黙示録講解

(第536回)


説教日:2025年1月12日
聖書箇所:ヨハネの黙示録3章1節ー6節
説教題:サルディスにある教会へのみことば(5)


  黙示録3章1節ー6節にはサルディスにある教会へのみことばが記されています。
 本主日は、すでにお話ししたサルディスにある教会の状況を、踏まえつつ、さらにお話を続けます。
 ローマの時代のサルディスは、毛織物や金細工の商工業が盛んであったと言われています。それで、そこにあった教会もその繁栄にあずかっていて、社会的には豊かな教会になっていたと考えられます。
 また、栄光のキリストのみことばには、このサルディスにある教会に、困難な問題があることを示すものは見られません。他の諸教会にあったような、貧困に苦しむことも、異端的な教えが外から入ってきたり、内から違った教えを説く者が現れたりして教会を荒らしたり、異教徒や、ユダヤ人共同体からの迫害によって苦しめられているということを示すものはありません。
 このようなことから、サルディスにある教会は自分たちには何の問題もなく、「生きている」という名をもっていると思っていました。しかし、栄光のキリストは、サルディスにある教会は「死んでいる」と言っておられます。そして、3節で、

だから、どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り、悔い改めなさい。目を覚まさないなら、わたしは盗人のように来る。わたしがいつあなたのところに来るか、あなたには決して分からない。

と言っておられます。
 主が「盗人のように来る」ことについては、新約聖書の他の個所では、栄光のキリストの再臨とのかかわりで、いくつかのことが示されています。それで、さまざまに栄光のキリストの再臨の日についての計算がされたことがあります。しかし、マタイの福音書24章36節で、イエス・キリストが、

ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

と教えておられます。イエス・キリストがこのように教えておられるのに、みことばに記されていることに基づいているとして、その日がいつなのかを割り出すことはできませんし、そのようなことをすることは主のみこころではありません。
 アウグスティヌスは、

最後の日が秘められているのは、毎日を目を覚ましておくるためである。毎日毎日を最後の日のような気持ちで過ごさなければならない。

と言ったといわれています(バークレー『ヨハネ黙示録』上、156頁)。
 また、繰り返し引用したテサロニケ人への手紙第一・5章3節ー11節には、私たちは「光の子ども、昼の子ども」なので、「その日が盗人のように」襲うことはないことが示されています。そして、これに続いて、私たちは、主の死にあずかって、いつも「主とともに生きる」者としていただいていること、それで、「信仰と愛の胸当てを着け」、「救いの望み」をもって、「互いに励まし合い、互いを高め合う」ようにと、戒められています。
 このような「目を覚ましている」状態での歩みには、さらに、対外的な面があると考えられます。
 アジアにある七つの教会には、外からの迫害、外からもたらされたり、内から生じた異端的な教えがもたらす混乱、貧しさなどによって苦しめられうめいている教会がいくつもありました。サルディスにある教会への栄光のキリストのみことばにはそのような問題が指摘されていません。そうであれば、なおのこと、それらの諸教会の苦しみや痛みを思いやり、とりなし祈りつつ、具体的な支えを考えていかなければならなかったことでしょう。
 ヨハネの手紙第一・3章16節ー17節には、

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。

と記されています。
 それでも、このことは、いわば、同じキリストのからだである教のうちにあることでもあります。


 そのことととともに、さらに、かつて私たち主の民がそうであった「この世、この時代」に属している人々とかかわる面があると考えられます。
 その根底にあることとして、ヨハネの福音書15章19節には、

もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 また、マタイの福音書5章10節ー12節には、

 義のために迫害されている者は幸いです。
 天の御国はその人たちのものだからです。
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 さらに、テモテへの手紙第二・3章12節には、

 キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。

というパウロの教えが記されています。また、ペテロの手紙第一・4章12節ー14節にも、

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

と記されています。
 ですから、造り主である神さまと、神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストとその贖いの御業を信じて、神であるの恵みとまことに満ちた栄光を映し出し、あかしする歩みをしているの民が、「この世、この時代」の流れの中で歩んでいる人々から、無視されたり、あざけられたり、憎まれたりなど、何らかの形で迫害を受けることは、当然のことです。そのことは、私たち主の民が「この世、この時代」に属する国から、「来たるべき世、来たるべき時代」に属する御子の御国、メシアの御国に移していただいていることの現れです。
 とはいえ、私たちは「主の祈り」において、

 私たちを試みにあわせないで、
 悪からお救いください。

と祈っています。それで、自ら好んで何らかの苦難や試練を受けることを求めることはいたしません。主の御手のお支えと導きに頼りつつ、さまざまな知恵を尽くして、それを避けるようにします。そうではあっても、主の契約の民が何らかの形で、「この世、この時代」の流れの中で歩んでいる人々からの迫害や苦しみを受けることは避けられないことです。
 そのことは、最初に神のかたちとして造られて、神さまがお造りになったこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられた人が、「蛇」を用いたサタンの誘惑を受けたことに見られるように、そこに霊的な戦いがあることとかかわっています。その霊的な戦いは、人に先立って神であるに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっていたサタンが、神さまが神のかたちとして造られている人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに示されているみこころの実現を阻止しようとしたものです。
 「この世、この時代」に属する人々の発想では、サタンや悪霊たちは人を不幸に陥れる存在です。しかし、サタンや悪霊たちにとって人は神であるに逆らうための単なる手段に過ぎません。
 サタンはもともと優れた御使いとして造られていたと考えられます。そうであっても、神であるの御前では、1介の被造物でしかありません。それで、サタンは、直接的に、神であるに逆らうことはできません。けれども、神のかたちとして造られて、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられている人を、神であるに対して罪を犯して、御前に堕落してしまうように誘惑することはできます。それによって、創造の御業において神のかたちとして造られている人に、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになった神さまのみこころの実現が阻止されるようになるためです。
 神のかたちとして造られている人に歴史と文化を造る使命をお委ねになった神さまのみこころは、神のかたちとして造られている人が、その神のかたちの本質である愛をもって、神であるを神として礼拝し、いっさいの栄光を神であるに帰することを中心とした歴史と文化を造り出すことにありました。それは、神のかたちとして造られている人の心に初めから記されている、神さまの律法が示している、

あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、を愛しなさい。

という重要な第一の戒め(申命記6章5節、マタイの福音書22章37節)と、

あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。

という第二の戒め(レビ記19章18節、マタイの福音書22章39節)にそって造り出される歴史と文化です。
 このように、神のかたちとして造られている人は、神であるへの愛と隣人への愛、さらに、生き物や植物へのいつくしみに満ちた歴史と文化、さらには、神さまがお造りになったすべてのものに現れている神さまの栄光を汲み取って讃えていく歴史と文化を造る使命を委ねられていました。
 サタンはこの神であるのみこころが実現することを阻止しようとしたのです。そして、このサタンの企ては成功したと思われました。
 しかし、神であるは、まず、創世記3章14節に記されている「蛇」の背後にいるサタンに対するさばきの宣告において、

 おまえは、このようなことをしたので、
 どんな家畜よりも、
 どんな野の生き物よりものろわれる。
 おまえは腹這いで動き回り、
 一生、ちりを食べることになる。

と言われました。
 これについては、今お話ししていることとかかわることだけをお話ししますと、この最後の、

 おまえは腹這いで動き回り、
 一生、ちりを食べることになる。

ということは、霊的な戦いにおいてサタンは、常に、敗北するということを伝えています。「ちりを食べる」ことが敗北を表すことは、ミカ書7章17節に、

 彼らは、蛇のように、
 地を這うもののように土をなめ、
 震えながら自分たちの洞穴から出て来ます。

と記されていることに見られます。その他、詩篇72篇9節、イザヤ書49章23節にも見られます。
 これは、この時には霊的な戦いにおける勝利を確信していたであろうサタンにとっては思いがけないことであったことでしょう。それは人はおろか、御使いやサタンにとっても直ちには理解できないことです。それがどのようなことなのかは15節に記されている、

