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説教日:2024年12月8日 |
栄光のキリストは3節で、 どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り、悔い改めなさい。 と言っておられます。 ここに出てくる「受けた」と「聞いた」は、それぞれ別の、みことばの受け取り方を示していると考えられます。 「受けた」と言われているときの「受ける」ということば(ラムバノー)は、ことばとしては一般的な「受ける」「受け取る「捕まえる」などを意味していますが、ここでは、使徒たちの教えとして伝えられたことを受け取るということを意味していると考えられます。あるいは、エペソ人への手紙2章19節ー20節に、 あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。 と記されていることに合わせると、「キリスト・イエス」が啓示によって「使徒たちや預言者たち」に与えられた教えとして伝えられたことを受け取るということです。ここで「使徒たちや預言者たち」と言われているときの「預言者たち」は新しい契約の下で啓示を受け取った「預言者たち」のことです。[注] [注]ここでは「使徒たち」と「預言者たち」が(「冠詞・使徒たち・そして・預言者たち」というように)一つの冠詞で結ばれています。また、もし「預言者たち」が旧約の預言者たちであったら、「預言者たち」が「使徒たち」より前に出てきたことでしょう。さらに、同じエペソ人への手紙の4章11節には、 キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。 と言われていて、「使徒たち」と「預言者たち」(ともに複数形)が出てきます。 使徒であるパウロはコリント人への手紙第一・11章23節において、 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。 と記しており、15章3節ー5節では、 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。 と記しています。この場合の「聖書」は旧約聖書のことで、イエス・キリストの死とよみがえりが旧約聖書に預言されていたことの成就であることを意味しています。 また、ガラテヤ人への手紙1章11節ー12節では、 兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。 と記しています。 さらに、使徒の働き2章42節には、聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に、ペテロのあかしを聞いて受け入れて、洗礼を受けた「三千人ほど」の人々のことが、 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。 と記されています。これは新しい契約の下での最初の教会の誕生にあたり、この時にはまだ「預言者たち」の働きは、始まっていなくて記録されていません。この時代はまだ新しい契約の下での啓示が与えられている時代で、その啓示を「使徒たち」と「預言者たち」が受けていました。 私たちは新しい契約の下での啓示が終息している時代に生きていますので、私たちにとっては、この「使徒たち」と「預言者たち」から受けたものは新約聖書に記されているみことばです。 これが私たちにとって規範的なものであり、私たちはこの「使徒たち」と「預言者たち」から受けたみことばを変更したり、削除したり、付け加えることはできません。 神である主のみことばを変更することができないことが、申命記4章2節には、 私があなたがたに命じることばにつけ加えてはならない。また減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を守らなければならない。 と記されており、12章32節にも、 あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを守り行わなければならない。これにつけ加えたり減らしたりしてはならない。 と記されています。また、箴言30章6節にも、 神のことばに付け足しをしてはならない。 神があなたを責めて、 あなたが偽り者とされないために。 と記されています。 さらに、黙示録22章18節ー19節には、 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。 と記されています。 もう一つの、黙示録3章3節で「受けた」と「聞いた」と言われているときの「聞く」ということば(アクーオー)は、やはり、ことばとしては一般的な「聞く」ということを意味しています。ここでは、「使徒たち」と「預言者たち」から受けた主の啓示のみことばを、それぞれの教会の具体的な状況に適用して語られたことを聞くことです。そのために、先ほど引用したエペソ人への手紙4章11節に、 キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。 と記されていたように、「伝道者たち」「牧師また教師たち」が立てられています。[注] それで、私たちにとっては説教などでみことばの解き明かしを聞くことに当たります [注]「伝道者」、「牧師」、「教師」は、「使徒」、「預言者」と同じく複数形です。「牧師また教師たち」と訳されているのは(「冠詞・牧師・教師」というように)牧師と教師が一つの冠詞によって結ばれているからです。文法的には、これは、通常、この二つの名詞によって表されているものは、同一のものか、二つのものが概念的にひとまとまりのものです。 