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説教日:2024年8月11日 |
まず、この主、ヤハウェという御名について、これまでお話ししたことをまとめておきます。 この御名は神さまの固有名詞としての御名ですが、これが最初に示されたことは、出エジプト記3章13節ー15節に記されています。 ここでは神さま御名は、14節に記されている、 わたしは「わたしはある」という者である。 というみことばによって示されています。このみことば全体が神さまの御名です。これが14節後半で「わたしはある」に省略され、さらに、15節で3人称化されて「ヤハウェ」になっています。 この、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名は、神さまが存在される方であることを強調するものです。これによって、神さまこそが真に存在される方であることが示されていると考えられます。この意味合いは、 エゴー・エイミ・ホ・オーン という、七十人訳にも反映しています。 神さまは何ものにも依存されず、ご自身で存在しておられ、初めもなく終わりもなく、永遠に存在しておられる方であるということです。 もちろん、この方が、造られたこの世界のすべてのものを、創造の御業によって存在させた方であり、真実に、一つ一つを支えておられる方です。それで、この方は、造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方、すなわち、聖なる方です。 また、この御名については、それが啓示された時の状況に照らして、この御名の意味合いを理解する必要があります。 この御名は、神さまがイスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださるために、モーセを遣わしてくださるに当たって啓示してくださったものです。その際に、6節に記されているように、神さまは、まず、 わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。 と言われて、ご自身をモーセに示してくださいました。 これは、神さまがアブラハムに契約を与えてくださり、その契約に基づいて、アブラハムの神となってくださったこと、アブラハムとその子孫を通して地上のすべての国民が祝福を受けるようになることを約束してくださったこと、そして、実際に、その契約をその子イサク、さらにその子ヤコブへと受け継がせてくださり、その契約に基づいて、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるイスラエルの民をかえりみてくださっていることを示しています。 このように、ここでは、神さまが、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名の方として、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約に基づいて、出エジプトの贖いの御業を遂行してくださるということを意味しています。それが、3章15節に、 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。 と記されている、神のみことばに示されています。 このようなことを踏まえると、この34章6節ー7節に記されている、主、ヤハウェの御名の宣言は、先にエジプトに遣わしてくださるためにモーセを召してくださった時に示してくださった、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名の新しい意味を明らかにしてくださるものでした。 「新しい」といっても、主が変わられたのではありません。それまで人には隠されていた主、ヤハウェの御名の意味が、さらに、新しく啓示されたということです。主は、その御名が意味するとおり、永遠に変わることなく、このような方であられます。 それで、この主、ヤハウェの御名の宣言によって示されたこと、すなわち、主、ヤハウェが、 あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。 であられるということは、この時にだけ、すなわち、イスラエルの民がシナイ山の麓で金の子牛を作って、これを主、ヤハウェと呼んで礼拝してしまったことだけに意味をもっているのではありません。主がこのようなお方であられることが、今日の私たちをも含めて、主の民の歴史の全体に対して意味をもっており、特に、主の民が自らの罪のどん底に陥ってしまった時に、最後の拠り所となるという意味をもっています。贖いの御業の歴史を通して主の民は、主、ヤハウェが、 あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。 であられるということに支えられ続けてきたのです。 ここで、この主、ヤハウェの御名の宣言において示されたことが主の民の歴史の全体を支えていることを示すものを、みことばの中からいくつか見てみましょう。 民数記13章ー14章には、イスラエルの民が、主が導き入れようとしてくださっている約束の地に、不信仰のために恐れて、入ろうとしなかったことが記されています。その時の経緯は省略しますが、14章2節ー4節には、その前に約束の地を探るために遣わされた、「部族ごとに一人ずつ」の「族長」(13章2節)からなる偵察隊の報告を聞いた、 イスラエルの子らはみな、モーセとアロンに不平を言った。全会衆は彼らに言った。「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。なぜ主は、われわれをこの地に導いて来て、剣に倒れるようにされるのか。妻や子どもは、かすめ奪われてしまう。エジプトに帰るほうが、われわれにとって良くはないか。」そして互いに言った。「さあ、われわれは、かしらを一人立ててエジプトに帰ろう。」 と記されています。 ここでも、彼らは、主が悪意をもって自分たちをここまで導いてこられたと言ったのです。それで、11節ー12節に記されているように、主はモーセに、 この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じようとしないのか。わたしは彼らを疫病で打ち、ゆずりの地を剥奪する。しかし、わたしはあなたを彼らよりも強く大いなる国民にする。 と言われました。 