黙示録講解

(第533回)


説教日:2024年10月13日
聖書箇所:ヨハネの黙示録3章1節ー6節
説教題:サルディスにある教会へのみことば(2)


  黙示録3章1節ー6節にはサルディスにある教会へのみことばが記されています。
 前回は、ここに記されていることが、この町の歴史と関わっていると考えられるということから、サルディスとその歴史についてお話ししました。
 サルディスは、もともと、トモロス山の尾根にある難攻不落の城砦の町でした。
 やがて、町が発展していくと、小さな台地にあった城砦の町では狭くなり、人々は麓のヘルモス川の南の支流であるパクトロス川の両岸に町を造るようになりました。上の城砦は、戦争の時などの避難場所にもなっていました。
 サルディスの近隣には金があって、サルディスの富は膨大なものとなっていました。
 このように、サルディスの上の城砦は難攻不落でしたので、人々は油断して、外敵に対する警戒を怠っていました。それで、前546年に、ペルシアの王キュロスがそこを包囲した時に陥落しました。
 このサルディスの陥落は、「油断してはいけない」という教訓を生み出しています。それで、サルディスの人々は、それが自分たちの歴史において起こったこととして、記憶に留めていたはずです。
 しかし、その後も、サルディスの城砦は、その難攻不落の要塞の力を頼み、守備隊を配置することを怠ったために、再び、前214年に、セレウコス朝のアンティオコス三世による1年にわたる包囲の後、攻め落とされました。
 ローマの時代のサルディスは、かつての栄華・栄光は失われていましたが、「3世紀にわたって繁栄を続けた。毛織物や金細工などの商工業が特に盛んであった」と言われています。
 前回は、このようなことを踏まえて、1節ー3節に記されていることについて、特に、語っておられる栄光のキリストが、

 神の七つの御霊と七つの星を持つ方

として、ご自身を表しておられることについてお話ししました。
 今日は、続いて、

わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。だから、どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り、悔い改めなさい。目を覚まさないなら、わたしは盗人のように来る。わたしがいつあなたのところに来るか、あなたには決して分からない。

と記されていることについて、もう少しお話しします。


 栄光のキリストは、まず、

わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。

と言われました。この「わたしはあなたの行いを知っている」と言われていることに当たることは、アジアにある七つの教会のそれぞれに語られているので、それを見てみましょう。
 エペソにある教会には、

 わたしは、あなたの行い、あなたの労苦と忍耐を知っている。

と言われており、スミルナにある教会には、

 わたしは、あなたの苦難と貧しさを知っている。

と言われています。ペルガモンにある教会には、

 わたしは、あなたが住んでいるところを知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの確かな証人アンティパスが、サタンが住むあなたがたのところで殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。

と言われています。ティアティラにある教会には、

わたしは、あなたの行い、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている。また、初めの行いにまさる、近ごろの行いも知っている。

と言われています。この後、サルディスにある教会へのみことばがあり、それに続いて、フィラデルフィアにある教会には、

わたしはあなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。

と言われています。そして、ラオデキアにある教会には、

わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。

と言われています。
 これをまとめると、サルディスにある教会とラオデキアにある教会へのみことば以外では、まず、称賛に価することが語られています。そして、スミルナにある教会とフィラデルフィアにある教会以外は、その後で、それらの教会にある問題が指摘されています。しかし、さらにその後で、なおも称賛に価することがあることが語られることもあります。
 サルディスにある教会には、

わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。

と言われており、最初に語られる称讃のことばがなく、いきなり問題が指摘されています。そして、その後の4節以下に、それでもなおそこには、

 わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。

と言われています。
 ここで、

 あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。

と言われていることばを直訳調に訳すと、

あなたは、生きている、という名をもっている。しかし、あなたは死んでいる。

となります。
 このような少し回りくどいと思われる言い方には意味があるのではないかと考えられます。
 一つには、前回お話ししたように、サルディスはかつてはリディアの首都として栄えた都市でした。金が豊かに産出してその富は膨大なもので、リディアの最後の王クロイソスのことに触れる「クロイソスのように富んでいる」という言い方が残っているほどです。サルディスにはそのような歴史があって、その栄華・栄光は後の世代にも覚えられていて、一つの誇りとなっていたと考えられます。
 先ほどお話ししたように、ローマの時代のサルディスは、かつての栄華・栄光は失われていましたが、「3世紀にわたって繁栄を続けた。毛織物や金細工などの商工業が特に盛んであった」と言われています。このような栄華・栄光の歴史と、この時もなお盛んであった商工業を背景として、サルディスにある教会は「生きている」という「名をもっている」と言われていると考えられます。
 それが意味しているのは、サルディスにある教会の信徒たちが、自分たちこそは「生きている」と呼ばれるのにふさわしいと思っていたということか、他の諸教会の信徒たちの間で、サルディスにある教会は「生きている」教会という「名声」が広がっていたということか、あるいは、その両方であったと考えられます。
 しかし、栄光のキリストの御前では、サルディスにある教会は「死んでいる」のでした。
 もう一つのことですが、この「名」(オノマ)ということばは、この後、4節に、

