黙示録講解

(第356回)


説教日:2018年10月14日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(109)


 黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束のみことばとの関連で取り上げている、19章15節に、終わりの日に再臨される栄光のキリストについて、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

と記されているみことばについてのお話を続けます。
 これまで、この15節に記されているみことばを理解するために、これに先立つ11節以下に記されていることをお話ししてきました。今は、14節に、

 天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。

と記されているときの「天の軍勢」についてお話ししています。
 これまで5回にわたって、「天の軍勢」は御使いたちであるという見方を支持するとされるヨシュア記5章13節ー15節に、

ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」彼は言った。「いや、わたしはの軍の将として、今、来たのだ。」ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。

と記されているみことばについてお話ししました。
 このみことばにこだわってお話ししてきたのは、イスラエルがカナンの地に侵入したことには「地上的なひな型」としての意味があるからです。
 みことばは、終わりの日に再臨される栄光のキリストが最終的なさばきを執行されることを示しています。そのことが、黙示録19章11節以下に記されています。イスラエルがカナンの地に侵入した際に、その地の住民たちと戦って彼らをその地から追い出したことは、この、終わりの日にご臨在される栄光のキリストが執行される最終的なさばきを指し示す「地上的なひな型」の一つです。
 このことは、すでにお話ししたように、「」がアブラハムに与えられた契約とかかわっています。
 まず、それをまとめておきましょう。
 創世記15章9節ー21節には、「」が、その当時の契約締結の儀式に従って、アブラハムと契約を結んでくださったことが記されています。その時に、「」がアブラハムに語られたみことばが、13節ー16節に、

あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。あなた自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。

と記されています。
 この「」のみことばにおいては、アブラハムの子孫たちがエジプトの地で「寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる」ことと、「」がエジプトに対するさばきを執行されることによって、アブラハムの子孫たちはそこから出てくることだけでなく、「四代目の者たち」がカナンの地に帰ってくることが示されています。
 そして、最後に、「四代目の者たち」がカナンの地に帰ってくることの理由として、

 アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。

と言われています。この場合の「アモリ人」はカナンの地の民全体を代表的に表しています。このことは、アブラハムの子孫たちがカナンの地に帰ってくることは、その地の民が罪の咎を満たしてしまうことに対する「」のさばきの執行としての意味をもっていることを示しています。
 実際に、レビ記18章6節ー25節や20章1節ー24節において、「」は、イスラエルの民に、カナンの地の民の間に見られる風習に従ってはならないことを戒められておられますが、その風習として、さまざまな形での性的な逸脱や、自分の子どもをモレクへのいけにえとすること、さらには「霊媒や口寄せ」に頼ることなどが挙げられています。また、申命記9章5節には、

あなたが彼らの地を所有することができるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心が真っ直ぐだからでもない。これらの国々の邪悪さのゆえに、あなたの神、があなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。またがあなたの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。

と記されています。


 このようなことを踏まえて、「」はモーセをとおして、イスラエルはカナンの地に侵入したら、その地の民たちを聖絶するように命じられました。申命記7章1節ー5節には、

あなたが入って行って所有しようとしている地に、あなたの神、があなたを導き入れるとき、主は、あなたよりも数多くまた強い七つの異邦の民、すなわち、ヒッタイト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人をあなたの前から追い払われる。あなたの神、が彼らをあなたに渡し、あなたがこれを討つとき、あなたは彼らを必ず聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。また、彼らにあわれみを示してはならない。また、彼らと姻戚関係に入ってはならない。あなたの娘をその息子に嫁がせたり、その娘をあなたの息子の妻としたりしてはならない。というのは、彼らはあなたの息子を私から引き離し、ほかの神々に仕えさせ、こうしての怒りがあなたがたに向かって燃え上がって、あなたをただちに根絶やしにするからである。むしろ彼らに対して、このようにしなければならない。彼らの祭壇を打ち壊し、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。

と記されています。
 この聖絶については、20年ほど前にお話ししたことがありますが、今日は、多少の補足を加えつつ、その要点をまとめてお話しします。
 実際に聖絶が執行された典型的な例は、今取り上げている。イスラエルがカナンの地に侵入してから最初になされた、エリコでの戦いです。その結末を記しているヨシュア記6章21節には、

