黙示録講解

(第355回)


説教日:2018年10月7日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(108)


 今日も、黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束のみことばとの関連で取り上げている、19章15節に記されている、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

とみことばについてのお話を続けます。
 ここに出てくる「この方」は、11節に記されている「白い馬」に「乗っている方」で、終わりの日に再臨される栄光のキリストです。
 これまで、この15節に記されているみことばを理解するために、これに先立つ11節以下に記されていることをお話ししてきました。今は、14節に、

 天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。

と記されているときの「天の軍勢」についてお話ししています。
 これまで4回にわたって、「天の軍勢」は御使いたちであるという見方を支持するとされるヨシュア記5章13節ー15節に、

ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」彼は言った。「いや、わたしはの軍の将として、今、来たのだ。」ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。

と記されているみことばについてお話ししました。
 今日は、これまでお話ししたことをまとめながら、さらに補足するお話をします。
 ここで、ヨシュアに「の軍の将」としてご自身を現された方は、かつて、神の山ホレブ(シナイ山)においてご自身をモーセに現してくださった契約の神である「」ヤハウェです。
 ここで「の軍の将」と言われているときの「」は、「の軍」の司令官、指揮官を表しています。そして「の軍」ということばは、そこに「」の軍隊がいることを示しています。
 また、イスラエルにおいても、軍隊が組織立てられています。
 民数記1章3節には、「」がモーセに、

あなたとアロンは、イスラエルにおいて、二十歳以上で戦に出ることができる者をすべて、その軍団ごとに登録しなければならない。

と命じられたことが記されています。1節には、これは「エジプトの地を出て二年目の第二の月の一日」のことであったと記されています。出エジプト記12章2節と6節によると、エジプトの地における過ぎ越の祭りは、イスラエルの第一年の第一の月の14日の夕方から行われました。それで、「二年目の第二の月の一日」は、イスラエルがエジプトを出てから1年と半月後のことです。また、それは、出エジプト記40章17節に、

 第二年の第一の月、その月の一日に幕屋は設営された。

と記されているので、幕屋が設営されてから1月後のことです。
 そのように、イスラエルにも軍隊が形成されました。しかし、強大な帝国であるエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民は軍事的な訓練を受けることはもとより、武器を手にすることも許されなかったでしょう。「二十歳以上で戦に出ることができる者」と言っても、すぐに大々的で組織立った戦闘ができるというわけにはいかなかったと考えられます。
 そのことは、すでにお話しした、アマレクとの戦いにおいて示されていました。その時は、イスラエルの民はエジプトを出て間もない頃で、軍隊も形成されていませんでした。「」はそのような状況にあることを用いて、イスラエルの民の力によってではなく、「」がイスラエルの民とともにいて戦ってくださっているのでイスラエルが勝利したことを示してくださいました。そして、それに基づいて、

 は代々にわたりアマレクと戦われる。

ということを示してくださいました。この場合の「アマレク」はカナンの民全体を代表的に表しています。
 出エジプトとカナン侵入の時代の年代的なことには難しいことが多いのですが、もう少し注目しますと、民数記10章11節ー12節には、