 わたしは敵意を、おまえと女の間に、
 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。
 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。

という「最初の福音」に示されています。
 この「最初の福音」についてはすでに何度もお話ししていますが、要点をまとめておきます。
 まずここでは「敵意」(エーバー)ということばが最初に出てきて強調されています。罪によってサタンと結びついてしまっている人は、自分の意志と力によってその結びつきを断ち切ることはできません。しかし、神であるが、サタンと「女」、また、サタンの霊的な子孫と「女の子孫」の間に「敵意」を置いてくださって、その罪による結びつきを断ち切ってくださるというのです。この「子孫」は、単数形ですが集合名詞で、共同体を意味しています。これは、この霊的な戦いが歴史的に継続していくことを示しています。このことは、霊的な戦いにおいて「女」と「女の子孫」がサタンとその霊的な子孫の「敵」となり、神であるの側に立つようになることを意味しています。これが、「女」と「女の子孫」の救いを意味しています。
 聖書では共同体には、その「かしら」がいます。そして、サタンとその霊的な子孫の側には「かしら」がいます。それはサタンです。同じように、「女」と「女の子孫」の側にも「かしら」がいます。それは「女」ではなく「女の子孫」の中にいます。それが「彼」と言われてます。最終的には、サタンと「彼」の霊的な戦いとなります。
 大切なことは、この霊的な戦いは、神さまが創造の御業において示された、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちとして造られている人にお委ねになったことに示されているみこころの実現を、サタンが阻止しようとしたことによった始まったものであるということです。ですから、その神さまのみこころが実現しないことになったら、霊的な戦いにおいてはサタンが勝利することになります。言い換えると、「女」と「女の子孫」が造り主である神から委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことがなければ、霊的な戦いにおいてはサタンが勝利することになります。
 もちろん、サタンとその霊的な子孫は神であるのさばきによって滅ぼされます。そのことは、サタンや悪霊たちが罪を犯して堕落したときにサタンたちにも分かっていたことです。しかしサタンたちは、それが分かっていて、罪を悔い改めることはありません。それが、罪による堕落が徹底化している状態です。その状態を「絶対的堕落」と呼びます。
 その「絶対的堕落」の状態にあるサタンとその霊的な子孫にとってのすべてのことの動機と目的は、たとえ自らがさばかれ、滅ぼされることになっても、神であるに背くことであり、そのみこころの実現を阻止することにあります。
 「最初の福音」によって、神であるの新しいみこころが示されました。それで、サタンは「女」と「女の子孫」に敵対して働きます。それは、「女」と「女の子孫」が神であるから委ねられている歴史と文化を造る使命を果たさなくなることを目的としています。そのために、さまざまな形での誘惑や迫害をしますが、最後には、「女の子孫」、特に「女の子孫」の「かしら」として来られる方を亡き者にしようとします。
 もし、そのことが実現することになったら、サタンは2重の意味で神であるのみこころの実現を阻止することになります。一つは「最初の福音」に示されているみこころの実現の阻止であり、もう一つは、やはり、神のかたちとして造られている人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに示されているみこころの実現の阻止です。
 しかし、これらのサタンの目論見は実現しませんでした。「女の子孫」の「かしら」として来られた御子イエス・キリストが十字架の死によってご自身の民の罪をまったく贖ってくださり、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことへの報いとして、受肉のときの神のかたちとしての栄光より豊かな栄光によみがえられ、天に上り、父なる神さまの右の座に着座されたことによって、霊的な戦いの「D・デイ」の戦い(勝利を確実にする戦い)に勝利されました。この栄光のキリストは、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊を遣わされ、ご自身の民をこの御霊によって治めてくださっています。
 エペソ人への手紙2章4節ー6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されています。
 これは、父なる神さまが、栄光のキリストにあって、また御霊のお働きによって、私たち主の民になしてくださったことです。私たちはキリストとともに生かされ、キリストともによみがえり、キリストとともに天上に座する者とされました。それは、これまで、繰り返しお話ししてきましたように、御霊によって導かれて歩む私たちが「来たるべき時代、来たるべき世」(「新しい時代、新しい世」)の歴史と文化を造るようになるためです。これによって、創造の御業において示されていた神さまのみこころが実現するようになっているのです。その歴史は新しい天と新しい地の歴史へとつながっていきます(参照・コリント人への手紙第一・3章10節ー15節)。
 この「来たるべき時代、来たるべき世」を特徴づけ、動かしているのは栄光のキリストが遣わしてくださった御霊です。そして、「この時代、この世」を特徴づけ動かしているのは「御霊」と対比される「肉」です。

