黙示録講解

(第530回)


説教日:2024年7月14日
聖書箇所:(ヨハネの黙示録2章18節ー29節)出エジプト記34章28節ー35節<
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(283)


 本主日も、黙示録2章28節に記されている、イエス・キリストの約束のみことばと関連することとして、神であるに対するの契約の民の不信仰がもたらした絶望的な状態にあって、なお、の主権的で一方的な恵みが示されたことについてのお話を続けます。
 今は、出エジプト記32章ー34章に記されている、イスラエルの民が、がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を造ってこれをとして礼拝した時のことについてお話ししています。
 今日は、先月お話ししたことを補足することをお話ししたいと思います。
 まず、いつもお話ししているこの時に起こったことの再確認をしておきます。
 このことは、十戒の第二戒に背くことですが、同時に、が遣わされたモーセとアロンに逆らい続けてきたイスラエルの民の不信仰が極みまで現されたことを意味しています。
 それでは、モーセにこの民を絶ち滅ぼし、モーセから新しい民を興されると告げられました。この時、イスラエルの民は、確かに、の聖なる御臨在の御許から絶ち滅ぼされるべきものとなってしまったのです。
 しかし、モーセが二度にわたってイスラエルの民のためにとりなした時、はそれをを受け入れてくださり、この民を絶ち滅ぼすことはしないと約束してくださいました。
 さらには、モーセに、モーセとイスラエルの民が約束の地に上って行くように命じられました。けれどもは、

しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。

と言われました。
 この時も、モーセは二度にわたって、イスラエルの民のためににとりなしました。はモーセのとりなしを受け入れてくださって、ご自身がイスラエルの民とともに約束の地まで行ってくださるということを約束してくださいました。
 これを受けて、モーセはに、

 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

と願いました。
 このときモーセがに「見せてください」と願ったの栄光は、そのような「うなじを固くする民」であることを極みまで現したイスラエルの民を、なおも、途中で絶ち滅ぼすことなく、ともに約束の地まで上って行ってくださる栄光です。そして、はそのモーセの願いを受け入れてくださいました。
 モーセがの戒めにしたがってシナイ山に登ると、はそこにご臨在されて、、ヤハウェの御名によって宣言をしてくださいました。それは、出エジプト記34章6節ー7節に記されているように、

ヤハウェ。ヤハウェ。(主。主。)あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

というもの(私の訳)でした。
 、ヤハウェが、この御名による宣言に示されているように、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。

であられるので、その栄光のご臨在がともにあっても、「うなじを固くする」イスラエルの民も御前から絶ち滅ぼされることなく、約束の地まで導かれていくことができたのです。


 これに続く出エジプト記34章29節ー35節には、

それから、モーセはシナイ山から下りて来た。モーセが山を下りて来たとき、その手に二枚のさとしの板を持っていた。モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。アロンと、イスラエルの子らはみなモーセを見た。なんと、彼の顔の肌は輝きを放っていた。それで彼らは彼に近づくのを恐れた。モーセが彼らを呼び寄せると、アロンと、会衆の上に立つ族長はみな彼のところに戻って来た。モーセは彼らに話しかけた。それから、イスラエルの子らはみな近寄って来た。彼はがシナイ山で告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。モーセは彼らと語り終えると、顔に覆いを掛けた。モーセが主と語るためにの前に行くとき、彼はその覆いを外に出て来るまで外していた。外に出て来ると、命じられたことをイスラエルの子らに告げた。イスラエルの子らがモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は輝きを放っていた。モーセは、主と語るために入って行くまで、自分の顔に再び覆いを掛けるのを常としていた。

と記されています。
 ここには、モーセの「顔の肌が輝きを放っていた」ことが記されています。そして、それは、モーセがシナイ山の頂において「主と話した」からであると言われています。
 このことをとおして、、ヤハウェが、

ヤハウェ。ヤハウェ。(主。主。)あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

という御名の宣言とともに示してくださった栄光は、より豊かな「恵みとまことに」満ちた栄光であることを示しておられます。より具体的には、その「恵みとまことに」満ちた栄光は、その豊かな栄光の御臨在に接するご自身の契約の民の罪を贖い、赦してくださるばかりか、その民自身を栄光ある者に造り変えてくださるものであるということです。ですから、の契約の民は、「恵みとまことに」満ちた栄光のとの交わりにあって、の語りかけを聞きくことによって、の「恵みとまことに」満ちた栄光を映し出すような者に造り変えられるのです。
 この時モーセは、シナイ山の頂にご臨在された、ヤハウェの栄光に直接的には触れてはいません。モーセはの栄光が通り過ぎるまで「岩の裂け目」に覆われていました。そして、の栄光が通り過ぎた後に、その「残光」として示された栄光に触れただけでした。けれども、このような形であったとしても、の栄光に触れ、の語りかけを聞いたモーセの「顔の肌は輝きを」放つようになっていました。。モーセは、そのような意味での「恵みとまことに」満ちた栄光のの御臨在に接しました。これは、古い契約の下で与えられた契約の神である、ヤハウェの「恵みとまことに」満ちた栄光の啓示の頂点の一つです。

