黙示録講解

(第45回)


説教日:2011年9月25日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(43)


 ヨハネの黙示録1章1節には、黙示録に記されていることを全体的にまとめる「すぐに起こるはずの事」ということばが出てきます。これまで、このことばとのかかわりで、終わりの日にイエス・キリストが再び来られること、すなわち、再臨についてお話ししてきました。その間に私たちは東日本大震災も経験しました。そのこともあって、今は、ペテロの手紙第二・3章3節ー13節に記されている、終わりの日に関するペテロの教えについてお話ししています。
 先主日は、11節に記されています、

このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

という教えについてお話ししました。
 この教えは、これに先立つ10節に記されている、

しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

という教えを受けています。この場合の「主の日」は、世の終わりの日で、その日に、私たちの主イエス・キリストが再臨されるので、「主の日」と呼ばれています。また、最後の、

 地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

と訳されている部分は、

 地と地のいろいろなわざはあらわにされます。

と訳したほうがいいと考えられます。これは、神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられた人に対する、最後のさばきが執行されることを意味していると考えられます。
 この10節に記されていることは、さらに、3節ー7節に、

まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

と記されている教えを受けています。
 ここに記されているペテロの教えから分かりますように、ペテロは、

終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

という状況がやって来ることを、この手紙の読者たちに教えるとともに、そのような、「あざける者ども」のあざけりに惑わされることがないようにと、教え諭しているのです。その際に、ペテロは、

天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。

と述べて、神さまの創造の御業と、ノアの時代の大洪水によるさばきの事実に目を留めるように教えています。というのは、

父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。

という、「あざける者ども」のあざけりの根底には、神さまの超自然的な介入はないという考え方があるからです。今日のことばで言い換えるなら、「ものごとはすべて法則に従って動いているのであって、神の介入する余地はない」というような主張です。
 この考え方につきましては、すでに、詳しくお話ししましたが、この世界を秩序立てられて、調和のうちにある世界としてお造りになったのは神さまです。そして、造り主である神さまが、お造りになった一つ一つのものの特性と、その相互の関係性、さらには全体的な関わり合いを生かしつつ、真実に支えておられます。その神さまの真実さが揺らぐことがないので、その現れを、私たちは観測したり、実験などで確かめながら、法則としてとらえているのです。いわば、私たちが法則としてとらえているのは、造り主である神さまの真実なお支えとお導きの現れです。その意味で、この世界のすべてのものは、常に、造り主である神さまの超自然的なお働きによって、支えられ、導かれています。なにも奇跡的なことだけが、神さまの超自然的なお働きではないのです。神さまのお働きはすべて超自然的です。
 この世界を支えているのは法則ではありません。もし、神さまがその支えの御手を引いてしまわれるとしたら、この世界はたちまちのうちに崩壊してしまいます。しかし、神さまは終わりの日に至るまで、お造りになったこの世界を真実に支え、導いてくださいます。


 とはいえ、それはこの世界に何の混乱もないということではありません。ローマ人への手紙8章19節ー21節に、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と記されています。ここでは、神さまがお造りになったこの世界は「虚無に服した」と言われています。
 神さまは創造の御業において、人を神のかたちにお造りになって、ご自身がお造りになったこの世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。神のかたちに造られた人は神さまがお造りになったこの世界のすべてのもの、すなわち、被造物を、神さまのみこころにしたがって治める使命を委ねられています。これを被造物の側から見ますと、被造物は神のかたちに造られた人との一体にあるものとされているのです。それで、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落したときに、人が罪の結果である死の力に捕らえられてしまっただけではありません。人と一体にあるものとされた被造物も、虚無に服してしまいました。
 今引用しましたローマ人への手紙8章19節ー21節は、このことを踏まえたうえで、被造物が虚無と「滅びの束縛から解放され」ることをあかしし、約束しています。それも、御子イエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖われ、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、復活のいのちによって新しく生まれて、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになった、私たち神の子どもたちとの一体にあってのことです。それで、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。

と言われており、

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と言われているのです。
 ローマ人への手紙8章では、これに続く22節、23節に、

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と記されています。
 今お話ししていることに関連していることだけをお話ししますと、虚無に服しているこの被造物世界が「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るようになるのは、私たち神の子どもたちが栄光のからだによみがえり、完全な意味で神の子どもとしての実質をもつようになるときのことです。
 それは、終わりの日に再臨される御子イエス・キリストが、実現してくださることです。ピリピ人への手紙3章20節、21節には、

