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説教日:2024年5月12日 |
十戒の第二戒においては、 あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。 と言われていて、まず、 あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。 と言われています。 これに対して、この34章6節ー7節の主の御名による宣言では、 主、主(ヤハウェ、ヤハウェ)。あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、 と言われています。 そして、十戒の第二戒では、 わたしを憎む者には父の咎を子に報い、 という威嚇あるいは警告のことばが先に来ていますが、34章6節ー7節の主の御名による宣言では、それが後に来ています。 けれども、34章6節ー7節に記されている御名による宣言は、ただ単に十戒の第二戒にあるみことばの順序をひっくり返しただけのものではありません。それをひっくり返しただけであれば、 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施し、わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼす となります、 これでは、この時のイスラエルの民には望みはありませんでした。なぜなら、ここでは、主はご自身を愛して、その命令を守る者に「恵みを千代にまで施し」てくださると言われているからです。そして、イスラエルの民はこの時、主を愛して主の命令を守る者であるどころか、主の命令の中でも最も重大な命令の一つに背いてしまった状態にあるからです。 これに対して、34章6節ー7節に記されている主の御名による宣言では、主はイスラエルの民には何の要求もなさらないで、ご自身が「あわれみ深く、情け深い神」であり、「怒るのに遅く」あり、「恵みとまことに富」んでいること、そして「恵みを千代まで保」たれる方であること、さらには「咎と背きと罪を赦す方」であることを示してくださいました。 ここでは、主のあわれみと恵みが積み上げられるようにして示されています。まず、主が「あわれみ深く、情け深い神」であることが示されています。その上に、主が「「怒るのに遅く」あり、「恵みとまことに富」んでいるということが示され、さらに、「恵みを千代まで保」たれる方であることが示されています。そして、さらにその上に「咎と背きと罪を赦す方」であることが積み上げられるようにして示されています。 このように見ますと、ここでは、主があわれみと恵みに満ちた方であるということが、最終的に、「咎と背きと罪を赦す方」であることに行き着くことが分かります。 これは、この時、イスラエルの民が主がご臨在されるシナイ山の麓で金の子牛を作って、それを契約の神である主、ヤハウェであるとして拝み、十戒の第二戒に背いて主の聖さを冒したことを受けています。主は、このようなイスラエルの民の罪を赦してくださる方であることを示してくださるために、 あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、 というように、ご自身があわれみと恵みに満ちた方であることを積み上げるようにして示してこられました。そして、そのことに基づいて、ご自身が「咎と背きと罪を赦す方」であることをお示しになりました。 さらに、その土台のように据えられた主の御名による宣言のことばにおいては、「恵み」が2度繰り返されています。しかも、それは、 あわれみ深く、情け深い神、怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、 というように、積み上げられるように語られたことばの最後に出てきていますので、主が「咎と背きと罪」を赦してくださることの最終的な土台のような位置にあります。 ここで「恵み」と訳されていることばはヘブル語では「ヘセド」です。この「ヘセド」ということばは、神と人や、人同士など、人格間の関係にかかわる恵み、あわれみ、親切、善意、好意などを表すことばです。聖書の中では、神が人に示してくださっている恵み、あわれみ、親切、善意、好意などを表す場合の方が多いと言われています。 この「恵み」(ヘセド)が主の契約とどのように関係しているかをめぐっては議論がなされ、別れてきました。この「恵み」(ヘセド)は主の契約に基づくものなのか、それとも、主の契約に先だって考えられる、主ご自身の属性から出ているものなのかという議論です。それぞれに言い分がありますが、この2つの見方は矛盾するものではありません。 それで、私は真実はこの2つの見方を総合したところにあるのではないかと考えています。つまり、この「恵み」(ヘセド)は、主ご自身の愛の属性から出ているものであるけれども、それは主の契約の中で表現されるものであるということです。 この「恵み」(ヘセド)が神の愛という属性から出ていることは確かなことです。それとともに、神と神のかたちに造られている人の関係が初めから契約関係であるということからすれば、この「恵み」(ヘセド)が人に示されるのは、神の契約を通してであるということになります。 このような意味で、この「恵み」(ヘセド)は主の契約に基づいて、私たちに示されている恵みです。 わたしは「わたしはある。」