黙示録講解

(第538回)


説教日:2025年3月16日
聖書箇所:ヨハネの黙示録3章1節ー6節
説教題:サルディスにある教会へのみことば(7)


  本主日も、黙示録3章1節ー6節に記されているサルディスにある教会へのみことばについてのお話を続けます。
 ローマの時代のサルディスは、毛織物や金細工の商工業が盛んで、それで、そこにあった教会もその繁栄にあずかっていて、社会的には豊かな教会になっていたと考えられます。また、栄光のキリストのみことばには、このサルディスにある教会に、他の諸教会にあったような、貧困や、異端的な教えによって教会が荒らされり、迫害によって苦しめられていることを示すものはありません。
 しかし主は、3節で、
だから、どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り、悔い改めなさい。目を覚まさないなら、わたしは盗人のように来る。わたしがいつあなたのところに来るか、あなたには決して分からない。
と言っておられます。これは、サルディスにある教会の人々が目を覚ましていない状態にあることを示していて、サルディスにある教会のほとんどがこの世のあり方と妥協して、この世の流れに流されて歩んでいたことを示していると考えられます。
 けれども、4節ー6節には、
しかし、サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らがそれにふさわしい者たちだからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない。わたしはその名を、わたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。
と記されています。ここでは、その「わずかな」人々は、「その衣を汚さなかった」と言われています。また、その人々のことは、
 彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。
と言われています。さらに5節では、
 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。
と言われています。
 この4節ー5節で「衣」のことが出て来るのは、サルディスが毛織物や染色の産業が盛んであったこととかかわっていると考えられています。
 この人々が「その衣を汚さなかった」と言われて、大多数の人々と対比されていることは、サルディスにある教会の大多数の人々がその衣を汚してしまっていることを暗示しています。
 前回は、古い契約の下で、がご臨在される聖所で仕えたのは祭司ですが、その祭司の装束についてお話ししました。その祭司の装束は「栄光と美を表す聖なる装束」と言われていました(出エジプト記28章2節)。
 新しい契約の下では、私たちすべてが、イエス・キリストを大祭司とするに仕える祭司です(ペテロの手紙第一・2章5節、9節)新しい契約の下にあるの民は、栄光のキリストを大祭司とする御国の祭司として、の御臨在の御前でを礼拝し、に仕えています。このことは、もちろん、サルディスにある教会の人々にも当てはまります。イエス・キリストが私たちの大祭司であることは、ヘブル人への手紙2章17節、3章1節、4章14節ー15節、5章5節ー10節、6章20節、7章24節ー28節、9章1節ー14節、23節ー28節、10章10節ー14節、19節ー22節など、参照・ローマ人への手紙8章34節)に記されています。


