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説教日:2025年2月9日 |
ここで、 サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。 と言われていることを直訳調に訳すと、 あなたはサルディスに、その衣を汚さなかったという、わずかな名をもっている。 となります。 この「あなた」は「サルディスにある教会の御使い」のことです。また、すでにお話ししたようにこの「名」は「人」を表しています。―― 11章13節の「七千人」も同じように「七千人の名」です。 ここ3章4節で、 あなたはサルディスに、その衣を汚さなかったという、わずかな名をもっている。 と言われていることは、1節の直訳で、 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、生きているという名をもっている。しかし、あなたは死んでいる。 と言われていることと対比されます。 この1節と4節で「名」が用いられていることは、5節で、 またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない。わたしはその名を、わたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。 と言われていることとかかわっていると考えられます。このことについては、後ほど日を改めてお話しします。 4節で、その「わずかな」人々は、「その衣を汚さなかった」と言われています。また、その人々のことは、 彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。 と言われています。さらに5節では、 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。 と言われています。 このように、この4節ー5節で「衣」のことが出て来るのは、サルディスが毛織物や染色の産業が盛んであったこととかかわっていると考えられています。 この人々が「その衣を汚さなかった」と言われて、サルディスにある教会の大多数の人々と対比されていることは、サルディスにある教会の大多数の人々がその衣を汚してしまっていることを暗示しています。もちろん、その大多数の人々はサルディスの豊かさを享受して、社会的には、きちんとした服装をしていたと考えられます。それで、これは霊的な衣装のことです。 古い契約の時代には、聖所で主の御臨在の御前に近づいて仕えたのは祭司たちです。彼らはその際に、祭司の装束、「栄光と美を表す聖なる装束」を着なければなりませんでした。 出エジプト記28章1節ー4節には、 あなたは、イスラエルの子らの中から、あなたの兄弟アロンと、彼とともにいる彼の息子たちのナダブとアビフ、エルアザルとイタマルをあなたの近くに来させ、祭司としてわたしに仕えさせよ。また、あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表す聖なる装束を作れ。あなたは、わたしが知恵の霊を満たした、心に知恵ある者たちに告げて、彼らにアロンの装束を作らせなさい。 彼を聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるためである。彼らが作る装束は次のとおりである。胸当て、エポデ、青服、市松模様の長服、かぶり物、飾り帯。彼らは、あなたの兄弟アロンとその子らが、祭司としてわたしに仕えるために、 聖なる装束を作る。 と記されています。 ここでは、大祭司アロンとその子である祭司たちの装束のことが記されていると考えられます。ただ、ここでは、アロンの子孫の大祭司のための装束のことが記されているという見方もあります。しかし、そうであったとしても、レビ記8章などに記されていることから、大祭司の下で働いた祭司の装束はこれと変らないものであったことが分かります。 新しい契約の下では、私たちすべてが、イエス・キリストを大祭司とする主に仕える祭司です。 ペテロの手紙第一・2章5節には、 あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。 と記されていますし、9節にも、 しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。 と記されています。 このように、新しい契約の下にある主の民は、栄光のキリストを大祭司とする御国の祭司として、主の御臨在の御前で主を礼拝し、主に仕えています。このことは、もちろん、サルディスにある教会の人々にも当てはまることですし、当てはまるべきことです。 その際に、どのような「祭司の装束」(に当たるもの)を身につけるべきかということは、後ほどお話しします。ここでは、その前に一つのことに触れておきます。 黙示録3章4節で、サルディスにある教会の大多数の人々がその衣を汚してしまっていることが暗示されていることとのかかわりでは、広く、ゼカリヤ書3章1節ー4節に記されていることが注目されています。そこには、 主は、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアを私にお見せになった。サタンが彼を訴えようとしてその右手に立っていた。主はサタンに言われた。「サタンよ、主がおまえをとがめる。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめる。この者は、火から取り出した燃えさしではないか。」