黙示録講解

(第44回)


説教日:2011年9月18日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(42)


 ヨハネの黙示録1章1節に出てきます「すぐに起こるはずの事」ということばは、この書、黙示録に記されていることを、全体的にまとめるものです。これまで、このことばとのかかわりで、イエス・キリストの再臨について、いろいろなことをお話ししてきました。そして今は、ペテロの手紙第二・3章3節ー13節に記されている、終わりの日に関するペテロの教えについてお話ししています。
 これまで、10節に記されています、

しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

という教えについてお話ししてきました。
 きょうは、これに続く11節に記されています、

このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

という教えを取り上げたいと思います。
 具体的なことは後ほどお話ししますが、この教えは誤解されやすいものです。そして、その誤解は福音のみことばの教えを根本的に歪めてしまうものでもあり得ます。それでこの教えについては、慎重に受け止めたいと思います。そのためには、これまでお話ししたことを「総動員する」ようにして、この教えを理解する必要があります。
 このようなことを念頭に置きながら、お話を進めていきます。


 11節で、

このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、

と言われているのは、この前の10節において、

その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

と記されていることを受けています。
 この10節に記されていることがどのようなことであるかにつきましては、これまで詳しくお話ししてきましたので、結論的なことだけをお話しします。
 ここで「その日」と言われているのは、10節の前の部分で「主の日」と呼ばれている日のことで、世の終わり、この世界の歴史の終わりにおいて、イエス・キリストが再臨される(再び来られる)日のことです。聖書の中では、しばしば「終わりの日」とも呼ばれています。
 最後の、

 地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

と訳されている部分は、

 地と地のいろいろなわざはあらわにされます。

と訳したほうがいいと考えられます。これは、終わりの日に再臨されるイエス・キリストが最後のさばきを執行されることに触れていると考えられます。
 これに先立って記されている、

その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り

と記されていることは、その最後のさばきに伴って起こることを記しています。
 きょうお話しすることとかかわっていますので、このことを、ペテロの手紙第二・3章の流れの中で見てみましょう。
 まず、3節、4節に、

まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

と記されている状態になるという警告のことばがあります。
 これに対してペテロは、5節、6節において、

こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。

と記しています。これは、創世記に記されている、神さまの創造の御業と、ノアの時代の大洪水によるさばきの執行に触れるものです。
 ノアの時代の大洪水によるさばきの執行は、それまでの人類の歴史をさばくものでした。その意味で、それは「終末的なさばき」でした。しかし、それは、神さまが終わりの日に、すべての人と、その一つ一つの行いを公正におさばきになることがあるということをあかしするための「地上的なひな型」(「模型」あるいは「視聴覚教材」に当たるもの)でした。
 ノアの時代の大洪水によるさばきの執行が、そのような「終末的なさばき」としての意味をもっていたので、ここでペテロは、大洪水によるさばきの執行に触れて、「あざける者ども」のあざけりに答えているわけです。
 そして、ノアの時代の大洪水によるさばきが終わりの日における最後のさばきを指し示す「地上的なひな型」であったので、続く5節において、

しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

と記して、最後のさばきがどのようなものであるかを明らかにしているのです。
 10節で、

その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、

と言われていることは、この5節の教えを受けています。また、12節の後半でも、

その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。

と記されています。
 先ほど引用しました7節に、

しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

と記されていますように、これは、終わりの日における最後のさばきに伴って起こることですし、その時には、天だけでなくこの地も焼け溶けてしまうと言われています。

 このようなことを読みますと、私たちのうちに言い知れない恐怖心が湧いてくるかもしれません。しかし、終わりの日のことを、そのように恐怖心をもって受け止めることは、これを記しているペテロの願っていることではありません。また、先週お話ししましたように、みことば全体が示していることではありません。
 確かに、ペテロが終わりの日のさばきのことを記しているのは、終わりの日に、このようなことが起こるからです。ペテロはそのことを包み隠さず記しています。しかしそれは、終わりに日に起こることの一面でしかありません。ここでペテロが終わりの日のさばきのことを記しているのは、先ほど引用しました、3節、4節に、