二年目の第二の月の二十日に、雲があかしの幕屋の上から離れて上った。それでイスラエルの子らはシナイの荒野を旅立った。雲はパランの荒野でとどまった。

と記されています。それで、イスラエルの民は「二年目の第二の月の二十日」までシナイの荒野に宿営していたことになります。それは、その時まで「」の栄光の御臨在を表示する「雲があかしの幕屋の上」にとどまっていたからです。彼らはその「」の導きに従って、シナイの荒野から「パランの荒野」に移動して、そこに宿営しました。この「パランの荒野」は広い地域で、より具体的には、「パランの荒野」の中でもカナンの地の南にある(カナンに南接する)カデシュでした。申命記1章2節には、シナイからカデシュまでは11日の道のりであったことが記されています。
 言うまでもなく、「」が「」の栄光の御臨在を表示する「」によってイスラエルの民をシナイの荒野から「パランの荒野」のカデシュへと導いてくださったのは、そこからイスラエルの民を約束の地であるカナンに導き入れてくださるためでした。
 そして、民数記13章1節ー3節に記されているように、「モーセは、の命により、パランの荒野から」イスラエルの族長たちからなる「偵察」隊を遣わして。カナンの地を偵察させました。
 すでにお話ししたように、この時、40日にわたって(25節)カナンの地を偵察して帰って来た族長たちは、ヨシュアとカレブを除いて、非常に悪い報告をしました。それを聞いたイスラエルの民は、これまでことあるごとに繰り返してきたように、モーセとアロンに不平を言って、14章2節ー3節に記されているように、出エジプトにかかわる「」の数々の御業はすべて「」の悪意から出たことで、自分たちをここに導いてきて滅ぼすためであったと言いました。
 それで「」は、族長たちがカナンの地を偵察してきた40日の1日を1年として、エジプトを出てから数えて40年の間荒野をさまようようになり、「二十歳以上の、登録され数えられた者たち全員」、すなわち、イスラエルのすべての軍団に属する者たちは、ヨシュアとカレブを除いて、約束の地に入ることができないと言われました。
 これがいつのことであったかは明示されていませんが、申命記2章14節には、

カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は、三十八年であった。それまでに、その世代の戦士たちはみな宿営のうちから絶えてしまっていた。が彼らについて誓われたとおりであった。

と記されています。イスラエルの民が荒野をさまよい歩いた期間は、エジプトを出てから40年の間でしたから、このカデシュでの出来事はエジプトを出てから、おおよそ2年ほど後のことであったと思われます。それは、これまでお話ししてきたことから、イスラエルの民が「二年目の第二の月の二十日」にシナイの荒野を旅立って、11日後、すなわち、第三の月の初めに「パランの荒野」のカデシュに宿営してから、それなりの時間をかけて、カナンの地の民との戦いに備える体制を整えてからであったと思われます。
 とはいえ、単純計算では、エジプトにいたイスラエルの民はエジプトの太陽暦を使っていたとして、これに偵察の期間である40日を加えると、2年間で残っているのは7ヶ月と10日ほどです。さらに、ゼレデ川を渡って、さらに進軍した日数が相当かかったと思われますが、それが40年から差し引かれるとすると、その期間はもっと短くなります。それで、にわかに形成されたイスラエルの軍隊が十分な訓練を受けることができたとは言えないのではないかと思われます[用いられていたのが太陰暦であったとすれば、1月は28日になりますが、十分な訓練ができなかったと思われることに変わりはありません]。
 人の目から見れば、このイスラエルの軍隊の戦闘能力と、すでに乳と蜜の流れる豊かなカナンの地に定着していた民たちの軍隊の戦闘能力には雲泥の差があって、偵察から帰って来た族長たちの報告はもっともなことであったということになるでしょう。
 しかし、彼らはエジプトの地において、「」がご自身の民イスラエルを奴隷としていたエジプトの王ファラオの家を初め、エジプト全土にさばきを下されたこと、そして、紅海において、ファラオの軍隊を滅ぼされたこと、さらに、エジプトを出て間もないイスラエルの民を襲ってきたアマレクを打ち破られたことを目の当たりにしていました。それらすべては、昼は雲の柱、夜は火の柱としてご自身の栄光の御臨在を示してくださっている「」がイスラエルの民とともにいて成し遂げてくださったことでした。
 また、イスラエルの12人の族長たちが40日の間、カナンの地のさまざまな民を偵察しても、1人も欠けることなく帰ってくることができたのも、「」が彼らとともにいてくださったからに他なりません。
 形としては同じものを見ながら、民数記14章9節に記されているように、ヨシュアとカレブは、

その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。

と言い、13章32節ー33節に記されているように、ほかの族長たちは、

私たちが行き巡って偵察した地は、そこに住む者を食い尽くす地で、そこで見た民はみな、背の高い者たちだ。私たちは、そこでネフィリムを、ネフィリムの末裔アナク人を見た。私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。

