黙示録講解

(第47回)


説教日:2011年10月9日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(45)


 ヨハネの黙示録1章1節には、この書に記されていることを全体的に要約する「すぐに起こるはずの事」ということばが記されています。このことばとのかかわりで、終わりの日にイエス・キリストが再臨されることについて、いろいろなことをお話ししてきました。今は、ペテロの手紙第二・3章3節ー13節に記されています、終わりの日に関するペテロの教えについてお話ししています。
 これまで3回にわたって、11節に記されています、

このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

という教えについてお話ししました。
 いつものように、これまでの復習をしながら、お話を進めていきます。
 11節冒頭の、

このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば

ということは、この前の10節に、

しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

と記されていることを受けています。最後の、

 地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

と訳されている部分は、

 地と地のいろいろなわざはあらわにされます。

と訳したほうがいいと考えられます。これは、神さまが創造の御業において神のかたちにお造りになり、歴史と文化を造る使命をお委ねになった人を、「主の日」に最終的におさばきになることを示していると考えられます。そのさばきは、終わりの日に栄光のうちに再臨される御子イエス・キリストによって執行されます。
 これに先立つ部分で、

天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り[ます。]

と言われていることは、現象としては、まさに天変地異と言うべきことを示しています。これは、単なる崩壊ではありません。すべてが崩壊して無に帰してしまうということではありません。
 詩篇8篇5章、6節には、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されています。神さまは創造の御業において、人を神のかたちにお造りになり、

 万物を彼の足の下に置かれました。

と言われていますように、「万物」を造り主である神さまのみこころにしたがって治める使命をお委ねになりました。これが歴史と文化を造る使命です。この「万物」は文字通りの「万物」で、神さまがお造りになったすべてのもの、すなわち、全被造物です。
 このように、造り主である神さまは「万物」を、神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人と一つに結ばれているもの、一体にあるものとされました。それで、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったとき、「万物」も人との一体において虚無に服してしまいました。
 ローマ人への手紙8章19節ー21節には、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と記されています。
 ここでは、神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、人と一体にあるものとされている「被造物が虚無に服し」てしまったことが踏まえられています。その上で、被造物には「望みがある」と言われています。というのは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって罪を贖っていただき、復活のいのち、永遠のいのちによって生きるものとしていただいている「神の子どもたち」との一体において、

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ[る]

からです。それで、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。

と言われています。
 これは、終わりの日に再臨される栄光のキリストによって完全な形で実現します。


 終わりの日に主が来られることについて、旧約聖書はしばしば「火」の表象を用いています。
 たとえば、イザヤ書66章15節ー17節には、

 見よ。まことに、は火の中を進んで来られる。
 その戦車はつむじ風のようだ。
 その怒りを激しく燃やし、
 火の炎をもって責めたてる。
 実に、は火をもってさばき、
 その剣ですべての肉なる者をさばく。
 に刺し殺される者は多い。

と記されています。
 ここでは、終わりの日に、主がさばきを執行されることを預言的に述べています。
 また、マラキ書3章1節ー3節には、

 「あなたがたが尋ね求めている主が、
 突然、その神殿に来る。
 あなたがたが望んでいる契約の使者が、
 見よ、来ている」と万軍のは仰せられる。
 だれが、この方の来られる日に耐えられよう。
 だれが、この方の現れるとき立っていられよう。
 まことに、この方は、精錬する者の火、
 布をさらす者の灰汁のようだ。
 この方は、銀を精錬し、
 これをきよめる者として座に着き、
 レビの子らをきよめ、
 彼らを金のように、銀のように純粋にする。

と記されています。
 ここでは、主がご自身の民を、金や銀を精錬して純粋なものにするように聖められることが記されています。
 ここに出てくる「レビの子ら」は、

 あなたがたが尋ね求めている主が、
 突然、その神殿に来る。

と言われている、主の「神殿」において仕えている祭司たちを指しています。主の「神殿」はエルサレムにあり、地理的にイスラエルの中心です。また、祭司たちは、出エジプト記19章6節において「祭司の王国」と呼ばれているイスラエルの中心にあります。その意味で、これは「祭司の王国」であるイスラエルを代表的に表しています。ここでは、旧約の主の民であるイスラエルが、その中心にある祭司たちから始まって、主の御前に聖められることを、預言的に述べています。
 言うまでもなく、ここで、

 あなたがたが尋ね求めている主が、
 突然、その神殿に来る。

と言われている「」は、御子イエス・キリストを指し示しています。そして、主の契約の民が「銀を精錬」するように聖められるのは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって罪を完全に贖っていただき、復活のいのち、栄光あるいのちによって生きるものとされることによっています。
 このように、終わりの日に再臨される御子イエス・キリストの栄光の御臨在は金属を精錬する「火」にたとえられています。それは、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっているすべての人を、聖なる御怒りによってさばく「火」であるとともに、主の契約の民を精錬し、罪と汚れを取り除くようにして、聖める「火」でもあります。
 その「火」によって精錬され、かなかすが取り除かれるようにして、罪の残滓までもが取り除かれ、聖められるのは主の契約の民だけではありません。ローマ人への手紙8章21節で、