>  新約聖書の中では、神であるの恵みによって御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、罪を贖われ、新しく生まれた人は、ふさわしい衣装をまとっていること、あるいは、まとわなければならないことが示されています。
 それはその人の神の子どもとしての歩み、特に、神であるの栄光の御臨在の御許に住まい、その御前でを神として礼拝しつつ、とお互いへの愛のうちをに歩むために必要なことです。
 前回引用したみことばをのいくつかを引用しますと、ローマ人への手紙13章14節には、
 主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。
と記されています。ガラテヤ人への手紙3章27節には、
 キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。
と記されています。
 コロサイ人への手紙3章9節bー10節には、
あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。
と記されています。
 黙示録では3章18節に、
 あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い・・・なさい。
と記されています。
 天上におけることを記している4章4節には、
また、御座の周りには二十四の座があった。これらの座には、白い衣をまとい、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老たちが座っていた。
と記されています。また、6章11節には、天に帰った殉教者たちのことが、
 彼ら一人ひとりに白い衣が与えられた。
と記されており、7章9節にも、
すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。
と記されています。
 サルディスにある教会の大多数の人々も、悔い改めて、わずかに残されている人々とともに「白い衣」、霊的なまことの衣装を身に着ける必要がありました。
 これらのことの根底には、いわゆる「変貌の山」で起こったことがあると考えられます。
 マタイの福音書17章1節ー8節には、
それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。
と記されています。
 1節ー2節では、
それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。
と言われています。
 これは、ただ、イエス・キリストの御姿がこのように栄光に輝いたというだけのことではありません。1節の冒頭に「それから六日目に」と記されているように、これに先つ16章13節ー28節に記されていることを受けています。
 そこに記されているのは「ピリポ・カイサリアの地方」において起こったことです。「ピリポ・カイサリアの地方」はヘロデ大王の死後、その子の一人、ピリポが治めるようになった所です。「カイサリア」という名はローマ皇帝への敬意を表すもので、地中海沿岸の「カイサリア」と区別して、そこを治めている「ピリポ」の名をつけています。新改訳2017年版の後ろにある「地図11」を見ると「ピリポ・カイサリア」がどこにあるか分かりますが、ここはガリラヤ湖のはるか北にある、基本的に、異邦人の地です。
 ピリポ・カイサリアで「キリスト告白」がなされたことには意味があると考えられます。
 4章12節には、
 イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。
と記されています。この「ヨハネ」はバプテスマのヨハネのことです。父なる神さまはイエス・キリストにさきがけて、マラキ書4章5節ー6節に預言されている約束の「エリヤ」としての意味をもっている、バプテスマのヨハネをお遣わしになりました。そのことは、11章12節ー14節や17章11節ー13節に記されていることから分かります。バプテスマのヨハネの働きは3章に記されていますが、イエス・キリストが来られることを証ししています。そのバプテスマのヨハネが捕えられたことは、バプテスマのヨハネがあかししているイエス・キリストが退けられていることを意味しています。
 それで、4章14節ー16節に記されているように、イエス・キリストは、イザヤ書9章1節ー2節に預言されていたとおり、「異邦の民のガリラヤ」(イザヤ書9章1節)と言われているガリラヤにおいて宣教を始められました。ガリラヤは山地の多いユダヤとその中心のエルサレムとは違って、ガリラヤ湖畔にある平地で、外国の勢力によって侵略されてきました。それに伴って、さまざまな人種の人々が流入してきていました。そのために「異邦の民のガリラヤ」と言われていると考えられます。
 このようにして、イエス・キリストは中央ユダヤとエルサレムから地方のガリラヤに退かれましたが、それによって、異邦人たちがイエス・キリストのもとにやって来ることができました。
 イエス・キリストはガリラヤの中心にある町々からも受け入れられることはありませんでした。そのことは、9章34節、11章16節ー24節、12章24節などに記されていることから分かります。マルコの福音書3章21節ー22節には、
イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が「イエスはおかしくなった」と言っていたからである。また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼はベルゼブルにつかれている」とか、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と言っていた。
と記されています。また、ヨハネの福音書6章66節には、イエス・キリストこそがまことの「いのちのパン」であることについての教えを聞いた弟子たちのことが、
 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。
と記されています。イエス・キリストが病人を治したり悪霊たちを追い出したりされた御業は歓迎されましたが、その御業が指し示している教えはなかなか受け入れられませんでした。
 そして、イエス・キリストと弟子たちはガリラヤからさらに周辺のピリポ・カイサリヤに退かれました。その時、イエス・キリストが弟子たちに、
 あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。
と問いかけられました。それに対して、16節に記されているように、ペテロが、
 あなたは生ける神の御子キリストです。
と答えました。もちろん、20節に、
 そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。
と記されているように、この時、他の弟子たちも、イエス・キリストがメシアであることを信じていました。これまでイエス・キリストに従い続けてその御業と教えに接してきたことによって、そのように信じるようになっていたと考えられます。もちろん、それは、17節に、
バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
と記されているように、父なる神さまの一方的な恵みによることです、
 この「キリスト告白」を受けて、イエス・キリストがご自身の苦難と栄光を語り始められたことが記されています。21節には、
そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
と記されています。
 これまで、イエス・キリストは、地理的に、中央のユダヤとエルサレムから退けられて、地方のガリラヤへと退かれました。しかし、そこでも退けられ、さらに、周辺のピリポ・カイサリヤへと退かれました。ところが、そこでなされた「キリスト告白」を受けて、敢然と、中央のエルサレムに向かって進んで行かれました。それは、ルカの福音書13章33節に、
わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ。
というイエス・キリストのみことばに示されているように、最終的に人々から捨てられて、十字架にかけられ、イエス・キリストの、
 わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。
という叫びから分かるように、父なる神さまからも見捨てられ、私たちの罪に対する聖なる御怒りによるさばきを受けるためです。