新約聖書は「教師たち」の存在を示しています。コリント人への手紙第一・12章28節には、 神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第3に教師たち・・・を備えてくださいました。 と記されています(そのほか、使徒の働き13章1節、ヤコブの手紙3章1節など)。それで、ここでは概念的に(この場合は、働きにおいて)ひとまとまりになっていることを示していると考えられます。つまり、牧師も教師も教えるという点で同じであるということです。 栄光のキリストはサルディスにある教会へのみことばにおいて、 どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り、悔い改めなさい。 と言っておられます。 サルディスにある教会の人々は、確かに、主が使徒たちと預言者たちをとおして啓示してくだったみことばを受けたのであり、それに基づいて語られたみことばの解き明かしを聞いたのです。しかし、それがいつの間にか、空しいことになってしまっていた、種まきのたとえで言えば、実を結ぶことがない状態になってしまっていたということでしょう。それで、栄光のキリストは、改めて、受けたこと、聞いたことを「思い起こし、それを守り、悔い改めなさい」と言っておられます。使徒たちと預言者たちが主から受けたみことばを受け取り、その解き明かしと自分たちに当てはまることを聞くだけで終わってしまい、それが実際に、生活の中で守られ、行われなければならないというのです。 これは、ヤコブの手紙1章22節ー25節に記されているみことばを思い起こさせます。そこには、 みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。 と記されています。 まず注意したいことは、ここに記されていることは、律法主義ではありません。律法主義とは、人は神さまの律法を守り行うことによって、義と認められて救われるという主張です。ここではそのようなことは言われていません。 ここに記されていることは、これに先立つ17節ー18節に、 すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。この父が私たちを、いわば被造物の初穂にするために、みこころのままに真理のことばをもって生んでくださいました。 と記されていることを踏まえています。 17節ー18節に記されているように、父なる神さまは、イエス・キリストにあって、御霊によってですが、私たちを「みこころのままに真理のことばをもって」新しく生まれさせてくださいました。それは、父なる神さまの一方的な愛と恵みによっています。私たちが神さまの律法を守って、よい行いをしたからではありません。 新しく生まれた私たちは罪の奴隷であった状態から贖い出されています。ローマ人への手紙8章1節ー2節に、 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。 と記されているとおりです。また、4節に、 それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。 と記されているとおり、私たちは救われているからということで神さまの律法を否定し、廃棄することはいたしません。そうではなく、 御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。 と言われているように、罪を贖われ救われて、罪の力から解放されている私たちは、御霊に導いていただいて、本来の意味と精神で、主の律法を守るようになります。 イエス・キリストも、マタイの福音書5章17節ー19節で、 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。 と教えておられます。 これは、マタイの福音書では、5章ー7章に記されている、いわゆる「山上の垂訓」/「山上の説教」と呼ばれる教えです。この教えでイエス・キリストは、旧約聖書に記されている律法の本来の意味と精神を明らかにしておられます。旧約聖書の「律法」(トーラー)は「モーセ五書」と呼ばれる創世記から申命記までの五つの書を意味しています。そこには律法の規定や命令だけが記されているのではなく、それらが与えられるようになった経緯や、目的や、その精神を明らかにするような出来事や、神である主の御業も記されています。イエス・キリストは神である主の律法の本来の意味や精神を明らかにしておられます。 私たちは、御霊に導いていただいて、このイエス・キリストが明らかにされた神である主の律法の本来の意味や精神にそって、主の律法を守るのです。 また、「律法」には罪の贖いにかかわる規定や教えも記されていますが、それらはやがて来たるべき「本体」を指し示す「地上的なひな型」でした。イエス・キリストはその「本体」でもあり、イエス・キリストはその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって。まことの贖いの御業を遂行してくださいました。 イエス・キリストはこの意味での「律法」に「預言者」を加えておられます。これは、ヘブル語の旧約聖書が「律法」、「預言者」、「諸書」(聖文書)という三つの区分の最初の二つに当たり、旧約聖書全体を意味しています。イエス・キリストはその旧約聖書全体を成就される方として来られたのです。 先ほど引用したヤコブの手紙1章22節ー25節に記されていることは、このようなイエス・キリストにある成就を踏まえています。その25節には、 自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。 