黙示録講解

(第46回)


説教日:2011年10月2日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(44)


 ヨハネの黙示録1章1節に記されています「すぐに起こるはずの事」ということばは、この書に記されていることを全体的にまとめるものです。このことばとのかかわりで、終わりの日にイエス・キリストが再臨されることについて、いろいろなことをお話ししてきました。今は、ペテロの手紙第二・3章3節ー13節に記されています、終わりの日に関するペテロの教えについてお話ししています。
 先主日と先々主日には、11節に記されています、

このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

という教えについてお話ししました。今日は、すでにお話ししたことを補足したいと思います。まず、すでにお話ししたことをまとめながら、お話を進めていきます。


 11節の前半に記されています、

このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、

ということは、この前の10節に、

しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

と記されていることを受けています。これは、世の終わりに栄光のキリストが再臨されることに伴って起こることを記しています。

その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り[ます]

ということは、私たちの想像を絶する天変地異が起こることを示しています。先主日と先々主日には、これは罪の影が射している被造物世界が、イエス・キリストの御臨在の栄光によって、金属が精錬されるように、吹ききよめられることであると考えられるということをお話ししました。
 この10節に続いて、

 地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

と訳されている部分は、

 地と地のいろいろなわざはあらわにされます。

と訳したほうがいいと考えられます。そして、これは神さまが、創造の御業において、神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命をお委ねになった人をおさばきになることに触れるものであると考えられます。
 それで、一見したところでは、

このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

という教えは、世の終わりには恐るべきさばきが執行されるので、それに備えるために、あるいはそれを免れるために「聖い生き方をする敬虔な人でなければならない」と教えられているように思われます。
 しかし、このような受け止め方は、ここでペテロが教えている主旨に反することです。また、そのような受け止め方は、福音を歪めるものです。
 私たちが終わりの日の最終的なさばきから救われるのは、私たちの行いによるのではありません。かりに、そのようなことは決してないのですが、私たちがこれから後、どのような罪も犯さないとしても、それで、私たちがこれまでに犯した罪を一つも贖うことはできません。なぜなら、私たちは無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに対して罪を犯したのであり、無限、永遠、不変の栄光の主に背いたのです。その一つの罪を贖うためにも、無限の償いがなされなければなりません。私たちはあらゆる点で有限なものです。それで、私たちには無限の償いをすることはできません。そればかりでなく、実際には、私たちのうちには罪の性質が残っています。そのために、私たちは罪を犯してしまいます。それで、私たちはますます罪を贖っていただかなければならない者となっています。このことは、今の私たちの現実です。
 そのような私たちのために、父なる神さまはご自身の御子を贖い主として立ててくださいました。そして、永遠の神の御子にして、無限の栄光の主であられるイエス・キリストが、私たちのために贖いの御業を遂行してくださるために、今から2千年前に、私たちと同じ人の性質を取って来てくださいました。イエス・キリストは私たちと同じ人の性質において、私たちと一つになってくださり、十字架におかかりになり、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。これによって、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。私たちが過去に犯した罪ばかりでなく、将来犯すであろう罪もすべて償ってあまりある贖いを備えてくださいました。私たちはこの贖いにあずかって、日々に犯す罪を赦していただき、聖めていただく必要があります。
 私たちの罪に対する最終的なさばきは、御子イエス・キリストの十字架においてすでに執行されています。それで、私たちは二度と罪をさばかれることはありません。これが、福音のみことばがあかししていることです。父なる神さまが福音のみことばを通して、御子イエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪は完全に贖われていると、あかししてくださっているのです。私たちは福音のみことばに基づいて、十字架にかかって死んでくださった御子イエス・キリストを信じています。そうであれば、私たちは、終わりの日に執行される最終的なさばきを恐れてはなりません。
 確かに、終わりの日には、栄光のキリストが、すべての人の罪を最終的にさばくために再臨されます。けれども、終わりの日には、栄光のキリストが再臨されるのは最終的なさばきを執行するためだけではありません。御子イエス・キリストは、福音のみことばに基づいて、ご自身の十字架の死を信じて、罪を完全に贖っていただいている私たちの救いを完成してくださるためにも来てくださるのです。繰り返しの引用になりますが、ピリピ人への手紙3章20節、21節に、

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

と記されているとおりです。また、ヘブル人への手紙9章28節には、

キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

と記されています。

 しかし、ペテロの手紙第二・3章3節ー12節には、終わりの日に最終的なさばきが執行されることしか記されてはいません。そして、13節になってようやく、そのこととの対比で、

しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

と記されているだけです。
 けれどもそれには理由があります。ここで、終わりの日に栄光のキリストが再臨されて、さばきを執行されることだけが記されているのは、この教えが、3節、4節に記されています、

まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

という教えから始まっているからです。終わりの日に「あざける者どもがやって来て」栄光のキリストの再臨の約束をあざけりをもって否定するようになるというのです。その人々は、ことばによるあざけりをもって栄光のキリストの再臨の約束を否定するだけでなく、「自分たちの欲望に従って生活」するという生き方をもって、栄光のキリストの再臨の約束を否定します。11節で、

このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

と言われているのは、まさに、これと反対の生き方をするということです。
 「あざける者どもが」あざけりをもって、栄光のキリストの再臨の約束を否定することを受けて、ペテロは、この手紙の読者たちの目を、神さまの創造の御業と、ノアの時代の大洪水によるさばきの執行に向けさせています。そして、ノアの時代の大洪水によるさばきの執行は、いわば「地上的なひな型」であって、終わりの日に最終的なさばきが執行されることを指し示していることを明らかにしています。そして、7節に、

しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

と記されていますように、終わりの日に栄光のキリストによって執行されるのは、大洪水によるさばきではなく、「」によるさばきであることが示されています。

 ここで、改めて、この「」について考えてみたいと思います。
 この「」は物理的な火のことではありません。
 「地上的なひな型」であったノアの時代の大洪水によるさばきにおいては、物理的な「水」がさばきの手段として用いられました。それは、肉体的ないのちを取り去るものでしたし、それまでに人類が築いてきた歴史と文化の外面的なものを、徹底的に破壊してしまうものでした。同じように、もし終わりの日に執行される最後のさばきの手段が物理的な「火」であるとすれば、たとえそれが核分裂や核融合による高温の火であったとしても、物質的なものを焼き尽くすだけのものでしかありません。7節で、

今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、

と言われているときの「」は、ただ単に、物理的なもの、外面的なものを焼き尽くすだけのものではありません。これは、栄光の主、すなわち、栄光のキリストの御臨在に伴う「」です。
 マタイの福音書10章28節には、

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 イエス・キリストは、人は「からだを殺しても、たましいを殺せない」のに対して、神さまは「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方」であると教えておられます。この「ゲヘナ」については、5章22節と18章9節で「燃えるゲヘナ」と言われています。また、25章41節では「ゲヘナ」ということばは用いられていませんが、「悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火」と言われています。
 「ゲヘナ」とは「地獄」のことを指しています。「ゲヘナ」はエルサレムの南西にある「ゲー・ヒンノーム」(ヒンノムの谷)に由来すると言われています。「ゲー」は「谷」を意味するヘブル語で、「ヒンノーム」は人名であると考えられます。ヒンノムの谷は、背教したユダの民が異教の神であるモレク(列王記第二・23章10節)やバアル(エレミヤ書19章5節)などに、自分たちの子どもをいけにえとしてささげた所です。これはまた「ゲー・ベーン・ヒンノーム」(ヒンノムの息子の谷)とか、「トフェテ」とも呼ばれます。「トフェテ」の意味についてはいろいろと議論されていますが、「火で焼く所」という意味合いがあると考えられます。
 エレミヤは、そのようなユダの民の罪のために主のさばきが下されることを預言しました(7章30節ー33節、19章)。そして、後には、そこ(ヒンノムの谷)で廃棄物や犯罪人の死体が焼却処理されるようになったと言われています。
 このような意味をもった「ゲー・ヒンノーム」(ヒンノムの谷)を象徴的な場所として用いて、「地獄」のことを表すようになりますが、このヘブル語の「ゲー・ヒンノーム」、アラム語「ゲー・ヒンナーム」が、ギリシャ語で「ゲエンナ」となり、「ゲヘナ」と音訳されています。
 イエス・キリストの教えでは、この「ゲヘナ」は、神さまが「たましいもからだも、ともに」滅ぼすために用意された所であることが示されています。その意味で、この「燃えるゲヘナ」で燃えているのは、単なる、物理的な火ではありません。単なる物理的な火であれば、からだを焼くことしかできません。

