黙示録講解

(第528回)


説教日:2024年5月12日
聖書箇所:(ヨハネの黙示録2章18節ー29節)出エジプト記34章1節ー8節
説教題:ティアティラにある教会へのみことば(281)


 本主日も、黙示録2章28節後半に記されている、

 勝利を得る者には、わたしは明けの明星を与える。

という、イエス・キリストの約束のみことばと関連することとして、神であるに対するの契約の民の不信仰がもたらした絶望的な状態にあって、なお、の主権的で一方的な恵みが示されたことについてのお話を続けます。
 これまで、いくつかの事例についてお話ししてきて、今は、出エジプト記32章ー34章に記されている、イスラエルの民が、がご臨在されるシナイ山の麓において、金の子牛を造ってこれをとして礼拝した時のことについてお話ししています。
 これは、十戒の第二戒に背くことですが、同時に、が遣わされたモーセとアロンに逆らい続けてきたイスラエルの民の不信仰が極みまで現されたことを意味しています。
 それでは、モーセにこの民を絶ち滅ぼし、モーセから新しい民を興されると告げられました。この時、イスラエルの民は、確かに、の聖なる御臨在の御許から絶ち滅ぼされるべきものとなってしまったのです。
 しかし、モーセが2度にわたってイスラエルの民のためにとりなした時、はそれをを受け入れてくださり、この民を絶ち滅ぼすことはしないと約束してくださいました。
 さらには、モーセに、モーセとイスラエルの民が約束の地に上って行くように命じられました。けれどもは、

しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。

と言われました。
 この時も、モーセは2度にわたってイスラエルの民のためににとりなしました。はモーセのとりなしを受け入れてくださって、ご自身がイスラエルの民とともに約束の地まで行ってくださるということを約束してくださいました。
 これを受けて、モーセはに、

 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

と願いました。
 このときモーセがに「見せてください」と願ったの栄光は、そのような「うなじを固くする民」であることを極みまで現したイスラエルの民を、なおも、途中で絶ち滅ぼすことなく、ともに約束の地まで上って行ってくださる栄光です。
 これらのことを受けて記されている34章1節ー8節には、

はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。だれも、あなたと一緒に登ってはならない。また、だれも、山のどこにも人影があってはならない。また、羊でも牛でも、その山のふもとで草を食べていてはならない。」そこで、モーセは前のものと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、が命じられたとおりにシナイ山に登った。彼は手に二枚の石の板を持っていた。は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、の名を宣言された。は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。

と記されています。
 これまで3回にわたって、5節ー7節において、が「雲の中にあって」そこにご臨在されて「の名を宣言された」と言われている、御名についお話ししています。それは、すでにお話ししている私の理解に基づく訳に従っていますが、

(ヤハウェ、ヤハウェ)。あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す方。しかし、この方は罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる。

というものです。
 これは、モーセがに、

 どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

と願ったことを受けて、が「の名を宣言された」ものです。それで、このが宣言された御名は、がご自身の御声をもって語られた十戒の第二戒に背いて「うなじを固くする民」であることを極みまで現して、絶ち滅ぼされるべきものとなってしまったイスラエルの民を、なおも、途中で絶ち滅ぼすことなく、ともに約束の地まで上って行ってくださるというの栄光を示すものです。
 ここでが宣言された御名は、十戒の第二戒の、

あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

ということばと対比される形で示されています。
 それで、前回は、この時にがその栄光の御臨在の中から語られた、

(ヤハウェ、ヤハウェ)。あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す方。しかし、この方は罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる。

という御名の宣言を、十戒の第二戒との対比で見てみました。
 今日は、その補足をすることをお話しします。


 十戒の第二戒においては、

 あなたの神、であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

と言われていて、まず、

 あなたの神、であるわたしは、ねたみの神。

と言われています。
 これに対して、この34章6節ー7節のの御名による宣言では、

(ヤハウェ、ヤハウェ)。あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、

と言われています。
 そして、十戒の第二戒では、

わたしを憎む者には父の咎を子に報い、

という威嚇あるいは警告のことばが先に来ていますが、34章6節ー7節のの御名による宣言では、それが後に来ています。
 けれども、34章6節ー7節に記されている御名による宣言は、ただ単に十戒の第二戒にあるみことばの順序をひっくり返しただけのものではありません。それをひっくり返しただけであれば、

わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施し、わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼす

となります、
 これでは、この時のイスラエルの民には望みはありませんでした。なぜなら、ここでは、はご自身を愛して、その命令を守る者に「恵みを千代にまで施し」てくださると言われているからです。そして、イスラエルの民はこの時、を愛しての命令を守る者であるどころか、の命令の中でも最も重大な命令の一つに背いてしまった状態にあるからです。
 これに対して、34章6節ー7節に記されているの御名による宣言では、はイスラエルの民には何の要求もなさらないで、ご自身が「あわれみ深く、情け深い神」であり、「怒るのに遅く」あり、「恵みとまことに富」んでいること、そして「恵みを千代まで保」たれる方であること、さらには「咎と背きと罪を赦す方」であることを示してくださいました。
 ここでは、のあわれみと恵みが積み上げられるようにして示されています。まず、が「あわれみ深く、情け深い神」であることが示されています。その上に、が「「怒るのに遅く」あり、「恵みとまことに富」んでいるということが示され、さらに、「恵みを千代まで保」たれる方であることが示されています。そして、さらにその上に「咎と背きと罪を赦す方」であることが積み上げられるようにして示されています。
 このように見ますと、ここでは、があわれみと恵みに満ちた方であるということが、最終的に、「咎と背きと罪を赦す方」であることに行き着くことが分かります。
 これは、この時、イスラエルの民ががご臨在されるシナイ山の麓で金の子牛を作って、それを契約の神である、ヤハウェであるとして拝み、十戒の第二戒に背いての聖さを冒したことを受けています。は、このようなイスラエルの民の罪を赦してくださる方であることを示してくださるために、

あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、

というように、ご自身があわれみと恵みに満ちた方であることを積み上げるようにして示してこられました。そして、そのことに基づいて、ご自身が「咎と背きと罪を赦す方」であることをお示しになりました。
 さらに、その土台のように据えられたの御名による宣言のことばにおいては、「恵み」が2度繰り返されています。しかも、それは、

あわれみ深く、情け深い神、怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、

というように、積み上げられるように語られたことばの最後に出てきていますので、が「咎と背きと罪」を赦してくださることの最終的な土台のような位置にあります。

 ここで「恵み」と訳されていることばはヘブル語では「ヘセド」です。この「ヘセド」ということばは、神と人や、人同士など、人格間の関係にかかわる恵み、あわれみ、親切、善意、好意などを表すことばです。聖書の中では、神が人に示してくださっている恵み、あわれみ、親切、善意、好意などを表す場合の方が多いと言われています。
 この「恵み」(ヘセド)がの契約とどのように関係しているかをめぐっては議論がなされ、別れてきました。この「恵み」(ヘセド)はの契約に基づくものなのか、それとも、の契約に先だって考えられる、ご自身の属性から出ているものなのかという議論です。それぞれに言い分がありますが、この2つの見方は矛盾するものではありません。
 それで、私は真実はこの2つの見方を総合したところにあるのではないかと考えています。つまり、この「恵み」(ヘセド)は、ご自身の愛の属性から出ているものであるけれども、それはの契約の中で表現されるものであるということです。
 この「恵み」(ヘセド)が神の愛という属性から出ていることは確かなことです。それとともに、神と神のかたちに造られている人の関係が初めから契約関係であるということからすれば、この「恵み」(ヘセド)が人に示されるのは、神の契約を通してであるということになります。
 このような意味で、この「恵み」(ヘセド)はの契約に基づいて、私たちに示されている恵みです。

 わたしは「わたしはある。」という者である。

という御名の、ヤハウェは永遠に変わることがない方であり、その契約は永遠に堅く立っています。それで、の「恵み」(ヘセド)も永遠に変わることがありません。そのことが、は「恵みを千代まで保」たれる方であるということに表されています。

