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説教日:2018年10月7日 |
このイスラエルの民を取り巻く外的な状況は、それからおおよそ38年ほど後のヨシュアの時代になっても変わっていません。荒野をさまよい歩いたイスラエルの民はその間に、豊かで強大な国家になっていたわけではありません。 しかも、エジプトを出たイスラエルの第一世代の民は、荒野で生まれた自分たちの子どもたちに「主」がアブラハムに与えてくださった契約のしるしである割礼を施すこともしませんでした。ヨシュア記5章5節ー6節に、 出て来た民はみな割礼を受けていたが、エジプトを出てから途中で荒野で生まれた民はみな、割礼を受けていなかった。イスラエルの子らは四十年間荒野を歩き回り、その間に民全体が、すなわちエジプトを出た戦士たち全員が、死に絶えてしまったからである。彼らが主の御声に聞き従わなかったので、私たちに与えると主が彼らの父祖たちに誓った地、乳と蜜の流れる地を、主は彼らには見せないと誓われたのである。 と記されているとおりです。 しかし、「主」は荒野で、イスラエルの第二世代の民を訓練してくださいました。荒野における40年の旅が終ろうとしている時、モーセがイスラエルの第二世代の民に語った教えが申命記に記されています。 その7章6節後半ー8節には、 あなたの神、主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。 と記されています。 「主」がイスラエルを選んで「ご自分の宝の民とされた」のは、イスラエル自身のよさによるのではなく、「主」が彼らを「愛されたから」であり、彼らの「父祖たちに誓った誓いを守られたから」であることを、モーセをとおして教えておられます。 さらに、少し長い引用になりますが、8章1節ー18節には、 私が今日あなたに命じるすべての命令を、あなたがたは守り行わなければならない。そうすれば、あなたがたは生きて数を増やし、主があなたがたの父祖たちに誓われた地に入って、それを所有することができる。あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。この四十年の間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを知らなければならない。あなたの神、主の命令を守って主の道に歩み、主を恐れなさい。あなたの神、主があなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、谷間と山に湧き出る水の流れや、泉と深い淵のある地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろのある地、オリーブ油と蜜のある地である。そこは、あなたが不自由なくパンを食べ、何一つ足りないものがない地であり、そこの石は鉄で、その山々からは銅を掘り出すことのできる地である。あなたが食べて満ち足りたとき、主がお与えくださった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。気をつけなさい。私が今日あなたに命じる、主の命令と主の定めと主の掟を守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。あなたが食べて満ち足り、立派な家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れが増え、銀や金が増し、あなたの所有物がみな豊かになって、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れることがないように。主はあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出し、燃える蛇やサソリのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない乾ききった地を通らせ、硬い岩からあなたのために水を流れ出させ、あなたの父祖たちが知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめ、あなたを試し、ついにはあなたを幸せにするためだったのである。あなたは心のうちで、「私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えるのは、あなたの父祖たちに誓った契約を今日のように果たされるためである。 と記されています。 ここでは、イスラエルの第二世代の民たちに、この40年の間、「主」が彼らの父祖たちに誓った契約を守ってくださって、彼らとともにいてくださって、荒野という厳しい環境の中でなお、すべての点で欠けることなく彼らを支え続けてくださったことを示しています。それは、先に引用した7章8節に記されているように、「主」が彼らを愛され、父祖たちに誓った契約を守られたからにほかなりません。