 この「燃えるゲヘナ」に相当するものは黙示録19章20節、20章10節、14節、15節に出てくる「火の池」です。
 20章10節には、

そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。

と記されており、14節、15節には、

それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

と記されています。ここでは「火の池に投げ込まれ」ることが「第二の死である」と言われています。この「火の池」は、「いのちの書に名のしるされていない者」、すなわち、父なる神さまが備えてくださった贖い主である御子イエス・キリストとその十字架の死を信じることがない人々だけでなく、物質的な存在ではない「悪魔」や「死とハデス」も、さばきを受けて、投げ込まれるところです。このことも、この「火の池」の「」は物理的な火ではないことを示しています。
 この「」は、すでにお話ししましたように、終わりの日に再臨されるイエス・キリストの御臨在の栄光を象徴的に表していると考えられます。

 この場合の「死とハデス」が何であるかについては、見方がいくつかに分かれています。
 「ハデス」はギリシャ語ですが、ヘブル語の「シェオール」に当たります。これは基本的に、「死んだ者が行く所」、「死者の領域」を表しますが、しばしば、そのようなものとしての「墓」を表します。黙示録では「ハデス」は常に「」との組み合わせで用いられています(1章18節、6章8節、20章12節、14節)。
 「死とハデス」が何であるかについての見方は四つほどありますが、すべての見方に共通しているのは、ここでは「死とハデス」が人格化(擬人化)されているということです。この人格化はすでに6章7節、8節に見られます。そこには、

小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。

と記されています。問題はこのように人格化された「死とハデス」が何を表しているかということですが、これについて見方が四つほどに分かれているのです。このうちの二つの見方が可能性が高いと考えられますが、おそらく、これは同じように死が人格化されているコリント人への手紙第一・15章26節に、

 最後の敵である死も滅ぼされます。

と記されていることとのかかわりで理解すべきものでしょう。黙示録20章14節では、「」に「ハデス」が組み合わされています。これによって、罪の結果もたらされる死だけでなく、最後には死をもたらす、あらゆる種類の悪を指していると考えられます。
 もう一つの可能性は、このように人格化された「死とハデス」は、より具体的な存在、すなわち、罪とその結果である死をもって人を支配する悪霊を表しているというものです。
 これらの見方のどちらを取るとしましても、

それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

ということは、罪とその結果である死を初めとするあらゆる悪が、さばきによって、一掃されてしまうことが示されています。

 これと関連して、以前(7年ほど前に)お話ししたことがある一つのことを、お話ししたいと思います。
 ある人々は、地獄は神である主の御臨在の御前から最も遠い所であると考えています。さらには、地獄には神はいないと考える人もいます。
 けれども、そのように考えるべきではないと思われます。というのは、存在において無限、永遠、不変の神である主がおられない所はないからです。また、地獄も神である主から独立して存在してはいないからです。
 詩篇139篇7節ー10節には、

 私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。
 私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、
 私がよみに床を設けても、
 そこにあなたはおられます。
 私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
 そこでも、あなたの御手が私を導き、
 あなたの右の手が私を捕らえます。