 この「恵み」(ヘセド)ということばが用いられている個所の一つを見てみましょう。
 イザヤ書54章7節ー10節には、

  わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てたが、
 大いなるあわれみをもって、あなたを集める。
 怒りがあふれて、少しの間、
 わたしは、顔をあなたから隠したが、
 永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。
  ―― あなたを贖う方、は言われる。
 これは、わたしにはノアの日のようだ。
 ノアの洪水が、再び地にやって来ることはないと、
 わたしは誓った。
 そのように、わたしはあなたを怒らず、
 あなたを責めないと、わたしは誓う。
 たとえ山が移り、丘が動いても、
 わたしの真実の愛はあなたから移らず、
 わたしの平和の契約は動かない。
  ―― あなたをあわれむ方、は言われる。

と記されています。
 8節で、

 永遠の真実の愛をもって

と訳されたことばの「真実の愛」と、10節で、

 わたしの真実の愛はあなたから移らず

と訳されたことばの「真実の愛」が、出エジプト記34章6節と7節で「恵み」と訳されていることば(ヘセド)です。ここでは、、ヤハウェの「恵み」(ヘセド)が永遠に変わらないものであることが示されています。それと同時に、は「恵み」(ヘセド)をもって、ご自身の契約の民を贖ってくださることとが示されています。さらに、

 わたしの真実の愛はあなたから移らず、
 わたしの平和の契約は動かない。

というのことばは、並行法で表されています。つまり、

 わたしの真実の愛はあなたから移らず、

ということと、

 わたしの平和の契約は動かない。

ということは、ほぼ同じことを言い換えたものです。の「真実の愛」が移らないことは、の「平和の契約」が動かないことと同じことであるのです。これによって、「恵み」(ヘセド)がの契約と深く結びついていることが示されています。
 出エジプト記34章6節ー7節のの御名による宣言においては、

あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、

というように、があわれみと恵みに満ちた方であることが、積み上げられるような形で表されていきますが、その最後に「恵み」(ヘセド)が繰り返されて強調されています。そして、そのことを土台として、

 咎と背きと罪を赦す方

であることが示されていました。
 しかも、この最後に示されている、

 咎と背きと罪を赦す方

であるということにおいては、「」、「背き」、「」が積み上げられています。これによって、の豊かなあわれみと恵みによる罪の赦しが完全なものであり、どのような罪をも赦してくださるものであることが示されています。
 このすべてのことが、この時、がご臨在されるシナイ山の麓にありながら、金の子牛を作ってこれを契約の神である、ヤハウェとして礼拝してしまったイスラエルの民にとって必要なことでした。これ以外に、イスラエルの民が赦される道はありませんでした。がこのようにあわれみと恵みに満ちた方であることだけが、イスラエルの民が赦されるための根拠でした。
 そうではあっても、イスラエルの民の側には、このようなあわれみと恵みをに求める資格はまったくありませんでした。がその一方的な愛に基づいて、ご自身が「あわれみ深く、情け深い神」であり、その栄光は「恵みとまこと」に満ちた栄光であるということを示してくださったのです。

 もう一つの問題を考えておきたいと思います。これは、前回のお話で、残した問題でもあります。
 それは、の御名による宣言の最後に、

しかし、この方は罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる。

ということばが加えられていることをどのように考えたらいいのかということです。
 これは、これに先立つヤハウェの御名による宣言において示されている「恵み」(ヘセド)に基づく完全な赦しを台無しにしてしまうのではないでしょうか。
 これについては、いくつかのことが考えられますが、ここでは、その中心にあると思われることをお話しします。
 このことばが最初に用いられた十戒の第二戒を見てみましょう。
 すでにお話ししましたように、