という者である。 という御名の主、ヤハウェは永遠に変わることがない方であり、その契約は永遠に堅く立っています。それで、主の「恵み」(ヘセド)も永遠に変わることがありません。そのことが、主は「恵みを千代まで保」たれる方であるということに表されています。 この「恵み」(ヘセド)ということばが用いられている個所の一つを見てみましょう。 イザヤ書54章7節ー10節には、 わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てたが、 大いなるあわれみをもって、あなたを集める。 怒りがあふれて、少しの間、 わたしは、顔をあなたから隠したが、 永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。 ―― あなたを贖う方、主は言われる。 これは、わたしにはノアの日のようだ。 ノアの洪水が、再び地にやって来ることはないと、 わたしは誓った。 そのように、わたしはあなたを怒らず、 あなたを責めないと、わたしは誓う。 たとえ山が移り、丘が動いても、 わたしの真実の愛はあなたから移らず、 わたしの平和の契約は動かない。 ―― あなたをあわれむ方、主は言われる。 と記されています。 8節で、 永遠の真実の愛をもって と訳されたことばの「真実の愛」と、10節で、 わたしの真実の愛はあなたから移らず と訳されたことばの「真実の愛」が、出エジプト記34章6節と7節で「恵み」と訳されていることば(ヘセド)です。ここでは、主、ヤハウェの「恵み」(ヘセド)が永遠に変わらないものであることが示されています。それと同時に、主は「恵み」(ヘセド)をもって、ご自身の契約の民を贖ってくださることとが示されています。さらに、 わたしの真実の愛はあなたから移らず、 わたしの平和の契約は動かない。 という主のことばは、並行法で表されています。つまり、 わたしの真実の愛はあなたから移らず、 ということと、 わたしの平和の契約は動かない。 ということは、ほぼ同じことを言い換えたものです。主の「真実の愛」が移らないことは、主の「平和の契約」が動かないことと同じことであるのです。これによって、「恵み」(ヘセド)が主の契約と深く結びついていることが示されています。 出エジプト記34章6節ー7節の主の御名による宣言においては、 あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、 というように、主があわれみと恵みに満ちた方であることが、積み上げられるような形で表されていきますが、その最後に「恵み」(ヘセド)が繰り返されて強調されています。そして、そのことを土台として、主が 咎と背きと罪を赦す方 であることが示されていました。 しかも、この最後に示されている、主が 咎と背きと罪を赦す方 であるということにおいては、「咎」、「背き」、「罪」が積み上げられています。これによって、主の豊かなあわれみと恵みによる罪の赦しが完全なものであり、どのような罪をも赦してくださるものであることが示されています。 このすべてのことが、この時、主がご臨在されるシナイ山の麓にありながら、金の子牛を作ってこれを契約の神である主、ヤハウェとして礼拝してしまったイスラエルの民にとって必要なことでした。これ以外に、イスラエルの民が赦される道はありませんでした。主がこのようにあわれみと恵みに満ちた方であることだけが、イスラエルの民が赦されるための根拠でした。 そうではあっても、イスラエルの民の側には、このようなあわれみと恵みを主に求める資格はまったくありませんでした。主がその一方的な愛に基づいて、ご自身が「あわれみ深く、情け深い神」であり、その栄光は「恵みとまこと」に満ちた栄光であるということを示してくださったのです。 もう一つの問題を考えておきたいと思います。これは、前回のお話で、残した問題でもあります。 それは、主の御名による宣言の最後に、 しかし、この方は罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる。 ということばが加えられていることをどのように考えたらいいのかということです。 これは、これに先立つヤハウェの御名による宣言において示されている「恵み」(ヘセド)に基づく完全な赦しを台無しにしてしまうのではないでしょうか。 これについては、いくつかのことが考えられますが、ここでは、その中心にあると思われることをお話しします。 このことばが最初に用いられた十戒の第二戒を見てみましょう。 すでにお話ししましたように、 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。 という第二戒では、基本的に、主、ヤハウェの偶像を作ることが禁じられています。そして、そのこととの関連で、 あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、 と言われています。 その当時、他の国々の神々は、偶像によってその存在が表示され、その偶像のある所にそれが表示する神が宿るという発想において作られていました。しかし、無限、永遠、不変の栄光の主、ヤハウェは、どのような偶像によっても表示することができません。それで、主、ヤハウェの偶像を作ることが禁じられているのです。そればかりでなく、その文化の発想の中では、中心となる「主神」のほかに、さまざまな神々が存在していて、すべてが偶像によって表現されると考えられています。