と記されています。
 これは神である主がどこにでもおられるという意味での「遍在」のことを述べています。それだけではありません。引用の最後の10節において、

 そこでも、あなたの御手が私を導き、
 あなたの右の手が私を捕らえます。

と言われていますように、恵みとあわれみに満ちた主の御臨在が、どこにあっても、私たち主の民とともにあることが示されています。
 神さまの「遍在」と「御臨在」は意味合いが少し違います。「遍在」は、神さまが存在において無限、永遠、不変の方であられるので、ご自身がお造りになったこの世界のどこにでもおられるということを意味しています。その意味では、地獄にも神さまはおられます。
 これに対して、神さまの「御臨在」は、生きておられる人格であられる神さまが、ご自身のご意志で、特別な意味でご自身の栄光を表わすために、そこにご臨在されることです。このような意味での主の御臨在は地獄にはないと主張されるかもしれません。つまり、地獄は神である主の栄光の御臨在から最も遠ざけられた所であるということです。
 けれども、創世記3章22節ー24節には、神である主が、ご自身に対して罪を犯した人を、ご自身がご臨在されるエデンの園から追放されたことが記されています。人が主の栄光の御臨在の御前から退けられたことは、罪を犯した人に対するさばきですが、同時に、自らのうちに罪を宿すようになった人が、そのままで、主の御臨在の御前に立つならば、主の聖さを冒して、さばきを受けて、滅ぼされてしまいます。主が罪を犯した人をご自身の御臨在の御前から退けられたのは、人が主の聖さを冒して、さばきを受け、滅びてしまうことがないように、守ってくださるためでもありました。もし地獄が神である主の御臨在の御前から最も遠い所であるとしたら、そこは神である主の聖さを冒す者への配慮がある所であることになります。つまり、そこにいる人々が主の聖さを犯すことがないように守られているということになります。そうであれば、そこはもはや地獄とは呼べません。
 それで、地獄は神である主の御臨在の御前から最も遠い所であると考えるべきではないと思われます。
 地獄に神である主の御臨在がないと考える人は、主の御臨在が愛と恵みに満ちた御臨在であると考えていると思われます。確かに、地獄には主の愛と恵みに満ちた栄光の御臨在はありません。しかし、神である主はご自身の御意志によって、愛といつくしみに満ちた栄光において御臨在されて、ご自身の民を救ってくださることもありますし、聖さと義の栄光において御臨在されて、さばきを執行されることもあります。それはひたすら、主御自身の御意志によることです。このことは、終わりの日に、栄光のキリストが愛と恵みに満ちた栄光において御臨在されて、私たち御自身の民の救いを完成してくださるために再臨されることと、聖さと義に満ちたご栄光において御臨在されて、最終的なさばきを執行されることに対応しています。
 先程もお話ししましたように、「火の池」にたとえられている地獄の「」は、終わりの日に再臨されるイエス・キリストの御臨在の栄光を象徴的に表していると考えられます。その栄光のキリストの御臨在の栄光は、天と地のすべて、すなわち、地獄も含めて被造物世界のすべてを覆うものであると考えられます。そして、地獄には、契約の神である主の聖さと義の栄光の御臨在があって、そこにいるものたちが、主の聖さと義の栄光に絶えず触れていると考えられます。
 黙示録20章15節には、

いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

と記されていました。
 この「火の池」にたとえられている地獄では、そこに投げ込まれた人々が、さらには、悪魔や悪霊たちが、罪や汚れがあるままで、無限に聖く義であられる主の栄光に触れることになります。それは、永遠の神の御子にして、無限、永遠、不変の栄光の主であられるイエス・キリストが、ご自身の十字架の死をもって成し遂げてくださった罪の贖いにあずからないままで、さらには、御子イエス・キリストが十字架の死に至るまでの従順によって獲得してくださった復活の栄光にあずかることがないままで、無限、永遠、不変の栄光の主の御臨在の御前に立つようになるということです。
 その意味で、地獄とは、かつて地上の生涯において神である主の聖さを冒していた者たちがいる所なのではなく、かつて主の聖さを冒していた者が、そこでも、常に、徹底的に主の聖さを冒し続ける所であると考えられます。地獄には一般恩恵はありませんので、罪がむき出しとなって現れ、神さまへの憎悪が渦巻くことになります。そうであれば、地獄では、人の罪に対する神さまの聖なる御怒りがより大きなものとなっていくという、いわば、悪循環があると考えられます。その意味では、地獄にも「進展」があると考えられます。地獄の火は消えることがないばかりか、より強く燃えさかるということになります。

 これらのことは、私たちの罪の恐ろしさを物語っています。それは、私たちが無限、永遠、不変の栄光の主に対して罪を犯しているということの恐ろしさです。ただ、私たちは、今は、自らのうちに罪の性質を宿しており、実際に罪を犯していますので、罪の恐ろしさを、なかなか実感することができません。もちろん罪を犯してはならないことは知っています。しかし、無限、永遠、不変の栄光の主に対して罪を犯すことの恐ろしさを実感することは、難しいことです。そのような私たちであっても、みことばの教えを通して自らの罪の恐ろしさを知るとき、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けてくださったことが、どのようなことであったかの一端をかいま見ることができます。無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが、その人としての性質において、この「火の池」にたとえられている地獄の刑罰を、私たちに代わって、お受けになったのです。
 私たちは自らの罪の恐ろしさから目をそらしてはいけないのですが、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いの確かさを信じている者として、地獄のさばきを恐れてはなりません。私たちはむしろ、このように恐ろしい私たちの罪のために、ご自身の御子をも惜しまずお与えになった父なる神さまの愛を常に心に留めて、その愛のうちに留まり、その愛のうちに歩むようにと招かれています。ローマ人への手紙8章31節、32節には、

では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

と記されています。また、ヨハネの手紙第一・4章9節ー11節には、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

と記されています。


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