 このことが新しい契約の時代においては、ただ単に「顔の肌は輝きを」放つという、一時的で外面的なことではなく、の「恵みとまことに」満ちた栄光が、それに接する私たち自身を内側から、根本的に造り変えるということが示されています。
 そのことは、前回お話ししました、コリント人への手紙第二・3章18節に、

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです

と記されています。
 古い契約の時代においてはモーセ一人のことでしたが、私たちは「みな」例外なく、内側からきよめていただき、の「恵みとまことに」満ちた栄光を映し出す者に造り変えていただいています。これは、「御霊なる主の働きによる」ことです。このことは、古い契約の下にあって、やがて来るべきものの「ひな型」、「地上的なひな型」に仕えていたモーセの「顔の肌は輝きを放っていた」ことが指し示していたことが、私たちの間で実現しているということを意味しています。
 ただし、このことは、私たちの地上の歩みにおいては、完全に実現することはありません。私たちは「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられてい」きつつあるという、過程の中にあります。これを神学的に言うと「聖化」の段階にあるということになります。
 その「聖化」の完成は「栄光化」(「栄化」)で、終わりの日に栄光のであるイエス・キリストが再臨される時に実現します。ヨハネの手紙第一・3章2節に、

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

と記されているとおりです。
 このようなことが私たちの現実となるということは、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業が、御霊によって、私たちそれぞれに当てはめられることによっています。
 このことの根底には、今から2千年前に、神の御子であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられるイエス・キリストが、私たちの外で、客観的に、私たちのために、十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったという。歴史的な事実があります。これを神学的な用語では「ヒストリア・サルティス」[救いの(御業の)歴史、あるいは、贖いの(御業)の歴史]と呼びます。
 そして、この御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりという。歴史的で客観的に成し遂げられている贖いの御業に基づいてお働きになっている御霊が、その贖いの御業を、私たちそれぞれに当てはめてくださっています。これによって、私たちそれぞれが、御霊によって、イエス・キリストと一つとされて、キリストにあって、古い自分に死んで、新しく生まれ、今は、栄光を受けてよみがえられた御子イエス・キリストに似た者に造り変えられており、育てていただいているのです。この、私たちそれぞれに対して御霊がなしていてくださるお働きを、神学的な用語で「オルド・サルティス」(救いの順序、あるいは、救いの秩序)と呼びます。
 このように、私たちそれぞれが、

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです

と記されているように、御霊のお働きによって、栄光の「主と同じかたちに姿を変えられて」いきます(オルド・サルティス)。
 そして、このことの根底には、御子イエス・キリストが、今から2千年前に、人としての性質を取って来てくださったという歴史的、客観的な事実があります(従って、これも、ヒストリア・サルティスにおけることです)。
 このことについては、(すでに引用したことがあります)ヨハネの福音書1章14節に、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と記されています。
 すでにお話ししたことですが、ここで、

この方は恵みとまことに満ちておられた。

と訳されているのは、「満ちている」ということば(プレーレース)が男性形の形容詞であることと、その前にある「栄光」ということば(ドクサ)が女性名詞であることによっています(「この方」ということばはありません)。しかし、この「満ちている」ということば(プレーレース)は不変化詞で、男性名詞、女性名詞、中性名詞のどれをも修飾できます。そして、ここでは、この前にこの方の「栄光」のことが語られているので、この部分は、

私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光であり、恵みとまことに満ちていた。

と訳した方がよいと考えられます。ただ、どちらの訳でも、実質的には、同じことになります。その方が「恵みとまことに満ちていた」のであれば、そこ方の栄光も「恵みとまことに満ちていた」ことになります。あるいは、その方の栄光が「恵みとまことに満ちていた」のであれば、そこ方も「恵みとまことに満ちていた」ことになります。

 このこととのかかわりで、特に、心に留めたいのは、人となって来てくださった神の御子イエス・キリストは「恵みとまことに満ちた」栄光の主であられたし、あられるということです。この、「恵みとまことに満ちた」栄光ということは、今お話ししている、出エジプト記32章ー34章に記されている出来事を受けています。
 繰り返しになりますが、あの時、それまでへの不信を繰り返してきたイスラエルの民が、ついには、金の子牛を作って、これを出エジプトの贖いの御業を遂行してくださったであるとして拝み、滅ぼされるべきものとなってしまいました。しかし、モーセがその「うなじを固くする民」であるイスラエルの民のためにとりなした後、がそれでもなお、その「うなじを固くする民」であるイスラエルの民とともに約束の地に上って行ってくださると言ってくださったことを受けて、モーセが、さらに、

 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

に願ったことを受けて、が、

ヤハウェ。ヤハウェ。(主。主。)あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。

という、ご自身の御名のさらなる啓示を与えてくださいました。
 ヨハネの福音書1章14節で、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光であり、恵みとまことに満ちていた。

