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説教日:2018年10月21日 |
これからお話しすることの鍵となることが記されているヘブル人への手紙11章8節ー10節には、 信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。 と記されています。 このみことばを念頭に置いて、アブラハムの生涯を記している創世記の記事を見てみましょう。 創世記の記事には12の区分があります。それは、1章1節の、 はじめに神が天と地を創造された。 という見出し文に続いて、「これは誰々(あるいは何々)のトーレドートである。」という形で記されている、11の見出し文によって区分されています。この「トーレードート」(「トーレドート」は構成形)ということばは、2章4節で「(天と地が創造されたときの)経緯」と訳されているほかは「(誰々の)歴史」と訳されています(5章1節、6章9節、10章1節、11章10節、27節、25章12節、19節、36章1節、37章2節)。 この区分によると、アブラハムの生涯のことは11章27節ー25章11節に記されている「テラの歴史」の中に出てきます。ヨシュア記24章2節には、 イスラエルの神、主はこう告げられる。「あなたがたの父祖たち、アブラハムの父でありナホルの父であるテラは昔、ユーフラテス川の向こうに住み、ほかの神々に仕えていた。 というヨシュアのことばが記されています。イスラエルの父祖であり、「地のすべての部族」の祝福の基となるアブラハムの生涯が、偶像礼拝者であった「テラの歴史」の中に出てくるということには驚かされます。 しかし、これには意味があるはずです。 一つには、アブラハムの偉大さのゆえに、アブラハムの生涯が孤立してしまっているかのように捉えられないとも限りません。これを「テラの歴史」の中に位置づけることによって、アブラハムの生涯を、その前の、11章10節ー26節に記されている「セムの歴史」(セムからテラまで)とのつながり、さらには、さらにその前の11章1節ー9節に記されているバベルでの出来事とのつながりで理解すべきことが示されることになります。 また、もう一つには、真に「主」を礼拝するアブラハムが偶像礼拝者であったテラから生まれてきたことは、アブラハムが「主」を礼拝する者となったのは、血筋や血肉の力によるのではなく、「主」の一方的な恵みによっていることを示しています。ちなみに、創世記9章26節には、ノアが、 ほむべきかな、セムの神、主。カナンは彼らのしもべとなるように。 と言って、息子セムを祝福したことが記されています。アブラハムは、父テラが背教してしまったにもかかわらず、父祖セムに与えられた祝福を受け継いでいます。 創世記11章31節ー32節には、 テラは、その息子アブラムと、ハランの子である孫のロトと、息子アブラムの妻である嫁のサライを伴い、カナンの地に行くために、一緒にカルデア人のウルを出発した。しかし、ハランまで来ると、彼らはそこに住んだ。テラの生涯は二百五年であった。テラはハランで死んだ。 と記されています。 アブラハムは、父テラに従って「カルデヤ人のウル」を出て、「カナンの地」に向かいました。しかし、テラはハランに住み着いてしまいました。 そのハランで、アブラハムは「主」の召しに従ってハランを出て行きます。12章1節ー3節には、 主はアブラムに言われた。 「あなたは、あなたの土地、 あなたの親族、あなたの父の家を離れて、 わたしが示す地へ行きなさい。 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、 あなたを祝福し、 あなたの名を大いなるものとする。 あなたは祝福となりなさい。 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、 あなたを呪う者をのろう。 地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。」 と記されています。 このこととの関連で注目したいのは、15章7節に、 主は彼[アブラハム]に言われた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出した主である。」 と記されていることです。このことから、アブラハムが「カルデヤ人のウル」を出たことは、ただ単に、父テラに従っただけのことではなく、アブラハム自身の中に、「カルデヤ人のウル」に住み続けることをよしとしない思いがあったと考えられます。というのは、ウルは月神ナンナル(シンあるいはスエンとも呼ばれる)を主神として礼拝する都市でしたし、ハランも同じ月神を主神として礼拝する都市であったからです。両者ともに月神ナンナル礼拝の中心地であったとも言われています。 「主」がアブラハムをウルから導き出してくださったことを明言してくださったことが記されているのは15章ですので、ずっと後のことですが、真実に「主」を信じていたアブラハムにとっては、父テラに従ってであっても、そのような「ウル」から出て行くことに、「主」の導きを感じ取っていたと考えられます。 