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説教日:2024年11月10日 |
以上が、前回お話ししたことの復習ですが、このお話は、ここでは、イエス・キリストの再臨のことが取り上げられているということを踏まえています。 これに対して、ここで取り上げられているのは、終わりの日のイエス・キリストの再臨のことではなく、歴史の中での来臨、歴史の流れの中にイエス・キリストが直接的に介入されることを指しているという理解があります。その理由として、マウンスは、 というのは、終末的な来臨はサルディスにおける悔い改めしだいによってはいないからである。 と言っています(The Book of Reveiation, p.95)。つまり、この理解は、黙示録3章3節で 目を覚まさないなら、わたしは盗人のように来る。 と言われているときの「目を覚まさないなら」ということは、イエス・キリストの来臨の条件である、と理解しています。 もちろん、栄光のキリストの再臨は一つの教会の問題がどうなっているかということにはよっていません。しかし、ここでは、イエス・キリストの来臨の条件のことを言ってはいないと考えられます。 それをお話しするために、もう一度、先ほど引用したマルコの福音書とテサロニケ人への手紙第一を見てみましょう。 栄光のキリストの再臨の時がいつかについては、マルコの福音書13章32節ー33節で、イエス・キリストは、 その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。父だけが知っておられます。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。 と戒めておられます。また、テサロニケ人への手紙第一・5章4節ー6節には、 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。 と記されていました。 このどちらも、栄光のキリストが再臨されることが、私たちの生き方に深くかかわっていることを示しています。マルコの福音書13章では33節で、 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。 と言われていますし、テサロニケ人への手紙第一・5章では6節で、 ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。 言われており、さらにこの後の8節ー11節で「身を慎んで」いることが具体的にどのような生き方なのかが、 私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。 と説明されています。 サルディスにある教会について問題として取り上げられているのは、こののように「身を慎んで」、「目を覚まして」はいないことでした。 本来、私たち主の民は、テサロニケ人への手紙第一・5章4節ー6節に記されているように、「暗闇の中にいない」「光の子ども、昼の子ども」です。それで、栄光のキリストの再臨の「その日が盗人のように」主の民を襲うことはありません。 しかし、サルディスの教会の多くの人々は、栄光のキリストが、 目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。だから、どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り、悔い改めなさい。 と言われる状態にありました。テサロニケ人への手紙第一のことばで言えば、「ほかの者たちのように眠って」おり、「暗闇の中にいない」「光の子ども、昼の子ども」のようには歩んでいないで、「暗闇の中に」いるかのように、「光の子ども、昼の子ども」ではないかのように歩んでいたのです。 そのような状態にある限り、サルディスの教会の多くの人々にとっては、テサロニケ人への手紙第一・5章4節のことばで言えば、 その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。 ということではなく、「その日が盗人のようにあなたがたを襲う」ようになってしまいます。 また、黙示録3章3節で、 目を覚まさないなら、わたしは盗人のように来る。 と言われているときの「盗人のように来る」ということば、新約聖書の中では、栄光のキリストの再臨を示すことばです。 ただ、黙示録16章 15節に記されている、 ―― 見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩き回って、恥ずかしい姿を人々に見られることのないように、目を覚まして衣を着ている者は幸いである―― については議論の余地がありますが、これは、16章12節で、 第六の御使いが鉢の中身を大河ユーフラテスに注いだ。 と言われているときのことです。そして、次の第7の鉢の中身が注がれることが示しているのは、栄光のキリストによるさばきの執行のことです。 また、このことばは、汚れた霊たちが、「全世界の王たちのところに出て行」き、 ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる場所に王たちを集めた。 と言われている終末的な出来事が記されている16節の前に、いわばカッコの中に入れるようにして記されています。それで、これも終末的な出来事が起こることを想定していると考えられます。 黙示録3章3節に記されていることについて、佐竹 明氏は、 「あなたがたのところに」は、それが宇宙大の規模の最後の審判への来臨ではなく、歴史の流れの中での来臨であることを示している。 としています。 そして、そこに「盗人のように来る」ということがイエス・キリストの再臨とつながっていることを認めていて、 泥棒のたとえは「目を覚ませ」という勧告と結びついて初期キリスト教でしばしば用いられていた。このたとえは来臨が恐るべき事柄であることを示唆するものであるため、著者は、信仰に弛緩を来しているサルディスの教会の人々に対しての格好の警告と考えたのであろう。 