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説教日:2011年9月11日 |
ペテロの手紙第二・3章10節では、 その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去ります。 と言われています。同じことは、12節でも、 その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。 と言われています。 私たちは3月11日に起こった東日本大震災により、大変な衝撃を受けました。私たちのうちにはその記憶がまだ生々しく残っていますので、ここに記されていることが実際に起こるとしたら、それがどれほどのことか、大震災を経験する前よりは、よりリアルに感じられるかもしれません。そうではあっても――このような言い方は不謹慎なことに聞こえますが――東日本大震災は、全地球規模で見ますと、その一部が揺れ動いたということでしかありません。それが、私たちにあのような恐怖や動揺をもたらしたのであるとしますと、ここに記されている終わりの日の様子は、もう私たちの想像をはるかに越えた、恐るべき出来事であると言うほかはありません。ここには、単に地球だけのことではなく、この造られた世界全体、今日のことばで言う、宇宙全体にかかわる出来事が記されています。 そうしますと、私たちはこの日の来ることにおびえなければならないのではないか、という疑問が生まれてきます。私たちはこの先、東海、東南海、南海地震が起こるということを聞いています。また、首都圏直下型地震が起こるということ、あるいは私たちのすぐ近くを走っている立川断層が動く確率が高くなっているということも聞いて、不安に駆られることもあります。主の日に起こることは、これらのことの比ではないことでしょう。 しかし、みことばはむしろ、私たちに、その日を待ち望むようにと教えています。その理由は、先ほど触れましたように、栄光のキリストは、私たち主の民の救いを完成してくださるために再臨されるからです。 この点について、もう少し、みことばの教えを見てみたいと思います。 このような、終わりの日の、この造られた世界全体における、想像を絶する異変のことは、聖書のあちこちに記されています。その原点は、出エジプトの時代に契約の神である主がシナイ山にご臨在されたことです。このことにつきましては、後ほど取り上げます。そして、そのシナイにおける出来事を原点として、旧約聖書に記されている終わりの日に関する預言が新約聖書に記されている教えに反映しています。 その代表的な個所は、少し前(「すぐに起こるはずの事を」の34回)に取り上げたことがあります、イザヤ書34章4節です。そこには、 天の万象は朽ち果て、 天は巻き物のように巻かれる。 その万象は、枯れ落ちる。 ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。 いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。 と記されています。 これは1節、2節に、 国々よ。近づいて聞け。 諸国の民よ。耳を傾けよ。 地と、それに満ちるもの、 世界と、そこから生え出たすべてのものよ。聞け。 主がすべての国に向かって怒り、 すべての軍勢に向かって憤り、 彼らを聖絶し、 彼らが虐殺されるままにされたからだ。 と記されていますように、主が「国々」に対してさばきを執行されることを預言することばの中で語られたものです。 このイザヤの預言のことばは、終わりの日に関するイエス・キリストの教えにも反映しています。マタイの福音書24章29節ー31節には、 だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。 と記されています。ここには、終わりの日に再臨されるイエス・キリストの御臨在に伴うさまざまな出来事のことが記されています。 この前半の部分で、 星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。 と言われていることは、先ほどのイザヤの預言を反映しています。 このイエス・キリストの教えにも、栄光のキリストの再臨の二つの意味を反映することが示されています。一つは、 すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。 と言われていることです。これは、説教のためのテキストとしてお読みしている黙示録1章1節ー8節の中の、7節に、 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。 と記されていることと同じことです。どちらも、旧約聖書の背景がありますが、きょうは、それに触れることができません。 このイエス・キリストの教えに出て来る人々は、終わりの日に再臨される栄光のキリストを「悲しみながら」見ることになります。それは自分たちのさばきの時が来たことを予感してのことでしょう。 それと同じことが黙示録6章12節ー17節には、 私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」 と記されています。 マタイの福音書24章29節ー31節に記されている、栄光のキリストの再臨のもう一つの意味、すなわち、栄光のキリストはご自身の民の救いを完全な形で実現してくださるということにかかわることは、31節に、 人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。 と記されています。 栄光のキリストは、ご自身の十字架の死によって罪を贖い、死者の中からのよみがえりによって新しく生まれさせてくださった、私たちご自身の民を、その栄光の御臨在の御許に集めてくださり、御前に立たせてくださるのです。 ここで「天の果てから果てまで、四方から」と訳されている部分では、「四方から」ということばが先に出てきます。このことばだけで「あらゆる所から」ということを意味しています。これに「天の果てから果てまで」ということばがつけ加えられて、さらに強調されています。これによって、主の民のすべてが栄光のキリストの御臨在の御許に集められること、それには、ひとりも漏れることはないことが示されています。 