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と言われている、「被造物」も、「神の子どもたち」すなわち、主の契約の民との一体において、「虚無」や「滅びの束縛」をもたらしている人の罪の影を、吹き聖められるようにして取り除かれ、栄光あるものとされるのです。「被造物」が栄光あるものとされるのは、そこに、栄光の主の御臨在があるようになるからです。「被造物」は栄光の主の御臨在の場として、ふさわしく栄光化されるのです。
 このようにして、私たちは主イエス・キリストの贖いの御業にあずかって罪を贖っていただき、栄光あるいのちに生きる「神の子ども」としていただいています。この私たちについて、コリント人への手紙第二・5章17節では、

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

と言われています。ここでは、私たち主の契約の民に対して、新しい創造の御業がすでに始まっていることが示されています。それは、御子イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてなされている御業です。これが完全な形で実現するのは、終わりの日に再臨される栄光のキリストによっています。終わりの日に再臨される栄光のキリストは、私たち主の契約の民を新しく造り変えてくださるだけではなく、私たちと一体とされている、全被造物をも新しく造り変えてくださいます。
 ペテロの手紙第二・3章10節に記されている、

しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざはあらわにされます。

というみことばにおいては、終わりの日に再臨される御子イエス・キリストの栄光の御臨在が、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっているすべての人を、聖なる御怒りによってさばく「火」にたとえられています。そして、そのような人との一体において「虚無」や「滅びの束縛」に服している被造物をも精錬して、人の罪の影を吹き聖めてしまうことが示されています。
 これに続く11節で、

このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

と言われているときの、

 これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば

ということばは、私たち主の契約の民は、そのように、栄光のキリストの御臨在の御前で「くずれ落ちる」世界に属していないことを踏まえています。私たちは御子イエス・キリストの十字架の死にあずかって、罪を完全に贖っていただいていますので、神さまの聖なる御怒りによってさばかれることはありません。また、御子イエス・キリストが栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたことにあずかって、栄光あるいのちに生きるものとしていただいていますので、「くずれ落ちる」世界にではなく、13節で、

しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

と言われている「新しい天と新しい地」に属しています。
 長くなってしまいましたが、以上は、これまでお話ししてきたことの復習です。

 11節において、

このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

と言われていることに続いて、12節、13節には、

そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

と記されています。
 冒頭の、「そのようにして」ということばは、この12節とその前の11節を区切っているために補足として加えられたものです。

神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。

と訳されている部分の「待ち望む」と「早める」は現在分詞です。これを、直訳調に訳しますと、

神の日の来るのを待ち望みつつ、また、早めつつ、

となります。そして、これは11節の後半で、

あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

と記されていることにかかっています。
 この11節の後半は、直訳調に訳しますと、

あなたがたは、どれほど聖い生き方と敬虔な行いのうちになければならないことでしょう。

という感じになります。[注] これを分かりやすく訳しますと、

あなたがたは、どれほど聖く敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。

となります。

[注]新改訳が「敬虔な人」と訳していることば(名詞・エウセベイア)は、単数形であれば抽象名詞である「敬虔」を表しますが、ここでは複数形ですので、「敬虔」のさまざまな形での現れを表します。それで新改訳は、これを「敬虔な人々」と理解しています。BDAG(ギリシャ語のレキシコン)は「敬虔な行い」(godly acts)としています。

 この11節後半と12節前半を合わせて訳しますと、

あなたがたは、神の日の来るのを待ち望みつつ、また、早めつつ、どれほど聖く敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。

というようになります。
 このことから、一つの大切なことを汲み取ることができます。それは、11節後半において、

あなたがたは、どれほど聖く敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。

と言われていることは、12節前半で、

 神の日の来るのを待ち望みつつ、また、早めつつ、

と言われている、とても積極的な姿勢を伴っているということです。
 そして、このことは、11節において、

このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖く敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。

と言われているのは、終わりの日に宇宙規模の天変地異が起こるから、あるいは、罪を贖われていないすべての人々が神さまの聖なる御怒りをもってさばかれるから、それがとても恐ろしいから、というような消極的な理由によって「聖く敬虔な生き方」をするのではないことをも示しています。

 12節前半で、

 神の日の来るのを待ち望みつつ、また、早めつつ、

と訳されているときの、「早める」という部分には、少し注釈が必要です。
 ここで「早める」と訳されている動詞(スペウドー)には、「急ぐ」(自動詞)、「急がせる」(他動詞)のほかに、「切に願う」(他動詞)という意味があります。このことばを「切に願う」という意味に取りますと、この部分は、

 神の日の来るのを待ち望みつつ、また、切に願いつつ、

となります。この場合には、「」と「」という同じような意味のことばを重ねることによって、強調していることになります。これも意味が通りますので、このように理解する人々もいます。
 これには、いくつかのことがかかわっていますが、三つほどのことをお話しします。
 第一に、「神の日の来るのを早める」という理解には、イザヤ書60章19節ー22節に記されている、終わりの日に関する主の約束のみことばの背景があると考えられています。そこには、