 しかし、サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。

と記されていることに出てきます。それを、直訳調に訳すと、かなりぎこちなくなりますが、

しかし、あなたは、サルディスに、わずかだが、その衣を汚さなかった、という名をもっている。

となります。[注]

[注]「名」(オノマ)ということばが「人」を意味しているのは、黙示録に特有なことで、その他では(私が調べた限りですが)11章13節の「この地震のために七千人が死んだ」の「七千人」の直訳「七千の人の名」に出てくるだけです。

 これは、サルディスにある教会へのみことばの最後である5節に、

勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない。わたしはその名を、わたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。

と記されているみことばの後半に、

またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない。わたしはその名を、わたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。

と約束されていることに、「彼の名」(直訳)が2度も出てくることに対応していると考えられます。

           *
 栄光のキリストのサルディスにある教会へのみことばでは、

 あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。

と言われています。
 まず、再確認しておきたいのは、1節で、栄光のキリストはご自身のことを「神の七つの御霊と七つの星を持つ方」として示しておられるということです。
 「神の七つの御霊」は、御霊のお働きが完全であることを示していて、「死んでいる」状態にあるサルディスにある教会をも「生きている」状態に変えてくださることがおできになることを示しています。また、「神の七つの御霊」はこの被造物世界の限界を越えた方で、時間や空間に縛られてはいません。時間や空間を超えて、いつの時代のどこにあっても、「神の七つの御霊」はキリストのからだである教会と主の民の一人一人とともにいて、それぞれを生かしてくださいます。
 「七つの星」は「七つの教会の御使いたち」のことです。ここで「御使いたち」が出て来るのは、地上にあって迫害にさらされたり、悔い暖めるべきことがあっても、なおも、キリストのからだである教会として、かしらである栄光のキリストがおられる天に属していることを象徴的に表していると考えられます。
 それで、栄光のキリストが「神の七つの御霊と七つの星を持つ方」として示されているのは、栄光のキリストが「神の七つの御霊」によって、それぞれの教会を天に属している教会として生かし、守り、導いてくださっていることを意味しています。
 このことが示されてから、

 あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。

と言われていることに続いて、この後に記されている警告の根底には、栄光のキリストを信じ、信頼するようにという招きがあることを汲み取ることができます。
 もう一つ注目したいのですが、この3章1節ー6節に記されていることには、他の諸教会に見られるようないくつかの困難な問題が外から加えられていることを示すものは見られません。異端的な教えが入ってきて教会を荒らしたり、異教徒や、アジア州において最も大きく重要だったものの一つと言われているサルディスのユダヤ人共同体からの迫害によって、信徒たちが苦しめられているということを示すものもありません。また、商工業が盛んで繁栄していたサルディスにあったということからでしょう、教会や信徒たちが貧しくて、貧困にあえいでいるということも示されていません。
 それでは何が問題であったのかということになりますが、それについては、色々な見方があります。しかし、それは、栄光のキリストが与えておられる警告から汲み取る他はないと考えています。

 2節ー3節には、

目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。だから、どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り、悔い改めなさい。目を覚まさないなら、わたしは盗人のように来る。わたしがいつあなたのところに来るか、あなたには決して分からない。

と記されています。
 ここでは、目を覚ますようにとの戒めが最初と最後の部分にあって強調されています。[注]

[注]構文上はAーBーAという構造になっています。

 これは、先ほど、前回の復習としてお話ししたサルディスの歴史を思い起こさせる警告です。
 城砦としてのサルディスが難攻不落の要塞であったので、人々は油断をしてしまい、その守備を怠っていました。そのために、前546年に、ペルシアの王キュロスによって攻め落とされてしまいました。それでもなお、時の経過の中で、人々は、いつの間にか歴史に学ぶことを忘れ、油断して守備を怠っていたために、332年後の前214年に、セレウコス朝のアンティオコス三世によって攻め落とされてしまいました。
 ここで、

 目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。

と言われている人も、直訳調では「目を覚ましている状態になりなさい」と言われていますので、油断している人々への警告としての戒めの対象になっています。その意味で、このように戒められている人々は、4節で、

しかし、サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らがそれにふさわしい者たちだからである。

と言われている「わずか」な人々とは区別されます。

 この「目を覚ます」(グレーゴレオー)ということばは、単純に、目が覚めていることを表すこともありますが、ここでは、油断なく警戒している、見張っていることを表しています。このことばは新約聖書の中では、しばしば、栄光のキリストの再臨を覚えて、霊的に目を覚ましていることを表すために用いられています。
 たとえば、マタイの福音書24章には弟子たちの質問に答えて、イエス・キリストが終わりの日について語られた教えが記されています。その終わりの部分を導入する36節には、

ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

と記されており、続いて、ノアの時代に起こった大洪水によるさばきをのことが語られてから、42節ー44節では、

ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。次のことは知っておきなさい。泥棒が夜の何時に来るかを知っていたら、家の主人は目を覚ましているでしょうし、自分の家に穴を開けられることはないでしょう。ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。

と戒められています。これと同様な教えは、マルコの福音書13章35節ー37節、ルカの福音書12章36節ー38節などに記されています。
 これは取りようによっては、栄光のキリストが、突然、再臨されると、不意をつかれたようになって、さばかれるから目を覚ましていないといけないというような、一種の「脅し」になってしまいます。
 しかし、みことばは私たちに主の再臨ことを、決して「脅し」のようには教えていません。そのことを考えるために、テサロニケ人への手紙第一・5章1節ー11節を見てみましよう。
 そこでパウロは、

兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。

と記しています。
 2節ー3節では、

主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。

と言われています。これは歴史の流れの中で「人々が『平和だ、安全だ』と言っているとき」に「突然の破滅が彼らを襲います」ということで、終わりの日の栄光のキリストの再臨を否定する人々のことを述べています。
 けれども、続く4節ー6節では、

しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。

と言われています。
 ここでは、栄光のキリストの再臨を待ち望んでいる主の民は「光の子ども、昼の子ども」であり、その私たちにとっては「その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません」と言われています。その日はむしろ待ち望んでいる方が来てくださる日なのです。
 そして、その方の来臨を待ち望んでいる「光の子ども、昼の子ども」の歩み方は「目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きる」ことであり、互いに愛し合い、「互いに励まし合い、互いを高め合」うことだと教えられています。それは、特別なことではなく、「現に行っているとおり」と言われているように、主の民、信仰の家族にとっては当然の生き方です。それは、御霊に導かれて歩む歩みであり、それによって、主の律法の要約である、

あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

という重要な戒めと、

 あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。

という第二の戒めを全うすることになります。ガラテヤ人への手紙5章13節に、

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

と記されているとおりです。

 同じことは、イエス・キリストの復活と終わりの日のことが教えられているコリント人への手紙第一・15章に記されていることからも汲み取ることができます。
 その中の32節後半ー34節前半では、

もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。惑わされてはいけません。「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。神について無知な人たちがいます

と教えられています。
 私たちは死者がよみがえり、栄光のキリストが再び来られる終わりの日にそれを私たちの現実としてくださることを信じています。それで、私たちは「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」という生き方をしません。
 その栄光のキリストが再び来られる終わりの日は、私たちにとっては刑罰としてのさばきの日ではありません。私たちの罪に対するさばきはすでにイエス・キリストの十字架の死において執行されており、私たちの罪はまったく贖われています。その日は、私たちの復活の日です。
 その日には、ヨハネの手紙第一・3章2節に、

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

と記されていることが、私たちの現実になります。
 ヨハネはこれに続いて3節で、

キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。

と記しています。
 私たちの罪はすでにイエス・キリストの十字架において贖われていますし、1章9節に、

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

と記されているように、私たちは日々にきよめられています。それで、ヨハネは私たちに、さばきを恐れることなく、愛にあって歩むようにと教えています。
 4章18節ー19節には、

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

と記されています。
 主の刑罰としてのさばきを恐れて兄弟姉妹を愛するというのは、自分がさばかれないためのことで、兄弟姉妹を愛することはその手段になってしまいます。それは、自分を守るためであって、真に兄弟姉妹を愛することではありません。私たちが愛するのは、「神がまず私たちを愛してくださったからです」。
 7節ー11節には、

 愛する者たち。
 私たちは互いに愛し合いましょう。
 愛は神から出ているのです。
 愛がある者はみな神から生まれ、
 神を知っています。
 愛のない者は神を知りません。
 神は愛だからです。
 神はそのひとり子を世に遣わし、
 その方によって
 私たちにいのちを得させてくださいました。
 それによって
 神の愛が私たちに示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、
 神が私たちを愛し、
 私たちの罪のために、
 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。
 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

と記されています。
 地上にいて歩む私たちの歩みにおいては、この私たちの愛にさえも罪の陰がかかっています。しかし、終わりの日には、私たちの神である主への愛とお互いへの愛は曇りのない、まったきものとなります。私たちはその希望にあって歩んでいます。
 サルディスにある教会においては、このような神の子ども、光の子どもとしての歩みが何らかの形で、実質的に、失われてしまっていたのではないかと考えられます。


【メッセージ】のリストに戻る

「黙示録講解」
(第532回)へ戻る

「黙示録講解」
(第534回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church