ヨシュアは汚れた服を着て、主の使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちにこう答えた。「彼の汚れた服を脱がせよ。」そしてヨシュアに言った。「見よ、わたしはあなたの咎を除いた。あなたに礼服を着せよう。」 と記されています。 ゼカリヤ書は、しばしば「旧約の福音書」と呼ばれています。ここにも、主の恵みとあわれみが示されています。 1章1節には、 ダレイオスの第二年、第八の月に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような主のことばがあった。 と記されています。このことから、この時、預言者ゼカリヤに「主のことばがあった」のは紀元前520年であることが分かります。この年は、バビロンの捕囚から帰還したユダヤ人たちがエルサレム神殿の再建に取り組みながら妨害にあって再建が中断していたけれども再建を再開し始めた年です。 3章では、その主の神殿で仕えるべき大祭司ヨシュアのことが記されています。 ここに出てくる「主の使い」は、この場合は、主のさばきを執行される方で、三位一体論的には、受肉される前の御子に当たる方のことです。 また「サタン」(ハサーターン)は、ここでは冠詞(ハ)がついていて、固有名詞の(冠詞がついていない)「サタン」(サーターン)とはなっていません。しかし、これは天的な存在で「訴える者」を表しており、実質的には「サタン」のことであると考えられます(この点は、ヨブ記1章ー2章に出てくる「サタン」も同じです)。 サタンは「主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアを」訴えようとしています。主の使いによるさばきの執行を求めているのです。 2節では、主が大祭司ヨシュアのことを、 この者は、火から取り出した燃えさしではないか。 と言っておられ、3節では、 ヨシュアは汚れた服を着て、主の使いの前に立っていた。 と言われています。 ここでヨシュアは大祭司として「火から取り出した燃えさし」、すなわち、「火」で表されているバビロンの捕囚から(取り出されて)帰還したユダヤ人(燃えさし)を代表的に表す者となっています。 そのユダヤ人たちは主に対して罪を犯し続け、ついには主のさばきを受けてバビロンへの捕囚となってしまいました。しかし、この時には、主の恵みとあわれみにより、その罪が赦されて、捕囚の地バビロンから帰還して、主の神殿を再建しようとしていました。 ですから、サタンがそのユダヤ人たちを代表する大祭司ヨシュアを、主のさばきを執行される主の使いに訴えても、ユダヤ人の罪は主の恵みによって赦されているので、その訴えは無効になっています。それでもなお訴えようとしているサタンに、主は、 サタンよ、主がおまえをとがめる。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめる。この者は、火から取り出した燃えさしではないか。 と言っておられます。 主は、そのユダヤ人の罪をを赦してくださっただけではありません。3節ー4節には、 ヨシュアは汚れた服を着て、主の使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちにこう答えた。「彼の汚れた服を脱がせよ。」そしてヨシュアに言った。「見よ、わたしはあなたの咎を除いた。あなたに礼服を着せよう。」 と記されています。 ユダヤ人を代表的に表わしている大祭司ヨシュアは「汚れた服を着て」いました。主はそのユダヤ人の罪を赦してくださったばかりではありません。さらに、その罪を聖めてくださり、再びヨシュアに大祭司の「礼服」、「栄光と美を表す聖なる装束」を着せてくださるというのです。 これは、主が、再び。ご自身の神殿の聖所にご臨在してくださり、その御前でヨシュアが大祭司として主に仕えるようになることを意味しています。ここでは示されていませんが、当然、大祭司ヨシュアの下で祭司たちも主に仕えるようになります。 これによって、ユダヤ人たちの間に主の栄光の御臨在があり、ユダヤ人たちは主の御臨在を中心として住まい、生きるようになります。 これはレビ記26章11節ー12節に、 わたしは、あなたがたのただ中にわたしの住まいを建てる。わたしの心は、あなたがたを嫌って退けたりはしない。わたしはあなたがたの間を歩み、[歩む。わたしは]あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 と記されている、主の契約の祝福が回復されることを意味しています。 このようにして、主の恵みとあわれみがさらに豊かに示されています。 この主の恵みとあわれみは、新しい契約の下でさらに豊かに溢れています。 先ほどお話ししたように、新しい契約の下にある私たちは、それぞれが栄光のキリストを大祭司とする御国の祭司として主を礼拝し、主に仕えています。 コリント人への手紙第二・3章4節ー9節には、 私たちはキリストによって、神の御前でこのような確信を抱いています。何かを、自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません。私たちの資格は神から与えられるものです。神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。 と記されています。 ここに記されていることについては、すでに色々な機会にお話ししてきましたので、簡単にお話ししますと、ここでは出エジプトの時代にイスラエルの民が、主がご臨在されるシナイ山に登っていったモーセの帰りが遅いと思って、シナイ山の麓で金の子牛を作って、これを主、ヤハウェであるとして、祭りを行ったときのことが記されています。 