と言っています(『ヨハネの黙示録』、上巻、178頁)。 しかし、このことばがここに出てくることについては、 その勧告と関連して述べられている警告にこの泥棒の比喩が出るのは、両者が結びついて出ることの多いことが著者の念頭にあったために過ぎない。換言すれば、泥棒のたとえはこの手紙の文脈に即しているとは言いがたい。 と述べています(179頁)。[注] けれども、私たちは黙示録の著者であるヨハネは、聖書を霊感された御霊に導かれて、まさに、ここにこの「盗人のように来る」ということばが、ふさわしいと考えて記していると考えています。 [注]佐竹氏は、いわゆる批評的な立場に立っておられ、聖書の霊感を信じているわけではありませんので、このように言っておられます。とはいえ、ここでは主の再臨にかかわることが語られてはいないと考えておられる方々で、福音派の方々もおられます。先ほどのマウンスもその一人です。それで、今お話しした理解の仕方だけが福音派の理解だということではありません。 * これには、もう一つのことがかかわっています。 そのことをお話しするために、実際には、すでに色々なこととのかかわりでお話ししていますが、「終末的なこと」と「終末論的なこと」の区別と関係を整理しておきます。 「終末的なこと」は世の終わりの時に起こることです。その中心にあるのは栄光のキリストが、創造の御業と贖いの御業の目的を完成してくださるために再臨されることです。その時、すべての死者はよみがえって、栄光のキリストは最後のさばを執行され、罪の下にある人々は罪への刑罰としてのさばきを受け、贖われた人々は永遠のいのちをもつ者となります。また、栄光のキリストは新しい天と新しい地を再創造されます。 テサロニケ人への手紙第二・2章3節ー8節には、 どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。 と記されています。 ここには、「主の日」すなわち栄光のキリストが再臨される日に先立って、「まず背教が起こり」、「不法の者、すなわち滅びの子が現れ」ることが示されています。これらのことも、また、広い意味での終わりの日に起こる「終末的なこと」であると考えられます。 これに対して「終末論的なこと」とは、今から2千年前に神の御子イエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださった贖いの御業に基礎を置いています。御子イエス・キリストは罪のない本来の人としての性質を取って来てくださり、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをすべて、私たちに代わって受けてくださいました。そして、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことへの報いとして、創造の御業において造られたときの神のかたちとしての栄光にまさる栄光にある状態へとよみがえってくださり、天に上り、父なる神さまの右の座に着座されましたいました。 その贖いの御業に基づいてお働きになる御霊が、私たちを栄光のキリストと結び合わせてくださり、私たちはキリストとともに古い自分に死んで、キリストとともに新しい自分によみがえり、天上において座するものとしていただいています。エペソ人への手紙2章4節ー6節に、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 と記されているとおりです。 それで、ピリピ人への手紙3章20節ー21節に、 しかし私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。 と記されているように、「私たちの国籍は天にあります」し、栄光のキリストが再臨されることを「待ち望んでいます」。 御子イエス・キリストが、2千年前に十字架におかかりになって、私たちが受けなければならない神さまの刑罰を私たちに代わって受けてくださったこと、また、私たちのために栄光を受けてよみがえってくださったことは、終わりの日に執行される刑罰としてのさばきと、終わりの日に起こるべき死者の復活が2千年前に起こったということです。 それによって、その後に始まる、御霊によって特徴づけられ、動かされている「新しい時代」、「来たるべき時代」が、原理的・実質的に、すでに始まっています。これは、肉によって特徴づけられ、動かされている「この世」、「この時代」と相容れない形で並行しています。かつて、生まれながらの私たちはこの流れに棹さしていました。しかし、私たちは、今、すでに、天上に座するものとしていただいており、国籍を天にもっていて、御霊に導かれて「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすものとなってます。これが「終末論的なこと」です。 今は、この「すでに」(実現していること)と「いまだ」(実現されていないこと)(already and not yet)がともにある時代です。 それで、「終末論的な」考え方は、私たちが今すでに、キリストとともに死んでおり、キリストとともによみがえっているとともに、天上に座する者、国籍を天にもっている者であることをみことばに基づいて理解し、それに基づいてすべてのことを考えていくことです。また「終末論的な」生き方は、もちろん、そのように考えることも生き方に含まれますが、御霊によって特徴づけられ、動かされている「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を、主を神として礼拝することを中心として、主とお互いへの愛のうちを歩むことによって、造っていくことですし、終わりの日に栄光のキリストが再臨されて、すべてを実現し、完成してくださることを待ち望む生き方です。 ここで、もう一つのことに触れておきます。 父なる神さまが御子イエス・キリストをとおし、御霊によってすべてを実現し、完成してくださることを待ち望むというとき、私たちは自分たちの救いの完成がすべてであるとか、それが中心だと考えがちです。 