このマタイの福音書24章31節のみことばから直接的に汲み取ることはできないのですが、この主の民のすべてが集められるということには、終わりの日に地上に生きている主の民だけでなく、その時までに、この世を去って、主の御許にある主の民も含まれていると考えられます。 このことととの関連で思い出されるのは、テサロニケ人への手紙第一・4章13節ー17節に記されている、パウロの教えです。16節、17節には、 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。 と記されています。 ここでは、終わりの日に栄光のキリストが再臨されるとき「キリストにある死者」が優先することが示されています。 また、17節には、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。 と記されていますが、この場合の「雲」は雨を降らす雲のことではありません。これは、主の栄光の顕現に伴う雲のことで、そこに栄光の主の御臨在があることを表示するものです。ですから、 雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです と言われていることは、私たち主の民が栄光のキリストの御臨在の御許に引き上げられることを意味しています。 先ほどのマタイの福音書24章30節では、 人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来る と言われていました。この場合の「天の雲」も主の栄光の顕現に伴う雲のことです。 栄光のキリストの御臨在の御許には、イエス・キリストご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づく、贖いの恵みが満ちています。私たち主の民は、すでに、その御臨在の御許に備えられている贖いの恵みにあずかっています。このことを理解しますと、終わりの日、主の日に栄光のキリストが再臨されるときにどのようなことが起こるとしても、私たち主の民は決して恐れる必要はないことが分かります。 もう一つのことに触れておきたいと思います。マタイの福音書24章29節に、 だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。 と記されていることと、黙示録6章12節ー14節に、 私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。 と記されていることは、終わりの日には、私たちの住んでいる地が大地震によって揺れ動くだけでなく、この宇宙全体が揺り動かされることを示しています。 この宇宙全体が揺り動かされることについては、後ほど取り上げます。ここで注目したいのは、これらの個所で、太陽と月に大きな変化が生ずることが記されていることです。マタイの福音書では、 太陽は暗くなり、月は光を放たず と記されていますし、黙示録では、 太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。 と記されています。 これは、ヨエル書2章30節、31節に記されています、 わたしは天と地に、不思議なしるしを現す。 血と火と煙の柱である。 主の大いなる恐るべき日が来る前に、 太陽はやみとなり、月は血に変わる。 という預言のことばを背景としています。このみことばは不気味で日本的な感覚では「不吉な」ことです。しかし、これにはまだ先があります。これに続く32節には、 しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。 主が仰せられたように、 シオンの山、エルサレムに、 のがれる者があるからだ。 その生き残った者のうちに、 主が呼ばれる者がいる。 と記されています。主の栄光の御臨在に伴う恐るべき状況の中で、主の贖いの御業によってもたらされる恵みにあずかって、救われる者たちがあるというのです。それは、主がそのときそこで、ご自身が成し遂げられた罪の贖いに基づいて、救いの御業を遂行されるということに他なりません。 この造られた世界の全体が揺り動かされることは、先々主日のお話の最後に、説明のないまま引用しましたヘブル人への手紙12章25節ー29節にも記されています。そこには、 語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。私たちの神は焼き尽くす火です。 と記されています。25節で、 地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかった と言われており、26節で、 あのときは、その声が地を揺り動かしました と言われているのは、出エジプトの時代に、契約の神である主がシナイ山にご臨在されて、イスラエルの民に十戒の戒めを、直接的に語られたことを指しています。出エジプト記19章18節には、 シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。 と記されています。ここでは、主がシナイ山にご臨在されたことに伴って起こったことを記しています。主はまだ語りかけてはおられませんが、 全山が激しく震えた。 と記されています。この後、主はイスラエルの民に十戒の戒めを直接的に語られました。それを聞いたイスラエルの民の反応が、20章18節、19節に、 民はみな、雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した。民は見て、たじろぎ、遠く離れて立った。彼らはモーセに言った。「どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。」 と記されています。この記事では分かりにくいのですが、申命記5章には、このときのことを回顧しているモーセのことばが記されています。5章22節には、 これらのことばを、主はあの山で、火と雲と暗やみの中から、あなたがたの全集会に、大きな声で告げられた。このほかのことは言われなかった。主はそれを二枚の石の板に書いて、私に授けられた。 と記されています。