリストは私たちと同じ人の性質を取って来てくださり、十字架におかかりになり、私たちの身代わりとなって、私たちの罪に対するさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。それによって、私たちの罪をすべて完全に贖ってくださいました。私たちの罪に対する最終的なさばきは、御子イエス・キリストの十字架において執行されていますので、私たちはさばかれることはありません。 そればかりでなく、イエス・キリストは十字架の死にいたるまでも、父なる神さまのみこころに完全に従われました。それで、神さまはイエス・キリストの完全な従順に対する報いとして、より豊かな栄光に満ちた永遠のいのち、復活のいのちをお与えになりました。イエス・キリストはその栄光を受けて死者の中からよみがえりました。私たちはイエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖っていただいているだけでなく、イエス・キリストの復活にもあずかって、永遠のいのちに生きるものとしていただいています。その永遠のいのちとは、神さまの栄光の御臨在の至近(最も近く)にまで近づいて神さまとの愛の交わりに生きることにあります。 終わりの日に栄光のキリストが再臨されるのは、このすべてを完全に実現してくださるためです。私たちをご自身の栄光の御臨在の御許に住まわせてくださるために、栄光を帯びて来てくださるのです。先ほど引用しましたヨハネの福音書14章1節ー3節では、父なる神さまの家は御子イエス・キリストの御許でもありました。 終わりの日に再臨されるイエス・キリストの栄光の御臨在は、金属を精錬する火にたとえられます。精錬する火が金属のかなかすを吹ききよめて、取り除いてしまうように、再臨されるイエス・キリストの栄光は罪と罪がもたらした汚れや腐敗などを吹ききよめて取り除いてしまいます。ローマ人への手紙8章19節、20節には、 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。 と記されています。神さまは創造の御業において神のかたちに造られた人に、ご自身がお造りになったこの世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。それによって、この世界のすべてのものは、神のかたちに造られた人との一体にあるものとされました。そして、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったとき、この世界のすべてのものが、人との一体において「虚無に服した」のです。 そのように、「虚無に服した」被造物は、終わりの日に再臨されるイエス・キリストの御臨在の栄光によって、金属が精錬され、かなかすが吹ききよめられるように、焼け溶けてしまいます。しかし、それは、ローマ人への手紙8章で、先ほどの19節、20節に続く21節に、 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 と記されていますように、栄光あるものに造り変えられるためのことです。先週も引用しましたコロサイ人への手紙1章19節、20節に、 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。 と記されていますように、イエス・キリストの十字架の死は、私たち主の契約の民の罪を贖ってくださるためのものであるだけでなく、「万物」の回復と栄光化のためのものでもあったのです。 このように、「虚無に服した」被造物は、終わりの日に再臨されるイエス・キリストの御臨在の栄光によって、金属が精錬され、かなかすが吹ききよめられるように、焼け溶けてしまいますが、それは、イエス・キリストが成し遂げられた罪の贖いにあずかって栄光あるものとされている神の子どもたちとの一体において、「神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るためのことです。終わりの日に再臨される栄光のキリストは、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、新しい天と新しい地を再創造されます。しかし、それは最初の創造の御業のような「無からの創造」ではありません。栄光のキリストは、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落した人との一体において「虚無に服した」世界を、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、火で精錬するように吹ききよめて、新しい天と新しい地として再創造されるのです。 このことにつきましては、なお、疑問が出されるかもしれません。 新しい天と新しい地については、ペテロの手紙第二・3章12節後半ー13節に、 その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。 と記されています。また、黙示録21章1節に、 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。 と記されています。 これらのみことばを読みましても、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落した人との一体において「虚無に服した」世界が、新しい天と新しい地として再創造されるというというイメージはわいてきません。特に、黙示録21章1節で、 以前の天と、以前の地は過ぎ去り と言われていることは、そのことを否定しているようにも見えます。 しかし、このみことばは、「以前の天と、以前の地」が新しい天と新しい地とまったく別のものであるということを意味してはいません。というのは、これと実質的に同じことを記している、コリント人への手紙第二・5章17節に、 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 と記されているからです。 ここに言われている「キリストのうちにある」人は、新しく造られているのですが、それによって、別人になってしまったわけではありません。ここに記されていることは、私たちにそのまま当てはまることですが、これによって私たちが私たちとは別の人になってしまうわけではありません。私たちは私たちでありつつ、新しく造り変えていただいているのです。 ここでは、 古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 と言われていますが、この「過ぎ去って」と訳されていることば(アペルコマイ)は、黙示録21章1節で、 以前の天と、以前の地は過ぎ去り と言われているときの「過ぎ去り」と訳されていることばと同じことばです。ですから、黙示録21章1節に、 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。 と記されているからといって、最初の創造の御業によって造られた天と地がすべてご破算になってしまって、まったく新しく、新しい天と新しい地が造り出される、と考える必要はありません。というより、コリント人への手紙第二・5章17節で、 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 と言われているときの、新しく造られた人が、その人のアイデンティティとしては古い人と同じであるということは、この新しい天と新しい地が、最初の創造の御業によって造られた天と地が、栄光のキリストの御臨在の栄光によって、吹ききよめられて、新しく造り変えられたものであるという可能性を大きくします。 また、先ほど引用しました、ローマ人への手紙8章21節に記されている、 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 というみことばも、そのことを支持しています。 さらに、コリント人への手紙第一・3章11節後半ー15節には、 その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。 と記されています。ここには、神の子どもたちがイエス・キリストという土台の上に建物を建てることが記されています。ここでは、 その日は火とともに現れ と言われていますが、これは物理的な火のことではなく、「その日」に再臨されるイエス・キリストの栄光を、「真価をためす」こと、すなわち評価とのかかわりで、火にたとえていると考えられます。 終わりの日に再臨されるイエス・キリストの栄光は、いろいろな意味をもっている豊かな栄光です。愛といつくしみの栄光としては、主の民の救いとかかわっています。私たちにとっては、栄光のキリストの御臨在は私たちを、父なる神さまとご自身とのより豊かな栄光にある愛の交わりに生かしてくださるものです。同時に、義と聖さの栄光としては、さばきとかかわっています。主のさばきのことを記しているダニエル書7章9節後半ー10節初めには、 御座は火の炎、 その車輪は燃える火で、 火の流れがこの方の前から流れ出ていた。 と記されています。ここでは、主の栄光の御臨在の御許から焼き尽くす火が出ていることが示されています。また、先ほど引用しました黙示録20章14節、15節には、 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。 と記されていましたが、この「火の池」も同じように、栄光のキリストの御臨在のさばきとかかわる栄光を指していると考えられます。 コリント人への手紙第一・3章のことですが、もしその建物が、「金、銀、宝石」で建てられるなら、それは、「その日」に再臨されるイエス・キリストの栄光の御臨在の御前においても残ると言われていています。そのようにして残ったものは、新しい天と新しい地につながっていくはずです。このことも、新しい天と新しい地が、まったくの「無から」創造されるものではないことを示しています。 私たちはこの新しい天と新しい地につながっていく歴史と文化を造るように召されています。 |
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