その時、シナイ山に登ったモーセは、主から、主がイスラエルの民の間にご臨在されるための聖所である幕屋とその器具を造ることと、そこで仕える祭司についての規定などを示され、最後に主の律法の要約である十戒を書き記した二枚の石の板を授けられました。 コリント人への手紙第二・3章7節に「石の上に刻まれた文字による、死に仕える務め」の「石」は、この十戒を記した石の板のことを指していて、「石の上に刻まれた文字」は主の律法を示しています。主の律法は堕落後の人の罪を明らかにして、その罪に対する刑罰としての死をもたらします(ローマ人への手紙3章19節ー20節)。モーセはその意味で「死に仕える務め」を果たしていました。 そして、金の子牛を作ったイスラエルの民は、十戒の第二戒を破って、滅ぶべき者になってしまいました。しかしモーセの繰り返しのとりなしによって滅びを免れたばかりか、主は、ご自身がイスラエルの民の間にご臨在されて、イスラエルの民を約束の地まで導いてくださると言われました。 そこでモーセは、この頑迷なイスラエルの民をなお滅ぼすことなく、約束の地に導いてくださるという主の栄光を見せていただきたいと願いました。 主は、モーセといえども、その主の栄光を直接的に見ることはできないが、その主の栄光が通り過ぎるとき主の御名による宣言を聞き、その主の栄光の御臨在の「後ろ」を見ると言われました。そして、実際に、そのことが実現しました。このような制限があったのは、古い契約の下では、動物のいけにえによる罪の儀式的な赦しはあっても、それは真の罪の赦しと聖めではないことによっています。 そのようにして、主の栄光の御臨在の御許からの宣言を聞き、主の栄光の御臨在の「後ろ」を見たモーセは、一時的に「顔の肌」が光を放っていました。しかし、それはやがて消え去ってしまう外面的な栄光でした。これが「モーセの顔にあった消え去る栄光」と言われています。13節では、モーセはこの、 消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。 と言われています。 古い契約の下で、これらのことは、モーセ一人に起こったことです。 これに対して、18節では、 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 と言われています。新しい契約の下にある私たちは、みな、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の完全な贖いと、死者の中からのよみがえりにあずかって、新しく生まれています。その私たちは、一時的に顔の肌が光るという外面的なことでなく、御霊によって、私たち自身が内側から「主と同じかたちに姿を変えられていきます」。 新約聖書の中では神である主の恵みによって、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、罪を贖われ、新しく生まれた人は、ふさわしい衣装をまとっていること、あるいは、まとわなければならないことが示されています。 それはその人の神の子どもとしての歩み、特に、神である主の栄光の御臨在の御許に住まい、その御前で主を神として礼拝しつつ、主とお互いへの愛のうちをに歩むために必要なことです。 ローマ人への手紙13章14節には、 主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。 と記されています。関連することがガラテヤ人への手紙3章27節には、 キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。 と記されています。 また、エペソ人への手紙4章22節ー24節には、 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。 と記されています。同様なことが、コロサイ人への手紙3章9節bー10節に、 あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。 と記されています。 黙示録3章18節には、 あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い・・・なさい。 と記されています。 天上におけることを記している4章4節には、 また、御座の周りには二十四の座があった。これらの座には、白い衣をまとい、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老たちが座っていた。 と記されています。さらに、6章11節には、天に帰った殉教者たちのことが、 彼ら一人ひとりに白い衣が与えられた。 と記されており、7章9節にも、 すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。 と記されています。 サルディスにある教会の大多数の人々も、悔い改めて、わずかに残されている人々とともに「白い衣」、霊的なまことの衣装を身に着ける必要がありました。 おそらく、これらのことの根底にあることは、いわゆる「変貌の山」で起こったことでしょう。 マタイの福音書17章1節ー2節には、 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。 と記されています(同じことは、マルコの福音書9章2節ー3節、ルカの福音書9章28節ー36節にも記されています)。 このことについては、日を改めてお話ししたいと思います。 |
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