それで、ここで、「主の命令を守って主の道に歩み、主を恐れ」るように、繰り返し戒められているときの「主の命令」は、「主」の愛と、「主」が父祖たちに与えられた契約の真実さを信じて、「主」を神として愛し、信頼し、いっさいの栄光を「主」に帰して「主」を礼拝することを求めるものです。 実際、私たちの主イエス・キリストが「主」の律法の最も大切な第一の戒めとして挙げておられる戒めが、申命記6章4節ー5節に、 聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 と記されています。 このようなことを、心に留めて、一つの問題を考えてみましょう。 これまでお話ししましたように、「主」はエジプトを出たイスラエルの第一世代の民たちに、エジプトの地においても、紅海においても、また、荒野においても、一貫して、ご自身が、いかなる時にも、彼らとともにいてくださることを示し続けてくださり、「主」にのみ信頼して歩むように導いてくださいました。しかし、彼らはことあるごとに、「主」を信頼することなく、むしろ、「主」に対する不信を募らせて、「主」がアブラハム契約において、父祖たちに約束してくださっていたカナンの地に導き入れてくださろうとした時に、その不信を極まらせてしまいました。 それに対して「主」がさばきを宣告されても、彼らは「主」の御前に身を低くするどころか、「主」がその一方的な愛と恵みによって父祖たちに与えてくださった契約の約束を無意味なこととしてしまっていました。しかも、「主」が、その後も、彼らに対しても真実に、天からマナを降らせてくださって、彼らはそれによって支え続けていただいていたのですが、それも、彼らの心には届きませんでした。彼らが「主」のさばきの宣告を受けたことは民数記14章に記されていますが、その後のことを記している民数記21章5節には、彼らが「神とモーセに逆らって言った」、 なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。 ということばが記されています。「このみじめな食べ物」とはマナのことです。 これ以上、人の罪の闇の深さを示すものがあるだろうかと思わせられます。しかし、それは他人事ではなく、人の罪がもたらす霊的な闇、すなわち、神である「主」との関係における闇の深さは、このようなものなのです。荒野の第一世代は、もし「主」の恵みがなかったら、私たちもこのような者でしかなかったことを思い起こさせてくれるる鏡のようなものです。 荒野のイスラエルの第二世代は、このような親から生まれました。それで、親から神である「主」がアブラハムに与えてくださった契約のことも、その契約に基づいて、「主」がエジプトの地と、紅海と、荒野においてなしてくださった御業が示している「主」の愛と恵みのことも、教えられることなく育てられたと考えられます。普通であれば、親の世代の罪の闇は、子の世代においてさらに深くなって絶望的な状態になっていたはずです。 しかし、「主」はイスラエルの第二世代を、育ててくださっていました。彼らは、先ほど引用しました、申命記7章6節後半ー8節や8章1節ー18節に記されているように、モーセをとおして、「主」が彼らを愛してご自身の宝の民としてお選びになったことや、荒野の旅路を通して常に彼らとともにいてくださって、彼らが「主」を信頼して歩むべきこと、そして、彼らがアブラハム契約において父祖たちに誓われた約束の地であるカナンに入ることができるのも、自分たちの力によるのではなく、「主」が彼らとともにいてくださるからであることを教えてくださいました。また、改めて、モーセをとおして「主」の律法を与えてくださるに当たって、申命記の最初の数章を読むと分かりますが、この時までの歩みの中で「主」がなしてくださったことと、第一世代の不信の歴史を振り返りつつ、「主」の戒めを守ることの意味をも示してくださっています。 また、民数記26章1節ー2節には、 主はモーセと祭司アロンの子エルアザルに告げられた。「イスラエルの全会衆について、一族ごとに、二十歳以上で、イスラエルで戦に出ることができる者すべての頭数を調べなさい。」 と記されています。この時、アロンはすでに召されており、「アロンの子エルアザル」が大祭司となっていました。 これに続いて、イスラエルの民が登録されたことが記されています。そして、その最後の部分である63節ー65節には、 以上が、エリコをのぞむヨルダン川のほとりのモアブの草原で、モーセと祭司エルアザルがイスラエルの子らを登録したときに登録された者たちである。しかし、この中には、シナイの荒野でモーセと祭司アロンがイスラエルの子らを登録したときに登録された者は、一人もいなかった。それは主がかつて彼らについて、「彼らは必ず荒野で死ぬ」と言われたからである。彼らのうち、ただエフンネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほかには、だれも残っていなかった。 と記されています。 「主」はイスラエルの第二世代の「二十歳以上」の者からなるイスラエルの兵士たちを登録するように命じてくださいました。