先ほど引用したヨシュア記24章2節に記されているように、アブラハムの父テラは、「ほかの神々」に仕えていました。そのために、何らかの思惑があってウルを出ましたが、同じ月神ナンナル(シン)を主神として礼拝するハランを出ることはなかったと考えられます。 創世記12章4節には、 ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。 と記されています。そして、11章26節には、 テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。 と記されており、32節には、 テラの生涯は二百五年であった。テラはハランで死んだ。 と記されています。ですから、アブラハムがハランを出たときには、テラは145歳で、その後60年はどハランで生きたことになります。 これに対して、真に「主」を信じていたアブラハムにとっての相続財産の中心は「主」ご自身であり、相続地はその「主」を礼拝することを中心として生きる所でした。そのことは、17章7節ー8節に、 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。」 と記されている、「主」がアブラハムに与えてくださった契約に示されています。7節に出てくる、 わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。 という「主」のみことばは、「主」ご自身がアブラハムとアブラハムの子孫の神となってくださるという、「主」の契約の祝福の中心にあることを示しており、「主」ご自身がアブラハム契約の中心主題である相続財産の中心であることを意味しています。 もちろん、これは後にアブラハムに示されたことです。しかし、アブラハム自身のうちに「主」に対するそのような理解が芽生えていないのに、このような約束が与えられたとしても、アブラハムには何のことか分からなかったことでしょう。 また、「主」が契約によって、アブラハムの神となってくださったゆえに、「主」は、出エジプトの時代にモーセを召された時に、ご自身のことを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」として示しておられます(出エジプト記3章6節、15節、16節、4章5節)。 このように、アブラハムは父テラとともに「カルデヤ人のウル」を出て、「カナンの地」に向かいましたが、テラとはまったく違う目的をもっていたと考えられます。それで、「主」はアブラハムにハランに定住した「父の家を離れて」行くよう召してくださったのだと考えられます。「カルデヤ人のウル」にいた時に召してくださっていた召しを、さらに確かで明確なものとしてくださったということです。 先ほど引用したヘブル人への手紙11章8節には、 信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。 と記されていました。 実際には、アブラハムはカナンの地に向かって旅をしています。そうしますと、アブラハムが「どこに行くのかを知らずに出て行きました」というのはおかしいのではないかという気がします。 けれども、先ほど引用した創世記11章31節に記されているように、もともと、「カナンの地に行くために、一緒にカルデア人のウルを出発した」のはテラでした。同時に、先ほどお話ししたように、アブラハムはテラとは違った思惑をもっていましたが、テラとともにウルを出ることに、すでにウルにいた時に召してくださっていた「主」の導きがあることを感じていたと考えられます。そうであれば、アブラハムとしては、父テラに従って旅立った時に目指していた「カナンの地」に向けて旅立つことが自然なことであったと考えられます。ただ、この時点では、「主」が、 わたしが示す地へ行きなさい。 と言われたときの「わたしが示す地」が具体的にどこであるかは分からなかったと考えられます。 そして、12章5節ー7節には、 アブラムは、妻のサライと甥のロト、また自分たちが蓄えたすべての財産と、ハランで得た人たちを伴って、カナンの地に向かって出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。アブラムはその地を通って、シェケムの場所、モレの樫の木のところまで行った。当時、その地にはカナン人がいた。主はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。 と記されています。アブラハムがカナンの地に入って「シェケムの場所、モレの樫の木のところまで行った」時に、「主」が現れて、 わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。 と言われたので、アブラハムにはカナンの地が「主」が示してくださった地であることが分かったのです。 シェケムは、カナンの中心に位置していて、アブラハムが生きていた紀元前2千年期においては、カナンの地の要所の一つでした。