と記されていました。 ここでは、神である主の律法のことが「自由をもたらす完全な律法」と言われています。神である主の律法は、本来、人を規則によって縛るものではなく、人の自由と深くかかわっています。そのことは、すでにお話ししていることですが、改めて、神である主の律法のことを考えてみましょう。 マタイの福音書22章35節ー40節には、 そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中でどの戒めが1番重要ですか。」イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」 と記されています。 ここで、イエス・キリストは律法を要約すると二つの重要な戒めになると教えておられます。その第一の戒めは、37節に記されている、 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 という戒めです。これは申命記6章5節に記されているみことばの引用ですが、そこでは「あなたの神、主」の「主」は契約の神である主、ヤハウェです。ですから、この戒めは人がすでに神である主との契約関係にあることを踏まえています。人がその主との契約関係に入れていただいたのは、主の一方的な愛と恵みによっています。 そして、これは、その契約関係のあり方の中心また本質が「あなたの神、主」を愛することであることを示しています。 また、重要な戒めの第二は、39節に記されている、 あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい という戒めです。 この二つの戒めは一つのことの表裏のように、区別されますが、切り離すことができません。ヨハネの手紙第一・4章20節ー21節に、 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。 と記されているとおりです。 さらに、神である主の律法と自由と愛の関係に関して注目したい教えがあります。 その一つは、ヨハネの手紙第一・4章18節に、 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。 と記されている教えです。 もし、私たちが神のさばきを恐れ、愛さないとさばかれるからという思いを動機として、兄弟を愛するとしたら、それは、自分がさばかれないようにと、自分を守るためのことです。 御子イエス・キリストは古い契約の下で「律法」(トーラー)において示され、約束されていた「地上的なひな型」である動物のいけにえの「本体」として、十字架にかかって、私たちのすべての罪に対する父なる神の聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって受けてくださいました。ですから、私たちは刑罰としてのさばきから贖い出されており、刑罰としてのさばきへの恐れから解放されて、自由にしていただいています。 ガラテヤ人への手紙5章1節には、 キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。 と記されています。 もう一つの教えは、ガラテヤ人への手紙5章13節ー14節に、 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。 と記されている教えです。 ガラテヤ人への手紙では、この後、16節に、 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。 と記されています。この教えとその前の13節ー14節に記されている教えとのつながりで見ると、私たちは御霊によって歩むことによって、真の自由にあってお互いに愛し合うようになることが分かります。また、私たちは御霊に導かれて、主を神として愛し主を礼拝するようになります。 このことは、ローマ人への手紙8章4節に記されている、 それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。 という教えとも重なります。 サルディスにある教会の人々は、イエス・キリストがその本来の意味と本質を明らかにされ、使徒たちと預言者たちに与えてくださった、新しい契約の下にある自由の律法を受けており、その解き明かしを聞いていました。しかし、それが生活の中で生かされていなかったようです。日々の生活の中で、御霊に導かれて、神である主とお互いへの愛に生きてはいなかったようです。 サルディスは社会的に繁栄していた町でした。教会もそうであったであろうと思われます。そうでありながらヨハネの手紙第一・3章16節ー18節に、 キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。 と記されているような問題があったのかも知れません。 先ほど引用したヤコブの手紙1章22節ー25節に続く、26節ー27節にも、 自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです。 と記されています。 前回お話ししたように、アジアにある七つの教会の中には、外からの迫害、貧しさなどによって苦しめられうめいている教会や、外からもたらされたり、内から生じた異端的な教えがもたらす混乱と戦っている教会がありました。サルディスにある教会は、そのような教会と主にあって結ばれています。それらの教会の苦しみを思いやり、ともにうめきつつ、とりなし祈る支援、また、社会的に豊かな教会としての支援などがなされていたのでしょうか。 |
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