終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

と記されています「あざける者ども」のあざけりに答えているからです。終わりの日における主の再臨はないとして、終わりの日に関するみことばの教えをあざけっている人々に、というより、そのあざけりのことばに惑わされることがないようにと、私たちに、終わりの日におけるさばきがあることを、みことばに基づいて教えているのです。
 神さまのみことばは、私たちに、終わりの日にイエス・キリストが再臨されるのは、最後のさばきを執行されるためだけでなく、私たちご自身の民の救いを完成してくださるためであることを教えています。繰り返しの引用になりますが、ヘブル人への手紙9章28節に、

キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

と記されているとおりです。
 ここで、

キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられました

と言われているのは、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことについて述べたものです。
 イエス・キリストは無限、永遠、不変の栄光の神の御子であられます。その無限、永遠、不変の栄光の主であられる御方が、今から2千年ほど前に、私たちのために救いの御業を遂行してくださるために、私たちと同じ人の性質を取って来てくださいました。そして、私たちの罪を負ってくださって、十字架におかかりになり、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。
 イエス・キリストが十字架の上で私たちに代わって受けてくださった、私たちの罪に対するさばきは、終わりの日のさばきに当たるものです。それで、十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストを信じている私たちの罪に対する最終的なさばきは、イエス・キリストの十字架において終わっています。私たちの罪は、私たちがすでに犯してしまった罪も、これから犯すであろう罪も、すべて完全に清算されています。私たちはもはや罪に定められることはありませんし、私たちの罪に対するさばきを執行されることもありません。ローマ人への手紙8章1節に、

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

と記されているとおりです。
 ヘブル人への手紙9章28節では、続いて、

二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

と言われています。ここで「二度目は・・・来られるのです」(直訳「二度目は・・・現れてくださるのです」)は、将来のことで、イエス・キリストが再臨される(再び来てくださる)ことです。そしてここでは、それは、イエス・キリストが再び来てくださることを「待ち望んでいる人々の救いのため」であると言われています。
 「救いのため」であると言いますと、まだ救いが実現していないかのような印象を受けますが、もちろん、そういうことではありません。
 イエス・キリストは私たちの罪のために十字架にかかって、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。そして、私たちを永遠のいのち、復活のいのちで生かしてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。イエス・キリストは、私たちをご自身の十字架の死にあずからせてくださって、私たちの罪に対するさばきから救い出してくださっただけでなく、私たちをご自身の復活にあずからせてくださって、新しく生まれさせてくだり、復活のいのちで生かしてくださっています。これらのことは、すでになされたことであり、私たちの現実となっています。私たちはイエス・キリストによってすでに救われています。
 ですから、ここで、

二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

と言われているのは、イエス・キリストが今すでに私たちのものとしてくださっている救いを完成してくださるために来てくださることを意味しています。
 このように、私たちのために十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストを信じている私たちにとっては、終わりの日にイエス・キリストが再臨されることは、イエス・キリストが私たちのうちにすでに初めてくださっている救いの御業を完成してくださるためのことです。
 コリント人への手紙第一の終わりの部分である16章22節には、

 主よ、来てください。

と記されています。これは、アラム語を音訳したものとして、しばしば「マラナ・タ」あるいは「マラナタ」と音訳されています。これは、もとになっているアラム語のことばがはっきりしないために、命令形として、

 主よ、来てください。

と理解することも、完了時制として、

 主は来てくださった。

と理解することもできます。この曖昧さは意図的なもので、二つの意味を込めるためのことではないかとも考えられています。古代教会では、聖餐式のときに「マラナ・タ」と唱えられたと言われています。ただし、それは推測に過ぎないという意見もあります。
 黙示録の最後の部分である22章16節、17節には、

「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。

と記されており、20節には、

これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

と記されています。
 コリント人への手紙第一・16章22節の「マラナ・タ」をどの意味で理解するにしても、教会は、初代教会から、

 しかり。わたしはすぐに来る。

という栄光のキリストのみことばを信じて、

 アーメン。主イエスよ、来てください。

と応答し、祈り続けてきました。

 きょう、このような長い復習をしたのは、最初に触れましたように、きょう取り上げていますペテロの手紙第二・3章11節に記されている、

このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

というペテロの教えを理解するために、これまでお話ししてきたすべてのことを「総動員」する必要があるからです。
 まず、ここに記されている教えを、3章の流れの中で見てみましょう。
 ここでは、

あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

というように、私たちの生き方のことが語られています。その意味では、これは、先ほど引用しました、3節、4節に、

終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

と記されている「あざける者ども」が福音のみことばの約束を「あざけり」、「自分たちの欲望に従って生活し」ていることと対比されます。
 先ほど触れました、10節最後の、

 地と地のいろいろなわざはあらわにされます。

というみことばは、終わりの日に最終的なさばきが執行されることを示しています。そのようにさばかれることの典型的な事例が、「あざける者ども」が福音のみことばの約束を「あざけり」、「自分たちの欲望に従って生活し」ていることです。
 それで、11節において、

このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、

と言われていることには、10節において、

その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り(ます)

と言われていることだけでなく、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまい、神さまに背を向けて歩んでいるすべての人の罪がさばかれることも含まれています。

 このようなことが踏まえられて、11節には、

このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

と記されています。
 この教えについては慎重に理解しなければなりません。というのは、このペテロの教えを読んで、私たちは、もしかすると、終わりの日には最後のさばきがあるから、さばきを受けて滅ぼされないために、「聖い生き方をする敬虔な人でなければならない」と教えられていると思ってしまうかもしれないからです。しかし、これは、ペテロがここで教えていることではありません。
 先ほどお話ししましたように、そして、皆さんがよく理解していますように、私たちの罪は、私たちがすでに犯した罪も、これから犯すであろう罪も、すべて、御子イエス・キリストの十字架の死によって贖われ、完全に清算されています。私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきは、御子イエス・キリストの十字架において執行されており、終わっています。ですから、私たちのために十字架にかかって死んでくださった御子イエス・キリストを信じている私たちは、決して罪に定められることはありませんし、さばきを受けて滅びることもありません。
 話を分かりやすくするために、結論的なことを先に言いますと、11節に記されている、

このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

というペテロの教えは、私たちが「くずれ落ちるもの」、「くずれ落ちる」世界に属していないということを踏まえているのです。
 ペテロの手紙第一・1章3節ー5節には、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。

と記されています。ここでは、神さまが私たちをイエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって、「新しく生まれさせて」くださったばかりでなく、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました」と言われています。そして、それは、神さまの「大きなあわれみのゆえ」であると言われています。私たちがこの「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐように」なることに当たることが、ペテロの手紙第二・3章13節では、

しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

と記されています。
 このように、私たちは「くずれ落ちる」世界に属しているのではありませんし、「くずれ落ちるもの」を獲得しようとして、追い求めているのではありません。もちろん、私たちは自らの罪の暗やみに欺かれて、「くずれ落ちるもの」を追い求めてしまうことがあります。しかし、私たちは主の恵みによって、そのことのむなしさに気がつくように導かれます。
 ですから、

このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

という教えは、神さまの「大きなあわれみのゆえ」に、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、罪を贖っていただき、復活のいのちに生きる者としていただいているばかりか、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐ」者としていただいている私たちが、それにふさわしい生き方をするようにと教えるものです。
 決して、終わりの日に執行される最後のさばきのときにさばかれて滅びることがないためには、「聖い生き方をする敬虔な人」でなければならないということではありません。終わりの日に執行される最終的なさばきから救い出されるのは、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかることによっています。決して、私たちの「聖い生き方」によるのではありません。エペソ人への手紙2章8節、9節に、

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

と記されているとおりです。私たちが救われたのは、ただ、私たちのために十字架にかかって死んでくださり、私たちのために死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストを信じる信仰によるのであって、私たちの救われる前の行いによってはいませんし、救われた後の行いにもよっていません。
 私たちが救われたのは、私たちが救われる前の行いによっていないということはよく分かっているのに、私たちが救われた後の行いにもよらないということは、それほど意識的に理解されていないかもしれません。そのことを理解しないままに、

このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

という教えを読みますと、終わりの日にさばかれて滅びるようなことがないために、「聖い生き方をする敬虔な人でなければならない」というように考えてしまいかねません。
 私たちは父なる神さまの一方的な愛と、御子イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことによって成し遂げてくださった贖いの御業のゆえに、死と滅びの中から救い出され、復活のいのちに生かされています。それで、ここでは、それにふさわしく生きるように勧められています。
 最後に、ペテロの手紙第一・1章18節ー21節をお読みいたします。

ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。


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