「シェケムの場所」の「場所」と訳されていることば(マーコーム)は、一般的な「場所」を表わしますが、この「シェケムの場所」というような場合には、より特別な場所を意味していると考えられます。それは、「モレの樫の木」との結びつきから、そこに、カナン人の聖所があったと考えられます。ちなみに、「モレ」ということばは「教師」を意味していて、そこで「卜者」による託宣がなされたと考えられています。 士師記9章37節には、「メオヌニムの樫の木」が出てきます。この「メオヌニム」(メオーヌニーム)は新改訳欄外にあるように「卜者」を意味しています。これはシェケムにあった樫の木のことを述べているので、この「モレの樫の木」のことではないかと考えられています。いずれにしても、シェケムにある「聖地」では「卜者」による託宣がなされていたと考えられます。 そして、「主」は、そのようなシェケムの中にあって、カナン人の風習に従って宗教的な活動が行われていた場所で、アブラハムに現われてくださいました。そして、 わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。 と約束してくださいました。ここでは、新改訳第3版のように「あなたの子孫に」が先に置かれていて強調されています。 この「主」の約束は、二つのことを含んでいます。一つは、アブラハムに「子孫」が与えられるという約束であり、もう一つは、その「子孫」にカナンの地が与えられるという約束です。 7節後半で、 アブラムは、自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。 と言われていることは、アブラハムが「主」の約束を信じて「祭壇を築いた」ということを記しています。 このことは、外面的に見ますと、カナンの地の中心に位置していて、要所の一つであったシェケムの聖所において、人々が自分たちの神々からの託宣を受けている中で、アブラハムも、自分の神である「主」からの託宣を受けたというように見えます。 しかし、ここには、そのような、見かけの類似を越えて注目すべきこともあります。 まず、シェケムの人々が「モレの樫の木」の所に来て、カナンの神々からの託宣を聞いたのは「卜者」たちを通してのことです。しかし、アブラハムの場合は、7節に、 主はアブラムに現れて言われた。 と記されているように、「主」の栄光の顕現(セオファニー)があって、「主」が直接アブラハムに語りかけてくださいました。 また、それは、アブラハムが自分に関することについて伺いを立てて、「主」が答えてくださったということではありません。「主」の方からアブラハムに現れてくださって、アブラハムの子孫に関する約束を与えてくださったのです。 さらに、 アブラムは、自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。 と言われていることは、アブラハムが、自分の子孫に関する約束を受けたときに、それを信じたことを意味しています。しかし、その実現は、自分の後の世代になってから実現することです。そのような、目の前のことに関するものではありませんでしたが、アブラハムは「主」の約束を信じて受け入れたのです。 さらに、続く8節ー9節には、 彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこに主のための祭壇を築き、主の御名を呼び求めた。アブラムはなおも進んで、ネゲブの方へと旅を続けた。 と記されています。 ここでは、アブラハムが、 主の御名を呼び求めた。 と言われています。これと同じ表現は、創世記の中では4章26節、13章4節、21章33節、26章25節などに出てきます。このことばは、「主」の御名によって正式な礼拝をしたことを示していると考えられます。 アブラハムは、「主」がシェケムの「モレの樫の木」の場所でご自身を現わしてくださったということで、その場所に執着してはいません。それは、アブラハムが、「主」は一つの場所に縛られている方ではないことを知っていたからです。アブラハムにとって、「主」は、「カルデヤ人のウル」から自分を導き出してくださった方です。「主」は、「カルデヤ人のウル」に縛られている方ではありませんし、カナンの地に縛られている方でもありません。「主」がシェケムの「モレの樫の木」の場所でご自身を現わしてくださったということで、アブラハムの「主」に対する理解が、変わってしまうことはなかったのです。 これは何でもないように見えますが、とても大切なことです。というのは、その当時ばかりでなく、今日においても、人々が不思議な経験をした場所に縛られてしまうことは珍しいことではないからです。実際に、その地がいわゆる「巡礼地」になったり、「パワースポット」と呼ばれて、多くの人々が訪れたりするようになっています。 けれども、アブラハムは、そのような場所に縛られてしまうことはなかったのです。 * そのことのもう一つの現われと考えられるのは、13章に記されている、アブラハムが甥のロトと別れて住むようになったことの経緯です。アブラハムとロトの家畜の群れが多くなり、その牧者たちの間に争いが起こるようになりました。