[イスラエルの民は]町のものをすべて、男も女も若者も年寄りも、また牛、羊、ろばも剣の刃で聖絶した。

と記されています。
 このような聖絶は、形の上では、同じようなものが古代オリエントの文化の中にも見られることから、未開の時代の残酷な風習である、と考えられることがあります。また、聖絶が、今日の民族紛争の中でも見られる、自分たちを優れた民族と見なして他民族を絶滅させたりする「民族浄化」と同じことであり、そのような「民族浄化」を助長するものであると非難されることもあります。
 しかし、聖絶は、「」がご自身の契約の民であるイスラエルの民を用いて、罪の咎を満たしてしまっていたカナンの地の民に対するさばきを執行されたこととして行われたことです。それも、終わりの日における最終的なさばきの執行を指し示す「地上的なひな型」としての意味をもっていました。さらに、先ほど引用した申命記9章5節に記されているように、「」がイスラエルの民を用いて、カナンの地の民を聖絶されるのは、イスラエルの民が「」の御前によい民であったからではありません。イスラエルの民であっても、カナンの民の風習に倣って罪の咎を満たすようになれば、同じように聖絶されるのです。実際に、北王国イスラエルも、南王国ユダも、カナンの民の風習に倣って罪の咎を満たすようになったので、「」のさばきを受けて滅亡するようになりました。
 それにしても、どうして、

町のものをすべて、男も女も若者も年寄りも、また牛、羊、ろばも剣の刃で聖絶した。

と記されているようなことがなされたのかという疑問はつきまといます。

 この問題を考える上での鍵となるのは、レビ記27章28節に記されている、

 すべて聖絶の物は最も聖なるものであり、のものである。

という教えです。「」の御前に「のろわれたもの」としてさばかれ、聖絶されたものが「最も聖なるものであり、のものである」というのです。
 このことを考えるためには、神さまの創造の御業にまでさかのぼって、この「」が造られた意味を考える必要があります。
 創世記1章2節には、

地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。

と記されています。神さまが最初に造り出されたこの「」が、まだ大水に覆われていた時、すでに、

 神の霊がその水の面を動いていた。

と言われています。神さまは、創造の御業の初めから、この地にご臨在され、そのご臨在の御許から発せられる、

 光、あれ。

から始まる一連の創造のみことばによって、この「」を人が「住む所」に形造ってくださいました(イザヤ書45章18節)。
 ですから、この「」は、造り主である神ご自身がご臨在される「神殿」としての意味をもっている世界であり、人は、そこに住むことが許されているのです。それで、この「」には神さまの愛といつくしみに満ちた栄光のご臨在のしるしが満ちています。
 神さまがこの「」にご臨在されるのは、神のかたちとして造られている人をご自身のご臨在の御前に立たせてくださり、ご自身との愛にある交わりに生かしてくださるためです。この神さまとの愛にある交わりが、神のかたちとして造られている人のいのちの本質です。そのことを表わし保証していたのが、神である「」がご臨在されたエデンの園の中央にあった「いのちの木」です。
 エデンの園は、いわば、神である「」の神殿としてのこの「」の「至聖所」に当たる、「」のご臨在の場でした。
 この「」が栄光の「」がご臨在される「神殿」としての意味をもっているのであれば、この「」は、造り主である神さまに礼拝をささげるのにふさわしい所ですし、神さまを礼拝すべき所です。
 また、創世記1章28節に、

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」

と記されているように、神さまは、神のかたちとして造られている人に、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられました。これは、神さまがご臨在されるこの世界の歴史と文化です。それで、この歴史と文化を造る使命の最終的な目的は、自分たちに委ねられているこの「」において、神さまの栄光がより豊かに現されるように整えつつ、いっさいの栄光を神さまに帰して、神さまを礼拝することにあります。そして、神のかたちとして造られている人のいのちの本質である、神である「」との愛にあるいのちの交わりは、神である「」を神として礼拝することを中心とした交わりです。
 私たちは、この「」が神さまの栄光のご臨在の場として造られていることと、人に与えられている神のかたちとしての栄光と尊厳性と、神である「」を礼拝することを中心とした「」との愛にあるいのちの交わりの祝福を、深い驚きと感謝をもって心に留めることによって初めて、聖絶の中心にある意味を理解することができます。

 このように、人は、造り主である神さまの栄光に満ちている「」に置かれ、神さまのご臨在の御前において、神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きる祝福を受けているものでありながら、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。その結果、神さまを礼拝することもなく、あがめることもなくなってしまいました。そればかりか、神さまがご臨在される所、神さまを礼拝すべき所として聖別されているこの「」にあって、偶像を作り偶像に仕えて、神さまの栄光をはなはだしく汚してしまっています。これが罪により堕落した人の現実です。ローマ人への手紙1章20節ー23節に、