と言いました。彼らには、ヨシュアとカレブが見据えていた、自分たちとともにいてくださる「」が、まったく視野に入っていませんでした。


 このイスラエルの民を取り巻く外的な状況は、それからおおよそ38年ほど後のヨシュアの時代になっても変わっていません。荒野をさまよい歩いたイスラエルの民はその間に、豊かで強大な国家になっていたわけではありません。
 しかも、エジプトを出たイスラエルの第一世代の民は、荒野で生まれた自分たちの子どもたちに「」がアブラハムに与えてくださった契約のしるしである割礼を施すこともしませんでした。ヨシュア記5章5節ー6節に、

出て来た民はみな割礼を受けていたが、エジプトを出てから途中で荒野で生まれた民はみな、割礼を受けていなかった。イスラエルの子らは四十年間荒野を歩き回り、その間に民全体が、すなわちエジプトを出た戦士たち全員が、死に絶えてしまったからである。彼らがの御声に聞き従わなかったので、私たちに与えるとが彼らの父祖たちに誓った地、乳と蜜の流れる地を、は彼らには見せないと誓われたのである。

と記されているとおりです。
 しかし、「」は荒野で、イスラエルの第二世代の民を訓練してくださいました。荒野における40年の旅が終ろうとしている時、モーセがイスラエルの第二世代の民に語った教えが申命記に記されています。
 その7章6節後半ー8節には、

あなたの神、は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。しかし、があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。

と記されています。
 「」がイスラエルを選んで「ご自分の宝の民とされた」のは、イスラエル自身のよさによるのではなく、「」が彼らを「愛されたから」であり、彼らの「父祖たちに誓った誓いを守られたから」であることを、モーセをとおして教えておられます。
 さらに、少し長い引用になりますが、8章1節ー18節には、

私が今日あなたに命じるすべての命令を、あなたがたは守り行わなければならない。そうすれば、あなたがたは生きて数を増やし、があなたがたの父祖たちに誓われた地に入って、それを所有することができる。あなたの神、がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人はの御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。この四十年の間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、があなたを訓練されることを知らなければならない。あなたの神、の命令を守って主の道に歩み、主を恐れなさい。あなたの神、があなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、谷間と山に湧き出る水の流れや、泉と深い淵のある地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろのある地、オリーブ油と蜜のある地である。そこは、あなたが不自由なくパンを食べ、何一つ足りないものがない地であり、そこの石は鉄で、その山々からは銅を掘り出すことのできる地である。あなたが食べて満ち足りたとき、主がお与えくださった良い地について、あなたの神、をほめたたえなければならない。気をつけなさい。私が今日あなたに命じる、主の命令と主の定めと主の掟を守らず、あなたの神、を忘れることがないように。あなたが食べて満ち足り、立派な家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れが増え、銀や金が増し、あなたの所有物がみな豊かになって、あなたの心が高ぶり、あなたの神、を忘れることがないように。主はあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出し、燃える蛇やサソリのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない乾ききった地を通らせ、硬い岩からあなたのために水を流れ出させ、あなたの父祖たちが知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめ、あなたを試し、ついにはあなたを幸せにするためだったのである。あなたは心のうちで、「私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。あなたの神、を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えるのは、あなたの父祖たちに誓った契約を今日のように果たされるためである。

と記されています。
 ここでは、イスラエルの第二世代の民たちに、この40年の間、「」が彼らの父祖たちに誓った契約を守ってくださって、彼らとともにいてくださって、荒野という厳しい環境の中でなお、すべての点で欠けることなく彼らを支え続けてくださったことを示しています。それは、先に引用した7章8節に記されているように、「」が彼らを愛され、父祖たちに誓った契約を守られたからにほかなりません。それで、ここで、「の命令を守って主の道に歩み、主を恐れ」るように、繰り返し戒められているときの「の命令」は、「」の愛と、「」が父祖たちに与えられた契約の真実さを信じて、「」を神として愛し、信頼し、いっさいの栄光を「」に帰して「」を礼拝することを求めるものです。
 実際、私たちの主イエス・キリストが「」の律法の最も大切な第一の戒めとして挙げておられる戒めが、申命記6章4節ー5節に、