それは、イスラエルの第二世代が、アロンの後継者であるエレアザルとモーセの後継者であるヨシュアのもとで、約束の地であるカナンに入るための準備でした。その点は、民数記1章に記されていた、最初の、イスラエルの民のうちの「二十歳以上で戦に出ることができる者」の登録と同じです。ただし、イスラエルの第一世代は、「主」に対する不信を極まらせてしまい、約束の地であるカナンに入ることはできませんでした。 しかし、この第二世代の登録にはもう一つの意味がありました。52節ー55節には、「主」がモーセに告げられた、 これらの者たちに、その名の数にしたがって、地を相続地として割り当てなければならない。大きい部族にはその相続地を大きくし、小さい部族にはその相続地を小さくしなければならない。それぞれ登録された者に応じて、その相続地は与えられる。ただし、その地はくじで割り当てられ、彼らの父祖の部族の名にしたがって受け継がれなければならない。その相続地は、大部族と小部族の間で、くじによって決められなければならない という戒めが記されています。 このことは、イスラエルの第二世代の者たちが、「主」がアブラハム契約において約束してくださっているカナンの地に入ることがより現実のこととなってきていることを示しています。 これらのことを念頭に置いて、このイスラエルの第二世代が、「主」に対する不信を積み重ねて、それを極まらせ、「主」のさばきを招いた後も、身を低くすることなく、「主」に逆らい続けたイスラエル第一世代から生まれ、アブラハム契約のしるしである割礼を受けることもなく、彼らによって育てられてきたことを考えると、これらすべてのことは、彼らの親のよさにはよっていないことが分かります。これによって、「主」の民が約束の地であるカナンに入ることができたのは、血肉の力によるのではなく、「主」が彼らを愛してくださり、「主」が父祖アブラハムに与えてくださり、イサク、ヤコブに受け継がせてくださった契約の約束を守ってくださったことによっているということが、明確に示されています。 詩篇44篇1節ー3節には、 神よ 私たちはこの耳で聞きました。 先祖たちが語ってくれました。 あなたが彼らの時代 昔になさったみわざを。 あなたは 御手をもって異邦の民を追い払い そこに先祖たちを植えられました。 もろもろの国民にわざわいを下し そこに先祖たちを送り込まれました。 自分の剣によって 彼らは地を得たのではなく 自分の腕が 彼らを救ったのでもありません。 ただあなたの右の手 あなたの御腕 あなたの御顔の光が そうしたのです。 あなたが彼らを愛されたからです。 と記されています。 そして、実際に、ヨシュアが「主」の命令に従って、「主の契約の箱」を担ぐ祭司たちを先頭にして、イスラエルの民がヨルダン川を渡った時のことが、ヨシュア記3章15節ー17節に、 箱を担ぐ者たちがヨルダン川まで来たとき、ヨルダン川は刈り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた。ところが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると、川上から流れ下る水が立ち止まった。一つの堰が、はるかかなた、ツァレタンのそばにある町アダムで立ち上がり、アラバの海、すなわち塩の海へ流れ下る水は完全にせき止められて、民はエリコに面したところを渡った。主の契約の箱を担ぐ祭司たちは、ヨルダン川の真ん中の乾いたところにしっかりと立ち止まった。イスラエル全体は乾いたところを渡り、ついに民全員がヨルダン川を渡り終えた。 と記されています。 このことの意味が7節に、 主はヨシュアに告げられた。「今日から全イスラエルの目の前で、わたしはあなたを大いなる者とする。わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを彼らが知るためである。」 と記されています。この時に、ヨルダン川で起こったことは、出エジプトの際に、「主」が紅海の水を分けて、イスラエルの民がそこを渡るようにしてくださったことに相当することです。4章23節に、 このことは、あなたがたの神、主が葦の海になさったこと、すなわち、私たちが渡り終えるまで、私たちのためにその海を涸らしてくださったのと同じである。 と記されているとおりです。 出エジプトの贖いの御業も、約束の地であるカナンに入れてくださる御業も、「主」がその一方的な愛と恵みによってアブラハムに与えてくださった契約に基づいてなされました。イスラエルの民はただそれにあずかっただけです。そして、その「主」の愛と恵みに信頼して、「主」とともに歩むことこそが、真のいのちの道であることを一貫して教えられてきました。そのことは、私たちが罪の奴隷の状態から贖い出していただいたことと、約束の地であるカナンの地の本体である、新しい天と新しい地に入れていただくことにも、そのまま当てはまります。 |
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