神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。

と記されているとおりです。
 このように神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人が、無限に聖い神さまのご臨在の御前に立つことになったらどうなるでしょうか。神さまの無限の聖さを冒すものとして、直ちに、その栄光に撃たれて滅ぼされてしまいます。ヘブル人への手紙12章29節には、

 私たちの神は焼き尽くす火なのです。

と記されています。これが聖絶の意味です。罪ある者が栄光の「」のご臨在に触れるときに、罪ある者は聖絶されます。聖絶は神さまの聖さの表現です。
 聖書は、聖絶が栄光の「」のご臨在の御前で起こることを示しています。
 実際になされた聖絶の典型的な例であるエリコでの戦いでは、先ほど引用した、ヨシュア記5章13節ー15節に記されているように、戦いに先立って、栄光の「」が「の軍の将」として、そこにご臨在しておられたことが示されています。
 そして、6章に記されている戦いにおいては、祭司たちが「」の契約の箱をかつぎ、7人の祭司たちが七つの雄羊の角笛を吹き鳴らして契約の箱の前を進む形で、6日の間は1度ずつエリコの町の城壁の回りを回りました。武装した兵士たちは、その前と後ろを進みました。そして、7日目には、そのような形で町の回りを7度回って、ヨシュアの合図とともに、20節ー21節を引用しますと、

民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。角笛の音を聞いて民が大声でときの声をあげると、城壁は崩れ落ちた。そこで民はそれぞれ、まっすぐに攻め上り、その町を攻め取り、町のものをすべて、男も女も若者も年寄りも、また牛、羊、ろばも剣の刃で聖絶した。

と記されています。
 「」の契約の箱のうわ蓋である「宥めの蓋」の両端には、「」のご臨在を守護すると同時に、「」のご臨在があることを表示しているケルビムがありました。「」の契約の箱は、そこに「」のご臨在があることを示していました。また、祭司たちが角笛を吹き鳴らしたことも、そこに「」のご臨在があることを示すものです(参照・出エジプト記19章13節、16節、19節)。
 このように、カナンの地における聖絶の最初の事例である、エリコでの戦いにおいては、神である「」のご臨在を中心にして一切のことが起こっています。
 また、聖絶においては、偶像と偶像に仕える者が、特に、聖絶の対象になっています。偶像は、栄光の「」のご臨在をすり替えるために作られたものであり、聖なる「」のご臨在を著しく歪めるものだからです。先ほど引用した、申命記7章5節に、

彼らの祭壇を打ち壊し、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。

と命じられているとおりです。さらに、イスラエルの民の間でも、たとえば、出エジプト記22章20節では、

ただひとりのほかに、神々にいけにえを献げる者は、聖絶されなければならない。

と戒められています。また、申命記13章12節ー17節では、イスラエルの町の一つが偶像礼拝に走ったときには、その町全体を聖絶するように命じられています。

 人が「」の御臨在に接するようになり、聖絶される形は二つあります。一つは、罪ある者が「」のご臨在に近づいて、聖絶されることです。その事例の一つは、レビ記10章1節ー2節に、

さて、アロンの子ナダブとアビフはそれぞれ自分の火皿を取り、中に火を入れ、上に香を盛って、主が彼らに命じたものではない異なる火をの前に献げた。すると火がの前から出て来て、彼らを焼き尽くした。それで彼らはの前で死んだ。

と記されています。もう一つは、栄光の「」のご臨在が近づいて来て、罪ある者たちを聖絶してしまうことがあります。先ほどのエリコでの戦いは、この後者の例です。
 このエリコでの戦いによって示されているように、栄光の「」のご臨在が近づいて来て、罪ある者たちを聖絶してしまうことは、最終的には、世の終わりに栄光のキリストが再臨される日に起こります。その栄光のキリストの来臨は、栄光の「」のご臨在です。すべての民が、その栄光の「」のご臨在の御前に立つようになります。マタイの福音書16章27節には、

人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。

というイエス・キリストの教えが記されています。

           *
 黙示録21章1節には、

 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

と記されています。この、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される「新しい天と新しい地」は、最初の創造において「神殿」として造られたこの世界の完成です。その中心にある「新しいエルサレム」は、神である「のご臨在のある聖所の「本体」です。3節ー4節には、