そのことを受けて、8節ー11節には、 アブラムはロトに言った。「私とあなたの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちの間に、争いがないようにしよう。私たちは親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れて行ってくれないか。あなたが左なら、私は右に行こう。あなたが右なら、私は左に行こう。」ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったので、その地はツォアルに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。ロトは、自分のためにヨルダンの低地全体を選んだ。そしてロトは東へ移動した。こうして彼らは互いに別れた。 と記されています。 その当時ばかりでなく、今日においても、社会的に、物事の選択権は、年長者であるばかりが伯父としてロトの面倒を見てきたアブラハムにあります。しかし、ここでは、アブラハムが甥のロトに選択権を与えています。 それでロトは、「主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた」と言われている「ヨルダンの低地全体」の方を選びました。そちらの方が、豊かで潤った地であり、自分もその豊かさにあずかることができると考えてのことでしょう。 しかし、ロトの目にそのように見えた地は、10節で「主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったので」と言われており、13節で、 ところが、ソドムの人々は邪悪で、主に対して甚だしく罪深い者たちであった。 と言われている状態にありました。 この時、アブラハムは、どちらの地を選ぶかの選択権をロトに与えていたので、アブラハムが、「邪悪で、主に対して甚だしく罪深い者たち」と証しされている人々が住んでいた「ヨルダンの低地全体」を避けたと考えることはできません。もしロトが別の地を選んでいたら、アブラハムは「ヨルダンの低地全体」の方に行っていたでしょう。このことは、アブラハムがカナンの地のどこかに執着してはいなかったことを示しています。 実際、アブラハムはカナンの地のどこか対して自分の所有権を主張したことはありませんでした。アブラハムがカナンの地のどこかに対して自分の所有権を主張しなかったことは、アブラハムが、「主」の約束を信じていなかったからではありません。先ほどお話ししたように、12章7節に、 主はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。 と記されていることは、アブラハムが「主」の約束を信じたことを示しています。 このことを踏まえて、甥のロトに住むべき所を選ぶうえでの選択権を与えたことを見ますと、そこにアブラハムの信仰の姿勢が反映していることが分かります。それは、アブラハムが、ひたすら、「主」が与えてくださる「約束の地」を受け取ろうとしているということです。「主」が甥のロトの選択の意思をも用いてくださって、自分に与えてくださる地に住もうということです。 先ほど引用した、ヘブル人への手紙11章9節ー10節に記されている、 信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。。 というみことばは、アブラハムが、シェケムやベテルなど、カナンの地にある特定の場所だけではなく、カナンの地そのものにも執着していなかったし、カナンの地に対する所有権も主張しなかったことを示しています。そして、それは、アブラハムが「主」が与えてくださる「約束の地」として待ち望んでいたのは、その「設計者、また建設者」が神である「堅い基礎の上に建てられた都」であったからであると言われています。 このことを考える上で注目したいのは、創世記12章6節に、 当時、その地にはカナン人がいた。 と記されていたことです。 これは、その地からカナン人が追い払われてしまった後の人々のために付け加えられた注釈です。 アブラハムは、カナンの地を通って「シェケムの場所、モレの樫の木」まで来たけれど、そこは、人のいないところではなく、すでにカナン人が住んでおり、カナン人にとっての重要な「聖地」となっていた場所でした。アブラハムがウルやハランを出てきたのは、それらが月神ナンナル(シン)を主神として礼拝する都市であったからです。しかし、カナンの地に入ってみると、そこも、すでにカナン人が住んでおり、彼らの神々が祀られており、礼拝されていました。いつでもどこでも「主」を礼拝していたアブラハムは、そこにおいても「主」を礼拝し続けました。しかし、そのアブラハムにとっては、そのカナンの地は、実質的には、アブラハムが出てきたウルやハランと変わらない所でした。地上のカナンは、「主」ご自身を真の相続財産としている人々が「主」のみを神として礼拝するのにふさわしい、真の意味での約束の地ではなかったのです。 |
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