もちろん、私たちと主の民すべての救いの完成は、決定的に、大切なことです。それがなければ、ご自分の御子を遣わしてくださり、御子イエス・キリストの十字架の死によって私たち主の民の罪を完全に贖ってくださり、イエス・キリストのよみがえりによって、神の子どもたちを栄光へと導いてくださるという父なる神さまのご計画は完全には実現しないことになってしまいます。 しかし、それだけではないのです。 神さまは創造の御業において、この世界を歴史的な世界としてお造りになりました。そして、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになりました。 ところが、すでに神さまに対して罪を犯して、完全に堕落していたサタンとその軍勢である悪霊たちは、このことに表れている神さまのみこころが実現することを阻止するために、人を誘惑して神さまに対して罪を犯させ、御前に堕落させました。それによって、霊的な戦いが始まり、人はサタンと悪霊たちの側に立つようになりました。サタンからすれば、もはや、人がさばきを受けて滅ぼされるか、たとえ、何らかのことで歴史と文化を造るようになったとしても、神さまのみこころに従って歴史と文化を造ることはなくなり、霊的な戦いにおいては自分たちが勝利したと思ったはずです。もちろん、自分たちもさばかれて滅びるのですが、この霊的な戦いは自分たちの勝利に終わると考えていたということです。 しかし、その霊的な戦いの状況の中で、神である主は、「蛇」の背後にあって人を誘惑したサタンに対するさばきにおいて、創世記3章15節に、 わたしは敵意を、おまえと女の間に、 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。 彼はおまえの頭を打ち、 おまえは彼のかかとを打つ。 と記されている「最初の福音」を宣言されました。 つまり、福音は霊的な戦いの状況の中で、「蛇」の背後にいて働いていたサタンに対するさばきのことばとして、与えられているのです。このことは、聖書全体を貫いて示されています。黙示録でも一貫してそのことが踏まえられていますが、特に、12章でそのことに触れています。 すでに何回かお話ししているので、詳しい説明は省きますが、「最初の福音」では、神である主がサタンとその霊的な子孫と女と「女の子孫」の間に「敵意」を置いてくださって、霊的な戦いにおいて、女と「女の子孫」がサタンと敵対するようになると言われています。それは、女と「女の子孫」が、霊的な戦いにおいて、神である主の側に立つようになるということを意味しています。そのことが女と「女の子孫」の救いを意味しています。 大切なことは、これは歴史と文化を造る使命の実現をめぐる霊的な戦いの中にあっての救いです。ですから、もし、女と「女の子孫」が自分たちの救いだけを考えて、歴史と文化を造る使命を果たすことを忘れていれば、神さまが創造の御業において示されたみこころは実現しなくなり、やはり、霊的な戦いにおいてはサタンの勝利となってしまいます。 これ以来、サタンとその軍勢は、なおも、神さまが創造の御業において示されたみこころの実現を阻止しようとして働いています。女と「女の子孫」を苦しめたり、殺害しようとしたり、誘惑したりしてきました。それが歴史をとおして、さまざまな形たちでなされた迫害であったり、みことばの真理、福音を曲げたり、すべてのことをただ自分たち中心に考えたり、生きるように誘ってきたことでした。 言うまでもなく、サルディスにある教会の信徒たちも、この終末論的な「すでに」と「いまだ」という時代状況にあり、霊的な戦いの状況にあります。 すでにお話ししましたように、ローマの時代のサルディスは、「3世紀にわたって繁栄を続けた。毛織物や金細工などの商工業が特に盛んであった」と言われています。それで、そこにあった教会も社会的にはその繁栄にあずかっていたと考えられます。また、栄光のキリストのみことばには、このサルディスにある教会に、困難な問題が外から加えられていることを示すものは見られません。異端的な教えが入ってきて教会を荒らしたり、異教徒や、アジア州において最も大きく重要だったものの一つと言われているサルディスのユダヤ人共同体からの迫害によって、信徒たちが苦しめられているということを示すものもありません。また、パウロがエペソにある教会の長老たちに警告している、自らのうちから「いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくる」(使徒の働き20章30節)というよなことも見られません。 このようなことから、サルディスにある教会は自分たちには何の問題もなく、「生きている」という名をもっていると思っていたのではないでしょうか。しかし、イエス・キリストは、サルディスにある教会は「死んでいる」と言っておられます。 サルディスにある教会は、自分たちのうちに問題がないと感じているがために、かえって、霊的な戦いの状況にあって、さまざまな迫害や、異端的な教えがもたらす混乱や貧しさなど問題に苦しめられ、うめきながら、なお主が来臨されることを待ち望んで、主のみこころのうちを歩み続ける主の民の歩みができていなかったのではないかと思われます。 サルディスにある教会の問題については、色々な見方があります。どれだと断定することはできませんし、いくつかのことが重なっている可能性もあります。私としては、それらの見方とともに、考えていることがあります。 アジアにある七つの教会には、迫害や、異端的な教えがもたらす混乱や、貧しさなどによって苦しめられうめいている教会がいくつもありました。サルディスにある教会は、それらの教会と主にあって一つであるはずです。当時の教会も、限られた通信手段の中で、お互いの状態を分かち合っていたことは、みことばから汲み取ることができます。もし、それらの教会の苦しみや痛みを思いやり、豊かなものとして支援し、ともにうめきながら、それらの教会のために、主にとりなしていたなら、主が来てくださることを、心から待ち望んでいたのではなかったでしょうか。 |
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