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

と記されています。

 ペテロの手紙第二・3章10節で、

その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、

と言われていることは、神さまがお造りになったすべてのものを支えておられる御手を引いてしまわれるので、この世界が崩壊してしまうということではありません。終わりの日に御子イエス・キリストが再び来られるのは、すべての人の罪をおさばきになるためです。しかし、そればかりでなく、先ほど引用しましたピリピ人への手紙3章20節、21節に記されていましたように、

私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださる

ためです。それによって、私たちの救いを完成してくださるためです。
 御子イエス・キリストが私たちを、そのように、栄光あるものとしてよみがえらせてくださるのは、私たちをご自身の栄光の御臨在の御前に立たせてくださるためです。また、全被造物が「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るのは、そのように栄光あるものとされる被造物世界に、栄光の主の御臨在があるようになるためです。言い換えますと、終わりの日に再臨される御子イエス・キリストは、この被造物世界を、ご自身の栄光の御臨在にふさわしいものとして造り変えてくださるのです。
 そのようにして、栄光あるものとして造り変えられるこの世界が、ペテロの手紙第二・3章13節に、

しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

と記されているときの、「新しい天と新しい地」です。黙示録では、20章において、最後のさばきの執行が記されています。それに続く21章1節には、

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

と記されています。
 聖書の中では、主の御臨在の栄光は、しばしば、金属を精錬する火にたとえられています。それによって、かなかすを取り除いて、金属を純粋なものにするのです。終わりの日に御子イエス・キリストが栄光の主として御臨在されるとき、その栄光によって、いわば、この被造物世界が精錬する火で吹ききよめられるようになります。それによって、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人は、その罪をさばかれ、この世界から、人の罪とその残滓が吹ききよめられるようにして取り除かれます。そして、神の子どもたちは栄光のキリストの御臨在の御前に立つのにふさわしいものとして造り変えられて、よみがえります。また、罪を犯した人との一体のために虚無に服していた被造物世界から、虚無という人の罪の影が吹ききよめられて取り除かれます。それが、ペテロの手紙第二・3章10節で、

その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

と記されていることに当たります。
 しかし、それがすべてではありません。この世界は、主の栄光の御臨在にふさわしいものとして造り変えられます。それで、13節では、

しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

と言われています。
 ここで「正義」と訳されたことば(ディカイオシュネー)は、基本的には、広い意味での「」を表すことばです。「正義」という意味もありますが、これですと、少し意味が特殊なものになってしまいます。言うまでもなく、聖書では、「」は神さまとの関係、あるいは、神さまのみこころとの関係で考えられるものです。ここでは、この「義」が擬人化されて「義が住む」と言われています。このことから、この「新しい天と新しい地」では、すべてのものが神さまとの本来の正しい関係にあり、神さまの愛と恵みに満ちたみこころが実現していることを汲み取ることができます。
 マタイの福音書6章33節には、

 神の国とその義とをまず第一に求めなさい。

というイエス・キリストの教えが記されています。ここで「神の国とその義」と言われているときの「その義」は「神の義」のことです。ギリシャ語本文の写本には「御国とその義」というように「神の」ということばを欠いているものもあります。しかし、これが「神の国とその義」であるとして、「その義」の「その」は男性形です。「」は女性形ですので、「その」は男性形である「」を指しています。
 これは、すでに神さまの一方的な愛と御子イエス・キリストの恵みによって、神さまの御前に、法的に、義と認められた私たちが、この世での歩みの中で、神さまのみこころに従って生きることを求めるものです。私たちは「主の祈り」の中で、

 みこころが天で行われるように地でも行われますように。

と祈ります。これは、基本的には、神さまがご自身のみこころを地で行ってくださることを信じて、祈るものです。それには、私たちが御霊に導いていただいて、神さまのみこころを行うことが、大切なこととして含まれています。
 私たちに対する神さまのみこころは、神さまが創造の御業において、人を神のかたちにお造りになったときに、その心に記してくださった神さまの律法に示されています。そして、その律法は、マタイの福音書22章37節ー39節に記されている、イエス・キリストの教えに示されていますように、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めに要約される、愛の律法です。
 先ほどお話ししましたように、ペテロの手紙第二・3章13節で、

しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

と言われているときの「」は、まず、神さまと本来の正しい関係にあることにあります。それは、すでに私たちの現実となっています。神さまはその一方的な愛と恵みによって、また、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、私たちを御前に義と認めてくださっているのです。それだけでなく、この「」は神さまのみこころが実現していることにあります。このことの中心には、私たち主の契約の民が神さまのみこころに従うことがあります。そして、その神さまのみこころは愛の律法に要約されます。それで、この「」と愛は対立するものではなく、完全に調和しています。

 このことを踏まえて、ガラテヤ人への手紙5章22節、23節を見てみましょう。そこには、

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

と記されています。
 すでにいろいろな機会にお話ししていますように、この「御霊の実」は単数です。それに「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という人格的な特性があります。それで、この「御霊の実」はさまざまな状況において、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を表現する人格です。それは、私たちの主であられるイエス・キリストにおいて、完全な形で実現しているものです。
 御霊は、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになります。そして、私たちを御子イエス・キリストと一つに結び合わせてくださって、イエス・キリストの復活のいのちで、私たちを生かしてくださっています。その御霊が私たちのうちに「御霊の実」を結んでくださるということは、何よりも、私たちを御子イエス・キリストのかたちに似た者に造り変えてくださるということを意味しています。
 ここで「御霊の実」と言われているときの「御霊」は、4章4節ー6節に、

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

と記されているときの「御子の御霊」のことです。
 ここでは、「『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊」と言われています。そして、「『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊」ということばが示しているように、私たちを父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださいます。
 また、「御霊の実」のことを記している5章22節、23節に先だって、13節には、

兄弟姉妹たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

と記されています。パウロはこのことから、さらに筆を勧めて、16節において、

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

と記しています。そして、「」と「御霊」が対立するものであることを記してから、19節ー21節において「肉の行い」(複数形で、それが統一を欠く、ばらばらなものであることを示しています)を列挙し、続いて22節、23節において「御霊の実」のことを記しています。この流れから分かりますように、「御霊の実」の第一の現れが愛であることは、13節に記されている、お互いに愛をもって仕えることとつながっています。
 このように御霊は、神さまの一方的な愛と、御子イエス・キリストの贖いの恵みによって、神の子どもとされている私たちを、神さまへの愛と兄弟姉妹たちへの愛のうちに生きるものとしてくださいます。
 私たちがこの御霊に導かれて、神さまへの愛と兄弟姉妹たちへの愛のうちを歩むなら、私たちのうちに「御霊の実」が結ばれます。それは、私たちがイエス・キリストの栄光のかたちに似た者に造り変えられるということを意味しています。コリント人への手紙第二・、3章18節に、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されていますように、すでに御霊は私たちをイエス・キリストの栄光のかたちに似た者に造り変えてくださるお働きを始めておられます。そして、ヨハネの手紙第一・3章2節に、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と記されていますように、終わりの日には、私たちは「キリストに似た者」としていただくようになります。それは、私たちが「キリストのありのままの姿を見る」と言われていますように、私たちとイエス・キリストの愛の交わりが完全な形で実現するということでもあります。
 私たちが「神の約束に従って」待ち望んでいる「義の住む新しい天と新しい地」において、私たちは「キリストに似た者」としていただきます。そして、私たちと、父なる神さまとの愛の交わりと、兄弟姉妹たちとの愛の交わりがより豊かな栄光に満ちたものとして、完成するようになります。
 私たちはすでにこのような祝福を受けており、その完成、完全な実現を待ち望んでいます。それで、ヨハネの手紙第一・3章3節では、

キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

と言われていますし、ペテロの手紙第二・3章11節では、同じ主旨から、

このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

と言われています。先週お話ししましたように、この教えでは、私たちが崩れ落ちない世界に属しているということを踏まえています。コリント人への手紙第一・13章13節に、

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

と記されているように、崩れ落ちない世界において「番すぐれているのは愛です」。
 ヨハネの手紙第一・4章18節に、

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。

と記されていますように、さばきへの恐怖心からは愛は生まれてきません。さばきを免れようとして人を愛することは、最後には自分の身を守ろうとすることであって、真に兄弟姉妹を愛することではありません。私たちは御子イエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を完全に贖っていただいていますし、私たちの罪に対する最終的なさばきは御子イエス・キリストの十字架において終わっています。それで、私たちはさばきへの恐怖心から解放されています。私たちはさばきへの恐怖心から、神さまのみこころに従うのではありません。神さまを愛して、神さまを敬うので、そのみこころに従うのです。


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