 このように、人が神であるに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことも、その後に与えられた「最初の福音」も、みことばが示している、神のかたちとして造られている人に与えられた歴史と文化を造る使命をめぐる霊的な戦いにかかわっています。それゆえに、その神さまのみこころの実現を阻止しようとするサタンとその霊的な子孫の働きがもたらす「女の子孫」であるの民への誘惑や迫害は避けられません。
 そのような状況にあって、この霊的な戦いは、血肉の力によって戦うものではありません。栄光のキリストが父なる神さまの右の座から遣わしてくださった御霊によって導かれて神の子どもとしての歩みを続けることによって戦います。
 私たちの主であり、御国の王であられるイエス・キリストが、マタイの福音書5章43節ー45節において、

「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。

と教えておられます。それで、主の民は「自分の敵を愛し」、「自分を迫害する者のために祈り」ます。
 パウロも、ローマ人への手紙12章17節ー21節において、

だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。
 「復讐はわたしのもの。
 わたしが報復する。」
主はそう言われます。次のようにも書かれています。
 「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、
 渇いているなら飲ませよ。
 なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に
 燃える炭火を積むことになるからだ。」
悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

と記しています。
 一つだけ注釈しますと、ここで、

 あなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになる

と言われていることの意味は、当時の人々には分かったことですが、私たちの間では見方が別れています。ひと頃は、の民の愛に基づく善意ある接し方によって、結果的に、その人に対するのさばきがより重くなるという理解がありました。しかし、そのような意味での「復讐」心を動機として愛を現すことは、ここの文脈には合わないと理解されてきていて、ここでは、その人が罪を自覚し、悔い改めるようになることを意味していると考えられています。
 主がなさる「復讐」「報復」は世間一般に考えられているような、恨みを晴らす「復讐」とは違います。これは主の義に基づく厳正なものですが、これには、神であると人々に対して罪を犯して、人を傷つけ人に害を与えていた人々を、悔い改めと信仰に導いて、霊的な戦いにおいて、神であるの側に立つ者に変えてくださることをも含まれます。パウロはそのようにしていただいた典型ですが、私たちもまさにそのようにして、の民としていただいています。私たちはそのような望みをもって、「自分の敵を愛し」、「自分を迫害する者のために祈り」ます。また、必ずしも、そのような結果にならなくても、霊的な戦いにおける戦い方の対外的な面は、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけ」、「善をもって悪に打ち勝つ」という戦い方です。
 サルディスある教会への栄光のキリストのみことばには、この世にあってはどうしても降りかかってくる、さまざまな形での迫害、異端的な教えがもたらす混乱、貧しさなどの問題があったことが示されていません。しかし、栄光のキリストはサルディスにある教会は「死んでいる」と言っておられます。
 それで、サルディスにある教会は、「この世、この時代」に迎合し、妥協して、実質的に、「来たるべき時代、来たるべき世」の歴史と文化ではなく、「この世、この時代」の歴史と文化を造りながら歩んでいたと考えられます。そうであれば、何らかの形での試練や迫害もなく、これらのみことばをとおして主が教えてくださっている主の民のあり方、歩み方も、サルディスにある教会の特質とはなっていなかったと考えられます。


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