 太陽がもうあなたの昼の光とはならず、
 月の輝きもあなたを照らさず、
 があなたの永遠の光となり、
 あなたの神があなたの光栄となる。
 あなたの太陽はもう沈まず、
 あなたの月はかげることがない。
 があなたの永遠の光となり、
 あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。
 あなたの民はみな正しくなり、
 とこしえにその地を所有しよう。
 彼らはわたしの栄光を現す、わたしの植えた枝。
 わたしの手で造ったもの。
 最も小さい者も氏族となり、
 最も弱い者も強国となる。
 時が来れば、わたし、が、すみやかにそれをする。

と記されています。この主のみことばの最後に、

 時が来れば、わたし、が、すみやかにそれをする。

と記されています。
 このイザヤ書60章22節のみことばに基づくユダヤ教のラビたちの理解には、悔い改め、あるいは悔い改めと慈善が、「時が来れば」(直訳「その時には」)の「」を早めるという理解があったようです。ペテロの手紙第二・3章12節のみことばについて「早める」という理解を採用している注解者たちは、このことを重要な根拠にしています。
 ユダヤ教のラビたちの理解は、その当時の理解を反映していますので、それなりに大切なものです。しかし、このイザヤ書60章22節の、

 その時には、わたし、が、すみやかにそれをする。

という主の約束のことばそのものは、「その時」が早められるということを述べてはいません。それがいつのことであるかは分からないけど、「その時」が来れば、主が「すみやかに」その前の部分に記されていることを実現してくださるとと言われているだけです。それで、この、

 その時には、わたし、が、すみやかにそれをする。

という主の約束のことばが、ペテロの手紙第二・3章12節で、「神の日の来るのを・・・早める」という理解を支持しているとすることはできません。
 第二に、ペテロの手紙第二・3章12節前半で、

 神の日の来るのを待ち望みつつ、また、早めつつ(切に望みつつ)

と言われている姿勢は、9節に記されています、

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

というみことばとの関連で理解することができると思われます。[注]

[注]9節ー12節に記されていることを、9節、10節と、11節、12節に分けますと、それぞれの最後に記されていることは同じことで、互いに対応しています。10節後半には、「その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざはあらわにされます。」と記されており、12節後半には、「その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。」と記されています。このように対応している部分に先立って記されている部分(9節、10節前半と、11節、12節前半)は、互いに対比されるものです。具体的なことは、これからお話しします。

 すでにお話ししましたように、12節前半の、

 神の日の来るのを待ち望みつつ、また、早めつつ(切に願いつつ)、

ということばは、11節後半とのつながりで、

あなたがたは、神の日の来るのを待ち望みつつ、また、早めつつ(切に願いつつ)、どれほど聖く敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。

と言われている生き方を示しています。
 これに対して、9節に記されています、

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。

というみことばでは、「ある人たち」が、主は「約束のことを遅らせておられる」と思っていることが問題となっています。これに続いて、

かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

と説明されていることからしますと、その「ある人たち」は、主がいたずらに「約束のことを遅らせておられる」と思っていたと考えられます。さらに、続く10節には、

しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

と記されています。このようなことが記されているのは、その「ある人たち」が、主はいたずらに「約束のことを遅らせておられる」と思っているのは、実質的に、主の日は来ないと思っていることにほかならないということを示しています。これは、3節、4節に、

終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

と記されている「あざける者ども」の「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。」というあざけりに通じるものです。そして、それは「自分たちの欲望に従って生活」する姿勢につながっています。これは、「神の日の来るのを待ち望みつつ、また、早めつつ(切に願いつつ)・・・聖く敬虔な生き方を」する姿勢と対比されます。
 このように、12節前半で、

 神の日の来るのを待ち望みつつ、また、早めつつ(切に願いつつ)、

と言われていることは、9節に記されている、「ある人たち」が、主はいたずらに「約束のことを遅らせておられる」と思っていることと対比されます。そして、この9節では、「ある人たち」には、主の再臨の日が遅いと思われること、すなわち、再臨の「時期」のことが問題となっています。それで、9節に対応している11節後半と12節前半に記されている、

あなたがたは、神の日の来るのを待ち望みつつ、また、早めつつ(切に願いつつ)、どれほど聖く敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。

という教えでも、「神の日」の「時期」のことが取り上げられていると考えることができます。そうしますと、

 神の日の来るのを・・・早めつつ

という理解の方を取ることになります。
 このことを受けて、第三のことをお話しします。
 9節に記されています、

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

というみことばは、主が来られることを待ち望むことと、福音の宣教が切り離すことができないものであることを示しています。同じことは、使徒の働き3章19節、20節に、

そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。

と記されています。また、「悔い改め」ということばは出てきませんが、マタイの福音書24章14節にも、

この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

と記されています。特に、ここに記されているイエス・キリストの教えは、福音の宣教がなされることと、主の日が来ることが深くかかわっていることを示しています。「御国の福音」が「全世界に宣べ伝えられ」るまでは、終わりの日は来ないということです。
 これらのことから、「神の日の来るのを・・・早め」るということは、主が「すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」ことと関連しているということになります。それで「神の日の来るのを・・・早め」ることは、福音のみことばの宣教によってなされるということになります。


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