そして、主の御声を聞いたイスラエルの民の反応が続く23節ー27節に記されていますが、それは、主が直接的に語りかけられないようにしていただきたいという要請でした。そのために、モーセが主のみことばを聞いて、自分たちにそれを伝えてくれるように求めたのです。25節ー27節には、 今、私たちはなぜ死ななければならないのでしょうか。この大きい火が私たちをなめ尽くそうとしています。もし、この上なお私たちの神、主の声を聞くならば、私たちは死ななければなりません。いったい肉を持つ者で、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者がありましょうか。あなたが近づいて行き、私たちの神、主が仰せになることをみな聞き、私たちの神、主があなたにお告げになることをみな、私たちに告げてくださいますように。私たちは聞いて、行います。 というイスラエルの民の代表者たちのことばが記されています。 ちなみに、このときの出来事が、主がイスラエルに預言者を起こしてくださるようになることの原点となっています。この点については、申命記18章15節ー18節を見てください。 とはいえ、その時、モーセは恐れなかったということではありません。モーセが恐れたことは、これに先立って、ヘブル人への手紙12章19節後半ー21節に、 このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。彼らは、「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」というその命令に耐えることができなかったのです。また、その光景があまり恐ろしかったので、モーセは、「私は恐れて、震える」と言いました。 と記されています。 ここでは、動物の血による古い契約の下にあったイスラエルの民は、たとえモーセのような古い契約の仲保者として召されていた人物であっても、主の栄光の御臨在の御前では、恐れて震えるほかはなかったことが示されています。なぜ恐れて震えるほかはなかったかと言いますと、いけにえの動物は、やがて神さまが備えてくださるまことのいけにえを指し示す「地上的なひな型」でしかなく、実際に、人の罪をきよめることはできなかったからです。 ジェット機の模型は、ジェット機が人を乗せて空を飛ぶものであること示していますが、実際に、人を乗せて空を飛ぶことはできません。同じように、「地上的なひな型」(本物の模型)である動物のいけにえは、いけにえの血が罪をきよめることを示していますが、その血が実際に人の罪をきよめることはできません。同じヘブル人への手紙10章4節に、 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。 と記されているとおりです。実際に、人の罪をきよめるのは「地上的なひな型」の本体である永遠の神の御子であられるイエス・キリストが十字架の上で流された血です。10章14節で、 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです と言われているとおりです。それで、私たちは恐れることなく、大胆に、主の栄光の御臨在の御前に立つことができます。10章19節に、 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。 と記されているとおりです。 いずれにしましても、出エジプトの時代に主がシナイ山に御臨在されて、直接的にイスラエルの民に語られたときに、イスラエルの民は自分たちが火で焼き尽くされてしまうと感じる恐怖に包まれてしまいました。その時のことが12章26節には、 あのときは、その声が地を揺り動かしました と記されています。これには続きがあります。26節全体は、 あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」 となっています。ここでは、 地だけではなく、天も揺り動かす。 と言われています。このことばの背景にあるのは、ハガイ書2章6節ー9節です。そこには、 まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。銀はわたしのもの。金もわたしのもの。――万軍の主の御告げ――この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。――万軍の主の御告げ――」 と記されています。 これはバビロンの捕囚になっていたユダの民がバビロンから帰還して、エルサレムのシオンの丘に、一般に「第二神殿」と呼ばれる、主の神殿を建設することに触れるものです。 預言者たちはしばしば、バビロンからの帰還のことを出エジプトの出来事に重ね合わせて記しています。「すべての国々の宝物がもたらされ」ということは、出エジプト記3章21節、22節に記されている、エジプトを出たイスラエルがエジプトの宝石をもって出ていったことに対応していいると考えられます。 同時に、預言者たちは第二神殿を「地上的なひな型」として、終わりの日に完成する、主の栄光の御臨在に満たされるまことの神殿の建設のことを預言しています。ここに記されている主のみことばは、終わりの日に完成する、主の栄光に満ちている主の神殿が建てられることを指し示しています。そのような約束とのかかわりで、 まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。 と言われています。この場合の「揺り動かす」ということは、主がさばきを執行するために御臨在されることを表しています。しかし、それは、主の御臨在の栄光に満ちた神殿が建設され完成するためのことでもあります。ヘブル人への手紙12章27節ー28節前半に、 この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。 と記されていますように、私たち主の民が、もはや、主のさばきによって「揺り動かされ」取り除かれることがない「御国を受け」るためのことでもあります。 このように、みことばは一貫して、私たちが希望をもって終わりの日を待ち望むべきであることを示しています。 |
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