聞け、イスラエルよ。は私たちの神。は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、を愛しなさい。

と記されています。

 このようなことを、心に留めて、一つの問題を考えてみましょう。
 これまでお話ししましたように、「」はエジプトを出たイスラエルの第一世代の民たちに、エジプトの地においても、紅海においても、また、荒野においても、一貫して、ご自身が、いかなる時にも、彼らとともにいてくださることを示し続けてくださり、「」にのみ信頼して歩むように導いてくださいました。しかし、彼らはことあるごとに、「」を信頼することなく、むしろ、「」に対する不信を募らせて、「」がアブラハム契約において、父祖たちに約束してくださっていたカナンの地に導き入れてくださろうとした時に、その不信を極まらせてしまいました。
 それに対して「」がさばきを宣告されても、彼らは「」の御前に身を低くするどころか、「」がその一方的な愛と恵みによって父祖たちに与えてくださった契約の約束を無意味なこととしてしまっていました。しかも、「」が、その後も、彼らに対しても真実に、天からマナを降らせてくださって、彼らはそれによって支え続けていただいていたのですが、それも、彼らの心には届きませんでした。彼らが「」のさばきの宣告を受けたことは民数記14章に記されていますが、その後のことを記している民数記21章5節には、彼らが「神とモーセに逆らって言った」、

なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。

ということばが記されています。「このみじめな食べ物」とはマナのことです。
 これ以上、人の罪の闇の深さを示すものがあるだろうかと思わせられます。しかし、それは他人事ではなく、人の罪がもたらす霊的な闇、すなわち、神である「」との関係における闇の深さは、このようなものなのです。荒野の第一世代は、もし「」の恵みがなかったら、私たちもこのような者でしかなかったことを思い起こさせてくれるる鏡のようなものです。
 荒野のイスラエルの第二世代は、このような親から生まれました。それで、親から神である「」がアブラハムに与えてくださった契約のことも、その契約に基づいて、「」がエジプトの地と、紅海と、荒野においてなしてくださった御業が示している「」の愛と恵みのことも、教えられることなく育てられたと考えられます。普通であれば、親の世代の罪の闇は、子の世代においてさらに深くなって絶望的な状態になっていたはずです。
 しかし、「」はイスラエルの第二世代を、育ててくださっていました。彼らは、先ほど引用しました、申命記7章6節後半ー8節や8章1節ー18節に記されているように、モーセをとおして、「」が彼らを愛してご自身の宝の民としてお選びになったことや、荒野の旅路を通して常に彼らとともにいてくださって、彼らが「」を信頼して歩むべきこと、そして、彼らがアブラハム契約において父祖たちに誓われた約束の地であるカナンに入ることができるのも、自分たちの力によるのではなく、「」が彼らとともにいてくださるからであることを教えてくださいました。また、改めて、モーセをとおして「」の律法を与えてくださるに当たって、申命記の最初の数章を読むと分かりますが、この時までの歩みの中で「」がなしてくださったことと、第一世代の不信の歴史を振り返りつつ、「」の戒めを守ることの意味をも示してくださっています。
 また、民数記26章1節ー2節には、

はモーセと祭司アロンの子エルアザルに告げられた。「イスラエルの全会衆について、一族ごとに、二十歳以上で、イスラエルで戦に出ることができる者すべての頭数を調べなさい。」

と記されています。この時、アロンはすでに召されており、「アロンの子エルアザル」が大祭司となっていました。
 これに続いて、イスラエルの民が登録されたことが記されています。そして、その最後の部分である63節ー65節には、

以上が、エリコをのぞむヨルダン川のほとりのモアブの草原で、モーセと祭司エルアザルがイスラエルの子らを登録したときに登録された者たちである。しかし、この中には、シナイの荒野でモーセと祭司アロンがイスラエルの子らを登録したときに登録された者は、一人もいなかった。それはがかつて彼らについて、「彼らは必ず荒野で死ぬ」と言われたからである。彼らのうち、ただエフンネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほかには、だれも残っていなかった。

と記されています。
 「」はイスラエルの第二世代の「二十歳以上」の者からなるイスラエルの兵士たちを登録するように命じてくださいました。それは、イスラエルの第二世代が、アロンの後継者であるエレアザルとモーセの後継者であるヨシュアのもとで、約束の地であるカナンに入るための準備でした。その点は、民数記1章に記されていた、最初の、イスラエルの民のうちの「二十歳以上で戦に出ることができる者」の登録と同じです。ただし、イスラエルの第一世代は、「」に対する不信を極まらせてしまい、約束の地であるカナンに入ることはできませんでした。
 しかし、この第二世代の登録にはもう一つの意味がありました。52節ー55節には、「」がモーセに告げられた、