たとえば、その中心となる「主神」は国家の神であり、その他に、それぞれの立場や事情により、色々な神々があることになります。 もしイスラエルの民が、主、ヤハウェを表現する偶像を作るようになるときには、イスラエルの民はその当時の文化の発想によって支配されてしまっています。そこでは、主、ヤハウェは相対化され、他の神々と並べられ、比べられる神であるかのように考えられることになります。他にも神々がある中でヤハウェがいちばん高い神であるというようなことになってしまいます。いくらヤハウェがいちばん高いといっても、それは、他の神々と比べてのことということです。そのようにして、ヤハウェが相対化されてしまいます。そうなれば、自然と、他の神々の偶像をも取り入れられるようになります。 実際に、イスラエルにおいては、そのようなことが起こりました。そのことは、すでに、ダビデの子ソロモンの晩年に見られることです。列王記第一・11章4節ー8節には、 ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々の方へ向けたので、彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、主と一つにはなっていなかった。ソロモンは、シドン人の女神アシュタロテと、アンモン人の、あの忌むべき神ミルコムに従った。こうしてソロモンは、主の目に悪であることを行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった。当時ソロモンは、モアブの忌むべきケモシュのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。アンモン人の、忌むべきモレクのためにも、そうした。彼は異国人であるすべての妻のためにも同じようにしたので、彼女たちは自分の神々に香をたき、いけにえを献げた。 と記されています。また、それはソロモンの後の王たちにも見られます。たとえば、列王記第一・14章21節ー24節には、 ユダではソロモンの子レハブアムが王になっていた。レハブアムは四十一歳で王となり、主がご自分の名を置くためにイスラエルの全部族の中から選ばれた都、エルサレムで十七年間、王であった。彼の母の名はナアマといい、アンモン人であった。ユダの人々は主の目に悪であることを行い、彼らが犯した罪によって、その先祖たちが行ったすべてのこと以上に主のねたみを引き起こした。彼らも、すべての高い丘の上や青々と茂るあらゆる木の下に、高き所や、石の柱や、アシェラ像を立てた。この国には神殿男娼もいた。彼らは、主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の、すべての忌み嫌うべき慣わしをまねて行っていた。 と記されています。 このように、主、ヤハウェを表わすための偶像を作ることは、主、ヤハウェを相対化して、他の神々の偶像を作ることへとつながっています。 このことから、第二戒は、主、ヤハウェを相対化しようとする罪ある人の現実を踏まえた戒めであることが分かります。 そして、これらのことから、契約の神である主、ヤハウェを表わすための偶像を作ることを禁じている第二戒において、 あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神[である。] ということばが加えられることの意味が理解できます。 結論的に言いますと、このことばは、主、ヤハウェの聖さを守るためのことばであるのです。そして、十戒の第二戒にかかわる警告においては、主、ヤハウェが「ねたみの神」であるということに基づいて、 わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし と警告されています。 このように、 わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし という警告は、契約の神である主、ヤハウェの聖さを守るための警告であると考えられます。 そして、神の聖さは、神があらゆる点において無限、永遠、不変の豊かさに満ちた方として、どのようなものとも「絶対的に」区別される方であるということを意味しています。これは、神が神であることの根本にかかわることです。それで、このことは、どのような場合においても見失われてはならないことです。 この時に、シナイ山の頂においてモーセに示された契約の神である主、ヤハウェの栄光は、この上なく恵みとまことに満ちた栄光でした。しかし、その栄光は、また、主、ヤハウェの聖さの現われでもあります。 ですから、 主、主(ヤハウェ。ヤハウェ)。あわれみ深く、情け深い神、怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す方。 というように、主、ヤハウェの恵みとまことに満ちた栄光が、積み上げるように示されて強調されていても、それによって、主の、ヤハウェの聖さが見失われることがあってはならなのです。 そのことが、 しかし、この方は罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる。 ということばによって示されていると考えられます。 |
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