 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。

という第二戒では、基本的に、、ヤハウェの偶像を作ることが禁じられています。そして、そのこととの関連で、

あなたの神、であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

と言われています。
 その当時、他の国々の神々は、偶像によってその存在が表示され、その偶像のある所にそれが表示する神が宿るという発想において作られていました。しかし、無限、永遠、不変の栄光の、ヤハウェは、どのような偶像によっても表示することができません。それで、、ヤハウェの偶像を作ることが禁じられているのです。そればかりでなく、その文化の発想の中では、中心となる「主神」のほかに、さまざまな神々が存在していて、すべてが偶像によって表現されると考えられています。たとえば、その中心となる「主神」は国家の神であり、その他に、それぞれの立場や事情により、色々な神々があることになります。
 もしイスラエルの民が、、ヤハウェを表現する偶像を作るようになるときには、イスラエルの民はその当時の文化の発想によって支配されてしまっています。そこでは、、ヤハウェは相対化され、他の神々と並べられ、比べられる神であるかのように考えられることになります。他にも神々がある中でヤハウェがいちばん高い神であるというようなことになってしまいます。いくらヤハウェがいちばん高いといっても、それは、他の神々と比べてのことということです。そのようにして、ヤハウェが相対化されてしまいます。そうなれば、自然と、他の神々の偶像をも取り入れられるようになります。
 実際に、イスラエルにおいては、そのようなことが起こりました。そのことは、すでに、ダビデの子ソロモンの晩年に見られることです。列王記第一・11章4節ー8節には、

ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々の方へ向けたので、彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、と一つにはなっていなかった。ソロモンは、シドン人の女神アシュタロテと、アンモン人の、あの忌むべき神ミルコムに従った。こうしてソロモンは、の目に悪であることを行い、父ダビデのようにはに従い通さなかった。当時ソロモンは、モアブの忌むべきケモシュのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。アンモン人の、忌むべきモレクのためにも、そうした。彼は異国人であるすべての妻のためにも同じようにしたので、彼女たちは自分の神々に香をたき、いけにえを献げた。

と記されています。また、それはソロモンの後の王たちにも見られます。たとえば、列王記第一・14章21節ー24節には、

ユダではソロモンの子レハブアムが王になっていた。レハブアムは四十一歳で王となり、がご自分の名を置くためにイスラエルの全部族の中から選ばれた都、エルサレムで十七年間、王であった。彼の母の名はナアマといい、アンモン人であった。ユダの人々はの目に悪であることを行い、彼らが犯した罪によって、その先祖たちが行ったすべてのこと以上に主のねたみを引き起こした。彼らも、すべての高い丘の上や青々と茂るあらゆる木の下に、高き所や、石の柱や、アシェラ像を立てた。この国には神殿男娼もいた。彼らは、がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の、すべての忌み嫌うべき慣わしをまねて行っていた。

と記されています。
 このように、、ヤハウェを表わすための偶像を作ることは、、ヤハウェを相対化して、他の神々の偶像を作ることへとつながっています。
 このことから、第二戒は、、ヤハウェを相対化しようとする罪ある人の現実を踏まえた戒めであることが分かります。
 そして、これらのことから、契約の神である、ヤハウェを表わすための偶像を作ることを禁じている第二戒において、

 あなたの神、であるわたしは、ねたみの神[である。]

ということばが加えられることの意味が理解できます。
 結論的に言いますと、このことばは、、ヤハウェの聖さを守るためのことばであるのです。そして、十戒の第二戒にかかわる警告においては、、ヤハウェが「ねたみの神」であるということに基づいて、

 わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし

と警告されています。
 このように、

 わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし

という警告は、契約の神である、ヤハウェの聖さを守るための警告であると考えられます。
 そして、神の聖さは、神があらゆる点において無限、永遠、不変の豊かさに満ちた方として、どのようなものとも「絶対的に」区別される方であるということを意味しています。これは、神が神であることの根本にかかわることです。それで、このことは、どのような場合においても見失われてはならないことです。
 この時に、シナイ山の頂においてモーセに示された契約の神である、ヤハウェの栄光は、この上なく恵みとまことに満ちた栄光でした。しかし、その栄光は、また、、ヤハウェの聖さの現われでもあります。
 ですから、

(ヤハウェ。ヤハウェ)。あわれみ深く、情け深い神、怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す方。

というように、、ヤハウェの恵みとまことに満ちた栄光が、積み上げるように示されて強調されていても、それによって、の、ヤハウェの聖さが見失われることがあってはならなのです。
 そのことが、

しかし、この方は罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる。

ということばによって示されていると考えられます。


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