私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

と記されています。また、「新しいエルサレム」のことを記している16節には、

 都は四角形で、長さと幅は同じである。

と言われていて、至聖所の表象で描かれています。
 このような、栄光のキリストの再臨による「新しい天と新しい地」および「新しいエルサレム」の完成に先立って、最終的な聖絶の執行があります。
 「最後の審判」における「火の池」によるさばきは、最終的な聖絶の執行です。黙示録20章10節には、

彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。

と記されており、14節ー15節には、

それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

と記されています。
 イスラエルがカナンの地の民を聖絶するように命じられたのは、この終わりの日の最終的な聖絶を「地上的なひな型」として指し示すためでした。これは古い契約のもとにおける「地上的なひな型」であって、その成就である新しい契約の時代にある今日では、武力など、血肉の力による聖絶を執行するように選ばれている民はありません。それは、この後にお話ししますが、約束の贖い主として来られた御子イエス・キリストの十字架の死によって、最終的な聖絶の執行に新しい形があることが示されるようになったことによっています。

 ローマ人への手紙5章12節には、

こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に――

と記されています。このように、すべての人が、「一人の人」アダムにあって、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それによって、すべての人が、「」の栄光のご臨在の御前に聖絶されるべきものとなってしまいました。
 しかし実際には、人類は「」のあわれみによって、「」のご臨在の御前から退けられるという形で、聖絶されることなく、存続することが許されてきました。そのことは、最初の人アダムが神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後、「」がご臨在されるエデンの園から追放されたことから始まっています。
 その一方で、「」は、ご自身がご臨在される所としてのエデンの園を保存し、御臨在の御許におけるいのちの交わりを表示し保証している「いのちの木への道」を残してくださいました。
 けれども、創世記3章24節に、

こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。

と記されているように、その道は、「ケルビムと輪を描いて回る炎の剣」によって守られていました。それは、人が罪のあるままで栄光の「」の御臨在の御前に近づいて聖絶されることがないための、「」の御配慮によることです。
 それも、人が神である「」の御前に堕落してしまった直後に与えられた「最初の福音」に約束されている贖い主による贖いの御業が成し遂げられ、「」の契約の民の救いが完成するまでのことです。その意味で、これは「一時的な」措置です。とはいえ、これは最初の人が神である「」の御前に堕落してしまった直後から、「」の契約の民の救いが完成するまでの長い期間ですが、永遠に続く新しい天と新しい地の歴史と比べれば、「一時的な」ものです。ローマ人への手紙3章25節に、

神はこの方[イエス・キリスト]を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。

と記されているとおりです。
 詩篇24篇1節に、

 地とそこに満ちているもの
 世界とその中に住んでいるもの
 それはのもの。

と記されているように、すべてのものは造り主である神さまのものであり、最後には、完全に、神さまの御手に納められなくてはなりません。ローマ人への手紙11章36節には、

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

と記されています。
 けれども、罪によって汚れてしまっている者が、その罪があるままで無限に聖い神さまの御手に納められることはありえません。罪によって堕落している状態にある人類はすべて、最終的には、聖絶を通して造り主である神さまの御手に納められます。この意味で、「聖絶の物」は、「のもの」となります。これによって、レビ記27章28節に記されている、

 すべて聖絶の物は最も聖なるものであり、のものである。

という律法の規定も理解されます。
 このこととともに、福音のみことばは、いのちの血が注ぎ出されることによる罪の贖いにおいて、聖絶が執行される道を示しています。それは、十字架の上でいのちの血を流された御子イエス・キリストにおいて実現しています。
 ガラテヤ人への手紙3章13節に、

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。

と記されているとおりに、イエス・キリストは「私たちのためにのろわれた者」となってくださり、私たちの聖絶を成就してくださいました。
 これによって、人には、終わりの日に、自分自身が栄光の「」のご臨在の御前に立って、あの「火の池」によって示されている聖絶の執行を受けることの他に、神の御子イエス・キリストの十字架の死にあずかることによって、聖絶の執行を受ける道が備えられました。
 私たちは、信仰によってイエス・キリストを「」として受け入れ、その十字架の死による罪の贖いにあずかることによって、「聖絶の物」となっています。そして、

 すべて聖絶の物は最も聖なるものであり、のものである。

という律法の規定のとおりに、「最も聖なるもの」とされ、「のもの」とされています。
 それで、私たちは自分を「」への礼拝のために献げることができるのです。ローマ人への手紙12章1節には、

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

と記されています。


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