これらの者たちに、その名の数にしたがって、地を相続地として割り当てなければならない。大きい部族にはその相続地を大きくし、小さい部族にはその相続地を小さくしなければならない。それぞれ登録された者に応じて、その相続地は与えられる。ただし、その地はくじで割り当てられ、彼らの父祖の部族の名にしたがって受け継がれなければならない。その相続地は、大部族と小部族の間で、くじによって決められなければならない

という戒めが記されています。
 このことは、イスラエルの第二世代の者たちが、「」がアブラハム契約において約束してくださっているカナンの地に入ることがより現実のこととなってきていることを示しています。
 これらのことを念頭に置いて、このイスラエルの第二世代が、「」に対する不信を積み重ねて、それを極まらせ、「」のさばきを招いた後も、身を低くすることなく、「」に逆らい続けたイスラエル第一世代から生まれ、アブラハム契約のしるしである割礼を受けることもなく、彼らによって育てられてきたことを考えると、これらすべてのことは、彼らの親のよさにはよっていないことが分かります。これによって、「」の民が約束の地であるカナンに入ることができたのは、血肉の力によるのではなく、「」が彼らを愛してくださり、「」が父祖アブラハムに与えてくださり、イサク、ヤコブに受け継がせてくださった契約の約束を守ってくださったことによっているということが、明確に示されています。
 詩篇44篇1節ー3節には、

 神よ 私たちはこの耳で聞きました。
 先祖たちが語ってくれました。
 あなたが彼らの時代 昔になさったみわざを。
 あなたは 御手をもって異邦の民を追い払い
 そこに先祖たちを植えられました。
 もろもろの国民にわざわいを下し
 そこに先祖たちを送り込まれました。
 自分の剣によって 彼らは地を得たのではなく
 自分の腕が 彼らを救ったのでもありません。
 ただあなたの右の手 あなたの御腕
 あなたの御顔の光が そうしたのです。
 あなたが彼らを愛されたからです。

と記されています。
 そして、実際に、ヨシュアが「」の命令に従って、「の契約の箱」を担ぐ祭司たちを先頭にして、イスラエルの民がヨルダン川を渡った時のことが、ヨシュア記3章15節ー17節に、

箱を担ぐ者たちがヨルダン川まで来たとき、ヨルダン川は刈り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた。ところが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると、川上から流れ下る水が立ち止まった。一つの堰が、はるかかなた、ツァレタンのそばにある町アダムで立ち上がり、アラバの海、すなわち塩の海へ流れ下る水は完全にせき止められて、民はエリコに面したところを渡った。の契約の箱を担ぐ祭司たちは、ヨルダン川の真ん中の乾いたところにしっかりと立ち止まった。イスラエル全体は乾いたところを渡り、ついに民全員がヨルダン川を渡り終えた。

と記されています。
 このことの意味が7節に、

はヨシュアに告げられた。「今日から全イスラエルの目の前で、わたしはあなたを大いなる者とする。わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを彼らが知るためである。」

と記されています。この時に、ヨルダン川で起こったことは、出エジプトの際に、「」が紅海の水を分けて、イスラエルの民がそこを渡るようにしてくださったことに相当することです。4章23節に、

このことは、あなたがたの神、が葦の海になさったこと、すなわち、私たちが渡り終えるまで、私たちのためにその海を涸らしてくださったのと同じである。

と記されているとおりです。
 出エジプトの贖いの御業も、約束の地であるカナンに入れてくださる御業も、「」がその一方的な愛と恵みによってアブラハムに与えてくださった契約に基づいてなされました。イスラエルの民はただそれにあずかっただけです。そして、その「」の愛と恵みに信頼して、「」とともに歩むことこそが、真のいのちの道であることを一貫して教えられてきました。そのことは、私たちが罪の奴隷の状態から贖い出していただいたことと、約束の地であるカナンの地の本体である、新しい天と新しい地に入れていただくことにも、そのまま当てはまります。


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