その時、モーセはイスラエルの民のためにとりなしました。そのとりなしの祈りの中でモーセが言ったことばが、民数記14章17節ー19節に、 どうか今、わが主の大きな力を現わしてください。あなたは次のように約束されました。「主は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす。」と。あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。 と記されています。 これは、出エジプト記34章6節ー7節に記されている主の御名の宣言に触れるものです。 主は、このモーセのとりなしを受け入れてくださって、イスラエルの民の歴史が途絶えないようにしてくださいました。ただし、この不信を極めたイスラエルの民の第一世代(この時に20歳以上の者たち)は、主を信じたヨシュアとカレブを除いて、すべて荒野で死に絶えて、約束の地に入ることができませんでした。これは、 罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす。 というみことばに示されている、聖なる主を侮り続ける者にたいする主の義によるさばきを思わせます。 また、バビロンへの捕囚から約束の地へ帰還した後のことを記しているネヘミヤ記9章には、何人かのレビ人(5節にその名が記されています)による、主への讃美と主の数々の御業の告白とともに、先祖たちの罪と主の一方的な恵みとあわれみの告白が記されています。その中で出エジプトの時代に起こったことにも触れられています。 17節ー19節前半には、 彼らは聞き従うことを拒み、 彼らの間で行われた奇しいみわざを思い出さず、 かえってうなじを固くし、かしらを立てて、 逆らって奴隷の身に戻ろうとしました。 それにもかかわらず、あなたは赦しの神であり、 情け深く、あわれみ深く、 怒るのに遅く、恵み豊かであられ、 彼らをお捨てになりませんでした。 彼らが自分たちのために鋳物の子牛を造り、 『これが、あなたをエジプトから導き上った あなたの神だ』と言って、 ひどい侮辱を加えたときでさえ、 あなたは大きなあわれみをかけ、 彼らを荒野に見捨てられませんでした。 と記されています。 これは、民数記13章ー14章に記されていることと、出エジプト記32章ー34章に記されていることに触れるものです。そのどちらにおいても、主、ヤハウェが「赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く、怒るのに遅く、恵み豊かであられ」ることが明らかにされていました。 9章のその他の個所では、同様の告白が31節にも出てきますが、それ以外では、「あわれみ」(28節)あるいは「大いなるあわれみ」(27節)と「恵み」(32節)あるいは「大いなる恵み」(25節)、「大きな恵み」(35節)が別々に出てくるだけです。 このことから、また、出エジプトの贖いの御業と「第二の出エジプト」[注]とも言われる、バビロンへの捕囚から約束の地への帰還が対応していることからも、バビロンへの捕囚から約束の地への帰還が、主、ヤハウェが「赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く、怒るのに遅く、恵み豊かであられ」ることによっているとの思いを汲み取ることができます。 [注]「第三の出エジプト」あるいは「最終的な出エジプト」は、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いです。 以上は、出エジプトの贖いの御業と捕囚から約束の地への帰還にかかわる、特殊なことですが、詩篇の中から、より一般的なあかしを見てみましょう。 86篇14節ー16節には、 神よ 高ぶる者どもは私に向かい立ち 横暴な者の群れが私のいのちを求めます。 彼らは あなたを前にしていません。 しかし主よ あなたはあわれみ深く 情け深い神。 怒るのに遅く 恵みとまことに富んでおられます。 御顔を私に向け 私をあわれんでください。 あなたのしもべに御力を与え あなたのはしための子をお救いください。 と記されています。 15節に記されている、 しかし主よ あなたはあわれみ深く 情け深い神。 怒るのに遅く 恵みとまことに富んでおられます。 という告白は、出エジプト記34章6節ー7節に記されている、契約の神である主、ヤハウェの御名の宣言に触れるものです。 これは、出エジプト記に記されていることとは違い、特に自らの罪のために生み出された苦難のことを述べているのではありません。むしろ、1節ー2節に、 主よ 耳を傾けて 私に答えてください。 私は苦しみ 貧しいのです。 私のたましいをお守りください。 私は神を恐れる者です。 あなたのしもべをお救いください。 あなたは私の神。 私はあなたに信頼します。 と記されているように、この詩人は、神を恐れ、信頼して歩んでいるがゆえに、苦しみを受けていることが分かります。 それは、私たち新しい契約の下にある神の子どもたちにも当てはまります。ヨハネの福音書15章18節ー19節には、 世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。 というイエス・キリストの教えが記されています。 そのように主を恐れ、主のみこころに従って歩むときに受ける苦しみの中にある主の民にとっては、主ご自身が、 あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。 であられることが拠り所となります。 ここで、注意したいことは、この詩人は、自分が契約の神である主のみこころに従って歩んでいるということ、すなわち、自分の良さや業績を根拠として主の助けと救いを求めているわけではないということです。どうしてそうなのかと言いますと、この詩人だけでなく、私たちすべてが主のみこころに従って歩むことができたということさえも、主が、 あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。 として、真実に私たちを支えてくださっているからに他ならないからです。そのうえ、私たちが主のみこころに従っているといっても、そこには、常に、私たち自身の罪が影を落としており、それも主の御前には完全なものではありません。それで、私たち自身や私たちから出たものを根拠として、主のあわれみを求めることはできません。