 このように、イエス・キリストのメシアとしての生涯は、人々から退けられ、最終的には、父なる神さまから見捨てられる生涯でした。
 しかし、続く22節ー23節には、
するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
と記されています。
 ペテロを始めとして弟子たちには、また、その当時のユダヤ人たちにも、神から遣わされたメシア(キリスト)が殺されることはありえないことでした。まして、「長老、祭司長、律法学者たち」、すなわち、ユダヤ人の指導者たちによって殺されるというようなことは、考えられないこと、ありえないことだったのです。
 イエス・キリストは、続く24節ー26節に記されているとおり、
だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
と教えておられます。この、
 だれでもわたしについて来たいと思うなら
と言われているときの、「ついて来る」ということは、この場合、「弟子となる」ことを意味しています。また、「と思うなら」ということは(エイと現在時制の組み合せで)本人の確かな意志を表しています。これは、この後に続いて、
 自分を捨て、自分の十字架を負って、
と言われていることと合わせて、生まれながらの私たちにはできないことです。生まれながらの人の本性には罪の自己中心性があるために、真の意味で、イエス・キリストの弟子となりたいと思うことも、「自分を捨て、自分の十字架を負って」イエス・キリストに従っていくことも、自分の意志や力でできることではありません。
 イエス・キリストを人類の教師の一人として、その金言的な教えを教訓としている人々も、自分としては、イエス・キリストの弟子のように思うことはあるかも知れません。また、7章21節ー23節に記されているように、イエス・キリストの「名によって」預言し、悪霊を追い出し、多くの奇跡を行った人たちも、自分たちはイエス・キリストの弟子であると思っていました。しかし、その人たちは、真の意味で、イエス・キリストの弟子ではありませんでした。
 真の意味で、イエス・キリストの弟子となりたいと思うことや、「自分を捨て、自分の十字架を負って」イエス・キリストに従っていくことは、ただ、私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださり、私たちを新しく生まれさせてくださるために栄光を受けて死者の中からよみがえってくださった、御子イエス・キリストと、御霊によって一つに結び合わせていただいて、古い自分に死んで、新しい自分に生まれ変わって生きるようになって初めてできることです。
 ローマ人への手紙6章4節ー5節には、
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。
と記されています。また、ガラテヤ人への手紙2章19節bー20節aには、
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
と記されています。このことは、私たちの力でできることではなく、神である主がその一方的な愛と恵みによって、私たちになしてくださっていることです。
 このように、御霊によって栄光のキリストと一つに結ばれていることがなければ、真の意味でイエス・キリストの弟子となりたいと思うことも、実際に、自分を捨て、自分の十字架を負って、イエス・キリストに従っていくこともできません。
 ヨハネの福音書13章34節ー35節には、
わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。
と記されています。また、すでに繰り返し引用しています、ヨハネの手紙第一・3章16節には、
キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
と記されています。
 マタイの福音書16章21節ー22節に記されているように、ペテロの「キリスト告白」を受けて、イエス・キリストは、ご自身の苦難と死とよみがえりのことを示されると、ペテロは、
 主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません
と言って、イエス・キリストをいさめました。
 このことを受けて、父なる神さまは、いわゆる「変貌の山」の上で、イエス・キリストに栄光をお与えになりました。そして、17章5節に、
すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。
と記されています。この「雲」は父なる神さまの御臨在を表示する「雲」です。父なる神さまは、
 これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け。
と言われました。
 これは、イエス・キリストがヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったときのことを記している、3章16節ー17節に
イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」
と記されている父なる神さまのみことばと少し違っています。
 そのどちらにおいても、
 これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。
とあかしされていますが、変貌の山では、さらに、
 彼の言うことを聞け。
と言われています。
 これは、ご自身がエルサレムで多くの苦しみを受けて殺されることを教え始められたイエス・キリストこそは、父なる神さまが「愛する子」であることをあかしされたものであり、そのイエス・キリストが言うことを聞くように求められたものです。つまり、このとき父なる神さまは、イエス・キリストが教え始められた、ご自身の苦難と死とよみがえりについての教えに聞くようにと求められたのです。
 このことは、栄光のキリストの、
 顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった
と言われていることが、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにかかわっていることを意味しています。
 天上におけることを記している黙示録5章11節ー12節には、
私は見た。そして御座と生き物と長老たちの周りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。
彼らは大声で言った、
 「屠られた子羊は、
 力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を
 受けるにふさわしい方です。」
と記されています。「屠られた子羊」、十字架につけられたキリストこそは栄光の主であられ、すべてのものに讃えられるべき方です。続く13節ー14節には、
また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこういうのを聞いた。
 「御座に着いておられる方と子羊に、
 賛美と誉れと栄光と力が
 世々限りなくあるように。」
すると、四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。
と記されています。
 栄光のキリストの死とよみがえりによって罪を贖われ、新しく生まれた神の子どもたちがまとっている「白い衣」は、この父なる神さまと栄光のキリストの御臨在の御前に近づくことにふさわしい衣です。黙示録7章9節ー10節には、
その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。彼らは大声で叫んだ。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」
と記されています。そして、13節ー15節には、
すると、長老の一人が私に話しかけて、「この白い衣を身にまとった人たちはだれですか。どこから来たのですか」と言った。そこで私が「私の主よ、あなたこそご存じです」と言うと、長老は私に言った。「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている。御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。
と記されています。天上において「白い衣」を着て神と子羊を讃え、神に仕えている人々は「その衣を洗い、子羊の血で白くした」と言われています。


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