と言われていることは、このことを受けています。
 それで、この「恵みとまことに満ちた」栄光のであられる、御子イエス・キリスは、古い契約の下にあったモーセに示された、神であるの御名の宣言に示された、古い契約の下での「恵みとまことに満ちた」栄光のの御臨在が指し示していたことが、私たちの間で成就していることを示しています。
 モーセが依って立っていた古い契約の下では、罪の贖いのために動物が備えられていました。しかし、動物はそのいのちの価値からしても、神のかたちとしての栄光と尊厳を与えられている人の身代わりになることはできません。そのことは、古い契約の下にあっでも認められていたことです(サムエル記第一・15章22節、詩篇40篇6節、51篇16節ー17節、イザヤ書1章10節ー17節、ミカ書6章6節ー11節など)。罪の贖いのための動物は、古い契約の下での「地上的なひな型」で、やがて来たるべきまことの贖い主を指し示すための備えでした。
 そして、「恵みとまことに満ちた」栄光のであられる御子イエス・キリストが、そのいけにえの動物が指し示していた「本体」でした。それで、「恵みとまことに満ちた」栄光のであられる御子イエス・キリストは、私たちの身代わりとなって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰をすべて受けてくださり、十字架の上で罪の贖いのための血を流して死んでくださいました。
 それによって、私たちの罪はすべて贖われていて、私たちは罪の結果である死と滅びから救い出されています。
 そればかりでなく、まことの人としてのイエス・キリストは、その十字架の死に至るまでの生涯において、父なる神さまのみこころに従いとおされたことへの報いとして、人としての性質において、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。
 そのことによって、私たちの民それぞれのための贖いの御業は成し遂げられました。これは、神であるの救いの御業(贖いの御業)の、客観的で、歴史的な事実です。
 それで、その贖い御業に基づいてお働きになる御霊が、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いを私たちそれぞれに当てはめてくださっています。
 この御霊は、イエス・キリストが十字架の上で流された血によって、私たちの罪をまったく贖ってくださり、私たちを罪からきよめてくださいます。そして、イエス・キリストの復活のいのちによって私たちを新しく生かしてくださいました。
 それによって、私たちはイエス・キリストを父なる神さまが遣わしてくださった贖い主として信じ、信頼することができるようになりました。この「新しく生まれること」「新生」が「信仰」に先立っているということが私たちリフォームドの理解です。言い換えると、新しく生まれていなければ、信じることはできない(参照・ヨハネの福音書3章3節、コリント人への手紙第一・2章11節ー12節、12章3節)ということです。さらに、神ご自身の子どもとして、神の家族に加えてくださり、長子であられる御子イエス・キリストに似た者に造り変えてくださっています。これが、「オルド・サルティス」におけることで、御子イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった救いの御業[(贖いの御業)、ヒストリア・サルティス]を、私たちそれぞれに当てはめてくださる御霊のお働きです。もちろん、その完成、完全な実現も御霊の私たちに対するお働きによること(オルド・サルティス)です。ただし、栄光のキリストが再臨されることは歴史的で客観的なこと(ヒストリア・サルティス)です。
 これらすべてのことは、父なる神の永遠からのみこころによることでした。
 エペソ人への手紙1章3節ー6節には、

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と記されており、ローマ人への手紙8章29節には、

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

と記されています。

 人としての性質を取って来てくださった御子イエス・キリストは、「恵みとまことに満ちた」栄光のとして、私たちそれぞれのうちに、御霊によって、ご臨在してくださっています。
 ローマ人への手紙8章9節ー10節には、

もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。

と記されています。
 ここから分かることは、「神の御霊」が住んでくださることは、「キリストの御霊」をもつことであり、「キリスト」が私たちのうちにおられることです。
 また、コリント人への手紙第一・6章19節には、

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。この場合の「宮」(ナオス)は、古い契約の下にあった建物としての神殿の聖所を意味していて、そこの神である主の御臨在がありました。

と記されています。
 この場合の「」(ナオス)は、古い契約の下にあった建物としての神殿の「聖所」を意味していて、そこに神である主の御臨在がありました。それが、御子イエス・キリストの血による新しい契約の下では、私たちそれぞれの「からだ」であると言われています。
 これらは、私たちそれぞれに対してなされる御霊のお働きですが、さらに、ヨハネの福音書2章19節ー21節には、

イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。

と記されています。
 ここでは、栄光を受けてよみがえられたイエス・キリストのからだが「神殿」(ナオス)であると言われています。
 また、コリント人への手紙第一・3章16節には、

あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。

と記されています。
 この訳では分かりにくいのですが、ここでは「自分が」「であり」(エステ)、「自分の」(フミン)は複数形で、「」(ナオス)は単数形です。このように、ここでは、私たちが一つの「」(ナオス「神殿」)を形成していることが示されていると考えられます。それで、この「」(ナオス「神殿」)は、キリストのからだである教会のことです。
 このことは、また、エペソ人への手紙1章23節に、

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

と言われていることにも示されています。
 ここで、「すべてのものをすべてのもので満たす方」は栄光を受けてよみがえられたイエス・キリストのことです。この方が、御霊によって、ご自身のからだである教会にご臨在しておられるのです。
 私たちは、キリストにあって、御霊によって、このような豊かな意味において、一時的にではなく、常に、「恵みとまことに満ちた」栄光のであられる御子イエス・キリストの御臨在に接していますし、その御声を、みことばをとおして、聞いています。


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