ただ、主が、 あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。 であられることだけが、どのような場合においても、私たち主の民の拠り所であるのです。 次に、詩篇103篇8節ー14節を見てみましょう。 8節には、 主は あわれみ深く 情け深い。 怒るのに遅く 恵み豊かである。 と記されています。これは、出エジプト記34章6節ー7節に記されています、主、ヤハウェが、 あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。 であるという、主の御名の宣言に触れるものです。そして、これに続く9節ー13節には、 主は いつまでも争ってはおられない。 とこしえに 怒ってはおられない。 私たちの罪にしたがって 私たちを扱うことをせず 私たちの咎にしたがって 私たちに報いをされることもない。 天が地上はるかに高いように御恵みは主を恐れる者の上に大きい。 東が西から遠く離れているように 主は 私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。 父がその子をあわれむように 主は ご自分を恐れる者をあわれまれる。 と記されていて、主がご自身の民の罪をお赦しになることが告白されています。 この場合は、出エジプト記32章ー34章に記されているような特定の罪のことが問題になっているわけではありません。むしろ、より一般的な意味で、主の民が自らのうちに罪を宿す者であり、罪を犯す者であるのに対して、主は恵みとあわれみをもって、ご自身の民を取り扱ってくださることが告白されています。 さらに、14節には、 主は 私たちの成り立ちを知り 私たちが土のちりにすぎないことを 心に留めてくださる。 と記されており、主は、ご自身の民がもともとちりから取られたものとしての弱さをもっているということをご存知でいてくださって、あわれみをもって接してくださることが告白されています。 この8節ー14節では、主、ヤハウェの恵みとあわれみが告白されていますが、この恵みとあわれみは「主を恐れる者」に向けられていることが、11節と13節で示されています。 「主を恐れる」ということは、いたずらに主を恐がることではありません。「主を恐れる」とは、主の契約の民、主の一方的な恵みによって主との契約のうちに入れていただいている主の民が、契約の主を恐れることです。ですから、それは、主が、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名の方として、「永遠に在る方」、「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」であられることをわきまえること、すなわち、主の聖さにをわきまえること、そして、そのような方として、ご自身の契約に対して真実であられることを信じることから始まります。そして、今お話ししていることとの関わりで言いうと、主、ヤハウェが「永遠に在る方」、「独立自存で在る方」、「永遠に変わることなく在る方」として、いつでも、どこででも、 あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す方。しかし、この方はさばかないままにしないで、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に報いる。 方であられることを、主の御名の宣言にしたがって信じて、このような恵みとまことに満ちた栄光の主を信頼することです。 そのような意味で「主を恐れる者」に対して、主は、その御名の宣言のとおりに、恵みとあわれみをもって接してくださいます。 最後に、詩篇145篇8節ー13節を見てみましょう。 そこには、 主は情け深く あわれみ深く 怒るのに遅く 恵みに富んでおられます。 主はすべてのものにいつくしみ深く そのあわれみは 造られたすべてのものの上にあります。 主よ あなたが造られたすべてのものは あなたに感謝し あなたにある敬虔な者たちは あなたをほめたたえます。 彼らはあなたの王国の栄光を告げ あなたの大能のわざを語ります。 こうして人の子らに 主の大能のわざと 主の王国の輝かしい栄光を知らせます。 あなたの王国は 永遠にわたる王国。 あなたの統治は 代々限りなく続きます。 と記されています。 ここには、「あなたの王国」(11節、13節)「主の王国」(12節)が出てきます。主が贖いの御業によって確立されるようになる永遠の御国のことが告白されているのです。 その主権は「造られたすべてのもの」に及び、そのことへの感謝と讃美をするものの中心に、主「にある敬虔な者たち」があります。 また、その感謝され、讃美されていることの中心に、8節に記されている、 主は情け深く あわれみ深く 怒るのに遅く 恵みに富んでおられます。 という告白があります。 ですから、 主は情け深く あわれみ深く 怒るのに遅く 恵みに富んでおられます。 ということが、創造の御業と贖いの御業をとおして確立される壮大な主の御国が、とこしえに確立されることの基礎にあるのです。 それが、イエス・キリストの血による新しい契約の下では、このことが私たちの現実になっています。そのことの基礎になっているのは、やはり、これまで繰り返し触れてきました、ヨハネの福音書1章14節に、 私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光であり、恵みとまことに満ちていた。 (部分的に、私の訳)と記されている、御子イエス・キリストの受肉があります。 この受肉された御子イエス・キリストが十字架の死による罪の贖いを成し遂げられ、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられ、天に上り、父なる神さまの右の座に着座されたことによって、そして、そこから約束の聖霊を遣わしてくださったことによって、この、主の御国―― 「御国」は、基本的に、「王が支配すること」を意味しています―― が、原理的・実質的に、私たちの間の現実なっています。 その完全な実現は新しい天と新しい地においてです。 私たちが、やがて、新しい天と新しい地を受け継ぐようになり、その歴史と文化を造るようになるのも、 主は情け深く あわれみ深く 怒るのに遅く 恵みに富んでおられます。 ということによっています。 |
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